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辺見庸「アプザイレン」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★★☆

石原対談もさることながら『文學界』3月号は執筆陣も豪華で、今月の文芸誌のうちからどれか一冊だけ買うとすれば本誌じゃないでしょうか。歴代芥川賞の受賞者たち(抜けている人もいます)が短編競作かエッセイを寄稿しており目次を眺めるだけで壮観。ひと月で全部読みきってしまうにはもったいないほど内容、量ともに充実の、少しづつ堪能したい保存版もしくは転売用の一冊に仕上がっています。

そんな中から、辺見庸の「アプザイレン」。星4つとしたけれど、5つでもいいかもしれない(あとで変更するかもしれません)。迷いました。アプザイレンとはロープと下降器をつかって岩場など高い場所から下降する技術で、原語はドイツ語のアプザイレン(Abseilen)、日本語訳では懸垂下降というのだそうです。SWATのような特殊火器で武装した戦術部隊がビルの屋上からロープで下降し、悪者たちの秘密会議室へ窓ガラス蹴破り突入するときの、あの滑降をイメージすれば、アプザイレンということばに全く馴染みない人でも、容易に「ああ、あれね」と想像つくと思います。もっとも本作は山の話でもなければ警察アクションでもなく、よくわからないところから語りおこされます。

 かれはふかい水のなかにいる心地がした。そうおもいたかっただけなのかもしれないが。からだがおもい。空気もすっきりと透明ではなく、かすみがかったようになっているのはなぜなのだろう。光の屈折率がちがうのか、ここは明るいのに、そこはかとなく昏い。それに、あるべき影がどうも見えない。ひとりびとりが、おどろくべきことには……といっても、ここではおどろくべきことなんかなにもないのだが……それぞれの影をひきずっていない。ひとじしんが影と化したようなのだ。うすく漉した餡の色の影に。ひとりびとりの本体が、すでに影にのまれたからだろうか。どうりで影は影をひきずっていない。いつからか難聴になったようだ。音が遠い。(p.88)

一文目で「かれ」と呼ばれている存在の意識に、知らぬ間に語りが同調して、第二文、第三文目までにはすっかり一人称の語りに意識が浸透してしまいます。計算なくこんなことやられると技術未熟で一蹴されるはずですが、この、漢字をひらいてひらがなで綴られているビジュアルには、混沌のただなかに居るような、意識のはっきりしない「昏さ」あるいは「蒙さ」が胚胎しており、まだしばらく先が知りたい気にさせられます。意識が流動しているどころか人と影との境界も曖昧になって同化してさえいる。聴覚も聞こえているのか聞こえていないのかわからない、といってもちろん佐村河内氏など一切関係なく、人の意識や間隔が周囲に浸透、溶解していくような語りがまだしばらく続きます。昏い意識の底に流れ沈みこむようなことばに僕は松浦寿輝『吃水都市』を思いだしました。

以降も続くこの意識のはっきりしなさの裏には、ひとつに視覚(描写)の抑制=他の感覚(描写)の促進があります(とりわけ聴覚)。加えて、誰だかわからない語り手の記憶も前後します。そして過去を想起するなかでも唄の文句が出てくる。

あたまのなかをだな、唄でいっぱいにするんだよ。ほかのことをぜんぶしめだすのさ。くりかえしてうたっているとだな、終わってるんだ。CMソングなんか意外といい。どんなCMソングですか? あほ、じぶんでさがせ。せんぱい、おねがいです、ヒントだけでも。ふーむ、たとえばだな、カムカム・チンカム・チムカントム……。なんすか、それ? ミカン・チンカム・タケノカム・コメノモタセニャ・パタラケヌ……ってだな、五番まであたまのなかでうたう。すなおにな、なんでもおもいついたのを、すなおに、いっしょうけんめいうたうのさ。そのうちにな、みんな終わってる。(p.89)

時間を過去に飛ばしてさらにそのなかで先輩がわけのわからない唱歌の文句をリフレインする。読み手の意識も、ミニマルミュージックかお経でも聞いているように酩酊してきます。そして先輩がいうように唄をあたまのなかで歌っているうちに「何か」が終わっているのだと助言されている。しかし「何か」は語り手と先輩との間で了解されているだけで読み手には明かされません。

