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黒井千次「紙の家」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

コルタサルの短編に、着られそうでなかなか着られないセーターにひたすら悪戦苦闘するだけの傑作があります。そこでは何が起こっているのでもなく、ただただ「セーターを着ようとする(でも着られない)」の実況中継がくりひろげられるのみ。徹底的にナンセンスながらそのナンセンスが文章で過剰に堆積していきやがて飽和点を超えると癖になる笑いに結晶化します。読み始めは「なんぞこれ、意味ないじゃん」と思って油断しているんですが、読んでいるうちに作品のリズムにうまく読み手がはめられて癖になる感覚といえばいいでしょうか。もちろん僕はスペイン語は全く読めないので木村榮一先生の名訳によって楽しんだわけですが。

黒井千次による本作「紙の家」も、テイストは全く違うものながら、何か大きな事件が起こっているわけでもなくただ「彼」と呼ばれる男が、これまで出会ってきた人の名前を書きつけたリスト片手にぼんやり考え事をするだけの作品で、ナンセンスという意味では通底するところがあります。

作品内容と密接に結び付く文体の特徴として、茫洋さがあげられます。名前とその名前の横に記してあるワード(書きつけた時点ではその人物を思い出すための符丁として機能していたかもしれぬもののもはやそのことばが何を表しているのかすらわからない)を「彼」が目にしても、「誰だったか」「どんな人だったか」を全員が全員はっきりとは思い出せない。しかも「彼」は手帳のページをひたすら繰っているだけなのでアクションらしいアクションもありません。短編の目的地も明確にはされない。

 どれほど長い間自分がそのルーズリーフ形式のノートを使っているかをあらためて考えることはなかったが、ページの中にはペンで横線がしっかり引かれて抹消された一行もあり、反対に薄い鉛筆の字で欄外に遠慮がちに書き加えられている一行もあり、そこに収められている内容にはかなり流動的な気配のあるのが感じられる。(p.19)

内容というよりはそのメッセージ内容がほとんどないものを、そのメッセージがどういう状況で発信されているか(上の例でいえばリストアップされた人の名前の書かれ方)、メッセージの文脈にフォーカスして叙述が進みます。「彼」の想起する力も、パソコンがデータベース検索で探索ワードにバシっといきつくようなものではなく、いかにも思い出したくても思い出せない霞がかった曖昧さ、手探り感満載のもの。なので、読み手によっては「だからなんなんだ」といいたくなるかもしれません。

けれども、なんといえばいいか「だからなんなんだ」という問い自体がこの作品の前では無効になってしまうんですね。堂々と「なんでもないんだ」と言い返されているような気にさせられる、無意味の壁のまえにただ佇んでいるような感覚にさせられる。もちろんその意味のなさに堪えられない読み手はページを閉じて壁の前から早々に立ち去ることも禁じられてはいません。僕はこの意味のなさ、コルタサルに比べれば笑いやユーモアや風刺めいたものもないのだけれど、漠然とした「彼」の記憶の道行を、「彼」とともに一歩先も見えない、どこに向かっているとも分からない足取りで進んでいくのは苦痛ではありませんでした。漠然としたものを漠然としたまま読ませるというのはこれはこれで書き手の力量の賜物だとおもいます。上の引用部にしても「流動的」とか「気配」とかさらに「感じられる」ということばによって、茫洋さに拍車がかけられている。「抹消線」も引かれているし、書き込みは「薄い」字で「遠慮がち」というのも、とらえどころのなさを演出しています。

茫洋さを味わう別の例。

 ここでも、記されている相手が誰であったかを確かめるための注記というより、何かの理由で印象に残っている当人の名前を確認するための手がかりとなる注が括弧にくくられて示されているらしかった。したがってこれは、単に他人の姓名とか住所とか電話番号とかを記載して貯蔵し、必要に応じて引き出すためのノートではなく、過ぎた時の中を影の如く揺れて動いている人物の名前や住所を確認するためのノートと考えられた。(p.21)

デジタルな知識ではなく、アナログな記憶。それは上の、若干文学くささも感じられる修辞のことばでいえば「影」のようなものとして、人の頭の片隅や、指先の触感にそれと名指せないまま宿り続けるものかもしれません。

