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藤沢周「寿」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

いきおい名前の尻尾に「平(へい)」をつけたくなる藤沢周の、僕のなかでのベストはなんといっても「ブエノスアイレス午前零時」でそれ以外はどれも面白くなかったのでこれまであまり意識して読んでいませんでした。そして本作「寿」も、やっぱ面白くない。横浜の産業貿易センタービル二階にパスポートの切替申請にきた男が、証明写真に写った自分の顔に落胆し、そのまま中華街の人混みに歩いていくという話。文章は意図的に読みにくくしているのかささっと読める書き方ではないものの、これも僕には「超遅れてきた新感覚派」とでもいおうか、今更感がありました。語り手(書き手)はオシャレしているつもりなんだろうけれど、それ一昨年の冬のコレクションの服ですよとそっと耳打ちしたくなる二周遅れの文体。一般人の僕は平気で二年前の服を着ますけどプロの作家がこういうの書いてもなあと思うのです。うーん、僕が読めてないだけなんでしょうか(3回読み返しました)。

繁華街特有の人で混雑する雰囲気をこの文体でやってみたのかもしれないですね。ごったがえす歩行者天国に入っていくと自分の意志で歩くというより、周りの人の流れに乗って歩かされるあの感じ。文章の読みを歩行にたとえるなら、先に進みたいのに引っかかって引っかかって進めない、読みの歩みを遅延させる文章です。だけど面白くない(笑)。

 天津甘栗を焼く黒い小石の波が執拗にうねっているかと思うと、小さく薄い器に入れられた烏龍茶が盆にいくつものって、観光客の肘やダウンジャケットに触れて零れている。中華肉まんの奔放なほどの甘い湯気がこちらの顔を乱暴に撫で、チープな金と赤の提灯が乱れ揺れる。(p.151)

三国志新館、重慶茶樓、重慶飯店、華正樓……。ラードとニンニクのにおいがあふれ、大振りのシューマイ用の蒸籠が大笑いして湯気を吐く。(p.151)


中華街を歩くこの男はひたすら自分の周りを描写していきます。看板、露天、店の前の人たち、音、におい。様々なものがごった返しているのは分かるのだけど、適度にリーダブルなので、言葉をいろいろいじっているにしても物足りなさが残りました。かといってほとんどの人が読めないようなダダ詩みたいな仕方で中華街の描写をしてしまうとそれはそれで読者は文句言いそうだし(「もっとわかりやすくかけ!」)、バランスのとり方が難しいですね。さらにいえば書き手の側だけでなく読み手の読書量とか好みにもかなり左右されるところであるはずで、となればこの作品に描かれた中華街の混雑具合と相性ピッタリの、「情景がありありと目裏に浮かぶようだ!」といって楽しみながら読み進める人もいるはずです、とフォローしておきます。僕にはつまらんかった。

つまらなさの一因として、目に見えたものをそのまま並列して書くだけの個所がちょこちょこ出てきたこともあります。

大新園、三和楼、聚英、清風楼……。(p.152)

白い矩形の看板灯が並ぶ。縦だったり、横だったりして、高砂荘、暁荘、六国荘、桜会館……。(p.155)

大吉、琴、初音、スナックてっぺん、めぐみ、福娘、味自慢。日本酒の広告入り看板もある。(p.155)

本作を片手に横浜中華街を歩いていけば、書かれてある順に店の看板が目につくのかもしれません。一度も横浜中華街に行ったこともなくいく予定もない僕にとって、この羅列は単なる文字でしかなく、何のイメージも、感情も喚起させません。中華街大好きな人くらいじゃないかなあ、このくだり楽しいの。それにどうせ中華街を歩くにしても、無味乾燥な「寿」よりは、観光案内本を持っていったほうが何十倍も楽しいはずですし。いったい何がしたかったんでしょうね、とにかく僕は読めませんでした(笑)。

男は最後に大衆居酒屋に入り酒と肴をやりはじめます。本作で唯一よかったのは、男が温やっこを食べる場面。

電子レンジでチンして、かつおぶしだけのせた温やっこ。だが、七味唐辛子を振って、備え付けのプラスチックの箸で一口やったら、熱いッ、と思っているうちに喉を焼くように滑って、すきっ腹に沁みるような美味さだった。(p.156)