かれはおもった。「上」と「下」について。というか、上から落ちていくのと、下に落ちてくる、そのちがいについて。じつは、もうなんどか、くりかえし、かんがえはしたのである。〈落ちる身〉になっておもったのではない。そんな余裕など、すこしだけしか、いや、ほとんど、あるいはまったくなかった。それでよいのだ。じょうだんではない。〈落ちる身〉になってはいけない。ここの、それがぜったいのきまりだ。かれはもっぱら〈落ちる者を見る身〉になって、落下ということを、下からイメージしたのであった。(p.91、強調部は原文傍点)

「かれ」は上から何かが落ちてくるのを見る者であるようです。そして「ここ」では〈落ちる身〉にならないよう戒められてもいる。ここからまた、「かれ」の学生時代、ワンゲル部で経験した懸垂下降の体験が想起され、やがてまた「ここ」へと意識が戻ってくると、自分の身体器官が発生させるかすかな音までが感じられるようになります。ここでも極度に聴覚が敏感になっている。

このあたりから読み手もなんとなく感づいてきます。大臣がこの「落体」を視察しにやってきたときのエピソードが語られ、「落体」を執行した人々は大臣にたいして「まことに厳粛でした」「粛々ととりおこなわれました」とコメントする(p.95)というあたりでやっと、この作品で語られているのは絞首刑執行の状況、そして「かれ」とはその執行のボタンを押す刑吏のひとりなのだと知れます。

冒頭から視覚描写が抑え気味であったのも、「かれ」が見たくない情景が繰り広げられているからです。それに代わって耳は、重要な公務中であるため耳栓などするわけにもいかず、いやがおうにも音の侵入を許してしまう。これまでの語りは、目をそらそすと視覚のぶんの欠落を補うように聴覚が敏くなってしまうことの表現だったわけですね。自分の舌や腸が発生させるかすかな音まで聴取してしまう。自らの体内に耳を澄ますことはやがて自らの過去の体験へと横滑り、それでも結局、絞首刑を連想させるような、職場の先輩との会話や、学生時代の懸垂下降のエピソードが蘇ってきてしまう。読み手がこのことに気づいたところで、これまでのなにげなく語られていた細部を読み返してみれば、

ゆりかごのうえでゆれるビワの実(p.91)

ネクタイのむすびをいつものプレーンノットからダブルノットにかえて、きつく絞め(p.94)

物体の自由落下運動は、鉛直方向の下むき一定の重力加速度gで加速される、などと、お立ち台に立つだれがおもい、だれがそのような「落体の法則」をおのれの目でかくにんしようとするであろうか。(pp.94-5)

など、どれも絞首刑と響きあうものばかりで埋め尽くされていたことがあらためて了解されます。ビワの実は人体の頭部に変じ、ネクタイの結び目は受刑者の首に食い込み、「落下の法則」ではなく「落体の法則」とわざわざ表記される。これ以降最後にいたるまで、さらに絞首刑がさまざまな「落下」や「懸垂」にかかわることばやイメージと響きあって、読み手のイマジネーションを刺激してやみません。「落下」や「落体」も、この語りが続いている刑場から(読者の頭のなかで)しだいに遊離し、罪を犯して身を落とすことへもつながっていく。作品の最後の最後、刑が執行されこもりうたのなかで永遠の眠り=死が到来するまで、一句たりともゆるがせにできない散文詩、あるいは極上の短編小説でした。短編でこんな作品が書けるのだからやっぱり芥川賞作家は偉大だなあ。
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星野智幸「クエルボ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

クエルボという変わったタイトル。僕にとっては体操競技の跳馬の技名がまず思い浮かんだんですがそれとは関係なく(笑)、本作の「クエルボ」はテキーラの名前Jose Cuervoから採られています。そしてクエルボはスペイン語で「カラス」、テキーラのホセ・クエルボにもカラスの図像が入った紋章が描きつけられています。今は仕事を引退している初老の「私」が、学生時代に愛飲したテキーラからとった愛称でもって妻から「クエルボ」と呼ばれているというのがお話の枠ぐみ。

