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片瀬チヲル「泡をたたき割る人魚は」

出典:『群像』2012年6月号
評価:★☆☆☆☆

言葉の無駄遣い、ぼやけた比喩の乱用、貧しい人間関係、幼稚な人物造形、中途半端な世界観、古今東西散々描かれてきたモチーフのなんの工夫もない利用。新人の作品を読むときはちょっとくらい雑なところがあってもこなれないところがあっても、「新人だから」という意識が働いてそういうところも「むしろ味」として読むようにしていますが、この作品に限って言うと読み進めるのが苦痛でした。苦痛の理由は冒頭にあげたようなもの。

幼稚なナルシシズムがいたるところに充満していて、書き手が自分の小説を批判的にみる目を全く持っていないことを露呈しています。比喩の乱用でイメージがぼやけ散り散りになってしまいます。

人魚というのは、二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせるようにしてできあがると思っていたのに、そうではなかった。(p.61)

直喩は本来、知的な操作に基づくレトリックのはずです。「○○のように」というフレーズは普通○○の部分に誰しもが了解しているようなものを持ってきて、その○○とは容易に結びつきそうもないものと結びつけて、「ほら、似てるでしょ」と指し示すレトリックです(見たこともないもの、聞いたこともない言葉で表現するタイプの比喩については高度なのでここでは触れません。)。そしてその「ほら、似てるでしょ」にどれだけ多くの人が納得するかが直喩のキモ。かつ納得すると同時に意外性もあればそれがよい直喩です(「想像もしてみなかったけど、言われてみればたしかに似てる!」)。ところがこの引用部では、「二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせる」という事態が、少なくとも僕には全く馴染みありません。花びらはふつう扁平でペラペラなもの。それを蜂の針(蜂を潰して抜き取るのでしょうか?)で縫い合わせるとはいったいどういう事態なのか。しかもそれがちょうど、人魚の上半身と下半身がつながる仕方と同じであると思っていた(実際にはそうではなかった)、とのこと。上半身の人間にしろ、下半身の魚にしろ、花弁のように薄くペラペラでしょうか。僕には全くそのようには思えません。この直喩に納得できる人は頭の中がお花畑でしょう。

僕が恣意的にできの悪い箇所だけを取りだしていない証拠にいくらでも上のような不鮮明な直喩が取りだせます。直喩に限らなければもっと。

薫の両足は、分厚い辞書を閉じるように隙間なく結合した(p.61)

辞書の文字が紙から浮かび上がってごちゃまぜに黒く黒く重なり合うように、言葉ではなくなった苦しみで頭が埋まっていく。(p.62)

ネコジャラシの王様みたいな花を咲かせる菖蒲(p.65)

山に走る亀裂のように乖離している布団の間に、二人のこぶしが落ちる。(p.75)

書き写すさきからキーボードが腐る気がします。これらのどこが駄目な直喩かわからない人はおそらく著者と同じ言語感覚の持ち主なんでしょう。おめでたい。

人間関係にしても、瀬戸君にしろ村井君にしろ山越君にしろ、どの関係も「恋」とは異なるとたびたび言われますが、そもそもこの作品の中で「恋」がどのように規定されているのかはっきり述べられていません。「恋」するかどうかが作品の重要なキーとなっているはずなのに、そもそもの「恋」がぼやけているのではなんもいえねえ。どの男性の造形も類型的すぎて、かつ主人公の女に都合よくつくられすぎていて、全くの失敗。「飲物を配達して暮らしている魚になりたい願望の女(20過ぎ)」になぜこうもまわりの男たちは優しいのか全く理解不能です。いい歳してぺんぺん草と遊ぶような瀬戸君の感性を理解できるお花畑の読者なら理解できるのでしょう。

人物造形の失敗についても延々ダメなところをあげられますが面倒なので一点だけ。「顎の下とか耳のうらとか、眉間だとかに、コメ粒よりおおきい絵の具をつけている」絵描きの瀬戸君ですが、クローゼットには「白いワイシャツしか入っていない」そうです。顔の汚れてしまう状況にある絵描きの男が白いワイシャツしか着ない(汚れがあるという描写はなし)というのは極めて現実感に乏しい。これは作品の中の生きた人物というより書き手の趣味か、単なる不注意な描写です。現実の美大、芸大前をちょっとでもうろつけば、みなさん結構ガテン系のつなぎとか着てドロドロに汚れながら作品と格闘していますよ。とにかく妄想先行で生み出された瀬戸君。人物造形の甘さにも目をつぶって、瀬戸君すてきーといえちゃう人はお花畑なんでしょう。

魚屋ガテン系の村井君、アート系夢追い人の瀬戸君、唐突に現れて求婚する大金持ちの山越君。あまりにも類型的すぎて(何十年前の少女マンガでしょうか)お話にならない人物造形ですが、寓話として一定の役割を与えられているのかもとも考えました。アリとキリギリス、みたいな典型を通して何かを語ろうとする諷喩的手法を使っているのならそれはそれで納得もできますが最後まで読んでも決してそうは思えない。近現代のセクシュアリティ研究の枠内でこの作品の人間関係も語れそうです。なんの新しさもない。

それに、寓話にしたって世界観の構築が極めて中途半端です。様々な色の泉がきれいな水を湛えている島の右側だとか、ピタニィという変わった飲物だとか工夫しようとする姿勢はうかがえるものの、一方で小学校中学校高校だとか、原チャリだとか、寓話にはそぐわないあまりに現実的な単語が安易に使われてしまいます。結局書き手の頭の中で、この世界を突き詰めていないからこういう甘さがでちゃうのでしょう。人魚を使えば即寓話になってしまうわけではありません。「人魚になってみたーい!」「ピタニィ気になる!」と言える人は、この世界観に対してあまりにも(略)

新人の作品ということを割り引いても、僕の目には駄目なところしか目につかない作品でした。根底にあるどうしようもない幼稚なナルシシズムがずっとつきまとい、小説のよさげなところを徹底的に台無しにしています。僕のいうことが理解できない人は例えば次のような仮定をしてみてください。この作品をお笑い芸人のなかから、ナルシスティックな人を選んで演劇にしてみるのです。主人公の女はアジアン隅田、瀬戸君はノンスタ井上、村井君は狩野英孝、山越君は南キャンの山ちゃん。これらの芸人たちが自分の容姿と演技に酔って舞台に立つ「泡をたたき割る人魚は」。とても見れたもんじゃありません(恐いモノみたさしかありません)。

群像の下読み委員の方、これのどこが他の候補作より優れていると思われたのでしょうか?
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コメント

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おめでたいのはお前

「人魚というのは、二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせるようにしてできあがると思っていた」のはあくまで語り手であって書き手ではないというこんな簡単なこともわからないほどのあなたは間抜け。

おめでたいのはお前

語り手書き手うんぬん以前に「人魚というのは、二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせるようにしてできあがると思っていた」という文章表現そのものが稚拙であるというこんな簡単なこともわからないほどのあなたは間抜け。

No title

この応答、ブロガー本人でしょ?
顔真っ赤にしてこんな幼稚な返ししかできない時点で頭がお察し……
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