やがて彼の指が開いたのはいわば任意のページであり、自分がなぜそこをめくり当てたのかは彼自身にもわからない。他と違うところがなにかあるわけではなく、開かれた左右両面にそれぞれ十名ほどの名前がおとなしく並んでいる。そして気が付くと、なぜか注記のあるのは左ページのみであり、反対の右側にはただ名前と住所と電話番号が収められているだけだ。試みに上から辿ってみる右側の名前はどれもそれなりに記憶の針にかかるものばかりであり、二つの名前が鉛筆で薄く消されているのは、移った住所がわからなくなったか、それを追う気持ちを失ったかであろう。(p.23)

明確な目的意識なく指先の感覚に導かれて任意に開いたページの先で、記憶の定かでない人の名前と出会う。それは現在の「彼」がかすかに想起できるものもあれば、そうでないものもある。現在思い出せないだけでなく、過去のある地点においてすでに、その「名前」をもつ人にたどり着く道筋は失われている。

忙しい人は本作を読んでも腹が立つだけかもしれません(あるいは途中で読むのをやめてしまうか)、そしてどういう反応であろうと読者に禁じられている読みはありません。しかし、ビジネス書や自己啓発本ではなく、あえて小説を、それも貴重な余暇のいくぶんかの時間を割いて手に取っているのなら、別にお話らしいお話がなかろうと文字を読むことだけにつきあってみる、そういうぜいたくな時間を味わい尽くしたいものだと、僕は本作を読んであらためて思いました。

(追記)コルタサルのセーターの話は岩波文庫『遊戯の終わり』に「誰も悪くはない」というタイトルで収録されています。訳は木村榮一。どの短編も面白いので短編好きの方にはぜひご一読をおすすめします。
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石原慎太郎×中森明夫「芥川賞と私のパラドクシカルな関係」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

このブログでは小説しか扱ってこなかったんですが今回芥川賞・直木賞がともに第150回を迎えておめでたいということで例外的に対談をとりあげます。文芸誌の対談といっても、数十年前みたいに対談者たちが一触即発になったり、互いの立場をかたくなに譲らず侃侃諤々になったりするおもしろ対談は今やほとんど見かけません。変わって目に付く対談といえば、連載終了で新刊本を出した著者同士が気持ち悪い褒め合いをするとか、あるいは新たに受賞した書き手の人物紹介&オメデトウ対談みたいなものだったりで、ほとんど読むべき内容と価値がありません。そんななかで販促活動とは関係ない対談がこうして掲載されれば面白くなるに違いない。もっとも、中森×石原対談に僕が付け加えるところは特になく(対談そのものが十分面白い)、興味のある方はご覧になってみてくださいという紹介の意味合いで以下、取り上げるわけですが。

各所で語られているように芥川賞はもとから世間一般の耳目を集めるような賞ではなくて、石原慎太郎「太陽の季節」の受賞を境目にマスコミに注目されるような賞となった歴史があります。また石原慎太郎自身が長きにわたり芥川賞の選考委員(ちなみに銓衡の字をやめたのはいつごろからでしょうか、2014年3月号『文學界』紙面でも「選考」になってるのでこれは文藝春秋公認の表記なんでしょうね)を務めていたこともあってその周辺のこぼれ話が満載。もっとも芥川賞ウォッチャーのような人や文学史に詳しい人にとっては当たり前の話ばかりなのかもしれません。とはいえ文学賞にほぼ興味のない、かつ半可通の僕にとってはわりに面白い対談でした。

以下、面白かったところ、なるほどなあと感心したところを抜書きしておきます。

石原 (前略──引用者)ただ、僕がしみじみ思うのはね、日本の社会ってのは、著名な政治家がいい小説を書くことを許さないね。そういう点で非常に不寛容というか、料簡の狭い社会だと思いますね。僕は本名で政治家をやってるし、小説を書くときにペンネームで出るつもりもなかった。けれど、ある時非常に密度の濃い作品集を出したんだが、たまたま金丸問題があって、同じ自民党ということでまったく一顧も与えられなかった。一行も書評が出なかったな。世の中ってこういうものだなと思ったね。(pp.408-9)

