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柴崎友香「わたしがいなかった街で」

出典:『新潮』2012年4月号
評価:★★★☆☆

大阪と東京を舞台にした2010年の物語。分量は350枚とそこそこ。離婚して一年たつ平尾という女性を中心に、彼女の友人とその家族と交流しする日常、考えたことを淡々と描いています。時折はさまれる大東亜戦争時の日記、世界の紛争地域や戦争地域のドキュメンタリー映像、広島の記憶、大阪空襲の爪痕、を通して20世紀の破壊を何度も想起させながら、それでも今日何事もなかったかのように粛々と淡々と生活する人々の日常を対比させて描く、さりげなさを演出する手腕が光りました。

「戦争」というと常識的に考えれば大きな素材。それだけに直接にしろ間接にしろ戦争を扱うとなると、戦争を体験した人々に乱暴に感情移入してみせたり、あるいは「平和な今日をあらためてありがたく思う」というような紋切型に落しこんだり、イズムに安易に絡めとられたり、いずれにしろこういう態度は、これみよがしで嘘くささやわざとらしさがつきまとう気がします(安易に「反戦」小説などと括られてしまう小説の何と多いことか)。

本作にはそういう作り物臭ぷんぷんの大仰な身振りが感じられず、周囲からは若干浮いた存在である平尾さんの態度には、現代に生きる一個人に過ぎない僕にも一定の説得力で迫ってくるように思えました。

戦争ドキュメンタリーばかりを執拗に見る平尾さん(自分の部屋にいるときこれしかしてないんちゃうかってぐらい)の姿には、一種「喪の儀礼」めいたものを感じました。自分個人の力では当然戦争を未然に防ぐことも止めることもできなかったし現在もできないけれども、それでもそれを忘れないように(といってもロマンティックな意味づけなどせず淡々と)日々繰り返し映像や日記を通して触れ続ける。ありえたかもしれない世界や、生きていたかもしれない人々といまここに奇跡的に生活する自分との「折合い」を何とかつけようとする身振りです。

また、日常会話の運び方がうまいですね。生き生きしている、地に足がついている、生きた人間の会話だなあと、いちいち舌を巻きました。さりげない描写ももちろんうまいんですが、大阪弁を使った平尾さんと中井くんとのやりとりなんかは読むたびに心地よさを感じました。

取り立てて見せ場を作るとか、わざとらしく主張をはめこむということをしていないので、「この作品のどこがすごいんだ!」ときかれると即答しかねますが、しかし、どこをとってもなかなかの完成度だと思います。
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吉村萬壱「虚ろまんてぃっく」

出典:『文學界』2010年3月号
評価:★★★★☆

人間を徹底的に突き放す見方ができ、かつそれを硬質/高質な文章にのせて表現できる作家、吉村萬壱の短編。グロテスクな描写や残虐な表現が多く万人うけするテイストではなさげですが、そういった描写・表現を読むたびに私は溜め息をついてしまいます。ぬるい日常生活を過していると無意識のうちに目をそむけてしまいそうな行動・情景も、吉村萬壱の目を通してこそ初めて、ぬるま湯につかった僕は垣間見られる、そんな風に思います。

 箱型バンのサイドドアがスライドして、上半身に毛布を纏った女が首を突き出す。女の髪が砂混じりの風に舞い上がる。女は毛布に包んだ裸の体を小刻みに痙攣させながら、数回にわたって車の外に嘔吐する。その嘔吐物は役に立たない言葉の成れの果て、即ち物質化した言葉の最終形態である。
 伊呂波埠頭は言葉を忌避する。
 女は言葉の病に冒されている。
 細い肩と蒼白い背。地面に黄土色の液体が丸く溜まって、盛んに湯気を上げる。嘔吐の合間に、女の激しい咳込みが挟まる。毛布から露出した女の裸の尻を、下半身を露わにした男の両手が摑んでいる。女は男の手を後ろ手に握って爪を立て、身を捩って咳き込み続ける。女の粘りのある唾液が、長い尾を引いて風に飛ばされていく。(p.149)