タイトルに冠されているクエルボ=カラスが本作にとって重要なモチーフになっています。普段生活している常識でカラスといえば、迷惑な鳥、不吉な鳥、意外と賢い鳥ほどの印象しかないですが、本作ででてくるカラスにはそういう日常的な理解を超えたもっと古い無意識にアクセスするような神的な不気味さが感じられました。もうちょっと文学的な文脈でカラスについて頭をひねってみると、お伊勢さんの八咫烏や、北米インディアンの神話でトリックスターとして出てくる大烏、あるいはもっと時代がくだってエドガー・アラン・ポウの詩The Raven、そしてカラスではないのだけれどどこかカラスを思わせるマラマッドの小説The Jewbird。こう考えてくると鳥の中でもカラスというのはとりわけ創作をする人たちの間では特別な位置を占める鳥なのかもしれません。

馴染みのカラスが、自分の縄張りにいる人間の行動を把握したくなって追跡しているのだ、と想像してみる。私は自由意志でここに暮らしているように思っていたけれど、じつはこの縄張りの主であるカラスの支配下にあり、カラスのおかげで平穏な生活が送れているだけなのだ。それでカラスは今日、みかじめ料の取り立てに現れた。(p.126)

語り手の「私」の中で、カラスが特別な意味をもった鳥として描かれています。語り手クエルボにとってのこの特別さを読者が共有できるかここがポイントで、僕は最後の一ページ、「私」の身体と知覚が知らぬ間に人間としての「クエルボ」からカラスとしての「クエルボ」へと変容あるいは人間であると同時にカラスでもある存在へと変容している描写で、うまく説得されてしまいました。

語り手クエルボの周りではなにか言い知れぬ不全感が漂っています。それは小説の冒頭、公園を散歩中の犬が飼い主の不手際によって排便の中断を余儀なくされる場面(糞切りが悪い)とか、元職場の同僚から「秘密保護法」施行反対の署名を求められたものの、賛成にしろ反対にしろその法律に対する旗幟を鮮明にできないでいる中途半端感とかにあらわれている。はっきりすっきりすればいいのだけれどそうならず、頭の中も身体ももやもやうだうだしたまま。

カラスに餌をやろうとしても妻からは反対される始末で家の中にも身の置き所がありません。

「洗濯物とかに糞されたらどうするの。私が洗濯物しているときとかに寄ってこられたらたまらないし。本当にやるなら、洗濯もこれからはクエルボがしてよね」(p.127)

こんなこともあり、自分にとってなんだか割り切れない世の中に対して語り手クエルボはうだうだ考えを巡らせます。

何が世の中の役に立つかなんて、わかるわけないじゃないか。自分が善だと思っていることは、じつは多くの人の迷惑でしかないかもしれない。逆に、無意味だと思われた行いが密かに誰かのためになっていたりする。例えば、もし人類の繁栄の後にカラスの繁栄の時代が到来するとしたら、私の行為は未来のためになっているかもしれない。(p.129)

このクエルボの超人類的な考え方には一応の筋は通っていて話として僕も納得できます。と同時にこの主張を認めてしまうと、真逆も成立してしまうわけで結局彼の不全感はのこったままなんでしょうけど(笑)。

人が限られた生を生きる限り、そのなかで政治的主張だけでなく日常的な些細な行いにいたるまで、何らかの立場を(無理にでも)選び取らないといけないのはもうしょうがないと僕には思えますが、クエルボはそこでこんな風にうだうだと考えてしまうんですね。クエルボははっきりと自覚してないだろうけど、僕なんかにしてみれば未決断のままこんな風に考えられる時間的経済的余裕があるっていいなあと少しうらやましい気もします。

そして話は最後の場面、不全感を抱えたままのクエルボが自分の頭のなかだけでなくその身体までもを、実際にか想像のなかだけでかははっきりしませんが、とにかく語りの中で「クエルボ」へと変容させます。次はその変身のシーン、人目につかない屋外にて。

