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松波太郎「東の果て」

出典:『文學界』2010年5月号
評価:★★★☆☆

器用にどんな文体も操りジャンルの枠にとらわれることなく何でも書けてしまう作家と、自分の文体で自分の世界観を展開する作家とを便宜的に区別するとしたら、本作の作家松波太郎は後者の作家ですね。コンスタントに作品を発表していて、どの作品にも脱力系の笑いを誘う人物やエピソードが出てきて松波太郎テイストといっていいかもしれない世界観を展開してくれています。派手さやどぎつさ、極端さのある作品こそ印象に深く刻まれるはずですが、松波太郎作品にはそういう振り切れるところはなく、むしろゆるい、ぬるい、なあなあの、だらだらした、人たちが織りなす世界が展開しているにもかかわらず読後はしっかりと引っ掛かりを残してくれます。落語を聞くのに似ているのかもしれません。この世界を突き詰めると談志師匠の言う「業の肯定」を体現する作品が出てくるのかも。そういうの読みたいです。がんばれ松波太郎。

さて本作もやはりそういうラインで読める作品です。祖母の葬儀に際して熊野の田舎に帰った青年が、長期無沙汰していた父はじめ地元の人たちと再会する話。再開の中でふと、祖母が語ってくれた熊野に伝わる徐福さん伝説がよみがえり、その伝説について青年が調べはじめ、作品世界と伝説世界とかゆるくオーバーラップしもします。

人が日常生活を送る限りでは、自分で自分のことを合理的に考えていると思い込んでいたり、自分の正気を疑ったりはしないはず。松波太郎作品の登場人物にはこういう合理性コチコチの人物っていうのはそんな出てこず、かなり脱線したり、会話の合間に関係ないことを考えたり、そういうところがあって、そんなふわふわしたところを読むとあらためて自分にもこういうとこってあるよなあと考え直して、自分を見る目の幅が広がる感じがします。

「親友のためにポコチン切られた司馬遷ってのが書いた『史記』が、原典や。それが徐福のはじまりや」と補足する。
「中国語ってか、それって漢文ですよね」
 おれはたずねる。
「あ、あぁ」
「読んだんですか」
「おれも漢文得意じゃねかったから……和訳をな」
「和訳は全部読んだんですか」
「全部? あ、あぁ、まあな」
 こいつは読んでいない。おれはおもった。
「なに、尋問もどきのことしてんだよ」ツァと舌打ちをする。(p.66)

久しぶりに再会した父と息子との会話です。父に敬語を使ってしまう距離感。知ったかぶりを追及されてうやむやに誤魔化す父。父の面子を潰さぬよう最後の最後までは追いつめない息子。そして、舌打ちの擬音「ツァ」(笑)。舌打ち擬音は紋切型だと「チッ」でしょうけれど、ちょっと音をずらすだけで新鮮に感じられますし、「ツァ」と言われればそっちのほうが正しいような気もしてきて(よくよく考えれば音写する時点で正しさの基準はあいまいです)、しかも「ツァ」の醸すコミカルな響き。さらっとこういうところが書ける、なんでもないように書いてしまえる松波太郎おそるべしだと個人的には思っています。

あとは、中国に関心があるのでしょうか。他作品でも北京に語学留学行く人の話もあったような(タイトル失念)。谷崎潤一郎が中国には壮大な「お話」があるんだ!と芥川との論争で言っていたような気がしますが、中国語の素養があるなら松波太郎テイストで中国ものの壮大なお話しを読んでみたいです。超個人的な希望。
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中原昌也「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」

出典:中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出書房新社・1998年)
評価:★★☆☆☆

短編集です。一つひとつの分量が短いだけに、何かありそうな気配がしたらいきなり終わってしまう、の繰り返しで今一つ消化不良でした。もう少しそれぞれに展開があるとか、最後の方でバラバラにみえた短編がつながってくるとか、全体をコントロールする仕掛けでもあればよかったかなあとないものねだりです。

ところどころ失笑を誘う脱力系エピソードもあるにはあるけれど全体としての爆発力はなかったです。

「あらゆるところに花束が……」になると、個々のモチーフが手をかえ品をかえ再登場を繰り返す反復の面白みがあったのですがあれも今考えれば、中編くらいの分量があったからですかね。とにかくこの短編は、さっとページを開いて気に入った個所でニヤニヤ笑って飽きたら閉じてさっと忘れる、そういう読み方がよさそうな一冊でした。

乾くるみ「Jの神話」

出典:乾くるみ『Jの神話』(文藝春秋・文春文庫・2008年)
評価:★★☆☆☆

やばい、ブログ放置してしまう。読むのは毎日読んでいるものの書くのがついおざなりになりがち。

乾くるみのデビュー作だそうです。喜多ふありもそうですが下の名前がふわっとした平仮名だと女性と勘違いしてしまいそうです。乾くるみも男なり。むくつけき男なり。

女学生小説の系譜にも連なるのでしょうね。古くは三宅花圃『藪の鶯』小杉天外『魔風恋風』吉屋信子『花物語』あたりにはじまって太宰治『女生徒』橋下治『桃尻娘』、作品解説にも挙げられていた綾辻行人『緋色の囁き』、未読ですが「マリみて」、ケータイ小説とかにいたるまで連綿と書き綴られてきた女学生。女学生がテーマじゃないものの頻繁に登場してくるものもふくめれば相当たくさんあるでしょう、そんな系譜に連なって世紀の変わる前に登場したのが「Jの神話」。

さて、本作は解説によると乾くるみのデビュー作(メフィスト賞受賞)。メフィスト賞出身の作家で現在大活躍している作家は枚挙にいとまがないほどの注目賞、そんな作家の列につらなる乾くるみ。『イニシエーション・ラブ』が出世作で大ヒットしていてこっちのイメージが私も強かったぶん、この作品を読んでみるとテイストがかなり異なり(特に後半)面食らいました。テイストが異なるとはいえ、文庫版解説の円堂都司昭によれば、本格ミステリの枠に収まらないジャンル越境志向がある点では共通しており、また乾の他作品に共通して見られる「望まれぬ妊娠」のモチーフや、ミステリ的趣向なんかもまたこの作品中でも描かれています。

いろいろごった煮の感が強くて、そこがメフィスト賞の「面白ければなんでもいい」という講談社精神と合致したような気がします。面白ければためにならなくてもいいのかな(笑)

さて本作ではしかし、奇想があるものの非常に強引な点、うまく回収できていない伏線があって素直には楽しめませんでした。

ジャックとは何か、がこの作品の重要なキーになるんですが、遺伝生物学的な意匠はこらしているものの「そんなばかな」という説明でジャックの存在がネタ晴らしされるところは特に納得いきませんでした。もちろん小説(=フィクション)なんだから、魔法使いが出てきたり、超自然的な力がでてきたり、動物が喋ったり、設定としてどんな仕掛けを取り入れてもそれでいいはずですが、この作品のジャックの説明には納得いかず。物語のフレームとしてリアリスティックな女子高校を舞台にしておりそこから大きく逸脱してしまったため、後半はもう流し読みでした。小説の世界内での合理性がないですね、これは。