ここを読んだ僕の喉は、辛さと熱さと、温やっこのとろとろした感じを味わい、僕の胃にも熱い塊が落ちましたもん。けれどその次の熱燗を飲む場面になると週刊誌のグルメ評じみていて、温やっこのリアルさはすぐに吹き飛んでしまいました。

安酒には違いないが、熱燗も思った以上に親しみやすい味だった。カツンと尖って辛いのに、鼻に抜けると丸い甘味が漂って気持ちをなだめる。(p.156)

「外はカリカリなのに中はふわふわ」と同等のクリシェ感。残念でした。

結局、ちょっと変わった文体を除くと男が中華街を歩くだけの話、といって文体も別にたいしたことはない半端な作品でした。ここで、辺見庸の「アプザイレン」を読んだときに書いた「やっぱり芥川賞作家は偉大だなあ」は訂正されねばなりません。芥川賞作家とはいえさまざまだ!
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内村薫風「パレード」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

『新潮』3月号は人造人間エヴァンゲリオンの初号機みたいな配色。それにあわせてというわけではないでしょうが、本作は、使徒…ならぬ国籍不明の兵士が日本に侵入して人を殺しまくるというヴァイオレンス作品です。純文学雑誌掲載作ならではの特徴といえばいいのか、さまざまな人物が死の直前に見聞したものをすべて「私」の視点から語っているというしかけがあります。「私」が殺され、その次にまた「私」が生きた人物としてしれっと出てくる。そこで読み手ははじめ若干の戸惑いを覚えるものの、「私」が死ぬたびに新たに登場する「私」は別人(あるいは別の意識を持った主体)なのだ、とからくりを理解してしまえば特に引っかかりを覚えるようなものではありません。

 故障ではなかった。テレビのチャンネルを変えたのは、二十三時になる少し前だ。広島カープの延長戦の結果を知るために、プロ野球ニュースを眺めていたところ、画面上部にニュース速報が表示された。解説者のコメントを耳で受け止めながら、私はスマートフォンに届いたばかりのメール、浮気相手の樹里が書いた、
──わたしの誕生日は一緒に過ごせる?
 の鬱陶しい念押しを読んでいたため、文字スーパーに視線を戻した時には文末の、
──警告を無視し、領土に侵入した。
 の文字を捕えるのがやっとだった。(p.88)

と、作品の入り口で読者も非常事態に突入したことが知らされます。その後、この浮気をしている男性の自宅に謎の兵士が侵入し、男性は射殺されます。

 その三時間後の県庁、一階エントランスに、私はいない。自宅に入り込んできた、迷彩服の兵士三人に自動小銃を連射され、その場で死亡したからだ。県庁のエントランスにいるのは、公立高校サッカー部に所属する高二の、私だ。(p.89)

最初の躓きの石があるとすればここですね。「私はいない」のところで、あれ?と思って、これは射殺された「私」が死後、その生前をふり返って語っているのかととりあえず納得する。そしてその次に「公立高校サッカー部に所属する高二の、「私」が出てきて、読み手は混乱します。

高二のときの私も、県庁で射殺される。(p.90)

ここにきて了解できるのは、「私」というのはそれぞれ別の人物(あるいは意識)なんだということ。高二のときに射殺されてしまった「私」がその後妻をめとって浮気するなんて時間の順序としておかしいですもんね。そしてこの仕掛けをひとたび納得してしまうと作品はとたんに退屈になります。この、「私」という同じ呼び名の器にさまざまな人(あるいは意識)を注ぎ込む方法をひたすらこなしていくことだけがこの作品の課題になったかのようで、話は進展していきません。同じところをぐるぐる回り続けて実に退屈です。

イデオロギー的に偏向したおもしろ資料は論外にしろ、実際の戦争体験の手記や記録映像はいまやいたるところでふれることができます。戦争を直接は経験せずとも、それらを見れば一発で「戦争は怖い」「殺されるのはいやだ」という感慨がわく。ヴァーチャルな体験ではあっても、皮膚が焼けただれてケロイドになっている人間、医者や看護婦が足りずに蠅のたかるまま放置される傷むき出しの少年少女の写真や映像からは思わず目をそむけてしまうものがあります。資料のある限り以下無限ループ。本作「パレード」の退屈さとは対極の、読み手の芯にがつんと響いてくる痛みが、実際の資料にはあります。

