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安藤モモ子「カウンターイルミネーション」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★☆☆☆☆

三島由紀夫が深沢七郎の文章に衝撃をうけたように僕はいまこの作品の登場に驚きを隠せません、というと僕を畏れ多くも三島にたとえてしまっているのでそう言い切るのははばかられますが、それに近い感慨というのはあって、この、文学史や小説の歴史を全無視したような作品はしかし、この方向での過剰さを100倍ぐらいに鍛えると、かえってすごい作品になるのかもしれない、そんな夢想を僕は持ちました。

小説を自覚的に書こうとするような人は、ある種の「ありきたり」にたいして、生理的な嫌悪を示すはずで、その嫌悪感が創作のエネルギーとなって、これまで書かれてきた作品群から僅かでも自作の身を引き離そうとするその引き離しによって生まれた旧作との距離が、「新しさ」として小説の領土を耕してきました。僕にとっての暗黙の前提として、そういう固定観念が根深くあります。だからこの、「自分の作品でどんな未開地を開拓しえたのか」という意識、批評といってもいいかもしれませんが、その自覚抜きに現状に安住し現況におもねるような小説にはおしなべて疑似小説とか小説もどきのことばを投げつけて呪い殺してやろうとしているわけですが、そこで本作のような作品を前にすると、戸惑ってしまう。どこに戸惑うのか。

生き物達が集まるのは、彼らが水を慕ってその土地に棲み付き、それは土地のエネルギーが高いことを示していた。(p.92)

という文にみられる主語と述語のよじれではありません。こんなもの編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。

男性器と女性器を併せ持つ両性具有の生き物(p.95)

という重言でもありませんこれも編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。。作中随所にあらわれるこういう些末なミスではなくて、本作全体に描かれる紋切型のオンパレードそれじたいに戸惑うのです。冒頭から

水面に墨を垂らしたように渦巻く雲が割れ、そこから射す陽の光が巨大なカーテンを作り出している。その合間を何艘もの船がゆっくりと進んでいた。(p.92)

なにか時代錯誤の壮大な物語の幕開けです。しかしこれは短編。短編でやってはならないというつもりは全くないですが、壮大な出だしに「この先この話はまとまるのか?」という不安が高まります。読んでいくと、未開の地に向かう探検者の語りであることがわかります。

私の生まれた家畜の国とは違って異次元の世界のように、この地では太古の生命体と新しき生命体が奇妙に入り交り生息している。あたり一面気ままに飛びかい、地に這いつくばる昆虫たちのほとんどが、採集された事のなきものであり、ここは私が初の目撃者となるであろう不可解な生物達で満ちあふれていた。(p.92)

ことばの大仰さ。生物の「奇妙さ」や「不可解さ」は読者には一向伝わりません。昆虫「たち」と生物「達」でかき分けているのも意味が分かりません。それを脇に置いても、ひっかかりまくるこの大仰なことばづかい。「新しき」生命体。「採集された事のなき」もの。コント「暇を持て余した神々の遊び」を髣髴とさせます。

そして太古の生活そのままの未開の村へとたどり着きます。

 私を受け入れた村人達の生活は、神秘と驚異に溢れていた。私たちの文明とは全く無関係に進化し続けてきた彼らの生き様は、超越している。自然の摂理と調和して生きる人々と過ごしていると、魔法でも使えるような錯覚に陥った。彼らは人類の起源であるとされるアダムとイヴや、神が人の形をしているという説を、陳腐で傲慢な主観的概念に過ぎないものだと私に教えた。神は理論の上に存在し得ない。その事実を母国の家畜人間達が知った時、彼らの世界は崩壊し、秩序を失い、聖職者たちは死すらいとわないだろう。真実を目の前にしたとき、人は理性を失い発狂する。ここは、家畜国家の発狂材料で出来ていた。人間の価値は一体何処にあるのだろう。(p.95)

人間「達」と聖職者「たち」の分かち書きにはもう何もいいません。知った「時」と、した「とき」の違いも同様です。

アメリカ文学史のなかでその最初の最初に出てくる旅行記ものを髣髴とさせます。スペインからやってきた探検家、イギリスからやってきた植民者、聖職者が、未開の地「アメリカ」で原住民たちの姿を観察し、または伝え聞き、それに報告者の脚色をまぶして語り下ろされたファンタジー旅行記。本作は、たぶん書き手は意識してはいないでしょうけれどそのパロディー以上ものにはなりえていません。それにしても上の引用部の語り手は「家畜の国」からやってきたにもかかわらず発狂しないのでしょうか?