回収できてない伏線でいえば、カトリックの少女が自殺するはずないという記述が複数個所あったにもかかわらず、結局こじつけで自殺として片づけてしまったことに不満を覚えました。また、人間を扼殺するには女性の力では不可能と語っておきながら、けっきょく女性の扼殺が何度か出てくること(ジャックのせいで説明しちゃうのでご都合主義もいいところです)。

また、人物造形も非常につくりものチックでわざとらしい。へたくそな男性ラノベ作家のものとあまりかわりません。出てきた登場人物のうち、女学生たちの描き分けがどれほどできていたでしょうか。それぞれ別の人物として認識できるほどの個性が描かれていないにもかかわらず、おのおの固有名が出てきて記号だけが突出するのはたんなるへたくそなんじゃないかなあ。

まとめると、ストーリーにしろ人物にしろ、かなりご都合主義に使われたきらいがあり、そのために作品内のリアリティも不足しちゃってると思います。「そんなばかな」の連続では、読んでて作品世界に入りこめません。「そんなばかな」を確信犯としてやってしまうのならそれはそれでありでしょうけど(赤塚不二夫とか)。

藤崎和男「グッバイ、こおろぎ君。」

出典:『群像』2012年6月号
評価:★★★☆☆

グッバイをタイトルに冠する小説だと、太宰の『グッドバイ』やチャンドラーの『長いお別れ』(The Long Goodbye)、チャンドラーのタイトルを意識したであろう矢作俊彦の『ロンググッドバイ』(ただしこちらはThe Wrong Goodbye)。ぱっと思いつくだけでこれだけあるので世の中にはもっと何倍もグッドバイを冠した小説群があるのだろうと推測しますが本作もタイトルに「グッバイ」が入っています。

話は非常にシンプルで一人暮らしの初老の男性が、トイレに迷い込んだコオロギを気にしながら暮らす話。折にふれて幼い頃の思い出を回想するんですがわざとなのかたんにへたくそなのか、それとも年をとるとこんなふうにたびたび思い出してしまうものなのか、はっきりしませんが全体的にみて回想が多すぎる気がします。前半の回想は子どものころの虫に関する記憶と現在のコオロギとの関連があって必然性がある回想です。後半になると、出征した叔父の記憶や迷い犬の話、球界追放になった野球選手の話などストーリー進行を阻害するだけの単なる思い出話が挟まれて回想がウザったくなります。叔父の話なんかは別の短編小説として書けばよかったんじゃないかな。

お年寄りが自分の老境をただベタっと書いただけの小説になってしまわないのは、本作には自虐をふくめた自身の生をユーモラスに相対化する視線があるからでしょうね。さながら便所に迷い込んだコオロギを眺めるように自分の生を眺める、ある種の客観化の視線が感じられてそこが好もしかったです。

もっとも彼がそんな、人の幸せを想像するようなことは一年のうちで数えるほどしかない。たいていは、暑すぎるか寒すぎるか尿意を必死にこらえているかであり、彼は一刻も早く団地に帰り着きたいばかりで、心にそんな余裕がないのだ。(p.111)

たんなる年寄り話だと読むに堪えないものになったでしょうね。文章表現も死んだ比喩のオンパレードですし。それでもこの年齢で『群像』に応募したこと、優秀作賞を受賞されたことは同年代の小説書きたい人々の希望の星になったはずです。次の群像新人賞には高年齢層が大挙して作品を応募してくるんじゃないかなあ(笑)。そのなかから、作品の精神年齢と実年齢とはあまり関係ないものかとも思いつつ、それでも、尻の青い連中には書けないような、壮絶な作品が出てくることをほんのり期待してます。

鶴川健吉「乾燥腕」

出典:『文學界』2010年6月号
評価:★★★☆☆

嫌悪感をもよおす小動物、虫、排泄物が散りばめられたどうしようもない小説です(笑)。吉村萬壱作品にもこういったモチーフが散りばめられていますが、本作との違いをあげるなら、本作のほうが気持ち悪さと同時にユーモア(時に失笑)が漂っています。吉村作品は嫌悪感をぐいぐいかきたてられて目をそむけてしまうのにたいし、こちらは気持ち悪いのは気持ち悪いのだけれどもにやつきながら読んでしまう。

第110回文學界新人賞受賞作で選評もついています。選者は角田光代、花村萬月、松浦寿輝、松浦理英子、吉田修一。数名の選者が指摘している通りポンポン視点が切り替わるところが読んでいて楽しい。視点の自由な切り替えという手法自体は例えばウルフの『ダロウェイ夫人』をあげるまでもなく1世紀も前からやりつくされてきた手法ですが、それでもなお本作の目新しさをあげるなら切り替わる視点がことごとく嫌われ者ばかり(蝿、鼠、ダニなど)というところでしょうか。こうした嫌われ者と視点の上では同等に扱われることで、主人公の後宮という男性のどうしようもなさ、卑小感も際立ちます。風俗嬢にすら罵倒され鼠にも馬鹿にされ、もうとことんどん詰まり(笑)

マン毛が空を舞った。
チン毛が床を滑った。(p.43)

この脱力感(笑)。風俗嬢との絡みがあっただろうシーンをこの2行で実現させてしまうのは恐るべきセンスですね。古くは、「つとめて(=翌朝)」で情事を暗示した濡れ場ですが現代ではこんなしょうもない(褒め言葉)表現の仕方があったのかと膝を打ちました。

物足りなさというかないものねだりをするなら、圧倒的に広い世界を一方で対置すれば、主人公はじめミクロ世界にうごめく虫や小動物たちの卑小感もより際立ったんだろうなと思います。

笙野頼子「母のぴぴぷぺぽぽ」

出典:『文藝』2012年秋号
評価:★☆☆☆☆

笙野頼子さんの小説は読者を選ぶのだと思います。彼女の個人的な論争相手とか、怒りの矛先の論者がどのような主張をしていてかつ彼女がいいたいこと(主張しそうなこと)をあらかじめ予想できる読者でないと、この作品を読んでもいったい何が言いたいのか全く読み取れません。

なにか主張したいことが明確にあるなら論文なり評論なり書けばいいんじゃないでしょうか。あえて小説という形でこんな分けのわからないものを書いて、自己満足以外に書き手になにが残るのでしょうか。『タイムスリップ・コンビナート』の切れ味は無くなり私の中では完全に終わった作家だということを、この作品を読んであらためて認識しました。