たしかに作家でかつ政治家という人は石原慎太郎くらいしかぱっと思いつきません。新書類なら幹事長、大臣クラス以上の経験者の名前で出ているものがあるにせよ、それらはゴーストライターが代筆してるんでしょうしね。ただ石原慎太郎のいうように日本の社会が不寛容だから政治家は小説を書かないというよりは、政治家になりたがる、かつなれるポジションにいる人はそもそも小説を書こうなんて思わない気がします(笑)。小説を書く政治家が出てくれば出版不況も少しは……いや、あんまかわらないか。

中森 石原さんは芥川賞を取って有名になったと思われていますが、それまではすごく地味な賞だったそうですね。
石原 それはとても面白い関係で、パラドクシカルなものでね。つまり、それまで文学、小説ってのは、非社会的な人間の手立てでしかなかった。象徴的なのは『人間失格』の太宰治で、物書きはそういう偏見で見られていたと思うんです。芥川賞ってのにどれだけの権威があったのか知らないけど、とにかく「太陽の季節」が取ったってことで、小説そのものが社会的にクオリファイされたんですね。不遜な言い方をすると、俺のおかげで芥川賞は有名になったんだ(笑)。(p.410)

パラドクシカル(笑)。クオリファイ(笑)。

石原 (前略──引用者)青春のピュリティだけが浮き上がってきたんだな。(p.410)

ピュリティ(笑)。いや、英語にいちいち反応しているときりがないのですが、面白いものは面白い。対談のタイトルに「パラドクシカル」の一節を引いているように編集部もたぶん慎太郎いじりしたくてしょうがないのだろうと推測します。にしても石原慎太郎の話の中にちょいちょい英語が混じってくるのは何なんでしょうね。旧制高校生へのリスペクトがあるならドイツ語になるんだろうけれどそれともまた違う感じ。

また、三島由紀夫について。

石原 最後のほうはちょっとあの人おかしかったけど、最初の対談は、出来が悪いゼミナリステンに教授が付き合ってくれているようなものでした。こっちのほうは、なんかちょっと忌々しいぐらい幼稚なんだ。
 ただ、三島さんが、一九六〇年に筑摩書房から出た僕の選集に書いてくれた評論は、すごくいいんです。そこで三島さんは、石原が初めて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた、と言っているの。戦前はその知的なるものを侮蔑したのは軍人だったけれども、初めて作家が既存の文壇にその侮蔑を突きつけ、文学に知性の内乱が起こった、と。あの人は僕が政治家になるのを、その時すでに予感していたんじゃないかなって気がするんです。このまえ、久しぶりにあれを自分の書庫で読み返したら、なんかとても懐かしくて、嬉しくて、涙が出たな。この人、本当に俺のことわかってくれていたんだなあと思えて。(p.412)

三島の解釈も分かりやすいといえばわかりやすい、分かりやすすぎるのでもうちょっとうがった見方をしてみると、石原慎太郎が侮蔑を示したのは「知的なもの」そのものではなくて、「知的なものに対する憧れ」ではなかったか。

芥川賞選考会について。

中森 侃々諤々やるんですか、選考会は。
石原 やりますね。まあ、飯食って、酒飲みながらやるんだけどもね。僕は、候補者たちに陪席させて、俺たちの議論を聞かせたらどうだって言ったことがあるけど、そうはいかないっていうんですよ。そのほうが彼らのためになると思うけどね。(p.414)

いやー、これをぜひ実現したあと退任していただきたかった。「そうはいかない」と反対した小心者は誰でしょうか。もしニコニコ生放送で実況中継されるならブラウザの覗き窓から俗物根性に輝く眼で窃視したいもんですが、そうなんでもかんでも公開してしまうと失われてしまうものもあるはずなので、間をとってせめて候補者さんたちの陪席は実現してほしかったよ、慎太郎!