終盤までずっとこのテイスト。こういうテイストを持続できる表現力は日々文章の筋トレしてないと無理だろうなあ(筋トレしてないと、ついついヌルい表現に流れてしまう)。

この作品は短編ですが、明確な言葉による発言を省略し伊呂波埠頭の細胞視点で、登場人物たちを突き放し(もし人間的なぬるい感情や行動を抱けばたちまち伊呂波埠頭によって罰せられます)、不気味な情景や行動がたんたんと描写されます。人間がモノ化され、モノが人間化(ただし極端に冷淡)され、人間とモノとが等価になっています。特殊な視点のネタばらしの部分では思わず笑ってしまいました。

不気味、殺伐、不穏な雰囲気が終盤まで徹底している本作ですが、たとえば三木聡監督なんかがこの作品撮ってみてもけっこううまくはまる気がします。当然、不気味テイストを直接的に描くんじゃなくって、グロ、ナンセンス、キッチュなテイストで、コメディチックに、という。ホームレスが火を囲んでうどんを食べるところなんかは、ありありとイメージできました(笑)


中納直子「とつきとおか」

出典:『群像』2012年4月号
評価:★★☆☆☆

本作の工夫としてまず挙げられるのは、妊婦の腹の中にいる胎児視点を採用したこと。そこに母体となっているサチの視点が重ねられ、また別パートでは相手男性の河瀬の視点からも並行して物語が語られます。試みとしてはちょっと面白いものの、結果として胎児視点が説得的に描かれていないように思います。以下理由。

作品冒頭で「心の理論」について説明があります。簡単にいうと、「自分以外の心を想像して理解する能力」のこと。これができるようになるのは4歳から5歳以降のことだそうです。そこで作中の胎児視点に戻ると、胎児だから当然母親視点は想像できないはずなのにときに母体の視点を想像してるんですよね。ここにまずすごく納得いかない。

ぼくからはどんなものを作っているのかは見えないけれども、肉を炒めたりおにぎりを握ったりしているようだ。(p.133)

上のところなんて母親目線を想像しないと胎児には何が起こってるかわからないはずですよね。「肉を炒める」とか「おにぎりを握る」なんていう言葉を習得して駆使できるところも違和感ありますが、それを言ってしまうと小説としてのこの作品自体が成り立たないので、「これはこの作品の中ではこういうものなんだ」で強引に納得して読み進めましたが。けれど、サチが妊娠を河瀬に告げ、にもかかわらず河瀬がサチの体を求めてくる場面で胎児は次のように語ります。

ぼくはこの状況と、サチとこの男の会話に対する嫌悪で肌が粟立った。人間とはなんて業にまみれた生き物か。生まれないという考えは正解だったよ。ぼくも世に出たならこいつらの仲間入りをすることになってしまうのだ。(p.153)

この視点からは、かなり社会化された反応(二人の会話への嫌悪)や、人間を相対化して超越的な視点からみるような感想(人間とはなんて業にまみれた生き物か)、未来に対する仮定(世に出たなら…)すら読みとることができます。これだと、ほとんど生きている人間、それもある程度年齢のいった人の視点で事態を見ることができています。これも「そういう設定です!」と言われれば頷くしかない。

なのに、その一方で、ある言葉の使用を不自然に避けている。河瀬がこのあとサチと結局セックスをしてしまうわけですが、そこでは肝心の「セックス」とか「性交」とか、このこましゃくれた胎児のこれまでの語りからいえば当然使われていいだろう言葉は全く使われません。膣に挿入されるペニスに対しては「ひどく醜い肉塊(p.153)」なんていうレトリカルな言い方でぼやかすことすらしているにもかかわらず、です。

結局、この胎児の視点が無意識のうちに「セックス」や「性交」という言葉を避けてしまったのは、胎児の視点が作品世界のなかでしっかりと造形された視点ではなく、書き手か、あるいは一般人の視点となんら変わらない視点を胎児の視点に重ねているに過ぎないからだと思います。社会生活を送る中で性に関する事柄には、意図的に触れないか、触れるとしても遠回しな言い方(「ひどく醜い肉塊」という迂言法)をするでしょう。本作のもっとも重要であろう工夫の胎児視点ですが、以上のような理由から、そのリアリティ、独自性を出すことに完全に失敗しています。この視点は、胎児視点といいながら、その実、胎児のふりをするだけの、社会的に穏健な常識を身につけた極めて平凡な大人の視点となんら変わりありません。