 自分の説得を裏切って、私はその場で尻をむき出しにすると、リースの上にしゃがんだ姿勢でふんばった!
 出た。明らかに肛門とは違う通路から、小さなものが三つ、転がり出た。全身の力を使い果たし、脚がぷるぷると痙攣している。ズボンを上げながら、転がり出たものを見る。
 緑がかったウズラの卵だった。いや、私が産んだのだから、ウズラの卵ではなく、私の卵だ。クエルボの卵だ。新しい未来の誕生だ。私とカラスとの。(p.133)

産まれた卵は吉兆を告げているのでしょうか。「新しい未来」という言葉になんとなくポジティブな響きを感じ取ってしまいそうですがそこでもう少し踏みとどまって考えてみるに、その新しさは誰(何)にとっての新しさか、クエルボにとってポジティブなものは人間たちにとってもポジティブなものになるのか、まさにクエルボが日常の糞づまり状態のなかでうだうだと悩んできた問題が、卵の形をとって読者の目前に転がり出ました。もしクエルボが人間社会「外」の存在となってしまうならこの「新しい未来」を内に秘めた卵はたちまち人間社会の平穏を爆砕する爆弾となるやもしれない。産卵のすがすがしさのなかに一抹の不穏さも胚胎させた、いい短編でした。

木下古栗「天使たちの野合」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

第150回芥川賞は小山田浩子に決まりましたね。ニコニコ動画での電話インタビュー、受け答えのひとつひとつに一生懸命丁寧に答えてらっしゃったのが好印象でした。赤ちゃんもすくすく育って欲しいですね!まかてもタオルコもおめでとう!

さて平常運転で本作の感想を。群像2月号は岸本佐知子からのお題「愛」に応えて作家たちが短編を発表する特集「変愛小説集」。有名作家から若手までとりどりの書き手が書いています。お題「愛」に忠実に男女愛を書いたものもありますが、本作「天使たちの野合」は読んでもわかりやすく「愛」というメッセージが読み取れるようにはなってませんでした。いつものように下ネタ満載(若干ライト目)なのでそれが「愛」ということだったでしょうか(笑)。

冒頭はこんな感じ。

 日中であること以外、何時頃なのか判然としない時の流れが滞ったような薄曇りの空の下、自動ドアから出てきた山中誠一はポケットから携帯を取り出して、その時刻表示を確かめた。(p.79)

初読では、普通の天気の描写、なんてことない作品の導入に見えたんですが、書き写しながら気づきました、あらためて読み直せばこの「時間のわからなさ」「薄曇り」という、「これ」とはっきり特定できない「無」みたいなものがこの作品のテイストを予告する下地としてちゃんと書かれてあったんですね。中盤のかなり長い会話のやり取りも、地の文を「無」しにして会話だけでつないでいく、その無重力感、「いつ・どこ・だれ」の発言かはっきり明示され「ない」ですし、終盤の頭爆発シーンでは「無」のエッセンスが凝縮され描写のなかにさまざま鏤められています(後述)。中盤の会話から幾つか引用します。

「ペルシャって今どこだっけ? トルコ?」
「いや、イランだろ、確か」
「そうだった? でもトルコも絨毯が有名じゃなかった?」
「トルコは風呂だろ」(p.81)

自由恋愛という建前のまかりとおる風俗ですね。一般の二十代前半以下にはもう死語じゃないだろうかトルコ風呂。

続いて、待ち合わせ場所になかなか来ない人物について、先に着いて待つ二人があれこれ推測する会話。

「それか仕事の電話でもしてるんじゃない? ほらあそこ、店内通話禁止って張り紙してあるから。急な見積もり対応でそのままその辺のコーヒーショップでひと仕事とか」
「ああ、それでついでに、そこらで女でも引っ掛けて身障者用トイレに連れ込んでオ○ンコしてるのかもな。米山って十代の最も道を外れてた頃はずっとそんな感じの放蕩ぶりだったって、前に人づてに聞いたことがあってさ」
「へえ」
「何だよ、じっと見て」
「いや、日常会話でオ○ンコなんて言う奴いるんだって、俺の中の常識が震撼してさ」(p.82、伏字はいずれも原文ママ)