優秀な評論家先生が解説してくれるのをおとなしく待とうと思います。

大鋸一正「O介」

出典:『文藝』2012年秋号
評価:★★★★☆

O介と呼ばれる赤ちゃん(のち少し成長して幼児、小学校入学)に語りかける声の小説。読み進めてゆくと、この声の主がO介の肉親(ただし直接の父母ではない)で、かつすでに死んでいるということが分かる仕掛け。ポークソテーがきついという記述もあったし老人、ということは祖父か祖母かなと予想しつつ読みました。

父母じゃないので当然O介と密着して暮らすわけにはいかず、O介本人の代わりに新生児を識別するIDタグにみせる執着にはじまり、その後O介の食べるものや、死ぬ間際の記憶(どうやら電車に轢かれた模様)、学校の教科書のことなんかも語られ、一つひとつにO介とその周りのものに対する愛情を感じました。死後なおO介を気にかけ、O介のまわりにまるで空気のようにただよう声(もちろんO介には届いてない)。

わたしは今でも、そこに自分の指を通して、おまえの手首、あるいは足首の細かったことを思い返します。今や大きくなってしまい、こんなにも手足の細かったおまえはもういないのだと、噛みしめます。そうして、おまえの代わりに、指の二本を通して、乾いたリングを慰めるのです。


紋切型の、雲の上から下界を見下ろしていつまでも見守っているというようなイメージではなく、一貫して声が語りかけるふわふわ感が新鮮でした。合間合間ではさまれる、「O介」という語りかけも、もう触れられない故のせめてもの声かけ。たべちゃいたいくらい可愛い孫(?)と同一化したいという欲求は当然生きているうちにはかなえられず、死後こうした形でかなえられてしまうことももしかしたらあるのかなと思わせるリアリティがありました。また個人的なことでいうと、お盆にこういう小説を読むと、死んだ祖父のことも考えてしまいました。

秀逸な短編でした。

長島有里枝「スーパーヒロイン」

出典:『群像』2010年8月号
評価:★★★☆☆

翻訳で生計をたてる30歳すぎの女性が習い事のバレエ教室で出会った女の子(ハタチ過ぎ)に片思いする話です。こういう話を、「何気ない世界を繊細にすくいとった」と見るか、「大して面白みのない世界を小ぢんまり描いた」と見るか、両側面あると思います。私はあえてどっちかというと前者寄りではあるものの、まあ結局たいしたことおこってないよな、という読後感も残っている(笑)

手法としては、作中劇でバレエのペトルーシュカを物語のラストに配し、作中の語り手の片思いする気持ちとペトルーシュカの叶わぬ恋とを重ねあわせているところが一工夫しているところ。バレエという道具立てをつかって、恋することになる女の子との出会い、引かれる気持ち、叶わぬ恋、というところまでうまくまとまっていると思うものの、ラストのバレエの場面は単なるペトルーシュカの解説になってしまった感じをうけました。

女性が女性に恋する話なので、語り手はいわゆるレズビアンなのだけれど、そのレズビアンの自意識過剰っぷりとか被害妄想炸裂とかもなくことさら淡々と女の子への恋心を描いているところはさりげないですが、そのさりげなく書くこと自体がじつはなかなかすごいことなのかもしれません。ちなみに、恋されるほうの女の子は結局名前が出てこなかったんですが(一貫して「彼女」)、そんなもんでしょうかね。好きな子にたいして彼女彼女っていいつづけるのは不自然かなと思いました。なんかこの呼び方じたいに意味があったのかな。

あと作品テーマとは全く関係ないですが、語り手の女性、大学の先生から回してもらう翻訳の仕事で生計をたてているようですがそれで生活成り立ちますかね(笑)。翻訳以外にもなにか仕事しないと、「近くのスーパーじゃなくて駅向こうの小さな食料品店で買うコーヒー豆」を買うこだわり(というほどでもないけれども)の生活維持できないんじゃないだろうかと余計な心配もしてしまいました。

古川日出男「冬」

出典:『新潮』2010年7月号
評価:★☆☆☆☆

村上春樹に憧れた中学生が自省を欠いて勢いのまま書きつづった小説もどき。僕は村上春樹のよい読み手ではありませんが、それでもその作品を読むたびに卓抜な比喩と描写に出会っては溜め息をつきますし、読み手を引きつけるストーリーを展開してゆく手腕は多くの人が認めるところだと思います。この古川日出男の作品にも春樹テイストを出そうとしている雰囲気だけは感じられますが、全然うまくいっていません。

まず、ストーリーがどこに向かって進んでいくのか全く見えない。別に「勇者が苦難の末にお姫様を救う」だとか「家族のルーツを探す旅に出る」といった古典的なレベルのものを求めているわけでは全くないです。が、現代の小説だって多少はストーリーの向かう方向について見通しやすさの程度差はあれ、あるはず。この作品では、主人公が京都の南のほうにやってきて犬と暮らす、ただそれだけ。

停滞する物語というのももちろんありなので、それならそれで描写でみせるとか、思弁的な内容を深く展開するとか、いろいろやりようがあるだろうにそういう読者を引きつけようとするところが全然ない。村上春樹の二番煎じ、ただし春樹にはとおく及ばない、似ても似つかないへたくそな書き方。

へたくそな書き方ということでいえば、漢字に独特のルビを振る箇所が再三出て来ます。あえてそう読ませる必要性を感じないものがほとんどで、そのようなルビをあえてふるよりも、もともとルビで指示している読み方を書いておけばいいのにと思います。ルビを独特の仕方でふる分だけ、読み手に負荷がかかりますし、そうなると読んでいくスピードもいちいちそこで停滞してしまいます。いくつかあげれば、

僕は代償(しはらい)を求められているのだ。(p.15)

いたのは家なし(ホームレス)だった。(p.22)

無音(しじま)がガランと鳴るように寒々としている。(p.23)

沈黙(しじま)だ。(p.57)

上で引用した箇所の括弧内は総てルビです。ほかにも「印象(てざわり)」とか(笑)。これだけでももちろん一部。代償にわざわざ「しはらい」というルビあてるなら、元から支払ってしましょうよ。家なしを「ホームレス」。あえてこういう読み方をする必要があるという説明も管見のかぎり本文中には無かったはず。23ページの引用箇所でいえば、無音なのにガランと鳴る、ってどういうことでしょうか。必然性のないこれらの書き方は、「本気(マジ)」みたいな感性ですね。徹底的にダサい。悦に入って連発しているところがほんとどうしようもなく鈍い。ルビが一つだけ成功しているところをあげれば、「昨日(きんの)」という方言の読み方を指示しているところ。これは必然性があるルビです。

あえて別様の読み方をさせるルビは、いわばテクストに別の声を差し挟む行為で、そういう書き方は読者を物語内容から切り離す方向に作用します。批評的な内容や、メタ物語を内包するような小説であればそれもちゃんと使えばありかもしれませんが、この『冬』は当然そんな小説ではありません。