 タックルした二人の男は、見るからに堅気の男ではない。
(中略──引用者)
 戦争反対を叫ぶ、青白い男を殴りつけ、気絶させた上で服を脱がし、憲法九条改正を訴える青白い男をサンドバッグ代わりにした。人種差別のヘイトスピーチを行う集団に割って入り、片端から殴りつけ、それを動画に撮る通行人を殴りつけ、アフリカの子供たちにワクチンをあげようと寄付を集める者も殴りつけ、そこで転がった寄付金を拾う通行人を殴りつけた。拳の皮は破れては固まった。(p.99) 

ギャグで書いているならいいんです、この件に代表されるなんの痛みもない暴力場面もすんなりと納得できます。けれどギャグではない証拠に全く面白くない。痛くも痒くもない。読み手は殴られる側の痛みを全く感じることなくただ文字として「殴られた」のオンパレードを目にし、かといって殴る側の拳の皮が「破れては固まった」といわれてはいるけれどそれが何百回何千回繰り返されようと寸毫の痛痒を感じることもない。書かれてあるだけの退屈なト書きが、別々の「私」の死を終点にリピート再生される。単なる文字として「死」「殺」を目にするだけでなんも面白くありません。

一篇の小説としてなにか方法的に試してみたいことがあったのかもしれませんが人称を「私」に統一して語る手法自体さして目新しくもないし、といってそこで反復される死は全然読み手(少なくとも僕)には迫ってくるものはない。方法だけが突出した作品は安っぽいどころか、人の死を、こんなふうにテレビで放映してもまったく問題ないような無害化された日曜洋画劇場みたいなやり方で書いてしまえる鈍感さに、僕は呆れすら覚えました。全国のシネコンで上映される、そのくせ翌日にはほとんど誰の記憶にも残らないアクション映画の脚本でも書けばきっと需要あると思いますよ。

中上紀「赤いサリー」

出典:『すばる』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

国際結婚もの、と本作をひとことでまとめてしまうのは僕の語彙貧困と読み取り能力のなさを証しているとしても、それ以上の感想をこの作品に抱けなかったことは事実です。ネパール人男性と結婚した日本人女性が子供をもうけて日本で暮らすなか、子育てや家のことに非協力的な夫に不満たらふく。その一方義弟(ネパール人)にむしろ恋愛感情のようなものを抱きネパールの地で、日本での鬱々とした日常から解き放たれて一人の女に戻る瞬間を味わうというようなお話です。夫に不満を抱いている女性が読むと「そうそうこれこれ!」って我が意を得たりの共感を味わえる作品なんでしょうか。僕には別に意外性もなにもなく「まあ語り手がそういうんだからこんなもんだろうな」くらいにしか感じませんでした。

語り手の女性がネパール文化や当地のひとたちと接して味わう感情には、ネパールトリビアを知る楽しみはありました。読み手の僕としては、情報番組で外国の人の暮らしに「へえー」と感心するような感じです。別に小説として読まなくてもいいような情報。

 ネパールでは祝い事の際に縁起の良い金の装飾品を身に着けると聞いていたので、日本から十八金の繊細な鎖のハートのペンダントを持参していた。しかしそれは赤のサリーには合わないとあっさり却下された。代わりにバウズーが戸棚の引き出しから出してきたのは、毒々しいほどの黄金色に輝く太いチェーンのダイヤネックレスと、同じく毒々しい黄金色を土台にしたダイアピアスのセットだった。あまりの派手さに面喰っていると、金も宝石も偽物だから遠慮するなと言う。(p.71)

ふーん(笑)。ほかにもネパールの政情の不安定さなんかも紹介されておりこれもお昼の情報番組的なものにとどまっていて特に好奇心を刺激されるものでもありません。大使館情報とウィキペディアと当地を旅行した人のブログを見れば事足りるようなものであって、別に小説じゃなくてもかまいません。