こうしてときにお得意の下ネタを交えつつ話は終盤に。ここに来るまで待ち合わせている人物は来ず、ということは普通に考えれば終盤に待ち合わせの人物が来てひと騒動……と常識的には先を予想してしまうのですが、そこはこの書き手、読者をうまく裏切ります。

終盤急展開過ぎて、並みの書き手であればその前後で木に竹を接いだような一貫性の欠如、すなわち欠点として指摘されそうなところを木下古栗は難なくクリアします。その理由として一つは有無を言わせぬ圧倒的な描写、もう一つは作品冒頭から通奏低音として響いていた「無」の爆発。待ち合わせに来るべき人が来ないまま──考えてみればこれも「本来いるべき人物がいない」で「無」に繋がりますね──、待っていた高橋らの頭が爆発します。その描写を読んでみましょう。

 高橋の頭が、思い切り息を吹き込まれた飴細工の風船のように急激に膨らみ始めた。黄味を帯びた皮膚が、乳白色に剝かれた白眼が、断末魔の叫びのごとく大きく開かれた薄紅色の口とその奥でもつれた舌が、すべて半透明に薄まりながら伸びていき、みるまに世界一大きなカボチャを超えるほどに膨れ上がって、表面積が桁外れに広がって頭髪の一本一本もまばらになった頭頂部から破裂して、真空のような無音が弾けた。その無音の膨張と入れ代わりにどこかに一瞬で吸い込まれてしまったのか、内部は完全に空っぽで、一切の骨肉や脳髄の飛散も見られず、伸びきって大破した飴細工のような、あるいは特殊なガラス細工のような淡い色味の半透明の、高橋の頭の抜け殻が、頭頂部から凄まじく放射状に裂け、外側に反り返って大きな花弁さながらに垂れている。それらの花弁は冷えて固まった質感で、縁の部分は激しく千切られたように刺々しく、曲面は不均一に歪み波打ちながらも、ぎらついた艶かしい光沢を鈍く放っている。薄暗く黒ずみ始めた曇り空の不穏な色合いが、その半透明の花弁に映り込んでなお霞んで見える。
 分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。(p.89)

いやー、もう圧倒的です。淡かったり色が無かったりする「無」に関連する色味がこの短い一節の間に無理なく嵌め込まれ(「黄味を帯びた」「乳白色」「白眼」「薄紅色」「半透明」「淡い色味」「霞んで」)、あるいは「無」に関連する事物が比喩も交えて取り入れられ(「風船」=中身は空間、「カボチャ」=頭部のたとえですから当然ジャックオランタンに連想、「真空のような無音」、「無音の膨張」、「空っぽ」、「抜け殻」)て、大破した飴細工あるいはガラス細工の破片の光沢へとつながります。

頭部が無音の膨張、そして爆発というわけのわからない事態、無音の余韻のなか頭部から反り垂れる謎の花弁。それらを強引に納得させてしまう決め台詞、「分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。」には、それまでのストーリー展開から論理的に考えても、日常的思考を働かせてみても全く理解不能な事態に有無をいわさず「分かった気にさせてしまう」暴力的説得力があります。この一文を読んだ直後読み手はきっと、「分かんねーよ!」と反語的ツッコミを叫びながら、しかし一方では芯から同意していることでしょう。

この作家の力作「新しい極刑」が芥川賞の候補にすらのぼらなかったときに、翻訳小説として海外で読まれその外圧によって日本の読者に知らしめるしか方途がないと愚痴りましたけれど、この短編だって文章がべらぼうにうまくなったフィリップ・K・ディックが書いているような感じもありますよね。円城塔の「Self―Reference ENGINE」がフィリップ・K・ディック賞にノミネートされた現在、それなら木下古栗の作品だって候補、受賞作になったってぜんぜん違和感ないクオリティーがあると僕は断言します。SF系の出版社さんあるいはどこかの出版社さん、本当に、本当に、翻訳検討してみてください、マジで。