ルビの使い方ひとつとってもこの書き手のどうしようもない感性がにじみ出ています。他にも、これまた必然性のないところで倒置を連発して物語の流れを停滞させます。一例を引くと、

そして診療報酬が出る、病院側に。もちろん患者が死亡しても病院は困らない、なにしろ苦情を訴える家族もいない、家なし側には。検査そのものにも診療報酬が出るからその検査で延々と疾患を発見しつづけることもでき、結局は。(p.53)

変なところもありますが、原文ママです。ここでは「家なし」にはホームレスってルビがありませんね。じゃあ最初の「家なし(ホームレス)」という表記で読者に負荷をかけたのはいったいどうしてだというのも腹立たしいですがこれは置いておいて、上の引用の、どうしようもない倒置の連発。倒置も、たいていの場合は物語の流れを停滞させます。強調したい箇所で使うべきあやですが、これは別に感情をこめて語るような内容では全くありませんね。しかも、「発見しつづけることもでき、結局は。」って(笑)。「でき『る』」って言いたかったのでしょうか。古川日出男ならびに編集者、しっかりしてください。

もう、あらを上げ続ければ翌日まで延々あげられそうですがやめておきます。頭の悪さと技術の鍛錬不足を露呈させる小説。才能も努力もセンスもゼロ作家=古川日出男と私の頭の中にはインプットされました。

島田荘司「嘘でもいいから誘拐事件」

出典:『嘘でもいいから誘拐事件』(集英社・集英社文庫・1994年)
評価:★★☆☆☆

堀江敏幸『燃焼のための習作』に登場する相談者・熊埜御堂氏の名前は印象的ですがその元ネタじゃないのだろうけれども本作「嘘でもいいから誘拐事件」にも、隈能美堂(ただしこちらは、くまのみど)というADが狂言回し役として登場します。本作は、テレビ局のある撮影チームがロケ先で出会う不思議な現象を、ユーモアたっぷりに語ったもの。

人が消えたり、交通事故が起こったり、狂った老婆が乱入したり、普通に考えれば結構な事件がおこりますがそこはユーモアあるのでとてもライトに描かれています。著者自身、あとがきで「原稿を書きながら気分転換のできる、ひとつの小説パターンを創ってしまう」という意図のもとにこの作品を書いたと告白しています。また、「最も肩の力の抜けた、読者本位の、正しいミステリー」とも。

確かに肩の力は抜けているのだけれど、リアリティの部分で疑問が残るところもあるので十分には楽しめなかったなあ。例えばテレビクルーが運転する車の目の前で、パトカーが崖から落ちるなんてあったらまずテレビカメラを回すでしょうし、突然人ひとりいなくなれば警察に知らせるでしょうし。そういうことをせずストーリーに登場人物が都合よく動かされてい過ぎるところが透けて見えたのでかなり冷めた目で読んでしまいました。なので、十分ユーモアの部分を楽しめなかったなあ。なぞかけと種明かしの部分は満足。

これだけ開き直って肩の力を抜いて書かれた作品だと、適当なキャラクターでも案外はまるものですね。島田荘司の本格ものには到底出て来そうにないいい加減な人物もこの作品だとアリだなと思えました。テキトーな人物を造形すればテキトーな言動をさせても違和感ないというのは一つの発見。

牧田真有子「予言残像」

出典:『群像』2010年6月号
評価:★★★☆☆

自分が人を殺すイメージにとらわれる更科めいという女の話と、「おまえは更科めいに殺される」と予言して失踪した兄をもつめいの同級生の堤朱泉という女の話とが並走。あらかじめ定められた運命を人はかえられるか、みたいな古典的なテーマを根底にもっている小説として読みました。朱泉の兄の予言も、これまでは100発100中なのできっと今度も当たるんだろうなと朱泉は思うわけですが、それに更科めいは全力で逆らうという流れ。

『糸杉が十一本』というキーワードをうまく展開して、ラストになだれ込んでゆくところは迫力ありました。予言にさからうのか、それとも予言どおりになるのか、あちらをたてればこちらがたたずという状況のなかでうまく糸杉が十一本のモチーフを嵌めこんで、朱泉とめいとが部屋でやり取りするシーンの緊張感はものすごく高かったです。

分からないところが一点、失敗じゃなかろうかと思うところが一点。

わからないというのは、朱泉の兄の恋人で、かつめいの従妹である末森遥の自殺の動機。遥も朱泉の兄に「死ぬ」と予言されてそれに逆らうためにあえて予言された現場に赴き生還するという挑戦を試みるわけだけれども結局自殺してしまう。その自殺の動機が、よく分かりません。朱泉は、「宿命はあるんだという証」に遥がなる(=予言を体現して宿命を完成させる)誘惑に引かれた説を提示するもののなんかしっくりきません。遥がそんなことに引かれる伏線なかったはずですし。むしろその説は朱泉の考えに非常に近いもののように思います。遥の死には結局無理矢理感が残りました。

失敗しているのはめいが「国の最高学府へ入れる学力を疾うに備えながらあえて二浪もしている」という設定。とくにこの設定が生かされるようなシチュエーションやエピソードって出てきませんでした。ということは他の設定でもOKだったわけで。なんだか面白そうな設定ではあるのでこれをもっと生かせればなあと、もったいない気もしました。あと、最高学府に入れそうな実力をもつ人間が単語帳でanonymous程度の単語を復習しているのはちょっとなあという感じ。最高学府はそんな甘っちょろくありません。

全体的にこなれない表現が散見されました。人物にそぐわない言葉遣い(無理矢理カタカナ語を使っているとか、普段つかわない表現を使う)とか、漢字にしなくていいようなところも漢字にしちゃうとか(たとえば「疾うに」)、漢語調のことばが急にまじってくるとか(「兄になされた最後の予言(p.232)」)、具体的なイメージが展開しにくいポエム調の表現とか。こういう細かいところが気になったもののストーリーがそれなりに楽しめたので星三つ。

喜多ふあり「望みの彼方」

出典:『群像』2010年5月号
評価:★★☆☆☆

作家の名前が珍しいので読んでみました。ネットで検索してみると本人インタビュー記事があり、

ペンネームは「あえて、こういう作風を選んで書いていることを伝えたくて、ふざけた名前にした」という。「『ふあり』なら女性だろうとの先入観を逆手に取って、読者を翻弄(ほんろう)する。そんな作家でありたい」出典

なのだそうです。まんまとひっかかったー(笑)

肝心の作品は、小説家の卵の妄想生活と現実生活とをパートごとに並列進行させたもの。妄想生活のほうは、逃亡中の殺人犯と自分とを同化させて破綻の度を高めていくのに対し、現実生活の方は明るい将来展望は開けていないものの悲観的な観測もいまのところなく停滞、という風に対置されます。語り手の現実生活を動かすきっかけになるのが大阪にいる女。30歳を期に一番親しくしている異性との関係をひとまず区切りをつけるべく女と話して、おつき合いを続けていこうという形で物語は終わります。

