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吉村萬壱「ボラード病」

出典:『文學界』2014年1月号
評価:★★★★★

感想を書いていくブログという体裁上、ネタばれ気にせずかいています。本作を未読の方はぜひ本作を読んでから以下を読んでいただけたらと思います。読者を圧倒する問題作です。

この作品を読んだなら、作品の背景に以下のような事情を「当然のように」想定してしまう人が多いはずです。現実の原発事故、故郷から避難して生活している人たちのこと、そして「ただちに影響はない」にしろその後この作品で描かれたような「影響」がでてくるのかどうかという微妙な問題。現実の、生身の、2013年12月時点の日本で生活するなかでこの作品を読む自分という存在が、どうしても作品評価にかかわってこざるを得ない。

今さっき上で不用意に「原発事故」とか「故郷から避難」とか「ただちに影響はない」とかいったおなじみのことばを書きつけてしまいました。しかし作中では、3月11日の地震と津波をきっかけにして起こった原発事故後の話だとは書かれていません。放射性物質、放射能、ストロンチウム、トリチウム、セシウムなどということばもいっさい出てきません。「海塚」という町を舞台にした話ですので日本のどこかという見当はつくものの、B県というのは現実のどの県に対応するのかは手掛かりがありません。さらに作中の手がかりから作品世界の時間を考えていけば、むしろ現実の日本と作品世界との食い違いさえ明らかになります。

30歳の語り手「恭子」が小学校五年生のころ(ということは10か11歳)のころ海塚で過ごした日々を綴る手記、というのが本作の体裁。そのなかで105円を廉価ショップの支払いで差し出す場面があります。「円」という通貨単位からも日本ということがわかり、消費税5%の時代です。避難者が「長い避難生活から戻った(p.37)」のがちょうど8年前とありますから、これは現実の日本とは明らかに時系列が食い違う。原発の町から避難している人たちが戻れるようになるころには現実の日本であればおそらく消費税は8%以上でしょうから。いやそもそも避難生活を余儀なくされた原因が「原発事故」のせいだとは一言も言及がありません(大事なので何度もいいます)。ですのでこの作品の記述に忠実に従うなら、あくまで現実の日本とは関係のない、一編の小説=フィクションの話です。

本作をナウシカの世界観を借りて語るなら、「人間の親から王蟲の子供が生まれた。その子供の認識の仕方は「美しいのは人間の世界であって、王蟲の世界ではない」という認識を持っている。そのために、王蟲の世界で暮らす子供は病者の烙印を押される。小学5年生の途中で隔離病棟にうつされ30歳になるまでそこに閉じ込められ続けた子供は、自分の認識のどこが(王蟲的世界観からみて)間違っているかを書かされ続けている。しかし自分のもともとの認識を自己批判しきれず手記は挫折する」という風になるでしょうか。入り組んでいてややこしいですが丁寧に読めばこうなる。ナウシカを知らない人は王蟲を「化け物」にでも読み変えてください。

だからこの作品には、対立する世界観を持つ二つの人間像が出ています。海塚以前の人間、もう一方は海塚以後の人間(比喩的にいえば王蟲あるいは化け物)。前者が「正しい」「善い」「美しい」と認識するものが、後者の目にはそっくりそのまま顛倒されて映る。そしてこの作品の語り手恭子は、後者の外貌でありながら、価値観や認識の仕方は前者のものを持ち続けている。しかし隔離されている状況から脱出するためになんとか自分の認識の仕方を抑圧して、後者の認識=世界観を肯定するような手記を書こうと努力している。この「よじれ」を一篇の小説として破綻なく結実させた本作には震撼しました。

自分の認識を抑圧して、自分にとっては正しくない世界観を、さも正しい世界観であるように偽装して記述する「私」こと恭子の困難を以下の文章で味わってみてください。

母の入院中に、私は野間さんの家で三度、夕食を食べさせて貰っていました。野菜炒めや、しゃぶしゃぶや餃子やサラダ、そして何よりほかほかのご飯とお漬物など、どれも美味しくてほっぺたが落ちそうでした。食べるということは、子供の心にとても大きな作用を及ぼすものだと思います。母が退院してから、母の出す「安全な」食べ物を少しも美味しいと思えなくなっていたのです。安全と言っても、結局カップラーメンや輸入缶詰など、健康に良くないものばかりでした。(p.67)


「私」の母親は、海塚以後の世界観に染まらぬよう細心の注意を払って娘を守っていました。しかし入院して娘と離れてしまうと、海塚以後の世界観をもった野間さん一家が娘をとりこんでしまう。野間さんの食卓で供された野菜や肉や米はどれも地物だと推定されます。つまり何らかの汚染を被っている、それを「美味しい」とか「ほっぺたが落ちそう」と記述するわけです。

海塚の海産物はどれも美味しく安全であるということは、どんな場合にも態度で示される必要がありました。それが海塚市民の結び合いの実践というものでした。(p.59)