坂口恭平「蠅」

出典:『新潮』2014年2月号
評価:★★★★☆

芸が細かいというか、細部の表現や仕掛けを楽しめる作品でした。短編の分量でこれだけいろいろやろうとするととっ散らかってしまいかねないところを、うまくまとめていると思います。気に入ったフレーズをいくつか。

ベルリンに今も燻っている火の欠片が鼠のように喉に入り込んできた。(p.144)

脱走を目論む囚人は、監獄の緻密に計算された細部を次第に知っていくにつれ、脱走を諦め、ついには外の世界があるという事実すらを頭の中から除去してしまう。(p.146)

太陽が無人の監視塔に見える。周囲をちらりと眺めると、多くの囚人がまるで観光客のように何気なく歩いている。(p.147)

太陽を監視塔に見立てる表現の一連の文がかもすイロニーにはしびれました。なるほどこういう書き方があるんだなあ、と。第二文を常識的に「多くの観光客がまるで囚人のように何気なく歩いている」とやってしまっては台無しですよね。

ドイツのベルリンをふらふら歩く「僕」の見たり聞いたりしたものが、僕のレンズを通して、つまり上のようなピリッとしている表現で、描かれます。また折に触れ読者を安心させない書き方も僕好みでした。次の引用は、躁鬱病の「僕」が現地で出会った女の子との会話の中でその彼氏も躁鬱病だとわかって、彼氏にどう対したらいいかアドヴァイスを与える会話。

「あなたがしたいと思ったときに、何の前触れもなくスカートの中に手を入れてもいいし、後ろから突然襲ってもいいから。疲れているから今日は無理、とか言わないから、好きなときにセックスを好きなだけしようって、言ってくれ」
「それはあなたのお願いなの?」
「いや、そうではない。これはポルノ小説ではなく、医学書だよ」
「でも、それって結局、紙にぶつけてはいるけど、出会ったばかりの女の人に性的な感情を喚起させるために「セックス」や「舐める」や「看護婦」などの言葉を、書き、話すことで、目の前のマリアを口説いているだけなんじゃないの」
「舐めるとは言ってない」
 血流の具合によって微妙に揺れ始めてきた目の前の画像のズレを調整した。(p.153)

メタな書き方で意図的に眩暈を起こさせる方法は、キマらないとダサさだけが残って無残です。方法のための方法、書き手がそう書きたい、ってだけのやつで筒井康隆がその典型例です。その点本作では、いずれもうまく作品にはまっていました。語り手が躁鬱病という設定によって、こういうメタな見方語り方をしてもわざとらしくないようになっていますよね。小説には原初的にメタへの意識がそなわっているはずで、それをあえてメタのためのメタという風に書いてしまってはダサい、芋臭いとしか感じられませんが、本作では内容と形式がうまくはまっていて作品としてきちんと成立しています。

ほかにもいろいろ仕掛けがあって最後の一行まで読者を飽きさせないサービス精神旺盛な短編作品でした。こういう短編は楽しいですね。

深堀骨「逆毛のトメ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

 陋巷の天才人形師で天才家具職人で天才発明王だったゼペット爺さん(日本人)は天才呑んだくれでもあったが、天才故にその腕のよさを過信するキライがあり、それに呑んだくれ特有のアルコホリックな誇大妄想も手伝って、美しい人形や素晴らしい家具に加え、それに倍する数多の理解不能な道具や器械やら装置やらを拵えてきた。(p.68、括弧内は原文)

いきなり無手勝流の無茶苦茶な出だしで噴き出しました。細かいことをいえば、「陋巷」いうなら「指物師」くらいつかえよとか、「理解不能な」と説明ことばで言い切るのではなくてどのように理解不能なのか描写してよと突っ込みたくもなったんですが、そういう些末な茶々を入れるのが馬鹿馬鹿しくなる勢いで話が進みます(笑)。根っこにあるのはゼペットという人名からピノキオ物語、あるいはもっとひろくとって人形制作寓話なんでしょうね。

無茶なことばづかいもそれだけだとへたくそな小説にありがちな出来そこないです。この作品にはそのことばづかいに見合っためちゃくちゃなアイディアがある。次の引用は、ゼペット爺さん(日本人)が人形作りの仕上げにかかる場面です。