一人称語りで妄想を続けていくパートにこれ読んだ人はたぶん魅かれるんじゃないかと思いますがそこの描き方がいまいちな感じ。基本的に他者との関係は希薄な語り手なので自分の「奇行」の数々に突っ込みをいれてくれる人がいないんですよね。逆に語り手が一方的に周りの奴らはみんな馬鹿だ馬鹿だと繰り返すだけで、自意識過剰っぷりが際立ってしまうという。その過剰っぷりを相対化してくれるような人物なり視点なりがほしいかなと思いました。甘い西瓜に塩かけたらもっと甘く感じられる的な、ね。

現実パートでの疑問としては、大阪の女、なんでこの男に惚れてるんでしょうか。見た目がかっこいいという印象もうけないし、ファッションセンスが優れているとか、経済的にしっかりしているとか、将来有望とか、性格がいいやつとか、それらも別にない男(少なくとも作中には言及なかったはず)で、しかもずっと東京で暮らしているという。特に目立った特徴もなさげな遠距離に住んでいる男、出会いもバイトで数ヶ月一緒にいただけという男、いままで一度もつきあってない男、そういう男になんでこの女がこだわっているのか納得いきませんでした。話を進めるために男に都合よく造形されたいかにも都合のいいキャラです。

全体を通読してほどほどに楽しめたものの、上のような点が気になったので星二つ。

藤谷治「ふける」

出典:『新潮』2010年4月号
評価:★☆☆☆☆

新宿駅で持ち物を捨てて、松本経由で金沢へ。行った先で女を買おうとするがそうしない話。この作品で何がしたかったのか全く分からない駄作。語り手の男の内面では、下品なことや三面記事的事件にたいする期待が渦巻いているが結局行動には結びつかず、外目からはただ男が新宿から金沢に行ったよ、というだけの話。

内面と外面のギャップを描くなんてそれこそ明治からずっと書き尽くされてきたものをなんで今さら。描かれる内容にしたって、内面でふっと浮き上がる妄想も既視感たっぷりのなんの面白みもないもの。男の目にうつる新宿の風景にしろ松本近辺で乗り合わせる女性の描写にしろこれまた紋切型。内面外面ともになんの面白みもない描写を延々続けて、藤谷治は何が面白いのか。

妄想部分は、明らかにここから妄想に入りますよというような書き方になっていて(しかも書かれる内容は上のごとく凡庸極まりないもの)なんのテクニックもない。で、やっぱり「が、そういうことはおこらなかった」みたいな書き方をするどうしようもないセンス。夢オチ、妄想オチなんて三流SFや屑同人誌でもやらないし、やったにしろ夢か妄想かわからない描写で不安感をあおっておいて最後にネタ晴らししてほっとさせるところに効果があるわけで、「さあここから妄想ですよ」→なんの面白みもない凡庸な描写→「実際はなにもおこっていません」、といわれてもどこが読みどころなのか、何を読ませたかったのか(描きたかったのか)全く理解不能。「で?」と言うしかない。

日常生活からふけて、旅先で妄想にふけって、そこで見えるものはいつかどこかで見たことのあるイメージ。もうこの人の作品は読みません。あー時間の無駄だった。

絲山秋子「下戸の超然」

出典:『新潮』2010年1月号
評価:★★★★☆

超然シリーズで単行本になっていたはず、そのうちの「下戸の超然」です。絲山さんの作品は人間関係の距離感のとらえ方、表現の仕方が非常に適切で、こういう人いるいる、こういう人ならこういう会話する、こういう考え方する、という「もっともらしさ」をさらりとやってのける一級の書き手だと思います。この作品を読んでその感慨を深めました。

下戸について書くよりも、酒飲みについて書きはじめるほうが分かりよいと思います。酒飲みという人種は、その場にいる人をどんどん巻き込んで、まあまあ一杯、じゃあそちらも一杯、という形でお互いの壁を酒の力を利用してとっぱらい(ノミニュケーション)、一体感を味わう人種のことだとすると、下戸とはその対極の存在。ぶしつけに他人の領域に入っていかない、入っていかない代わりに自分も他人にはずけずけと入ってほしくない、そういう人種が下戸です。下戸の語り手広生もそういう人物で、だからこそ酒飲みの人たちの間にいると居心地の悪さを感じるし、何かにつけて一緒に行動しようとする恋人にも、なんでも結婚に結びつけようとする打算さえ感じられうんざりとしてしまいます。下戸の会の中にあっては他人のプライベートなことはきかないというルールのもとお互いに居心地の良さを感じています。

ここではいわば、二つの異なるコミュニケーションの流儀を、どうすり合わせるか(あるいはすり合わせないか)が焦点となっていて、結局自分の流儀を曲げない(=超然)広生は変化することなく、かといって自分のいいと思うことを強引に押しつけるだけの恋人美咲もそのやり方を変えないので、互いが別れてしまうことは必然だったのでしょうね。二つのコミュニケーションの流儀の対立は、一種神学論争的な対立にすら思えます。それをきわめて現代的な人間関係に無理なく落しこめる絲山秋子すげえ。

スクリブルのような小道具の使い方もうまい(広生と美咲が中いい時はゲームに興じる二人がとてもエロティックに描写されるし、関係がぎくしゃくし始めると現れる単語もネガティブなものになってしまう)。会話の運びも、あるあるこういう会話あるよ!と言いたくなる物ばかりでほんとうにもっともらしさを演出する手腕には舌を巻き通しでした。

田中慎弥「夜蜘蛛」

出典:『文學界』2012年6月号
評価:★★☆☆☆

田中慎弥の小説を読んでいつも思うのはどうしてこの人は不穏なモチーフ(暴力、自殺、悪意)ばかりを取りあげ続けるのだろうという素朴な疑問です。別に取りあげることに何の問題もないのだけどこれだけ一貫していると強いこだわりを感じざるをえず、そのこだわりの根っこを知りたくなって著者自身についても興味がわいてきます。

山口県下関市出身。4歳の頃に父を亡くし、母親と二人暮らしで育つ。中学生頃から、父の遺した蔵書に親しみ、司馬遼太郎や松本清張の作品を愛読する[1]。また、母に買ってもらった文学全集も好んで読み、特に川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫の作品を愛読した[1]。その後、山口県立下関中央工業高等学校に進学した。高等学校を卒業後、大学を受験するも不合格となる[1]。それ以来、アルバイトも含め一切の職業を経験せずに過ごした。有り余る時間の中で本を読んで過ごし、特に『源氏物語』は原文を2回、現代語訳を3回の計5回にわたって通読した[1]。

wikiより。うーん、とりたてて不穏なモチーフにつながることもないような(笑)勝手な想像でどんどん埋めることはできなくはないですが(父親を幼い頃に失っている云々)、しかしそれが不穏なものにつながるには弱すぎるというか、それこど父親を幼い頃になくす人って私の周りにもたくさんいるけれど別に不穏なことは言わないのでいくらでも反例をあげることができるので、自伝的な事実と作品とを短絡的に結びつけるのは自重すべき事柄だろうと思います。