海産物もそう。町ぐるみで海塚産の食べ物を「安全だ」とアピールしないといけない。ということは当然、そのアピールが必要とされる事情が海塚の食品にはあるということです。また、ここで使われている「結び合い」ということばの威力。「絆」とか「つながり」ということばには、その絆の共有する価値観には反対を許さないといった、嫌らしい同調圧力があります。恭子はここでもこの「結び合い」の精神を肯定的なものとして書こうとしつつ、しかし言葉の裏にはそんなもの欺瞞だ、虚偽だという意識が伏在している。

海塚の町ぐるみで、「海塚以後の価値観こそ正しい」とする一種の思想教育ないしは洗脳が実践されています。そのイデオロギー装置となるのはやはり学校であって、小学校でも合唱やスローガンの唱和を通じて、海塚以後の価値観が注入され続ける。恭子の、海塚以後の価値観に染まらない考え方をこっそり尊重してくれていた藤村先生が担任を外されると、クラスのスローガンも書き換えられます。

まるで藤村先生の影を払拭するかのように、「五年二組の十の決まり」の「七 自分の感覚を大切にしよう」を「七 自主性をそん重しよう」に書き換えさせたりもしました。(p.45)

都合よくスローガンを書きかえるなんてオーウェル『動物農場』の世界です。そしてこの手記では、恭子の同級生たちの外貌の「異様さ」はほとんどそのままは記述されませんが──恭子の目に映ったままを写実的に記述してしまえば隔離病棟から出られない──、おそらくは人間の外貌というより「動物」ないしは「化け物」のそれのようになっていることを読み手が推測してみれば、『動物農場』が先行テクストとしてだけでなくメタファーとしても機能します。

こうして隔離病棟でひたすら海塚以後の世界観を肯定するよう自分を矯正する恭子は、やはり最後の最後、自分の認識の仕方のほうに立ち戻ります。自分を隔離した「人間」たちに罵倒を浴びせる。

こんな顔でも、あなた方には美人に見えているんでしょう? だったら抱いてみろよ臆病者。(p.79)

恭子を抱けないところに、隔離した「人間」たち側の欺瞞を見て取ることができます。

一貫して認識の顛倒が隠されている本作の記述は、「美しい」といった瞬間そのことばの価値がひっくりかえる、「正しい」といった瞬間そのことばの価値がひっくりかえるという経験が続き、読みの中で自分の価値観が一つ一つ掛け替えられていくのを実感できました。ひとつの世界を通じてモノの見方をがらりと転換させるのは力のある作品の証拠です。

何度もいいますが本作は原発事故や放射性物質の影響を描いた作品とは断定できません。むしろそう「誤読」してしまわぬよう齟齬を周到に用意している(タイトルからして「ボラード病」です。一種の奇病ものといってもいい)。2013年の現在、迂闊な読みによって「誤読」のみに収斂してしまえばきっと、本作は感情的な反発を招くか黙殺されてしまうかの、いずれにしろ不幸な受け取り方をされてしまいかねません。本作の真価が定まるのは、人々が現実の出来事をある程度冷静に見られるようになる時間か距離をおいてからでないと難しいかもしれません。

けれど2013年の現実の強い磁場にからめとられている自分を自覚しつつ読み手が真摯にこの作品に書かれてあることと向き合ったとき、本作は時事性を備えると同時に普遍的な読み方への扉も開いてくれるとわかるはずです。価値観とは何なのかをテーマにした呪われた芸術家ものとして、あるいは思想教育を描いたディストピアものとして。SF的設定で差別問題をあつかった作品として。どういう読み方にせよ、つまらない「誤読」のみで本作を曲解し、貶めることには慎重でなければなりません。同じ文章でも、本作の書かれつつあるフレームを知る前と知った後とでは、その記述のもつ意味合いがガラッと変わって読めてしまいますんで、絶対に、二度読み推奨。

(追記)本作にはぜひ何かの文学賞をとってもらって問題提起の種になってほしいです。が、「誤読」の危険度が高いと、どれだけ本作に力があろうと文学賞みたいなイベントとは縁遠くなってしまうのかなあ。出版社が及び腰になってしまうというか、リスク回避したいというか。「誤読」しかしない人からクレームくるとめんどくさそうですしね(笑)。要らぬお世話とは自覚しつつ、吉村萬壱本人が呪われた芸術家みたいになってしまわないよう願っています。賞をとろうがそうでなかろうが、本作は間違いなく傑作です!
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若合春侑『腦病院へまいゐります。』

出典:若合春侑『腦病院へまゐります。』(文藝春秋・文春文庫・2003年)
評価:★★★★★

1998年の『文學界』6月号が初出。時代は昭和一桁年代、カフェの女給がええとこの坊々に手篭にされ変態性交に溺れた記録であり、一通りの出来事の後とうとう「腦病院」へ送られることになった女が「おまへさま」に宛てて書き綴った狂気のラブレターです。僕は変態が好きです。

 おまへさま、まうやめませう、私達。
 私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。(p.9)