本作のタイトルにある「赤いサリー」というのはサリーという女性名のことではなくて、民族衣装のあの布のことです。義弟の結婚式に列席するときに女性衆が身に着ける布の色は赤と決まっているとのこと。子育てやつれして気ぶっせいな日本の日常を灰色とするなら、つかの間ネパールに行って親族のハレの日を象徴するのがこの赤です。語り手の女性が赤いサリーを身に纏った自分の姿を後日、映像で見てみると、

 一瞬、誰だか判別できなかった。化粧をした女がそこには居た。ネパールの正装をし、結婚式のための装飾が施された玄関に立っている。紛れもない自分であるが、同時に知らない女であった。女は愁いを帯びた遠い目をし、その日の主役がまるで自分であるかのように赤いサリーを纏っている。(p.65)

上の部分を書き写しながら改めて気づいたんですが、語り手は、子育ての苦役にたえる自分が日常生活から疎外されている=脇役であると感じているんですね。だからサリーを纏った自分の姿のなかに充実を、ひとりの主役として別人になった存在を見いだしている。語り手にとって主役になるということは、夫の所有物になってこき使われる妻あるいは母としての存在とは真逆の、一人の「女」になること、性的に特定の男性には結びつけられていない状態の、何かをその先に選び取れる可能性に開かれた一個の女性となることに他なりません。これも、まああるあるなんだよなあ。

ネパールの美容室で髪を整えてもらっているときはこんな感じ。

それでも、美容室へ行って良かったと、思う。なぜなら、髪を洗ってもらっている時、誰のことも、何事も考えず、しみついた汚れや、傷ついた外側の部分をこそぎ落として、まっさらな存在になりたい、それだけを思うことができた。(p.90)

リゾート地のエステでリフレッシュ!というのと同じです。日本で夫との仲が悪いまま夫婦生活をしている人にとって、美容室で何も考えないで綺麗になれることが快につながるのはよく分かるものの、これも当たり前のあるあるですよね。

作品のクライマックスでは、国籍や言葉に関係なく披露宴の場でサリーの赤はじめ様々の色がまじりあう祝祭的なシーンが描かれます。これも教科書通りすぎます。宴の場というのはそういう場だろう、日常の規範が緩んで、集った人々がみんなでわっと盛り上がって親族や共同体の絆を確認しあう場、そしてさまざまの社会圏が交錯する場だろう、と。あたりまえのことを当たり前に書いていて何が面白いのか僕には理解不能でした。

こんないかにも作り物つくりものしたクライマックスよりも、この作品中唯一僕がいいなあと思えたのは次の場面。夫のネパールの実家(義理の兄弟夫婦もくらしている)に滞在している語り手が、夜更けになって帰宅する場面です。

家に帰ると家族のほとんどは就寝していた。寝室に行く前、マスター・ベッドルームのほうにちらと目をやる。固く閉じられたドアの向こうから、押し殺した男女の声が漏れ聞こえてこないかと耳を澄ませた。(p.91)

このくだりにだけ、僕は「リアル!!」とびっくりマークふたつ付きの書き込みをしています。他はどれもありきたりすぎて退屈な作品でした。

中原清一郎「カノン」

出典:『文藝』2014年春号
評価:★★☆☆☆

変身をテーマにした文学作品は枚挙にいとまなく、変身の原理についても時代時代で神様の仕業、魔法、幻想、夢、錬金術、変態性欲、抑圧されたもう一人の自己、理由のない不条理まで様々です。変身の原理に近未来的なテクノロジーをもってくれば攻殻機動隊のようなサイバーパンクができあがる。本作はこうした古今様々繰り返されてきた王道といっていいテーマを、「海馬の移植」という医療技術の進歩で説明します。もっとも、本作の主眼は医療技術そのものの探求によりもむしろ、海馬移植に伴う当事者の葛藤、周辺の人間関係の変容、移植後の自己の在り処などにあります。社会の倫理ともぶつかるテーマだけあって650枚という長編作品です。