と、前置きは長くなったけれども「夜蜘蛛」。とりたてて印象に残るところはなかったです。不穏度は薄められていて、小説家のもとに届いた手紙をそのまま掲載するという体の作品です。戦争で従軍して足に敵弾をうけて帰って来た父をもつ息子からの手紙を小説家である語り手が受けとって…というしかけですが、小説家自身の意見は付言程度の最小限にとどめられ小説家が手紙の送り主の言っていることの真偽をあの手この手で追及するようなこともせずしごくあっさり対応しているため、作品の大部分をしめる手紙の内容をそのまま(真偽不明の)お話しとして読むだけ、でした。

手紙文のなかでは何度か「私(=手紙の書き手)の推測まじりです」とか「関係ない記憶や物語と混ぜこぜになってしまいます」とかあるので書かれてある内容の真実性も怪しいことは示唆されますが、別に真偽を確かめられる手がかりがあるわけでもない(手紙の受け取り手の作家の対応はほとんどなんもしない)ので、もうほんとずっと手紙の語り主の語りにずっとつきあわされる感じ。うんざりしました。

そして手紙の書き手が推測混じりだとかなんとか言う割にその父親個人の体験について非常に込み入ったことまで詳述しちゃうので、手紙の書き手のうそっぽさが滲みでてしまって物語に入りこめませんでした。うそっぽい人物という設定ならそれでいいのだけど嘘っぽさを証立てるようなヒントを、たとえば手紙の外部から小説家が挙げておくとかしてくれないと、結局うそっぽい人物かどうかもあやふやなままでもやもやしか残りません。これもうんざりしました。

こういうもやもや感がそのまま放置されているのは詰めが甘いのだろうと思います。ディティールのアラも目につきます。手紙の書き手は自称戦中世代と言っていますが、戦中まだ幼かったことを考えるとむしろ戦後民主主義教育をもろにうけて育った戦後世代でしょう。手紙の書き手の父が死んだ理由として、書き手がその父親と乃木大将とを重ねる発言が挙げられますがこれも雑すぎる。殉死というワードでしか結びつかないものの、乃木大将と明治天皇との関係は、手紙の書き手の父(たんなる一兵卒)と昭和天皇との関係とは全く別物であるはずです。もし自殺の動機になりうるのであれば似たような事例が他にいくつかあってもいいはず(従軍経験のある人間が昭和天皇の死とともに自殺する)ですがそれはきいたことありません。また肝心の「足」にまつわるエピソードもどこか隔靴掻痒の感じをうけてしまって、蜘蛛の足の話と父の足の話とがうまくつながっていない印象も受けます。総じて、詰めが甘いうんざりさせられる小説でした。

中原昌也「あらゆる場所に花束が……」

出典:『あらゆる場所に花束が……』(新潮社・新潮文庫・2005年)
評価:★★★☆☆

中原昌也を読み終わるなり、「こういう風に書いてもいいんだ!」とか、あるいはおこがましくも「これなら俺の方がもっとうまく書ける!」といった妄想を抱いた小説家見習いが結局は書けずじまいで死屍累々になったんじゃないかなと想像します。真似できそうと思わせるところがありながら実際にやってみるとたぶんできないですね、これ。

そんな中原昌也の三島賞受賞作です。読んでまず爆笑したのはネガティブなモチーフや言葉が、それはもう全ての文にわたって散りばめられているということ。

 引き裂かれたノートの他には、子供が作ったような三流美術品ばかりが捨てられていたので、壊れた家電を直して使うような人にも全く興味の湧かないただのゴミの山だ。おまけに腐臭の付いた埃が周囲に漂っていた。
 三流美術品は全部紙製。金紙銀紙を多用している点がより安っぽさを助長している。
 しかも、それらの作品が表現しているのは子供らしい無邪気さではなく、寧ろ疲労感や倦怠感といった類のものだ。見た目からして清潔さが欠如しているし……。
 そもそもノートは三流美術品群の仲間だろうか? 互いにゴミの山の中で調和を成しているせいで、同一人物によって一緒に捨てられたかのように見えた。(p.81)

ぱっと開いた一断片を引いてもこれだけネガティブワードが散りばめられます。「引き裂かれた」「三流美術品」「捨て」「壊れた」「興味の湧かない」「ゴミ」「腐臭」「埃」「安っぽさ」「疲労感」「倦怠感」「清潔さが欠如」。中原による文庫版あとがき読むと、ひどい精神状態のなかでこれを書いた、全然いい思い出ない、ということなのでそういう精神状態が少なからず反映したんだろうなと思います。ただしその「ひどさ」というのは、ただ単に一般的な意味での病的なものではなくて、もうすこし特殊な、「書くこと」に対する嫌悪感なのだそうで。

自己表現などという身勝手なものが、人が期待するほど、そんなに有り難いものなんかであるはずがない。しかも有り難いものでなければならない義務だってない。様々な感情が人の顔の種類と同じく微妙な差異で存在しているように、多様な表現が存在して然るべきなのだ。それを許さず安易な感情移入や安手の感情移入とやらだけが小説だの文学だの物語だのといって罷り通る世の中には、心から吐き気がする。怒りを覚える。(中略―引用者)幻想に取り憑かれ安定したと思い込まされている人々の人生に横槍を入れ、出来る限りイラつかせる。僕にもし、作家として信じるに足る誠実な仕事があるのならそれをやるしかないと思っている。(「文庫版あとがき」p.168)

こういう自覚がある限り、この作家は信用に足ります。そしてこの自分の、それでも(生活のために、あるいは横槍を入れるために)書かざるをえない状況にたいしても相変わらずどうしようもなさを抱えたまま書き続ける苦行!あとがきに記されたこの苛立ちがこの作品の端から端までにいきわたってのネガティブワード満載だったわけですね。中原「的」なものに感化されたと妄想して死屍累々になっちゃった亡者たちには、こういうやり場のない苛立ちの感性が決定的に欠如しているんじゃないかなと推測します。

中原昌也作品にたいして、「読めない」とか「こんなの小説じゃない!」なんていう人には、少なからず中原が吐き気を覚える「文学」なるものにたいして無自覚の信仰を告白しているんじゃないかと思います。そして同時にそういう人は、文庫の解説で渡辺直己がこの作品を伝統的な小説作品群の文脈のなかに位置づけてくれていますが、そういう伝統と歴史を忘却しているというかもともと知らない、無知をも告白しているのに他なりません。