僕は変態が好きです。

一遍結婚してゐながら家内に留まるのが厭で厭で職業婦人になりたくつて、緣有つてお春婆樣にそろばん勘定の腕を見込まれ職業持った私の事をおまへさまは詳しく知らないから、結婚しそびれたかロクな男に遭ってない無學な上に育ちの惡い不幸な女だと決め込んで「可哀さうだ、貴女は可哀さうな女だ」と餘りにも同情する、私は本當の事を益々云ひづらくなり、だけども氣丈で不遜な誇りが同情されるのに腹立てて、私の事を胸の内から好きでもない癖に何でかうして座布團附き合はせて座つてゐるのかと情けない氣持ちになつたりして、なのに直感ひらめき、あア此の人とずうつと一緒に生きて行けたら佳いのになア、と密かに思へば座布團がずんずん寄って行き、嘘をついても座布團、體は正直で端から諦めざるを得ない出遭ひが恨めしく複雜感情抑へ切れずに泣いて仕舞つたんだ。「さうぢやないよ」隣の部屋に私の泣き喚きが聞こえまいかと、おまへさまは掌で嗚咽の私の口塞ぎ、さうして其の儘布團の上に倒れ成るやうに成つて仕舞つた。「中に出しても好いのよ」(pp.14-5)

僕は変態が好きです。

 おまへさまを忘れようと胸の奥から體の芯から緣を切らうと私は他の男と交はつた。「此れは凄い、あア好い具合だ、堪らない、此れぢやあ男が先に行くのも無理はない」私のをさう褒めた男が有つて拔き插しの途中にふつと緩めたらぴゅうつと鐵砲水一本噴き出した。びつくりして「なアに、今のは」と左耳に掛かつた水を拭いていたら「おまへの助平なまんかう水だ」と男は大笑ひした。(p.19)

僕は変態が好きです。

此の世にどうして藝術といふものが生まれたかは、生まれ持つて強く大きく過敏に感受する氣性の人が、湧き上がりトグロ卷く感情の種を自分の内側に閉ぢ込めて置けず宥め切れず體の外に出さずにはゐられないから、さういふ自分自身を救ひたくつて形有るものをこさへる、呻き乍、吠え乍、苦しみ乍、自分を救ふ代りに種を吐き出す、芽が出てすくすく育つて咲いた其のモノが藝術、命の宿る花を觀て嫌な氣分になる者はゐない、だから一度は造り手といふ誰か一人を救つたものは結果として、讀む者、觀る者、聽く者を救ふのだらうと私はナントナク思つたものだつた。(p.24)

僕は変態が好きです。

風呂場でおまへさまが私の體を大事に大事に洗つて呉れて目と目を合はせ、幸せと云ふのはこんな氣持ちかと確かめ合ふやうな、まるで風呂場に天使がたつた二人だけでゐるやうな、ぬくぬくした小天國の最中、片手を後にやつたおまへさまがひよいと寶物を差し出す仕草で掌に載せた、灰色と茶色とが混ざつた色の、硬そうで軟らかさうなほんはりと蒸氣のたつた二寸程の丸い棒狀の塊を、私はあんこ菓子でも戴くつもりになつて、戴きまアす、と笑つて會釋(えしゃく)しながら喰べちやつた。今朝かゆうべのおまへさまの獻立は何だらう、何を喰べたのかなア、コーヒーの香りが少しすると思つた。まうひとつ出した短めの塊は、湯で溶かしておまへさまが私の顔や體中に塗りたくつた。化粧乳液を染み込ませる丁寧さで全身に擦り込んだ。美容に佳い感じがして途轍もない臭ひとは裏腹に私は喜んで行儀宜しく簀の子に御座りしてゐた。飮み込み切れず口中に殘る甘くて美味しいはずのあんこ菓子は、苦くて臭くて奧齒にくつついて鼻の奥を刺激する後味の良くない菓子だつた。(pp.30-1)

僕は変態が好きです。

谷崎潤一郎はじめ変態文学の滋養を貪欲に咀嚼し消化吸収し残り滓を糞便として排出しまたそれを味わって飲み下しという地道な作業がこの作品の強度と狂気を下支えしています。おもむろにひり出された大便の蒸気に「ほんはり」というこれ以上ない的確な形容をしてみせ、それを涎でも垂らしながら早く食べたいと気ばかり焦る主観で「あんこ菓子」と捉える倒錯した目、挙句口の端についた食べ残しの糞をぺロリと舐め取るかのような茶目っ気を「喰べちやつた」とまぶして結ぶ描写と語りに、僕は谷崎潤一郎を見ます。この一節だけでも震撼しましたが、本作が読者を圧倒するのはこの狂気を持続させているところ。器用な書き手なら数百字程度であれば文体模写できる人もいるでしょうけれど、これを1990年代の末に100枚ほどの作品全体にわたって持続するには、書き手自身が狂いながら同時に透徹した理性を保たないと到底達成できない、それほどの難行に思われます。