題辞にある「海馬」は本作の扉を開く鍵ことばです。

海馬【かいば】③(hippocampus)脳の内部にある古い大脳皮質(古皮質)の部分。その形が、ギリシア神話の神ポセイドンが乗る海の怪獣、海馬(ヒポカンポス)の下半身に似ているのでこの名がある。情動の発現およびそれに伴う行動、さらに短期記憶に関係し、種々の感覚入力に応じて時間空間情報を認知し、一種の統合作用を行う。アンモン角。海馬体。(「広辞苑」)(p.76、括弧内はすべて原文)

海馬の提供者と被提供者が本作の主人公。いわばダブルキャストで、作品タイトルにもあるように一種のカノン、別々の声部が追いかけっこするようにして一つの音楽的調和を生み出していく手法によって二人が一人の人間として「カノン」という小説を紡いでいきます。

全体の感想を先に書いておけば、序盤は丁寧で期待度が高まったんですが中盤から後半は安易な方向に流れてしまって残念でした。もっとも、読者の関心によっては序盤よりも中盤後半のほうが楽しめる人もきっとおおいはず。いずれにしろ序盤と中終盤でのテイストにズレがあるように思いました。

序盤は当事者や家族のたち思いをそれぞれ丁寧に掬い取るように描いており、また移植に伴う法律や専門家たちの議論も門外漢である読者にも分かりやすく書かれていました。それらを踏まえたうえで移植後の頭と体とを「渚」の比喩で説明する部分は読者の感覚的な理解も促してくれる出色の個所です。以下は海馬提供者の寒河江北斗という男性(58歳)と、提供者被提供者間のやりとりをとりもつコーディネーター黒沢との、移植前の会話です。

「心って、いまの科学では、脳にあることが分かったんじゃないのですか?」
 ようやく疑問形でそう寒河江が黒沢にいうと、黒沢は小首をかしげた。
「そうでしょうか。心って、渚みたいなものではないでしょうか」
「渚?」
 寒河江は思わずそう聞き返した。
「そう、渚です。一方には頭があり、他方には体がある。海と陸のように、そのふたりが出会う波打ち際です。ふだん私たちは、頭が身体を支配していると思い込んでいる。でもそれは、長い時間をかけて、頭と体が馴染むようにしてきたからだと思うんです。もし脳が、別の体と結びついたら、そんな穏やかな静けさは続きません。海は怒り、大きな津波になって岸辺に押し寄せるかもしれません。そうすれば、波打ち際の静けさは打ち破られ、心はかき乱されることでしょう。でも、もしそこでじっと耐えれば、きっとまた渚に穏やかな平和が訪れる日が、いつか、やってくるんだと思うんです。そのとき、新しい陸と新しい海は、またひとつの静かな凪の風景になるような気がするんです」(p.85)

「波打ち際」なんてワードは松浦寿輝を歓喜させることでしょう。とここは松浦氏は関係ないのでおいておくとして、この渚のイメージがありありと読者の頭のなかに刻み込まれるだけではなく、手術前のこの会話がこれからはじまる物語の予告になっているんですね。移植後きっと波打ち際は荒れるだろう、その荒れを乗り切った後に静かな「凪」がやってくるだろうという。

一方、海馬提供を受ける女性のほうは氷坂歌音(32歳)という女性編集者です。こちらは寒河江北斗とは逆に、身体は健康ながら海馬が病に侵され記憶力が日に日に弱くなっていく。夫と五歳になる一人息子がおり、残される家族、とくにまだ幼い息子のために移植を決意したというのがいきさつです。

僕が本作に納得いかない、かつ前半後半のチグハグさを生み出しているのは多分ここに一つの原因があるのではないかと思いました。誰しも死ぬのは怖いことだし残された家族のことを心配する気持ちがあるのも分かります。ですが、体の自由が利かなくなった寒河江が海馬提供するというのは臓器移植の延長上に理解できるとしても、歌音はなぜ大掛かりな手術(日本で二例目)を決意したのかが分かりません。いや、上のように一応の説明はあるものの、手術後海馬の被提供者がどうなるかといえば本作によれば大部分が提供者側=寒河江の記憶や人格が歌音の身体を間借りしている状況となるようです。手術後ことばや振る舞いの適応訓練を受けるとはいえ中身はおっさん。そうなってまで歌音は何を残そうとしたのでしょうか、何度考えても分かりません。次の引用部は、移植を終えた歌音(中身は寒河江)が夫拓郎と息子達也の暮らす家に帰ってくるところ。