この後も、未開の土地の習俗(人身供犠)や姦通など、小説にかぎらず神話の時代から語られてきたおなじみの主題がただ垂れ流されます。未開の土地を探索する本作の内容とは全く逆に、その形式からは書き手の、手あかにまみれた主題への無自覚な寄りかかりしか感じられません。

本作の味わいは、小説にかぎらず広い意味での物語の前史を全く無視して、ものものしい語りでしれっと語っていく書き手の厚顔無恥さ図太さにあります。僕をいらだたせてやまないこの図太さはしかし、この短編の分量では中途半端。もっと、この方向を突き詰めて、紋切型を過剰なまでに上塗りすることで、結果として奇跡的な批評を獲得してしまう方向は「あり」です。無知から生まれるラッキーパンチ的批評は生まれる確率が限りなく0に近いとしても、もし生まれてしまえばそれは、中途半端で小賢しい「手堅い」批評を一掃してしまう可能性はきっとある。深沢七郎の文章に意識の人三島が感じたのはこういうことではなかったかと思いを馳せました。

(追記)安藤モモ子って、奥田瑛二と安藤和津の子供で、安藤サクラのお姉さんなんですね。今調べて知りました。
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稲葉真弓「ふくろうたち」

出典:『群像』2013年12月号
評価:★☆☆☆☆

『群像』12月号の特集は目次によれば

アンソロジー ホームズ、ポアロ、マーロウ、半七……エトセトラ。名探偵への超・偏愛(オマージュ)小説集(目次ページより、カッコ内は原文ルビ)

ということで、探偵小説のオマージュ短編特集。表紙も鍵穴から部屋の中をのぞいた風になっています。

9月号からは『群像』は図書館で読むようになったのでとくに雑誌の方向性については何もいいません(笑)。自分の身銭を切ればこそ屑みたいな作品やしょうもない特集が掲載されれば腹も立とうもの、「どうか昔の群像カムバック!」と絶叫していたものですが、今や税金で購入されたおこぼれにあずかって読ませていただくようになっていますから『群像』についてはどうでもよくなりました。編集している人、書いている人が楽しければいいんじゃないかな。

で、いつも読んでいる人のは後廻しにして今日は初めて読んだ人の作品、稲葉真弓の「ふくろうたち」です。探偵小説や推理小説はもう小学校のときに一通り読んで以来、腰を入れて読んでいないのでこの作品がどんな先行作品への「超・偏愛(オマージュ)」なのかわかりません。なので他の小説との影響関係うんぬんは僕には読み取れないまま一つのたんなる短編として読み進めました。

ふつう探偵小説というと、なにか事件がおこって、探偵がその事件の真相を暴くものでしょう。合理的な推論に重点をおくならば推理小説とよばれるでしょうし、探偵の活劇が見せ場ならハードボイルドになろうし。図式化すれば、「謎の提示」→「解決にいたるプロセス」→「解決」が作品の骨になるはずで、僕もその図式を念頭に本作を読んでいったんですが、本作はこういう図式のつくりにはなっておらず戸惑いばかりがのこりました。

謎はあります。サーフショップを経営する男のもとに、「誰かが家の中を覗いているようだから犯人を突き止めてほしい」と三十代後半の女性から依頼がある。その謎の探求もあります。そこで相談をうけたその男の友人である渡という男が夜な夜な依頼主のやもめ女性の家をとりまく森に潜んで監視するというもの。ここでは、「覗きをしている者がいるのかいないのか、いるとすればどんな人間あるいは動物、超自然的な存在なのか」という問いが謎として提出されている。この謎になんらかの解決が与えられるのかと思って読んでいったんですが全く収穫がありませんでした。というより謎の答えに迫るどころか遠ざかるようにして、サーフショップ経営の男と渡とのなれそめが語られたり、サーフショップの経営状況が説明されたり、渡の家庭の状況や依頼主の女と懇意になる妄想が展開されたりします(笑)。余計な情報満載です。それでもその余計な文章自体が詩的であったりうまい描写で書かれてあれば興味を惹かれたかもしれませんが、その文章もあまりうまくありません。余計な情報の後に余計な情報が積み重なって読み進む歩をすすめるたびに足をとられるばかりでした。