先日読んだ今年度の文學界新人賞受賞作(奨励賞含めて三作ありますがあえてどの作品とはいいません)とこの1998年の受賞作とを引き比べてみたときにその埋めようのない質的な懸隔は明らかです。僕はどうしても前者の、たいしたこともない文学らしさをさらに劣化コピーさせたような書きちらしが、後者の、血と糞まみれの狂気果てに成った本当の小説と、文學界新人賞受賞作という同カテゴリのなかで扱われるのが我慢なりません。

(追記)パソコンのせいか僕があつかい慣れていないだけか、原文では旧字体になっているものでも引用部では旧字体に変換できないものが多々ありました(たとえば「情」)。著者にはこの点お詫びいたします。書き手の表現欲求と作品の強度に、並のパソコンのテクノロジーが置いていかれているのです。

木下古栗「新しい極刑」

出典:『すばる』2013年10月号
評価:★★★★★

何冊も本を読むことは自分なりの天体地図を作っていくことにたとえられます、と言ったはしから誰かがこんなことを言っていたような気がするんですが出どころはおもいだせません、すみません(笑)。話をもどして天体地図の話。最初のうちは、読む本読む本それぞれが一つひとつの孤立した星に見えるものですが、読んだ本が積み重なっていくうちに、それまでバラバラに見えていた星が繋がっていく。どんどん結びついていく経験はやがて、いくつかの近い星どうしの星座を形作らせる。星と星、星座と星座との距離感がつかめてくるとおぼろげながら天体を見渡せるようになる。といっても見渡している天体の星星は見ている人の読書経験によってつねに変わっていく可能性をはらんでいます。子供のころに見たもののほとんど印象に残っていなかった星がある日突然輝いてきたりもして、日々、本を読むことでかたちを変え、輝きを変える天体地図は読書家ひとりひとりの宝の地図です。とここまでは地図の詳しさや広さに程度差はあれ、だれでも一枚はもっているはずの地図。僕が小説家に見せてもらいたいと願うのは、既知の星座や既知の星の解説ではありません。そうではなくて、いままで誰も知らなかった星や、あるいは既知の星であっても「その星とその星が結びつくのか!」という未見の星座です。

木下古栗の「新しい極刑」には、これまでの純文学の小説家にはない星と、その星と星とを絶妙に結びつける手並みがあります。ここ最近の作品で、編集者の求めか作家の試行か、「いい女vs.いい女」でみせたぶっ飛び具合を、より広く受け入れられそうなかたちにブラッシュアップしているような印象でしたが、ここにきて発表された「新しい極刑」はその、ぶっ飛んだエネルギーと、受け入れられそうなかたちとを見ごとに両立させた作品です。

木下古栗のこれまでの作品の舞台に選ばれていたのはだいたい日本でした(だいたい、というあいまいな言い方を許してください。木下古栗ファンならすぐに幾つも作品を思い浮かべられるはずです)。日本という舞台を選びながら、そこに外国人を登場させたり、変わった趣味の人物を出したり、レトリックの中で宇宙の話を持ち出したり、世界各国を渡り歩いた人物を登場させたり、虎と闘ったり。つまり日本人読者にとっての日常(日本)を、日本でふつうに生活していては出会えないような人物や出来事(非日常)にぶつけて、無理やりドラマをうごかしていく。「いい女vs.いい女」の感想を書いたときにも言及しましたが、この矛盾する対極のものをぶつけて、そこに発生するエネルギー(両極が離れていればいるほど激突時のエネルギーは大きくなります)で読者の笑いをさらう技量にもっとも長けた作家こそ木下古栗です。その木下古栗がこの作品で到達した作品の大地は、日本ではなくアメリカでした。日本人ならとてもとらないような無意味な、馬鹿馬鹿しい行動も、アメリカ人なら難なくやってのけてしまう。ちょうどテレビでよくみる「アメリカから届いたおバカムービー」のなかで笑いの対象にされる白人男性(スキンヘッド)を想像すれば丁度いい。「本当にいるのかよ、こんなやつ!?」という驚きとともに画面越しに繰り広げられる白人男性(スキンヘッド)の奇行。それは現実と非現実とのあわいで存在自体が揺らいでいます。小説の登場人物もほんらいそうではなかったか。

「矛盾」を一つのキーワードに、その両極を強引に結びつけていく。その結びつけ方がおざなりであれば読者は途中で読むのをやめるんでしょうが、木下古栗の場合はその詐術がみごとなんですね。レトリックをふんだんに駆使し、評論調というより論文調の固めの言い回しで、読者をみごとに幻惑してしまう。「新しい極刑」ではいくつもの相対する人物、要素がこの作家一流の力技で結びついています。「生と死」、「人間と機械」、「美と疾患」等など。こうキーワードを抜きだしてくるのはさして難しいことではないにしても、それら両極をうまくつなげられるのはやはり、木下古栗のこれまでの読書体験(とうぜん小説だけではない)によって描かれた天体地図のあつかいを自家薬籠中のものにしているからにほかなりません。