 だが、その日歌音が帰ってくることになって拓郎は、俄かに胸騒ぎがした。歌音の容姿はそのままだ。しかし新しい歌音のなかに潜み、その記憶を司っているのは、自分の両親に近しい歳の男性なのだ。(p.141)

と夫は不安を抱いています。この不安を裏書きするようにこの後つづく中盤からは、作品のトーンが転調してコメディタッチになります。あるときは初老男性の育児奮闘記であったり、またあるときは初老男性がやり手女性編集者になりすましてファッション誌の営業を担当するキャリアウーマン細腕繁盛記であったり。初老の男性が働き盛りの女性として暮らしていくうえで直面するギャップに、笑いや社会批評めいたものがあるもののとりたてて目新しくはありません。それに、かなり既存の表現に寄りかかっていて通俗すぎるところが、序盤の丁寧で真剣なトーンとくらべると興ざめでした。

たとえば職場で、寒河江の頃の営業知識とコネをつかって業績をあげる歌音に職場の同僚たちが嫉妬する場面。歌音を敵視する同僚女性三人組がワインバーで謀議を重ねるなかで

「そういう訳なのよ。でも、むかつくわ。あの人、優等生ぶっちゃって」(p.167)

なんていうセリフも飛び出します。なんとなく『ガラスの仮面』の北島マヤを妬む劇団員たちの姿を想像しました。僕は『ガラスの仮面』は大好きですし、こういうベタ表現も好物なんですが、序盤のテイストとはどうしてもちぐはぐで馴染みませんでした。ちょっと贅沢をしたくてカウンターのお店で懐石料理を食べていたら、途中で唐突にマクドナルドのハンバーガー出された、みたいな感じでしょうか。マックのハンバーガーも「あー、ジャンクフード食べたい!!」となった時にたまに食べるからうまいわけで、タイミングというものがあろうかと思います。懐石料理のなかにハンバーガーを紛れ込ませるのも現実の懐石料理ではなく小説という創作料理なら「あり」ですが、その力技を成功させるには料理人の高度な詐欺的技量が要求されるはずです。本作はその点、どうしてもちぐはぐ。このあと歌音を陥れるためにライバルの同僚がなりすましの偽メールを取引先に送って職場を混乱に陥れます。すぐにばれそうなお粗末な悪事、のみならず職を失い損害賠償請求されるリスクさえある悪事を働く感覚が僕にはちょっと信じられません。作品にひと騒動おこすためだけに作られた人物、その安易な書かれ方が浮いています。

こんなふうに歌音(中身は寒河江)のまわりで起こるトラブルは絶えません。しかし事態がおおごとになりかけると、「都合よく」歌音の人格が歌音の身体を乗っ取り、事態を収拾します。ここも、ありきたりすぎる表現ですし作品内での整合性も取れていません。ちっぽけな存在に堕したデウス・エクス・マキナのようです。

いや、ピンチにならないときも歌音が都合よく出てくる。次の場面は、歌音(中身は寒河江)が風呂の脱衣所で女性になった自分の身体を眺めている場面。

歌音が自分の肉体をじっくり眺めるのは、はじめてだった。なだらかな肩から、次第に両方の乳房が丸く盛り上がって弾力のある均整な山となり、その頂点で乳首が、つんと上を向いている。乳輪はまだピンク色をして、艶やかだ。出産して腰は少し丸みを帯びてはいるが、くびれはまだ、しっかり締まっている。歌音は次第に視線を下におろし、きれいな三角に広がる秘所を見つめた。そのときだった。
「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」
 北斗の意識は、確かにその声を聴いた。狼狽したまなざしで思わず周りを見回したが、脱衣所にいるのは歌音だけだった。(p.143)