大藪春彦「野獣死すべし」

出典:『野獣死すべし』(新潮社・新潮文庫・1972年)
評価:★★★☆☆

なんでも一番最初にその分野を開いた作品は、先駆けたという事実だけで賛辞を与えたくなります。当然日本のハードボイルド小説の夜明けをつげたこの『野獣死すべし』にも、同様の評価をしたくなりました。

現在の小説が書かれる水準から考えれば、下手するとデビューしたばかりの作家のほうが『野獣…』より文章的技巧に優れているし、構成だって理論だってしっかりしているかもしれないけれど、それでもこの作品には、うまくいいあらわせないですが、独特の臭いがそこかしこから漂っていて、その雰囲気にくらくらしてしまいます。

うまく言えませんが、洗練されていないのだけれど表現したいことがあるというような熱とか、自分の表現したいやむにやまれぬ情熱に表現技術がおきざりにされているというか。もちろん、書かれた当時の文脈からすれば、チャンドラーやハメット、マクドナルドのようないわゆるハードボイルド文体みたいなものを手本にこの作品が書かれたのは間違いないですが、その海の向うの文体と、大藪春彦の熱とがガチンコでぶつかり合ってギリギリ軋んでいる、その摩擦、衝撃に、独特の熱が生まれて、読んでいて知らず知らずのうちに作品に引き込まれてしまいました。


今読むと噴き出してしまうのだけれど書き手は大真面目にやってるハードボイルドな文章のうちいくつかを引用。

計算しつくされた冷たく美しい完全犯罪の夢が頭中にくすぶり始め、やがて積もりつもった彼の毒念はついにその吐け口を見いだし、次第にそれは確乎たる目的の型をなした。失った己れを見いだした邦彦は、絶望の淵から死と破壊をもたらすために、苦々しく蘇生したのだ。(p.28)

この、「失った己れを見いだした邦彦は、絶望の淵から死と破壊をもたらすために、苦々しく蘇生した」という大仰な表現(笑)。ものすごく青臭い書き方だけれどこの作品の中にこの言葉があっても、全体から浮き上がりません。

教科書を買う金が無くなっても、瀟洒な外面だけはととのえずにいられない。(p.30)

このへんもハードボイルドなんでしょうか(笑)

何秒か死の沈黙が続いた。(p.74)

自分以外に頼りになるのは、金と武器だけだ。金で買えない物に、ろくな物はない。(p.32)


ちなみに、「野獣死すべし」と「野獣死すべし復讐編」の二篇が収められていますが、前者のほうが圧倒的に荒削りで読んでいて面白いです。

桐野夏生「残虐記」

出典:『残虐記』(新潮社・新潮文庫・2007年)
評価:★★★★☆

『OUT』で不動の地位を獲得した桐野夏生の、「地味」と言われるらしい中編。この作品では、いくつにも重なる語りの層によって物語に奥行が出る仕掛けになっており、地味どころか極めて技巧的で読み解くことの愉しめる秀作です。語りの層を分けると、

①生方淳朗による手紙(物語冒頭と終末部)
②小海鳴海による作中作「残虐記」
 ②-a「残虐記」内の「泥のごとく」元ネタエピソード
 ②-b「泥のごとく」元ネタエピソードにたいする小海鳴海の回想コメント

何重にも折り重なる物語の層の向こうに見えかくれする誘拐事件の「真実」としてはっきり断定できるものはないわけですが、一枚いちまいベールをはがしていくように、そこに迫っていく過程に想像力を刺激されます。①によって、②の中にフィクションとしての創作が見てとれるというコメントがあるとおり、②に書かれてあることをまるまる「真実」として受けとることはナイーブにすぎます。といって、②に関するメタテクストは①しかないので、①そのものが嘘を孕んだものである可能性を考えると、作中作ではないほうの『残虐記』の内容の真実性を外側から担保する足場はどこにもなくなってしまいます。

となると、信頼できない語り手によって語られる一年間にわたる監禁事件の「真相」には、作中作「残虐記」の読み手にとって結局いくつかの解釈を想像する以外に迫る方法がありません。そしてその想像にも確かな解釈の根拠は与えられず宙吊りにされたままの状態で、常に「想像なんだけど…」という留保がつきまとわざるをえません。この一定の解釈の許す幅をもった語りの仕掛けにたいして、ハラハラドキドキのサスペンス(まさに宙吊り!)を感じるか、「なんだ、結局真相確定できないんじゃん!」といって腹をたてるかは読み手の許容度次第でしょうか。私は前者。

断っておくが、これは小説ではない。二十五年前に、私に起きたある出来事の記憶の検証と、その後の自分自身に対する考察である。(p.21)

なーんてありますが、①のレベルで②の内容に創作の痕跡が指摘される以上、作中作「残虐記」の内容をまるっと「真実」認定しちゃうのはナイーブに過ぎますね。小説においてこれほどメッセージとメタメッセージとが乖離するベタな言表はない(笑)

いずれにせよ、まるまる創作説から、一年間にわたる性的虐待はあった説、生方の語る内容が真相説、作中作「残虐記」真実説、作中作「残虐記」は実は生方の創作で小海鳴海の失踪(殺害?)は生方によるもの説…、ほかにもいろいろバリエーションが考えられます。いずれにせよ、①の外部テクストが存在しないので、読み手にとってできることは、語られた内容から複数の解釈を行ったり来たりしてずっと楽しむこと。そんな作品に思えました。桐野夏生がストーリーテラーとしても第一線で活躍する現代作家であることが分かる作品です。

いわずもがなの蛇足ですが、ストーリーテリングだけでなく、描写の力も随所で感嘆しました。以下は、一年間の監禁から解放された少女に向けられる団地住人たちの反応。

真っ先に目に入ったのは、T川の堤に並ぶ桜だった。早春の桜は小さな固い蕾を付け、枝がうっすらと赤らんで見えた。その向こうにあるのは濁った薄茶の水が流れるT川。その川を挟んでK市がある。私は嫌でもK市が見える自分の家に帰って来たのだった。子供たちが学校に行っている時間をわざわざ選んだ、ということはベランダに干された布団の数でわかった。勤め人も子供たちもいなくなる団地の昼下がりには、ベランダというベランダに洗濯物や布団が並ぶのだ。
 が、そのベランダに、普段は見慣れない物がずらりと見えた。黒い頭。私が帰るのを耳にした主婦たちが、一斉にベランダから眺め下していた。ばかりか、私の住まいのあるB棟の前には、大人が群がって出迎えているではないか。人影を見て、私の気は滅入った。(pp.116-7)

うーん、痺れる!一年ぶりに帰る自宅、気になる周囲の目、わざわざ人のいない時間帯を選んだはずなのに一斉に注がれる好奇と同情の入り混じった目。桜とか布団を干すとか昼下がりとかいった言葉には、のどかな明るさをイメージさせられますが、そこから一気にイメージを転換する「黒い頭」。一斉にベランダから眺めおろしてくる目。言葉のレベルで、明るさから暗さに転換する(桜=ピンク→赤らんで→薄茶の水→黒い頭)と同時に、視線を注がれる女の子の気持ちも、一気に暗いものに転じるところまで読み手に伝えています。いやー、うまい。さりげないですが、随所でこういう描写をピリッときかせることのできる桐野夏生、ますます好きな書き手となりました。