行き過ぎた改造によって不気味の谷に足を踏み入れた不自然な外貌の中毒者もまた同じ人間とは思えず、時として「整形サイボーグ」と呼ばれもする。つまり半ば機械化しており、その蔑称的な比喩の裏には当然ながら、違和感の因子となる内面の病的傾向が含意されている。肉体に瀕死の傷を負った兵士を治癒するために生まれた技術が、時を経て進んで血肉を加工させる中毒者の精神に宿り、すなわち「美か疾患か」の疾患の側面に繋がり、すべてがロバート・ミラーの展示の付属企画、公開講座の壇上での対峙に収束する。(p.55)

そして大人の場合、表から「やる」と裏から「生まれる」の二通り、二種類の巨大女性器に頭を通すと受胎に必要な行為と出産の感覚をまさに「頭で理解する」ことになり、大まかに言って、受精そのものは神秘に包まれたままながら、その前後を身をもって追体験できる。(p.66)

名実の不一致そのものが数奇な巡り合わせの一致を感じさせることすらある。元アメリカ海軍特殊部隊所属、イラク戦争時に公式記録で一六〇人を撃ち殺した米軍史上最強と謳われた名狙撃手がこの講演の直前、テキサス州の射撃場において、退役後に設立した非営利団体の、PTSDを患う退役軍人の支援などを目的とした活動の最中、PTSDを患う退役軍人の若造によって撃ち殺された。(p.71)

それぞれ短い引用箇所ですがいくつも「矛盾」が仕掛けられています。それもことごとくうまくいっているし、作品の一部分だけでうきあがらず全体と照応してもいます。「ことばともの」との、本来別々のレベルにあるものを、小説のテクスト上で戦略的にごちゃごちゃにしてみせる。ここに妙な説得力というか、「言われてみれば」とか「うまいこと言う」と思わず読者をうならせる、思いもしなかった思考回路あるいはものの見方がうまれます。これこそ木下古栗にしか見えていない、というかこの作家も描き出すまでははっきりとは見えていなかったかもしれない星座です。「言葉によって言い表されることでてはじめてそういう見方があることに気づく」というのは、すなわち、佐藤信夫のレトリック研究でみいだされた洞察、《発見的認識の造形》に他なりません。

こうして、この『すばる』10月号を手に取っている読者とはかけ離れた世界を延々描いておいて、最後の最後、「○○はアート」「○○はアート」のリフレインによってそこまで書き連ねてきた散文を詩のように3ページにわたってパラフレーズしながら、作品の本当に最後、

自動的に死んでいく人間はアート(p.87)

と、視点を読者自身にもっとも身近な、いや、読者自身である「人間」にもってきて作品を閉じる。このフレーズを日常的な言葉づかいでいい表わすとすれば、十人中九人は

自然に死んでいく人間はアート

というはずです。なんの前置きもないならば「自動的に死んでいく」という形容詞が「人間」にかかってくるのは違和感がある。ほんらいなら機械にたいして用いられるべき「自動的」という形容詞が、生命体である「人間」を修飾するという語と語との関係は、ここまで使ってきたことばでいえば矛盾、より正確にレトリック用語でいいなおせば撞着語法(オクシモロン)です。この撞着語法には、他のレトリカルな表現方法とくらべても、《発見的認識の造形》を達成する効果がとびぬけてあります(もちろん成功すれば、の話)。この作品にそくしていえば、「自動的に死んでいく人間はアート」にたどり着くまでのすべての文章は、最後の決めフレーズ、その修飾被修飾関係からいえば違和感があるはずの撞着語法を、そこまで読んできた読者に納得づくでスルッと読ませるための壮大な前ふりだったんですね。実際、この最後のフレーズを、「あたりまえ」のものとして抵抗なく読み流してしまったとすれば、それは、木下古栗のレトリックによって見事に説得されてしまったことの最良の証左です。ここにたどり着くまでに読者のものの見方=認識の仕方が、それと気づかぬうちに木下古栗流に造形されてしまったわけですね。

この傑作を読了後しばらくは、意味と無意味の判別自体が意味のない、一種悟りのような境地にすらさせられました。この作品を、なんとしてもアメリカの読書家たちに届けたいですね。日本のローカルな、ローカルというよりも作家の身辺に起った出来事と、たまたま直近に読んだと思しき本から「影響をうけた」部分をさして面白みのない手つきで書きちらした駄文の掲載されることも少なくない純文学雑誌。その中にあって、この作品が勝負している地平はそんなせせこましい土俵ではなく、時代と地域を問わない、「文学空間」としかいいようのない普遍的な空間です。キラ星からほとんど光を発していない星まで満天の星で埋め尽くされた天体のなかで、この「新しい極刑」の光が没してしまわない。木下古栗という作家の持っている天体地図は恐るべき読書経験の質と量とに支えられたかけがえのない地図のはずです。訳者の技量に絶対的に依存してしまうのは仕方ないとしても、この作品を何としても日本語読者以外に届けたい、読ませたいです!『すばる』編集部、なんとかしてください!