皇室について。

石原 いや、皇室にはあまり興味ないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。「わがひのもとは」って歌うの。みんなちょっと、振り返るんだけどね。(p.417)

ネトウヨ発狂wwwww、はしないとしてもこれは意外でした。橋本大阪市長とは意見一致してなさげな感じですね。まあ大阪のことには興味ないのでどうでもいいですが。僕の中の週刊誌的な興味が刺激された発言でした。

墓碑銘について。

中森 僕は解説に、「石原愼太郎の墓碑銘」というタイトルをつけました。村上春樹さんは、自分の墓碑銘は「ランナー」にしてほしいと書かれています。「作家(そしてランナー)/少なくとも最後まで歩かなかった」って。石原さんなら、何と書かれますか。
石原 「ユリシーズ」。
中森 わあ、かっこいいですね。ところで、村上春樹なんて読まれますか。(p.419)

このくだりが僕にとって一番印象深いやりとりです。村上春樹の、もう村上春樹的としか言えない墓碑銘の紹介の後、石原慎太郎が自らの墓碑銘にこともあろうに「ユリシーズ」と言い放ち、それを受けて中森明夫は「わあ、かっこいいですね(棒)。ところで、」と速攻で話題を転換するという(笑)。ぜんぜんかっこいいっておもってないだろ、中森明夫(笑)!

僕にとって面白かったところ、感心したところを抜き出してきましたがもちろんこれはごく一部です。100人読めば100通りに石原慎太郎と芥川賞の歴史が読み取れることだと思います。人間、石原慎太郎、81歳。やんちゃなオデュッセウスとして、湘南の海をスタートし創作活動と政治活動で日本列島全体どころか、その端っこの尖閣諸島までを巻き込んで最後は再び湘南の海に帰還する……かどうかは知りませんがとにかく、生涯かけて壮大な冒険叙事詩をみごと完結させてほしいと思います。

(追記)政治家かつ小説家として、野坂昭如先生がいたじゃないですか!!!

エトガル・ケレット/母袋夏生訳「創作」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★★☆☆

エトガル・ケレットは本作と併載されている訳者解説によれば、1967年テルアビブ生まれの超短編作家で、小説のほかに絵本、映像、コミック原作も手掛けている方だそうです。

大御所のアモス・オズやD・グロスマン、ホロコースト作家のアッペルフェルドは別格として、いまいちばん、世界で売れっ子のイスラエル作家である。(p.114)

とのこと。いろいろ例外を設けたうえで無理くり「いちばん」売れっ子の座に座らされた感のある紹介文(笑)。最近ユダヤ人作家や旧約聖書に関心を持ちはじめていたところだったので僕個人にとってタイムリーな作品ではありました。個人的な事情を抜きにしても本作の掲載はタイムリーというか、半ば宣伝を兼ねてというところもあるんでしょうけれど、エトガル・ケレットは東京国際文芸フェスティバル2014のゲストとしても出演予定の作家さんでもあります。リンクは以下。

【東京国際文芸フェスティバル】

2月28日からはじまるフェスには、エトガル・ケレットのほかにも、ジュノ・ディアスや西加奈子といった話題の作家も来る予定のようですね。詳細はサイトか直接事務局にお問い合わせを。

さて、本作はこんな風に

 マヤが書いた最初の物語は、人間が増殖を分裂でおこなう世界の話だった。そこでは、だれでも好きなときに分裂できて、元の年齢の半分になる。(p.108)

と不思議な世界の窓が開きます。といってもこの、人間が分裂増殖する世界の話がこれから語られる作品世界の中心になるのではなくって、ちゃんと「マヤが書いた最初の物語は」と導入部にあるように、この話は、「創作」という超短編のなかに挿入された作中作として紹介されているんですね。読者は作中作の嵌め込み窓から外に広がる非リアリズムの世界を覗き込むにとどめおかれます。

ちなみに何の説明もなく超短編、超短編いっていますがこれはエトガル・ケレットが使っていることばから忠実に訳したことばなんでしょうか、訳者解説にも

作品の短さに言及したインタビューでは、「超短編は詩に似た翻訳困難さを秘めている。ことば一つ、言いまわし一つがいろんな意味を持ったり、複雑に絡み合ったり、矛盾し合うこともある」と語っている。(p.114)

とあります。短編より短い作品は僕たちの手持ちのことばだと、掌編、あるいはショートショートといったりしていますがそれともまた違うニュアンスを出したいのかもしれません。ショートショートというと星新一のような、きれいな構造を持った物語が平易なことばで綴られてストンと落ちがつく小説を想定してしまいますが、超短編と自称する本作「創作」は、そういう一つの、いかにもまとまりのいい作品というよりは、分量的にはたしかに短いのだけれどそこから作品外にはみ出ようとする余韻のある作品となっています。この辺のところをさして「詩に似た」といっているのかもしれませんね。