例えば次の文章は、渡視点でサーフショップ経営の男である寛志について描写した箇所。

年中ハワイアン音楽の流れる店内には原色があふれ、ここだけは冬でも夏のにおいや気配が流れている。それは寛志自身の肉体からもかもしだされていた。肌は太陽の光を吸って褐色に光り、引き締った身体全体が動物的な強靭さとなめらかさを誇っている。まるで夏そのものが目の前に立っているようだった。いまにも沈没しそうな海べりの町。そこに寛志が新しい事業をたちあげようとしている噂も聞いた。(p.23)

寛志の外貌は謎の解決には全く関係ありません。夏っぽさも関係なければ新しい事業も関係ない。引き締った肉体が動物的な筋力を発揮することもない。探偵小説ってこういう関係ない要素をなるべくそぎ落としてシンプルにストーリー展開し、そのスピード感で読者の興味をひきつけるジャンルだと思うんですがべつにそんなことに頓着してないこの書き手の悠長さ、呑気さが純文学ならではのおっとりしたところを証していて笑えます。男(渡)が同年代の男(寛志)の体をこれだけ丁寧に、あたかも視線で舐めるように描写するのは、視線の主=渡がゲイなんじゃないかとも深読みしてもみましたが、もちろん渡の性癖がどうだろうと謎の解決には一切関係ありません。それにしても「夏そのものが目の前にた立っているようだ」って(笑)。そんな風に友人を見る目って普通の人にはない感覚です。

あるいは時間の展開のさせ方も徹底して吞気です。

それが四日前の会話(寛志から監視の依頼をうけた会話──引用者注)だった。翌日の夜、教わった場所に行ってみた。(p.24)

暇な渡なんだから、依頼をうけたらその日に行動するのが当たり前に思えるし話の展開もそのほうがスピーディーです。翌日出かけるなんて悠長すぎる。翌日の夜になるまでに謎の解決にとってヒントになるような出来事が起こるわけでもありません。一日がかりで何か特別な準備をするわけでもなし。いたってスピード感がない探偵小説。

監視を続ける渡は日々収穫なく、そして小説はあいかわらず謎の解決には全く関係ない描写と説明で貴重な誌面を浪費したあげく作品のほぼ終盤に近づいてやっと、ここにきてやっと、森に潜む渡の近くで何者かの気配がします。小枝を踏むピキッという音だけでなく、タバコのにおいまでただよってきて、何かがきっといると読者が息をのんだところで

彼は目を閉じる。(p.32)

渡よ、それはないだろう。結局、音とにおいの主の正体に目を閉じた渡のせいで、謎は解決されずじまい。読者は置き去りのうちに作品は終わります(笑)。読者の僕も、アチャーと目を閉じ、そして本をそっと閉じました。編集者がこれでOKを出したのだし、執筆者もこれが商業誌媒体で発表するに足るとの判断で脱稿したはずだから、これはこれでこういう感覚も世の中にあるんでしょう。作り手たちが楽しければいいんだと思います。僕にはどこが読みどころかわからない、想像を絶するセンスでこの世に生まれた、脱線続きで失速してゆく、できの悪い習作探偵小説にしか思えませんが。この作品から探偵小説への偏愛を読み取れる読者はどれくらいいるのでしょうか。

(追記)先行作品がなにかわかると実はものすごく楽しめるという仕掛けになってるんですかね。もしそうなら僕がこの作品の読者としてふさわしくないだけであって、探偵小説好きの読み手にとっては元の作品の痕跡を絵解きみたいにしてそこここに発見し、その偏愛が味えるすばらしい作品になっているのかもしれませんね。フォローをいま書きながらも「ほんとかよ」と内心の突っ込みが途切れませんが(笑)

守島邦明「息子の逸楽」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★☆☆☆☆

『文學界』同号の「鳥の眼・虫の眼」では悪文の効用について云々しています。そして第117回文學界新人賞受賞作のこの作品。悪文に次ぐ悪文で僕にはついていけませんでした。選考委員のひとり松浦理英子はこう選評を書いています。

母子癒着と介護というシリアスな題材に挑んでいる。若い人がうっかり書いてしまいがちな粉飾された言い回しも目について、初めのうちは「文学にかぶれた人が文学のイメージをなぞって書いたまがいものかも知れない」と疑ったが、読み進むにつれ、文学には溺れてもシリアスな題材には決して溺れまいという、小説を書く者としてまっとうな意思が感じられて来て、見方を改めた。