諏訪哲史『ロンバルディア遠景』(講談社・講談社文庫・2012年)

出典:諏訪哲史『ロンバルディア遠景』(講談社・講談社文庫・2012年)
評価:★★★★★

先日読んだ『群像』8月号の「「遠い場所」の詩」つながりで同じ書き手のものを。初出は同誌2009年5月号で、文庫に収録されたものが積ん読状態だったので、これを機に再読しました。文庫解説は『アサッテの人』のエピグラフで引用されたアルトーの訳者、宇野邦一です。

この作品のつくりを、最も素直に単純にうけとればこうなります。美少年詩人の月原篤の才能と容姿に惚れた、詩誌編集者の井崎修一が、彼と過ごした日々の思い出と、ヨーロッパ各地から送られてくる篤の詩稿や書簡とをもとに、小説を書く話。作中では、二人の関係が「本当にあったのかどうか」、特に、天才詩人月原篤は実在しているのかどうかが争点となって、作品の中にフィクション論のような批評も取りこまれています。一冊で、詩、小説、批評が混然一体となった作品で、読者の頭をぐしゃぐしゃにしてくれるんじゃないでしょうか。

諏訪哲史が私淑した谷川渥にささげられた一冊。残念なことに僕は谷川渥の本を一冊も読んだことないのでその影響関係は全くわからないのですが、それでも十分楽しめました。さまざまな小説や詩、ことに異端ものの毒を吸って咲いた大輪の黒薔薇、といったところでしょうか。読者によっては嫌悪感を催す表現もあるかもしれませんし、ことばづかいもかなり古風なので万人向けの本とは言い難いものの、しかし『ドグラ・マグラ』とか『黒死館殺人事件』のように書き手が完全に逝っちゃってて読者が置き去りにされるようなものにはなっていない、読みはじめ面食らったとしてもじっくり食らいついていけば絶対に楽しめるギリギリの線で書かれていると個人的には思いました。

情報量が膨大なので色んな読み方ができそうですが、今回は、なりふりかまわず本気で人に惚れこむ人間の真率さと滑稽さとを同時に味わえる純愛小説として読みすすめました。たとえば、イタリアのベルガモから郵送されてきた篤の便箋と封筒を前にした井崎さんの反応。

 紙面から、アツシの面影を溶かし出し、アツシの存在の濃度を高め、そこにアツシ自身が屹立するまで、私は両手の指の腹で、いとおしく撫で、さすり、唾液が粗相せぬよう気をつけながら、たっぷりと熱い吐息を、衣のように覆いかぶせ、かぶせたその、架空の息の衣でできた、無作為な褶襞、しわの流線を、淫らにねめまわし、視姦する。口にほおばり、かなうものなら、咽の奥まで呑み込まずにはいられないアツシの熱い全身を、決死の禁欲のうちに、じっと呑み込まず、舌先を触れることなく這わせ……、這わせるのはもっぱら十字の折り目のうち、唯一「谷折り」になった一筋の溝に沿ってであるがしかし、ああ、この耐えがたい煉獄の業火に炙られてなお、終に達することだけは自らに禁じ、固く禁じ、それは、硬く、かたくかたく緊……、禁じられ、いましめられて、遮られて、私は歯痒く、身悶えする。そこにしたためられた、若いアツシの、肉筆、そう、彼の、肉、その、いたいけな、筆先から、滴った、青インクの香気に、命を奪われかねない。(p.20)

漢字の表記に揺れがありますがすべて原文ママです。眼の前には単なる紙とそれにかかれた文字しかないのに、それだけを素材、いやこの場合はオカズというほうがいいのでしょうけども、オカズに、四十がらみのホモセクシュアルである井崎さんは、アツシを幻視、激しく発情してしまいます(笑)。狂的な恋に身悶える人間にとって、想い人からとどけられた紙はそれだけで聖性をまといます。書きつけられた文字のインクの染みも、「肉」筆からしたたる芳しき液体に変じます。想い人が手の届かないところにいる分だけ、妄想のなかでその存在感を無限に肥大化させてしまう、これぞ変態文学の真骨頂。ちょうど、ハンバート・ハンバートが、目の前にいないニンフェットをその名、ロ・リー・タの文字だけを口腔内の舌先で愛撫するようにして連呼し、召喚しようとしたような呪術的倒錯ですね。