短い分量ながら、作品の中には冒頭で紹介した作中作含めて、計四作の作中作がはめこまれています。二人の夫婦、マヤとアヴィアドがそれぞれ創作教室で書いた小説の断片が、二人の夫婦関係を暗示するつくりになっています。もっとも作中作の内容が二人の関係をそのままのかたちで反映しているかどうかは曖昧にされてはいますが。

妻のマヤは創作教室の上級クラスで作品を3つかき上げ、編集者にも紹介されるほどの評価を得ています(この編集者への紹介というのも、マヤの作品そのものの評価なのか、それとも講師の男性とマヤとの間になにか取引があってそうなったのかはぼかされています)。彼女の書いた作品は冒頭の人が分裂する話のほかに、愛している者の姿しか見えない世界の話、猫を産み落とした妊婦の話、など。読みもののアイディアとして成立してそうですが、どことなくマヤの身辺雑記を単に物語に変換したようで、安直さがあるなあと僕は思いました。だからこそ、編集者への紹介も、作品内容以外の事情があったのではと勘繰ってしまったわけです。

作品の出来でいえばむしろ、それまで小説じみたものなど書いたことなかった夫のアヴィアドが自動筆記で書いた、魔女によって人間にかえられた魚がビジネスで成功する話、のほうがよほど魅力的に思えました。

そして、ずいぶん年老いたある日、不動産ビジネスで上手に手に入れた、海沿いに建つ巨大なビル群の窓の一つから海をちらと見た。海を見て、不意に、自分が魚だったことを思い出した。世界の株式市場を動かす子会社をいくつも持つ資産家、だが、未だなお魚だった。塩辛い海の味を、何年も味わっていない魚。(p.110)

ビジネスで成功している魚、異界からやってきた存在(たいてい水の関係ある世界です)が現世で巨万の富を築きまた元の世界へと帰っていく、民話的な根っこを持っている話であると同時に、たとえば現代の作品でもラファティの「浜辺にて」なんかに通じる現代性を併せ持つ作品だと思えました。

分量的にはすぐ読めちゃいますが、読後、どうやっても全体像が完成しないパズルをああでもないこうでもないと組み合わせようと試行錯誤する楽しみを余韻としてのこしてくれる、膨らみのある超短編作品でした。

(追記)英語圏でいうFlash Fictionに相当する用語として、ここでは超短編ということばが使われているんですね。「創作」の原文はヘブライ語だそうなので、ヘブライ語ではまた別な言い方がなされているのかもしれません。僕らのサブカル大辞典ことウィキペディアにも【Flash Fiction】の項目立てはありますが用語としては掌編小説はじめ他の様々な呼び名とも重複していてどれくらい定着しているのかよく分かりません。見開きページに収まるお話がFlash Fictionに相当するようで、これは商業媒体や企業パンフレット、広告なんかにうってつけの形式に思えます。お金の集まる場所で隆盛する小説形式だ、と言い切ってしまうと極端でしょうか。

(追記)ケレットがワルシャワにオープンした細長い家を取材した動画があったのでご紹介。ご本人も登場して自分のルーツにも少し触れています。旧ユダヤ人ゲットーのあった場所にオープンしたことからもわかるようにユダヤ性を意識している作家なのですね。【世界で最も細い家? ワルシャワに登場】(注意:音が出ます!)

(追記)ケレット原作のショートフィルム。公開は2013年サンダンスフィルムフェスティバルの場で。シャレオツ!…な雰囲気はあるけれどコマーシャルフィルムかポップミュージックのPVじみていて映像作品としてはとりたてて何も感じませんでした(笑)。【WHAT DO WE HAVE IN OUR POCKETS?】(注意:音が出ます!)