選評前半部には完全に同意なんですが、後半部の「読み進むにつれて」以下は僕はまったくそう思えません。題材というか話を構成する柱として、狂った母親と介助する息子のペアが出てきますが、それとどうかかわってくるのかわからない執拗な食べ物の描写があったり、突然ことばづかいが崩れたり。結果全体がとっ散らかりっぱなしで、一篇の小説を作るというよりも、ことばを小説風にいろいろ書いてみることに書き手一人が耽溺している風にしか受け取れませんでした。ぶつぶつ文句をいうばかりでも仕方ないので目につくところを引用します。

バスの中でも手を離さず、また言葉を掛け合うこともないこの異様な親子は、歩きだしてしまうと言い難い迫力で何者の目線も打ち消すが、当の息子は他でもない自分の内側の視線に焼かれる思いだった。スマートフォンの電源が勝手に起動し、その三百人の目線がシャツの内ポケットから皮膚を走り、やがて母の手を砂糖に群れる黒蟻のように覆ってしまう気がした。(p.73)

SNS上で息子がフォローしている人たち三百人のつぶやきが目線となって母の手を砂糖に群れる黒蟻のように覆ってしまう、というのが何を言いたいのかさっぱりわかりません。ネット上の書きこみをあえて「目線」と視覚的に形容しておきながら別の場所では

SNSで、果たして誰の声を聞いているのか確信が持てない。お気に入りのユーザーも居ないうちに、誰かが引き継いできた見知らぬ誰かの声を伝に、次々とその誰かの発言を耳に入れるようにしていった。フォローを返してくれるのはごく希で、自分の声を聞こうとしているのは百人にも及ばない。(p.75)

と「目線」なんていっちゃったことはすっかりなかったことになっている。あるいは食事介護をする場面。

呆けている母に、無理やり朝食を与えねばならないのは苦痛だった。歯の力が弱いくせに、堅く焼いたクロックムッシュ以外は嫌がり、絶対に口にしない。(pp.80-1)

とあるのにそれより前のページでは

洋が料理番だった。粗末なスープや簡単なサラダを作り、銀の匙で口元にまで持っていってやった。(p.74)

とクロックムッシュ以外もちゃっかり口にしています。ところで口元「にまで」とはどういうことでしょう? こういってしまうと、口元にもっていかなくてもいいものをあえて口元に持っていったという強調の意味にとれてしまいます。普通に「口元まで」じゃだめでしょうか。

こういう矛盾した表現や常識的に考えてそれはないだろうという設定が随所に出てきます。もしこれが一人称語りならば、認知の狂った人物あるいは狂人の語りとしてうけとる余地もなくはありませんが、本作は三人称小説です。書き手である守島邦明の言語感覚が腐っているとしかおもえない。地の文を語る語り手が狂ってしまってはどうしようもありません。こうして、書き手への信用が読み進むごとに下がって行くと読む文読む文にいちいち躓きを覚えてしまいます。もう間違い探し状態。

むこうは一瞥さえせず、ぞっとした冷たささえを感じさせられた。(p.73)

サ行の音が重なりすぎて突っかかってしまいまず音がダメです。とても読めない。「を」もいらない。あえて受け身にする必要もない。

母は実の息子以外から触れられることも拒んだ。

この前後を読んでも、触れられること以外に何を拒んだのか記述はありません。よって「も」は不適切。

チャーグ博士とシュトラウス博士という笑ってしまいそうなほど語呂の良い名前(p.76)

特に語呂がいいわけではない普通の名前です。笑ってしまいそうなほどといわれても書き手一人が面白がっているだけであって、全く、全然、ちっとも笑えません。細かいおかしな表現は他にいくらでも見つけられます。

こういう自意識過剰というか、書くこと自体が楽しい時期というのは若い書き手にはよくあるはずで、そういう時期に書かれたものははあくまで抽斗の中にそっとしまっておくべき若書きの文章です。自分で書いていろいろ試してみて、「これはわたし独自の表現だ」と得意になっていたところで百年前の小説をよんですでに同じような表現形式がなされていたことを知る、そして自分の無知を知る。そういうもんです。たんなる世間知らずのチラ裏です、チラ裏。よってこの作品で連発されるおかしな日本語は、他人の目に触れさせてはならない、時間を隔てて振り返ってみれば黒歴史ともなるような文章です。書き手としてこういう時期を通っておくことは必要かもしれませんけれどもとうてい他人に読ませられる文章じゃない。