細かい点では笑えるところもあったんですけど(黒部密のつくるひじき丼)、書き手の一番工夫したであろうところにすごく引っ掛かりを覚えてしまい、読み終えてもこの感想は変りませんでした。

阿部和重「クエーサーと13番目の柱」

出典:群像2012年2-4月号
評価:★★★☆☆

言わずとしれた阿部和重。初期短編の韜晦ムードは(僕は好きだったのだけれど)すっかりなりをひそめ、いい意味でも悪い意味でもずいぶん読みやすい作家さんになったなと思います。

本作は、ある個人投資家からの依頼でアイドルグループの一人を24時間監視・追跡するチームの小説。特に、チームの主要人物タカツキリクオの視点から事件の推移が語られます。ややこしい話はヌキにして、アイドルを密かに監視する専門家集団の活動を描くというのは、日本版オーシャンズ13のような──ただしクエーサーのチームはメンバは玉石混交──感じをうけます。13、ていう数字が入っているところからそういう連想をしました。

ビジュアルも、初期短編群や『シンセミア』のようにページを開くとズラっと漢字率の高い文字で埋め尽くされているのとは対照的に、かなりの部分会話で処理してテンポよく話を進めていてスピーディーです。かつ地の文も、小説を書くときにはよく言われる日本語文末の貧しさ(「~た」「~だった」)を回避するかのように、多分すべて現在形で書かれており、臨場感・緊迫感がいやおうにも増しています。文末は逐一チェックしたわけじゃないので、過去形あったらすみません。

面白そうな素材を、スピード感・臨場感ある文体で語る、というのはとても期待がもてた反面、もろ手をあげて楽しめないところも。

まず、作品のキーになるはずの「引き寄せの法則」が結局中途半端なものに思われました。「法則にあてはまる事例だけを見て、法則に当てはまらない事例は恣意的に無視しているご都合主義だ」というタカツキの反論に、法則を信奉するニナイは納得いく回答を示していません。また、登場人物が多すぎてあまり掘り下げがなかった人物(最初から出さなかったらよかったのに/数人を一人に統合できなかったのか)もいてこの辺も食い足りませんでした。

スピード感を意識した文体ながら、一方で、理由のよくわからない冗長な会話もあります。

「ぼくはウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイスとおなじ日に生まれたってことです」
「ウィリアムなに?」
「ウィリアム・アーサー・フィリップ」
「ウィリアム・アーサー・フィリップ?」
「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス・マウントバッテン=ウィンザー」
「だれだそれは?」
「イギリスのウィリアム王子ですよ」
「ウィリアム王子ってあれか、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の長男」
「ええそうです」

こういう風にだらだら書く必然性が全くないんじゃないかなあ。

先にあげた僕にとっての食い足りない部分は、もうちょっとこの作品の分量が多ければ十分補えたんだろうなと思い、もうすこしこの作品を読んでいたいなあとないものねだりをしてしまいました。天邪鬼なことを考えてしまうので、たとえば「引き寄せの法則が今後一切実現しませんように!」と強く願ったら引き寄せの法則は実現するのかしないのか気になるところ。

ちなみに、2012年『群像』8月号では『クエーサーと13番目の柱』を読むという特別企画があります。評論は佐々木敦「DAYDREAM BELIEVER」、オマージュ短編は青木淳悟「MEDSYS(マルチエンディングシステム)の別解」。評論にある、「紋切型を十分紋切型と知りつつそこを突き詰めてみる」という方法論は非常に頷けるところ大で、たしか阿部和重短編に「女子高生がバイクの後ろに乗って銃撃戦なんかもあり、最後はバイクが事故って札びらが道路に散らばる」みたいな奴があったはず(笑)ですが、それなんかは非常に紋切型を突き詰めててニヤニヤして読んだ覚えがあります。