中原文夫「安川さんの教室」

出典:『すばる』2014年2月号
評価:★★★☆☆

書き手のことを全く知らなかったので『すばる』同号の著者一覧をみてみると、1949年生とあります。おじいさ……と口をすべらすと人によっては怒られそうなので年配の方、といいかえておきますが文芸誌に掲載される作家でいえば年齢が上なのは確か。Wikipedia情報だと、文藝春秋に勤務していた経験もあり現在は早稲田の非常勤講師という経歴の書き手です。そして本作を読むと確かにこれくらいの年にならないと書けないような、おじいさ……年配の方の生活がかもすリアリティがあって、読み手も若い人よりは、書き手に年齢が近い人のほうがよりいっそう本作を楽しめるのではないかと思いました。のっけからドッキリさせられます。

 私が安川さんの異変に気づいたのは、昼過ぎに自宅のはす向かいにある彼女の家に行き、小さな門の前に立った時だった。記名欄に「中西」と自署した回覧板を小脇にはさんでインターホンを押したが応答はなく、その時、門扉の柵を通して仰向けに横たわる安川さんのスカートが見えたのだ。(p.154)

近所に住む安川さんという初老の女性が倒れていたのを、「私」が玄関先にて発見するシーンです。僕なんかはまだ自分事としては心配してないのだけれど、「私」や安川さんに年齢の近い方が読むと、いつ自分が安川さんと同じ目にあうかわからないスリルがあるんじゃないでしょうか。という僕も別住まいの祖父が倒れたときがこんな感じだったので当時のことが思い出されドキドキしました。

このあと安川さんは「私」と通りかかった稲葉さんという近所の人とに救急車を呼ばれて病院へ。冒頭のシーンから読者は、安川さんの昏倒の原因を脳卒中とか心筋梗塞とかと勘違いしたままでサスペンス状態におかれますが、検査の結果は睡眠薬の誤飲でした。安川さんに身内は息子が一人いるもののこれがどうしようもないドラ息子で、

頭を金髪に染めた一八〇センチを優に超える長身で、紫色をした花柄のシャツとデニムのズボンを着けている。高校中退後、工務店や不動産屋などの勤めを転々として来たが、二十代半ばの今は無職で親掛りの身。盛り場での暴力沙汰は珍しくないし、この町内でも何かと揉め事を起こして、そのたびに安川さんが謝りにまわる始末だった。(p.157)

という、おしゃれになった西村賢太みたいなやつです。

安川さんは、病院で処置を終えて帰宅した後も、日ごろ安川さんが講師となって近所の主婦連に政治経済を教えている「安川さんの教室」に無理をおして立とうとします。そこで「私」はこのドラ息子・恭太に、

「今日の授業はやめたほうがいいって、あなたからお母さんに言ってあげたらどうですか。集まってる人たちには私から話しておきますから」と言ったら、恭太は「ヘッヘッ、フヘヘッ」と奇妙な笑い声を漏らし(p.157)

と助言を聞き入れません。この笑い声は、ほんとうにこいつどうしようもない奴なんだなあと思わせる秀逸な笑い声ですね。ヘッヘッ、フヘヘッ(笑)。

で、恭太が近所の美容院「プリティフラワー」でいいふらした家庭内の事情が町内に広まっています。それによればに安川さんの父は荒物屋の商売が立ち行かず借金を残してトラブルに巻き込まれ殺害され、安川さんの母は安川さんが高2のときに兄妹をのこして出奔そのまま行方知れず、兄は安川さんが大学を出て教職に就いた年に駅のホームから転落して死亡、安川さんの前夫は愛人をつくって離婚と散々な人生ですが、

そうした境遇にありながら、安川さんは愚痴ひとつこぼさず、いつも笑顔を絶やさない。(p.159)

と、「私」は尊敬のまなざしで安川さんを見ています。と同時にこれほどの不幸な目にあいながらそれを気にする様子を見せない安川さんに対し、「鈍感なのかも」とか「頭の働きが少し弱い」だけかもしれないとも思いなし、その人間像は「私」のなかで謎を孕んだままです。そんななか、安川さんの教室に石黒さんというこれまた不幸に見舞われた人が乗り込んできて人目気にせずひとしきり自分の不幸自慢をしますが、安川さんはそれを無視して淡々と授業を続けます。で、後日、「私」と安川さんは会話を交わします。

「きのうもまた睡眠薬をたくさん飲むところだったんですよ」
「そりゃ大変だ。いつかみたいにサプリメントと間違えたんですか」
「ええまあ」
「でも今度はよく気づかれましたね」(p.163)