こんな作品を読んで「○をつけた」なんていう選考委員の言語感覚を僕は信用できなくなりました。吉田修一によれば「逸材」とまで言われるこの書き手を、僕は今後読みたいとは思いませんが、これだけ貶した行きがかり上、授賞後第一作まではちゃんと目を通そうと思います。逸材とは他の人より抜きんでている才能を持っている人のことを言います。書き手一人が自分の才能に満足してしまうだけではなくて、僕のような馬鹿な一般読者にも分らせ、満足させてやれるくらいのしたたかさで書かれた次回作をぜひお願いします。しっかしこりゃ二度と読みたくないなあー(笑)

山崎春美「皆殺しの天使たち」

出典:『文藝』2013年秋号
評価:★☆☆☆☆

評価を星一つにしたんですが、僕は正直この作品が読めませんでした。だからこれを読める人が読んだら評価が逆転して星五つにもなるかもしれません。雑誌目次のあおり文句は「「あいつただの家庭教師じゃなかったのか……」生ける伝説による初小説」だそうです。作品を最後まで読んだんですがいったい何が起こっているのか全然わからない(笑)。

 ゼアラ・ノー・サッチ・アニマルズ・イン現代、今世紀には絶滅危惧種見たことないような。そしてビッチ。
 ご都合主義だし、だいいちこの品性下劣で俗悪、恥知らずにして粗野で、無知蒙昧な破廉恥漢たるや、渾身一滴の力作たった一振りで、ロミオを袈裟懸けに、返す刀で欲得ずくに魂抜けたジュリエッタを峰打ちに、たぶらかしては、我々のようなずぶの素人を舞台裏の闇市に連れ込むのが、常套手段なんだ。隅でこっそり、いつのまにかお勘定を済ませる彼らの、例の手口にまたもや、出し抜かれてしまう。余震でひしゃげて馬鹿になったひらきっぱなしの蛇口から、ざくざくと貴重な真水が、出しっぱなしに流れ続ける。テーブルの下で渡されるのは決まって「お釣り」と次回優待券だ。口止めのつもりさえない。(pp.220-1)

作品途中からの抜粋です。薬でもキメてキーボード上の手が走るまま、自動筆記よろしく意味を置き去りに疾走する文章が延々つづきます。作品冒頭では、天使の死体が積み重なっている様子が描写されますが、そこからだんだん作品の世界で何が起こっているのか全く分からなくなってしまう。誰が何をしているのかもよくわからない(笑)。

一応、語り手はいるようで天女の死体を前にして、

なぜか右目だけ、海賊風の眼帯をしていた。ストラップが斜めに顔面を横切り、後頭部で留められていた。まずは似合わないこともない。そうっと外してみる。見て、すぐにまた元に戻す。(p.225)

と、眼帯をいじっている。けれどこの人物がどこの誰でどんな外見、心理でというのは読んでいってもわかりません。

書き手の山崎春美がインディーズバンドにかかわった人物で、ネットでしらべると町田町蔵や坂本龍一といった人物ともセッションしたこともあるようなので、そういう界隈の人だということはわかりました。であるならこういう作品も、「生ける伝説」なんていわれる(どこで伝説になっているのか僕は知りませんが)この人をよく知る読者に限ってはありなのかもしれません。

ただ、ここで書きつけられたことばがラディカルなものかどうかはまた別モノで、例えば

心臓が口から飛び出しそうだ(p.226)

というふぬけた慣用句を書きつけてしまうところなんかは、詩にもとめられることばの吟味という点では落第です。「天使が……」とか「死が……」といってなんだかよくわからない雰囲気だけのことばを連続させて繋がっていくイメージも、どちらかといえば大衆的なポップミュージックのPVじみているように僕には思えました。天使にしろ死にしろ、俗悪なビジュアル系バンドの歌詞に頻出するモチーフです。

中学生にはアピールするだろうけれどある程度音楽を聴いた経験のある人にはその種の音楽がまったく響かないのと同様、この作品のことばたちやそこから立ち上がるイメージも、僕には新鮮な印象はまったくありませんでした。この作品を評するときに、「感性」とか「前衛」とかいうことばを使いたくなる人がいるかもしれないけれど、ここに書かれてあることばづかいやイメージは、上でいったように平凡です。きっちりとしたストーリーラインをもった作品を書けたり、レトリックとイメージの関係に細心の注意を払えたり、しっかりした文体を持っているような人が、あえてこういう作品に挑戦するというのなら分かります。一方、この作品はたんに、小説を書けない人が、「感性(笑)」を言い訳にして小説もどきを書いただけにしか受け取れません。手持ちの「感性(笑)」だけで突っ走ってしまうのは、勉強不足とか読書不足の別名です。小説らしくない小説を書いたつもりが、出来上がったものが実に凡庸な代物だった、というのはよくある話でしょう。