こうした陶酔境にあっては、ことばの意味も揺れて、さまざまな連想につながっていきます。だから上の個所では、性的なほのめかしが読み取れるようになっている。みうらじゅんの「これ、絶対入ってるよね」にならって、「これ、絶対咥えてるよね」といいたくなる語りです。「アツシ自身」という文字表記は当然、「アツシ本人」という意味と、「アツシのペニス」という意味の間で揺れ動いていますし、「褶襞」や「しわ」も、それぞれ紙の折り目やしわであると同時に、ペニスの裏筋やしわでもある。「肉筆」はさらに露骨。その便箋や文字を「ねめまわす」はあくまで視線のアクションですから「視姦」につながりますが、一字違いのことば、「なめまわす」の残響もあたりまえのように織りこまれています。固く禁じるということばも、ペニスが「硬く」「緊張」するさまに横滑りしてしまい、最後に肉筆から滴る青インクは、とうぜん射精されたスペルマでしょう。井崎さんはもちろん、あからさまなことばづかいは避けていますから、ここでの意味の揺れ、記述から連想される「ペニス」だとか「裏筋」だとか「スペルマ」ということばは正確にいえば、読者である僕の妄想です。読者の頭をこんなふうに妄想で活性化させてしまうのはひとえに、井崎さんという強烈な欲望とことばをもった人物を造形しえた、諏訪哲史の力量に他なりません。本当にすごいなあ、このくだり。

次は、泥酔した二人のやりとり。嘔吐をこらえ瞑目する井崎さんに、蜂蜜をさし出す美少年の篤。

「気持ち悪い。蜂蜜はいらん」
「ハハハハ、違うよ。おい、目を開けてよく見ろ。あんた、これが舐めたかねえか?」
 ……その時、もしや、と、ある非現実的な、凄まじい妄念が私を貫いた。
 夜毎顕現し、私を悶えさせた「あれ」、あの偶像を、ついに自分は現実に舐める……。全身の血が頭に殺到する感覚を気つけに、私はカッと両眼を見開いた。(p.151)

このくだりで爆笑してしまいました。さすが妄想の人、井崎さんだけはあります。見る前から自分の願望が先走り、直接小説中に記述はないものの、篤がペニスに蜂蜜を垂らしている姿でも想像したんでしょうね。最後の、「全身の血が頭に殺到する感覚を気つけに、私はカッと両眼を見開いた。」なんて木下古栗です(笑)。

自分自身も詩や詩評を書く井崎さんだけあって、使われている言葉がかなり古風な(そして月並みな表現もすくなくない)ことによって、この同性の美少年にたいする憧れを爆発させる数々のくだりを面白く読ませます。普通のことばで書いてあるだけだったら、なんのことはない安手のポルノになってしまいかねません。

なんだかこう抜粋してくると、未読の方に、たんなる中年男性のエロ妄想小説と取り違えてしまわせそうで心配ですが(笑)、いや、それはそれで一つの読み方なのだけれど全体を通して読めばそれ以上に、数々の収穫がきっとあります。サドマゾの関係、書くことと書かれることの関係、表層と深淵、異端小説や奇想小説の系譜、さまざまの要素が、井崎さんと月原篤という二人(もしくは本当は一人)の人間のなかで合流し、圧倒的な水量と勢いで読者のなかになだれ込んできます。とかく「難解」だとか、「哲学的」だとかレッテルをはられて敬遠されてしまいそうな書き手の、そのなかでも一見しただけではかなり込み入った風にも見える小説ですが、けしてそんなことはない、じっくりつきあえば絶対に笑えるし、泣けるし、頭は沸騰するし、身悶えできる、何でもありのディオニュソス的欲動によって突き動かされた現代版異端文学。黒い精髄がこの一冊に濃縮されています。

水村美苗『本格小説』

出典:水村美苗『本格小説』(新潮社・新潮文庫・2005年)
評価:★★★★★

これを読んだことないひとは損をしています、そう断言したい一冊。ぼくにとっては、年に一度か二度は読む小説で、久々に本棚から取り出して読みふけっていました。日本語でこの小説が読めることの幸せをかみしめながら、読むたびごとに新しい発見のある小説としてページをひらけばさいご、いつまでも浸っていたくなる一冊です。挑発的なタイトル、「本格小説」の名に恥じぬ堂々たるストーリーテリング。『嵐が丘』や『櫻の園』はじめ、その他あまたの小説、民話、もういろいろひっくるめてこれまで世界各地で語り継がれ、書き継がれてきた「お話」の流れがこの一冊の中で合流しています。よく悪いニュアンスを込めて「お話」ということばがつかわれますが、ここではそんな含みは全くありません。

まずもって恋愛小説であり(文庫の後ろには「超恋愛小説」とあります)、女中小説でもあり、出世譚あり、没落譚あり、復讐譚あり、幽霊がでたかとおもえば、俗っぽい色恋もあり。これだけ楽しい「お話」の要素をぎっしりと詰め込みながら、「どうです、こんなに先行作品を読んできたんですよ」といったしょうもない衒いもなければ、消化不良をおこすこともなく、とうとうと流れてきたお話の系譜に敬意と批評の眼を同時に向けて書かれていることがわかります。水村美苗の深いところにいったん吸収され濾過され蒸留された「お話」の純度のたかいエッセンスが、今回の何度目かわからない再読でもまた堪能できました。