作品冒頭で安川さんが昏倒したのと同じことがまた起こったらしい。しかし「私」は、なぜこの安川さんという女性が同じ間違いを犯したのかに思いをいたすことなく、結果として何事もなかったことに胸をなでおろしているだけ。作品中盤で息子の恭太によって暴露される安川さんの過去を、もしも地の文で書き手とほとんどかさなる誰かわからない語り手が嬉々として綴って(語って)いたなら、僕は「そんな悪趣味な……」と作品外の判断基準を持ち込んでいるのを十分自覚しつつも読むのをやめてしまったはずです。しかしこれはあくまで作品内の「私」が他人の不幸ごとあるいはゴシップを喜んでいる傍観者的な態度だと受け取れば、安川さんが最後になぜ命にかかわるような過ちを繰り返してしまったのか納得いくはずですね。最後の最後まで安川さんの内面にふれることなくブラックボックスのまま綴ってきたことによって、語り手の、善意の隣人に居直ることの悪質さが浮き彫りになっています。全体に、NHKあたりのテレビドラマのようなレディメイド感はありますがこれはこれで面白くよめました。

(追記)文藝春秋出身で芥川賞候補になったというのはなんだか笑えますがその候補作は「不幸の探求」というタイトル。もともと人の不幸について関心のある書き手のようですね。「不幸の探求」は作品社の本に収められているようです。作品社HPのリンクはこちら。作品紹介文で、表題作ではなく「表題策」という表記になっています。

村田沙耶香「トリプル」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

注意:以下にはあからさまに性的な表現があります。苦手あるいは不快を感じる方はここで読むのをストップしてね。


作品冒頭恋人とので待ち合わせ場所に赴くため化粧をしている高校生の「私」に母親がこんな言葉をかけます。

「デートって……それはいいけれど。ちゃんとカップルでデートするんでしょうね?」
 私はグロスを指で伸ばしながら笑った。
「当たり前じゃない」
「そうよね、真弓ちゃんに限ってそんなこと……でもほら、今、流行っているっていうじゃない」(p.40)

と母親は何かを心配している様子。この「今、流行っているっていうじゃない」という言い方はうまいですね。流行っているものをわざと省いて、読者に「何が流行ってるの?」と疑問を抱かせ作品世界に引き込む言い方になっています。と同時に、母親の心理的な規制によってはっきりそれとは口にしづらいような何物か、後ろ暗い物が話題になっているとも分かるようになっている。

ここで母親が心配しているのは、「トリプル」と呼ばれる男女間の人間関係。これは僕たちが暮らす今の日本では異性間(たまに同性間)の関係、二人一組でカップルと呼ばれるような、まあいってみれば「ふつうの」関係ではなく、もう一人加わって三人組の、といってもトリプル関係が出来上がるのは二人組に一人が声をかけて合意したところではじめて成立する関係だから、一足す二の末に生まれる三人一組の関係のことを指しています。これまた僕たちの手持ちの言葉でいえば3Pといってしまいたくなりますが、それとも大いにずれていてこの作品独自の人間関係となっています。ちなみにテクストの表記にしたがって以降も「トリプル」という言葉を踏襲しますが、二人一組=カップルにたいして三人一組を示す言葉は、トライアッドTriadです。ダブルに対する言葉がトリプルですね。

どの辺が独特かというと特に身体が接触する場面です。

三人でキスをするのは、大人が思うよりずっと簡単だ。百二十度ずつ角度を分け合って顔を近づけると、驚くくらいしっくりと三つの唇が合わさる。(p.45)

なにか幾何学的な美しさがありますね。僕がイメージしたのはトリプルの三人がキスし合うために顔を近づけていく動きを、俯瞰のカメラで真上から映している映像でした。一対一でキスしてを三回繰り返すのではなくて一度にキスしてしまうんですね。また、キスがこんな感じなのでその先のセックスもトリプル独特の様式をとります。それは三人のうち一人を「マウス」として指名し、「マウス」になった一人が体中の穴という穴をほかのふたりに愛撫され、舌や指を挿入されるというもの。

マウス役の子だけが服を脱いで、他の二人は着衣のままだ。そして、マウス役の子は、体中の穴で、他の二人のありとあらゆるものを受けとめる「口」になる。(p.48)