中納直子「おにんぎょさん」

出典:『群像』2013年9月号
評価:★☆☆☆☆

評価は星1か1.5です。女性作家が女性の性を書く作品は、円地文子や瀬戸内晴美から山田詠美、川上弘美を経て、山崎ナオコーラや村田沙耶香へ、と日本の女性作家だけでもいつまでも名前を挙げていられそうなほど、多く多く書き継がれてきました。円地文子の書きはじめたころこそ、「女性が女性の性を赤裸々に!」なんていうことばも褒めことばとして通用したかもしれませんが、今や女性が性欲を持っている(持て余している)なんて常識で、それを描いただけでなにか作品になるとは思いません。なにか+αが欲しい。それは作家が追求したいと強く願うテーマであったり、文学史上の重要なトピックにかかわるものであったり、はたまた誰も書いたことのないスタイルであったり。この「おにんぎょさん」から、僕はその+αの部分を読み取ることができませんでした。

三十代半ばのカフェ経営者の女性、綾乃が、バイトの学生男子と肉体関係をもつというストーリー。へたくそなセックスに欲求不満がたまり、女性用ダッチワイフ(作中のことばではダッチハズバンド)を購入しクローゼットの中にしまっておくも、バイトの男の子とセックス中に開いたクローゼットの扉から都合よくこの「おにんぎょさん」が飛び出してしまい、都合よくバイブレーターが作動し、びっくりした男の子は裸のまま部屋を飛び出て警察に駆け込むのでした。

この「おにんぎょさん」には、馬のかぶり物がかぶせられています。友人の男性が引っ越しする別れ際にプレゼントとして置いていってくれたかぶり物で、「おにんぎょさん」を起動させるときには、その男性(馬面です)のことを思いながら欲求不満を解消していたのでしょう。このへん、人形愛とか物心崇拝とか、本気で書けばいろいろ妄想広がるおもしろげな片鱗もあるのですが完全に筆力不足で、なんの深みもありません。

また、バイトの男の子からの訴えを受けて駆け付けた二人組の警官のふるまいの描き方も杜撰。

「う、馬の被り物を被せられてるっ」
「なんやて? 息はあるんか?」
 若い警官が彼に近寄り、恐る恐る肩を持ち上げた。
「うわあっ」
「どうした」
「上島さん、ひどい、体が改造されている」
「なんやて? どこをや」
「一番大事なところです。バイブに付け替えられている」
「上島さああん」
「落ち着け! 脈確認しろ!」
「う、うう、な、ないっぽい」
「なんちゅうこっちゃ。なんちゅうエグいことを。大事なもんはまだ家の中にあるんか? その被り物取れ、落合」(p.168)

読者はもちろん、この二人の警官が男性の死体と取り違えている物体が「おにんぎょさん」であることを知っているので何の驚きもありません。白ける読者を前に、警官ふたりがわざとらしいことばづかいで、テレビドラマでもやらないような態度でこれ見よがしに驚き、取り乱してみせる。しょうもないものも分かってやっているのなら、その作為がわかるように書くのがクレバーな書き手だと思いますが、この作品にはそんなところもなくただただステレオタイプな人間が、ステレオタイプなことばをつかって、既視感ばかりしかのこらないやりとりをする。もう最後の方は流し読みでした。

作品冒頭に二人の警官が驚くやりとりを配置して、それからそこに至るまでの過程を時間をさかのぼって描く、というようにプロットを工夫するだけでも少しは読めるものになったかもしれません。短編だし。もっとも描写力がこれではやっぱり駄目な気もしますが。

作品終盤のいりぐちで、警官が綾乃の部屋に押し入りいきなり組み伏せますが、そんなこと日本の警官がやるでしょうか。裏付け捜査もしてないし、現行犯でもなく、もちろん令状なんて持ちあわせない、ただ裸で交番に飛び込んできた若い男の証言だけを頼りに、無辜の市民に対して住居侵入、暴行を犯す。フィクションであっても、そのフィクションの世界のなかでのアクチュアリティは必要でしょう。これでは、ありえなさだけが際立ちます。

この作品を、中納直子はどういう思いをもって書かれたのでしょう。女性の性を描いた他の作品と比べて、この作品のどこを優れているとか、面白いと思ってこの作品を書かれたのでしょう。暇つぶしの軽い読み物としても、僕には落第作品にしか思えません。お金をとって他人に読ませうるプロの作品でしょうか?本当に、心から、こんな作品が書きたかったのでしょうか?
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