「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」なんて三十二歳の女性のことばというより、しなをつくったオカマの言いぐさにしか読めませんが(笑)、とにかく歌音がたびたび出てくるのにはご都合主義以外のことばはありません。ちなみに題辞には海馬は「短期」記憶を司る部位というんですから、寒河江の海馬は、脳の別の部位に保存された歌音の身体を見慣れたものとして判断はしなかったのでしょうか。そのあたりの、短期記憶、長期記憶、言語野やしぐさの記憶が、移植後どう連結されて、どこで葛藤を起こしているのかも、本作では曖昧になっていると思いました。この曖昧さをうまくカバーするというか誤魔化すのが「渚」の比喩だったと僕は思うのですが、現実の世界で歌音(中身は寒河江)が動き始めるとどうしても細かい部分で齟齬がでてしまっています。

結局、本作には、序盤に期待が持てたものの、中盤終盤がテレビドラマか古い漫画の表現に寄りかかってしまったような印象をうけました。中終盤のテイストもそれはそれとして独立しているなら通俗的面白さはあるのですが、僕のように細かいことが気になってしまうような読み手にはちょっとアラが目立ち過ぎました。細部が気にならないとか、齟齬があっても飲み込んで小説の流れに身を寄せることのできる読者はきっと本作を楽しめることでしょう。

津村記久子「地獄」

出典:『文學界』2014年2月号
評価:★★☆☆☆

地獄もの、異界ものは文学にかぎらず古く、古くから様々に表象されてきたモチーフで、作家たちの創作意欲を刺激するところがあるのかもしれません。本作はこれら膨大な地獄表象の集積をまえに何か新しいものを付け加えているか。僕には特に見つけられませんでした。全体的に食いたりなかったです。

私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は三十四歳の時が一番業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。(p.11)

人が生きている間、業の深さが各年齢に区切られて測定されているんですかね。幼くして死んだ人とか業の深さはどれくらいなのか。どういう基準で業の深い浅いを測定するのか、そういう細かいところが僕なんかは気になってしまいます。たとえば妻に暴力振るって離婚した人の、そのあと元妻が幸せな再婚をして幸福な一生を終えたとすると、その男の業は深いのか浅いのか。蜘蛛を踏んで殺してしまった男は、その後もしその蜘蛛が生きていたら捕食したかもしれない蝶の命を救ったことにもなるわけで、その場合その男の業は深いのか浅いのか。僕なんかはこんな風にうだうだ考えてしまって、因果論や認識論に踏み込んでいく角度から現世の世界観を相対化できて面白そうな気もするんだけど、語り手にそのあたりへの関心はありません(笑)。

もう一点。語り手は温泉旅行からバスで帰る途中事故にあって地獄に来ます。その死ぬ間際の身の回りの情景、脇に置いておいたおせんべいの缶は「五十四枚入り」だったとかそれは「とても重かった」とかディティールが記憶として鮮明にのこっているのなら、「いくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない」こともないんじゃないですかね。杜撰さを感じました。

地獄を語る語彙に、現代的なビジネスシーンで使われるような言葉をもってきているところにギャップがあってそれなりに笑えはしましたが、この方法自体は使い古されてきたやりかたです。時事ネタを取り入れる大ネタの「地獄八景亡者戯」には「冥土教育委員会」とか三途の川の渡し船を「チャリティーシップ」とか火傷塚婆を「ぼったくりバーのクラブ火傷塚のママ」といったり。桂米朝がこの演目を復活させてから多数の演者が多様な時事ネタを取り入れています。

地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手いっぱい(p.11)

たとえるなら、日々の試練プログラムが定時までの仕事とすると、西園寺さん(地獄の鬼のこと──引用者注)の話を聞くのはサービス残業である(p.19)

毎日、おしゃべりに関するスタッツを出されるのだが、会話ポゼッション率が鬼である西園寺さんの方が高いというのはいかがなものかと注意を受けた(p.20)

という風で、使われている言葉ほどに、この語り方には目新しさはないんだなあ。

地獄でうける「試練プログラム」も、此岸世界にいる僕らでも受けられるようなぬるい責め苦で、その脱力アイディア(たとえば、母親が13歳の時に書いた長編小説を読まされる)自体には軽い笑いはあったものの、この発想も飲み会の雑談程度のアイディアといってしまいたいくらい安易というかくだらない。このくだらなさに笑いながら付き合える読者はきっとこの作品を楽しめるはずです。僕にはもっと他に読むべきものがあります。
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読む人

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