性差を超えたエロティックなものに一貫して関心のある書き手らしい表現です。もっともこの「穴があったら何か入れたい」という欲望は、実際に肛門性交、口腔性交、異物挿入、耳の中に舌を入れたり、口の中に指を突っ込んだりと性交時にさまざまな形で行われる行為のみならず、もっとマイルドな形式でいえば、教科書の数字の「0」とか「6」とか「8」の空白を鉛筆で塗りつぶしたり、幼児が塗り絵を楽しんだりといった日常的にみられるごくあたりまえのふるまいにも具現していますね。

作中ではこのトリプルの性交は非常に穏やかなものとして、マウス役の者にとってはさながら羊水の中で眠る胎児の快感を味わうものとして描かれています。この点も僕らがお手軽にみられるネット動画の無修正3Pものとはだいぶ異なっている作品世界独自の設定です。かける時間もものすごく長く「5時間(p.50)」で、マウス役も男の場合にはかなりマイルドに射精する(笑)。次の引用は、圭太というスポーツマンタイプの男子がマウス役です。

圭太の穴の中に私たちの体液が流れ込んでいく。「うっ」という声がして、いつの間にか勃起していた圭太のペニスからトロトロと白い液体が流れ出た。(p.49)

30歳過ぎているならまだしも高校生男子なら「トロトロ」はないはずだと現実なら言いたいところですが、この「トロトロ」の射精もふくめて、トリプルの性交の穏やかさが作品内の設定として表現されているんでしょうね。僕自身は3Pには全く興味ないしもちろん経験もないですが、もしもそんな気持ちいいもんが現実にあるんだったらぜひ挑戦してみたくなりますね。お相手はアマちゃんと檀蜜さんあたりで5時間コースで。

閑話休題。このトリプルの関係は若い世代に流行しているものであって、先行世代、作中でいえば「私」の母親世代にはかなり強い抵抗感があるようです。上で描かれているようにトリプルは、3Pのようなもの、あるいは体の欲望を単に満たすためだけのものとはずいぶん異なる付き合い方なのですが、先行世代はどうしても「淫らな」関係としてトリプルを頭っから否定してかかる。年齢が高くなるほど性的な関係について保守的な態度をとるというのは僕たちの生活している世界でも同じですね。この、娘がトリプルとして男二人と付き合っていることを知った母は言葉を尽くして罵倒します。

「この淫乱女! あれほど言ったのに、よりにもよって男の子二人となんて! 汚らわしい!」(p.51)

娘に「淫乱女!」はないだろうと思いますが、母親はこの後も取り乱しきって娘に「純情ぶるんじゃないわよ!」「こんな売女に育つなら、生むんじゃなかった!」「この男狂い!」「色情狂!」と、罵倒の機関銃を掃射します(笑)。この部分を、書いている方は結構楽しくご機嫌で書いたんじゃないかなと推測します。僕には、もちろんこれはこれで面白さはあるものの、悪乗りのほうが勝っていて白けも同時に感じました。白けないようにするためにはもうちょっと長い作品で母親の人間もじっくり描いてこの豹変ぶりに説得力を持たせることが必要だったかもしれません。このままだと単なる性的に保守的な役割を割り振られた母親という名前の木偶人形です。人形の後ろで操り糸を一人楽しげに操作している人形遣いの、本人はばれてないと思い込んでいるらしい姿が観客には丸見えだったという感じ。それに、これらは母親が娘を叱る言葉というより、浮気した女にたいして甲斐性のない男が腹立ち紛れに投げつける言葉ではないか。『痴人の愛』のジョージをなんとなく思い出しました。

というわけで全編、性に関する言葉に満ち溢れている短編でした。それも、今ではネットさえあればだれでもアクセスできる扇情的なものとは違った、もうすこし深い部分から捉えようとする性的フィクションです。トリプルという着想も、僕たちの暮らす世界でいえば性的マイノリティーのそれに近いものとして類推できるし、一定の性交……、成功を収めていると思います。本作で新しい三人の性的な関係を描いた村田沙耶香。次回作では新しい親子姦あたりでしょうか(妄想)。ぜひとも、AVや同人雑誌で既に表現されてしまっているありふれた性的表象を圧倒してほしいと、いまから期待せずにはいられません。
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