今回なんでこの小説を取り出したかというと、先日読んだ平野啓一郎「Re: 依田氏からの依頼」(『新潮』2013年7月号)にずっと、ひっかかりを覚えていたから。ひっかかり、というのは「いろいろ仕掛けがあるのに、それをいまいち楽しめなかったのはなぜだろう」というもの。もちろん、僕が戯曲にほとんど興味や知識がないというのも大きな理由なんですけど、それにしたって工夫のあとがみられる小説なんだから、いくらなんでももう少し楽しんでよむことはできなかったのか。数日、疑問をかかえたままでしたが、そこでふと気づいたのが『本格小説』の存在。

『本格小説』の語りも入り組んでいるので、どこがどう違うのか、語りの点から比べてみることにしました。

で、結局いきついたのが「声」のあつかいなんですね。「Re: 依田氏からの依頼」の場合、語りの層がいくつか積み重ねられてはいるものの結局最後は小説家大野の編集手腕や文体の選択に、小説の「声」が収斂してしまうんですね。いくら依田氏の体験する時間が伸び縮みしようと、付添の女が自分の都合のいいように依田氏の語りを改編しようと、最後には大野の手によって、一編の小説としてそれほど矛盾のないひとつの「声」にまとめあげられてしまう。最後まで読めば分かりいいんだけど、ものたりないわけです。

対して(並べてしまうのはなんだか頓珍漢な気もしないではないんですが)、『本格小説』の場合、語りの層がいくつか積み重ねられながら、それがいくつもの「声」や視点に分かれているから。といったそばから矛盾するようなことをいえば、この『本格小説』の最初と最後は「私」となのる小説家が、加藤青年から聞いた話を小説の体裁で書いているということにはなってはいて、この点「Re: 依田氏からの依頼」と変わらないはずなんですが、『本格小説』に書かれてある内容や文体は、かなりの程度「私」の存在を消しています。

小説家大野が律儀に作品のつくりを説明、解説してくれる「Re: 依田氏からの依頼」とはちがって、その場その場で違う語り手に憑依するように、別々の「声」や視点から作品のリアリティを構成する『本格小説』は、それぞれの視点から、見えるもの、見えないもの、見ようとしていないものが分かれています。作品世界の奥行きを読者に想像させてくれる余地がある。初めて読んだとき、女中だったフミコさんの語りにまんまと乗せられたあとで、冬絵さんが「第二みどりアパート」を訪ねていったときにでてきた、下品な女の語りにうけた衝撃は、再読するとき仕掛けが分かっていても、やはり読むたびごとに衝撃を受けます(何でもかんでもネタばれすると面白くないので詳細は伏せておきます)。

このあたりが、「Re: 依田氏からの依頼」と『本格小説』とをくらべてみて感じた、語りかたの違い、そしてそこに根っこがある、おもしろさいまいちさの分水嶺。

また、『本格小説』って、これでもかとベタな要素を詰め込んで、使われることばや文体も決して凝ったものではないにもかかわらず、これだけ読者をひきつける。それはひとえに、ベタの強度にあるはずです。ベタを中途半端に無自覚に書きつけてしまう小説は、焚書にしてしまえばいいと思いますし、またベタを毛嫌いするだけしか能のない小説には書き手のドヤ顔やスノビズムしか感じられませんが、これだけ徹底して、なおかつ戦略的にベタを積み重ねてしまえば(何しろタイトルからして『本格小説』です。書き手から差し出された「分かってやってますよ」というメッセージに、読者は本を手に取った瞬間からめとられます)、こんな大傑作が誕生するわけです。ベタをベタだと認識するためには、莫大な量の小説やお話に触れて、しかもただ触れる量だけでなく、深いところに落としこんでおかねばならないという質も必要なはず。水村美苗は間違いなく、その条件をクリアしている稀有な書き手です。

 今さら弁明してもしかたのないことですが、三枝家の山荘に足を踏み入れたとき、わたしはよう子ちゃんがいないものと決めてかかっていたのです。屋根裏部屋でその姿を最後に見たのはもう十年近くも前のことでした。しかも今や物置と化した屋根裏部屋はもうゆう子ちゃん一家ですら長い間使っていなかったのです。それに加えてわたしももう五十半ばで昔の足腰の強さがありませんでした。建て増しし、やたら広くなった山荘を一階から漫然と見回り、最後に屋根裏に行く階段にかかりましたが、半分昇ったところで足を留め、廊下に面した三つの扉が閉ざされているのを眼にしただけで、そこから引き返してしまったのです。でもそれだけならあとでこうも自分を責めることはなかったでしょう。引き返そうとしたその瞬間、妙な感じがしたのです──したように思うのです。あとから記憶を塗り直してそう思うようになったのかもしれませんが、三つの閉ざされた扉が何かを語りかけているような気がしたのです。というより、あれは未だに訳がわからないのですが、幼いころのよう子ちゃんが亢奮して一人でしゃべっている声が聞こえてきたような気がしたのです。あたりは森閑としているのに一瞬幻聴があったのです。階段を一段一段降りるのにも、その幻聴を振り切るような思いで、そうっと音を立てずに降りたような記憶があります。雅之ちゃんとの寡黙な帰りの道中も、もう一度確かめに戻りたい衝動と戦っていた記憶があります。(pp.417-8)

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