僕が十分読めてないところもあるはずなので、蓮實先生のクリアな解説(阿部和重×蓮見重彥、『クエーサーと…』出版記念対談)を待つかなあ。あるのかな、対談。

三木卓「K」

出典:『群像』2012年2月号
評価:★★☆☆☆

三木卓という人を詳しく知りません。そこで調べてみるとたくさんの受賞歴がありました。

 1973年「鶸」で芥川賞受賞
 1984年児童文学『ぽたぽた』で野間児童文芸賞
 1986年小説『馭者の秋』で平林たい子文学賞
 1989年小説『小噺集』で芸術選奨文部大臣賞
 1997年児童文学『イヌのヒロシ』で路傍の石文学賞
 1997年小説『路地』で谷崎潤一郎賞
 2000年小説『裸足と貝殻』で読売文学賞
 2006年『北原白秋』で毎日芸術賞・藤村記念歴程賞・蓮如賞

 1999年紫綬褒章受賞
 2007年日本芸術院賞・恩賜賞を受賞
 2011年旭日中綬章を叙勲

芥川賞とった人のなかに名前あったなあ、程度の記憶しかなかったので思いのほかもろもろの賞をとっていてびっくりしました。大家といっていい作家なんだろうけれど私にとっては、「見なかったことにしてスルーしてきた作家」さんだと思うので読んでみました。「K」。

癌で死んだ妻のKと、いついつ出会って、どういう経緯で仲良くなって、けんかして、別居して、相手の思いはこうで自分はそのときこう思った、という夫婦のなれそめから別れまでがずらっと書かれてあります。私小説といっていいんだろう本作は、しかし読後なんの感想も思い浮かばない。

私小説を読むときには、①覗き見根性というか「ええ!あの人ってこんなこと思ってたの!?」というような気持ち悪さとか情なさ、思っても見ない裏側をみちゃった驚きを楽しむ、そしてそのあとにくる、②ああ自分もこんなところあるよなあというしみじみ感を味わう、のが私のいつもの読み方です。

なのだけれど本作の場合、まず三木卓という書き手になんの思い入れも事前情報もなかったので、ゴシップ的な覗き見根性が全く刺激されなかったのと(よって①は×)、僕には妻もいなければ当然その人との別れも経験してないので「自分にもこういうところってあるよな」感も全く抱けなかった(②も×)。結局読後残ったのは、他人どうしのなれそめと葛藤と別れを、特に興味もなく我慢して読んだというむなしさのみ(笑)

言語的な仕掛けや、構成・プロットで凝っているわけでもないので単なる回想を読んだだけだったです。本作を読んで楽しみやすいのは、三木卓ファンや作家事情に通じた人(ええ!?あの三木卓がこんなこと思ってたの!?)、あるいはある程度の年数夫婦生活の酸いも甘いもを経験した人(あるある!こういう風に妻/夫に対して抱く感情ってあるよ!)、なんだろうな。僕みたいな人間にはいまいち向いてない作品でした。

結論。私小説を読むにはある程度書き手周辺の事情に通じてないと、もしくは書き手と近い境遇でないと、あんま楽しめない。ということを確認しただけのようにも思うけれどしかし、更に考えをすすめると、全く知らない人かつ、全く近い境遇じゃない人の私小説であっても、ぶっ飛んだ体験談とか現実にはありえないだろう!というような事件が描かれていればそれはきっと楽しく読めるだろうな(もはや私小説は関係ない地点だけれども)。

追記。平田俊子による「K」評
要約すると、いつもニコニコして満ち足りているように見えた先輩詩人の三木さんが、実は妻との間にゴタゴタがあったことを知り衝撃を受けた。というもの。『東京環七』という詩の紹介や高村光太郎・智恵子夫婦の話も出てくるけれど切り詰めるとこんな感じ。やっぱり、Kの人となりを知っていて初めて、その本を読んでうける衝撃も変わってくるのだな。読み手に見えていた人物と私小説の中で描かれる人物との落差=インパクト。

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絶滅しかけな印象もありますが純文学が好き。文芸誌をわりとよく読んでいます。
ですので、純文学系の感想が多くなると思います
…といいつつこのブログ放置する可能性もありますが(笑)

後で自分で読み返すときの参考にしたいので、
★☆☆☆☆(面白くない)~★★★★★(面白い)で評価つけていきます。
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