(前略──引用者)完成というところで、「足りない」と思った、何かが足りない、物足りない。だから足りない「物」を付け足した。せっかく着せたドレスをまた脱がすと、乳房どころか乳首すらない幼児体型の軀から生えた二本の短くふっくらした脚の間に、そこだけは矢鱈と精巧なヴァギナを拵えてしまったのだ。正に天才か狂人の神業である。(p.69)

中学生並みの馬鹿馬鹿しい発想力です(褒めことば)。と、並みの書き手だとここで満足してしまうのかもしれません。この深堀骨のすごいところは、さらに先を用意しているところ。

膣内には、人形の背丈よりやや短い程には長い螺旋状の鋭い鉄の針を仕込んだ。そして愛らしい顔と首にも要らぬ小細工を施した。碧い目と金髪の可愛い和製仏蘭西人形の筈が、首を回すと、人形浄瑠璃のガブみたように邪鬼の形相に転じ、同時に膣から螺旋状の針が飛び出す、素敵なからくり仕掛けなのだった。(p.69)

僕はここに、現代によみがえった山田風太郎先生を見ました。忍法羅生門でしたか、たしかくノ一が色仕掛けで敵の男忍者にわざと挿入を許しておいて、そこで相手が油断したところを見計らって子宮の中に潜んでいた赤子が男根を掴んで逃がさないというやつ(うろ覚え)。山風忍法にも勝るとも劣らないくだらなくも読者を驚かす発想が本作では人形からくりに具現しています。

性器やその周囲など普段目に触れない部分にとんでもない仕掛けを組み込むとそれだけでなにか面白いと思ってしまうのは僕だけでしょうか。身体部位の工夫でありながら映像作品では倫理的に表現に制約がかかりそうなので、小説のほうがかえって奔放な奇想天外な表現が可能でしょうね。映像じゃないぶんグロテスクすぎることもないし。

さて、螺旋状の隠し針を内蔵して生を受けた人形は「逆毛のトメ」と名付けられワインのコルク抜きとして活用されます。が、本人(?)はその役割には全く不満な様子。

トメは初めて気づいた、「私は踊りたいんだ」ということに。私は人形でもないし、況してや栓抜きでもない。踊ったことはないけれど、「私は踊り子なんだ」と胸を張りたい。「だって気分はもう踊り子なんだもん!」、そう叫びたかった。(p.74)

ここで僕は爆笑……、いや、図書館で読んでたので爆発させるわけにはいかず、笑いの不発弾を喉に孕んだまま飲み下しました。一見すると、女の子が自分の夢に目覚めてその実現に向けて決意する場面。しかしそれは迂闊な読みです。この引用部分をちゃんと、書いてある通りに読めば──書き手は計算してやってるのか無茶苦茶書いたらこうなったのか文字テクストだけでは判別つきませんが──、逆毛のトメは決意を言葉にしていなければ、胸を張ってもいないし、踊りもしてない、叫んでもいないんですよね(笑)。そう「したい」だけでアクションは一切ありません。第三者から見れば人形が、まあ座っているか転がっているかだけで何の動きもない静止画みたいな場面です。しかし逆毛のトメ視点で語られているこの場面を読んでいる読者は、たしかに彼女の感動を共有している。だけど外目には動きがない(笑)。軽く読み流してはもったいないところでした。

この後も、もう無手勝流の語りが怒涛のように話を転がしていきますがそれは実際に読んでいただくのが一番です。

……勃ちひろし……(p.76)

これが個人的にはツボでした。すべてはとてもじゃないけれど紹介できませんので興味持たれた方はぜひご一読を!短編という分量にちょうどいい作品でした。しりあがり寿先生による漫画化希望。

(追記)深堀骨作品は早川から短編集が出ているようですがamazonでは手に入らないんですね。キンドルでいいから読めるようにならないものでしょうか。短編集『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)』の内容紹介しているブログがありました。「バフ熱」、読みたいので『ミステリマガジン』だか『SFマガジン』だかのバックナンバーあたってみることにします。
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