村上龍「イビサ」

出典:『イビサ』(講談社・講談社文庫・2002年)
評価:★☆☆☆☆

著者あとがきにあるように「破滅的なストーリー」でした。扱っている内容、登場人物、ストーリー展開はどれも頽廃的であったり、破滅的であったり、不道徳であったりと、『限りなく…』の延長線上にとらえられなくもないこの作品の舞台はほとんどがヨーロッパです。美食、かわった食べ物、飲み物、異国情緒あふれる衣装、民族、土地など、日本に住んでいたら想像するほかないような、エキゾチックでロマンチックな事物がたくさん出て来ます。

しかし、これほど珍しげなものをたくさん出しながら、それぞれが一つの作品のなかで機能しきっていないというか、その場その場で出ていっては消えてゆく、何のために出てきたのかわからないモノばかり。読み手に、ちょっと高級な雰囲気や異国情緒を味わわせればそれでよしというような、読者をなめきった投げやりな書き方としか僕にはうけとれませんでした。

文章もその場の勢いで書き連ねただけのような、なんのヒネリも批評精神もレトリカルなしかけもない、ただただ原稿用紙の升目を埋めるためだけに文字を連ねました、というような箇所に何度も出会って辟易。全体とどう関係するのかわからないような場当たり的な記述を連続して読むのは結構苦痛なものです(じゃあ途中で読むのやめればいいだけ、という考えもアリですが、もしかしたら面白いところがちょっとでもあるかもと思って結局最後まで我慢して読み通しました。期待は外れましたが)。贅沢なものに劣等感でもあるんじゃないかと思ってしまうくらいスノビッシュな記述の連続、これがこの作家の人気の秘密なのかなと思わないでもありません。

性にまつわる行為や部位の名前が頻出するのが一つの特徴で、これが著者のいうところの「破滅」につながる一要素であるのは間違いありません。だけれど

もっとはっきり言えば例えば男性器への恐怖と餓えを意識したとたんに内部が発生する。まるでセザンヌが描いた果物のようにはっきりとした輪郭でわたしは形ある欲望を自覚した。(p.194)

という記述を読んだときに、はたしてこの村上龍はセザンヌをちゃんと見たことがあるのか疑いたくなります。印象派よりは、たとえばフランドル派なり、輪郭だけのことをいうならば浮世絵のほうがセザンヌよりははっきりしてるはず。「いや、ここは語り手がセザンヌを誤解してるのであって書き手の村上龍は関係ないのだよ」という言い方もここだけとれば成り立ちはしますが、高級ワインの銘柄や珍しい食事の素材(ただしそれらの味わい、食感についてはあまり言及がないか、あってもきわめてあいまいな比喩で誤魔化していて全くといっていいほど「食べる」という感覚を読み手につたえません。)にやけに詳しい語り手なので、絵画の知識だけが足りないというのもなんとなく非一貫的で納得いきません。書き手の誤解として受けとるほうがすっきりします。

こうした記述レベルでのなげやりさに加えて、ストーリー展開上キーとなる、「ガイド」の説明や、語り手の内部で声としてたびたびあらわれる「ジョエル」が何者なのか、さらには物語途中で現れる霊や、ペニス・ホログラフがいったい物語の進行上どういう役割をあたえられているのかもわからずじまい。思わせぶりなだけでなんのヒントも結論も、一つの結論とはいわなくてもいくつかの解釈の可能性すらものこさない書き方は、これまた投げやりで場当たり的なものとしか受けとれません。

作中には自称「詩」も出て来ますが、地の文を読点で行変えして分かち書きにしたものでしかないもので、詩が出てくる必然性が感じられない以前に、それが詩として成立していないものもあります。これも升目を埋めたかっただけかと思わずにはいられない。とにかくあらゆるレベルで、読み手をナメた作品でした。

同様にヨーロッパを彷徨して自分を探すストーリーで、途中で現地の人とであったり、官能的な出来事がおこったり、詩が出てきたりする話であれば、たとえば諏訪哲史『ロンバルディア遠景』をあげたくなります。この『イビサ』の作者は、圧倒的に後進の、けれど作品としては一歩も二歩も前に進んでいる『ロンバルディア遠景』を読んで自分のやっつけ仕事のだらしなさを恥じればよろしい。

窓ガラスを隔てて聞こえてくる波の音をわたしは波の音は日本も地中海も同じだなと思いながら聞き、階下で行われて床と壁を通して聞こえてくるジルとジョンストンの口論を波の音に似ているなと思いながら聞いた。(p.147)

こんなだらけきった文章を書く作家の作品は、この世から消えてなくなってください。売れる作家ですし人気作家だから編集者の方も軽々に意見できないのかもしれないでしょうが、真摯な書き手・読み手の目に『イビサ』がかなうものかどうかもうちょっとちゃんとチェックしていただけないものでしょうか?

伊藤計劃「虐殺器官」

出典:『虐殺器官』(早川書房・ハヤカワ文庫・2010年)
評価:★★★★☆

文庫版なので、大森望による丁寧な解説つき。僕はSFはたまにしか読まないのですが、最近の書き手でいえば芥川賞受賞会見にて伊藤計劃の遺稿を書き継いでいると発言した円城塔にしろ、群像新人賞受賞でデビューするも第一著作『ポジティブシンキングの末裔』が早川書房から出た木下古栗にしろ、純文学畑のなかの、外国語に翻訳しても十分通用するだろうなと勝手に僕が思っているこれらの純文学畑作家がSFの分野に活躍の場を移しつつある気配。純文学完全死亡。

そしてこの本。冒頭のつかみでぐっと引きつけられました。

 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っ込んでいるのが見えた。

 まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅くひらいて、頭蓋の中味を空に曝している。
 そこから十フィートと離れていないところに、こんどは少年が横たわっていた。背中から入った弾丸は、少年の体内でさんざん跳ね回ったあと、へその近くから出ていこうと決めたようだった。ぱっくりひらいた腹からはみ出た腸が、二時間前まで降っていた雨に洗われて、ピンク色にてらてらと光っている。かすかに開いたくちびるから、すこしつき出た可愛らしい前歯がのぞいていた。まるでなにか言い残したことがあるとでもいうように。(p.11)

立ち読みでここを読んですぐレジに持っていきました(笑)

国際謀略を軸にした戦争小説で、外国要人暗殺部隊のアメリカ人兵の一人称語りの物語です。戦闘に関する組織、兵器、兵站、諜報のディティールが一つひとつ細かく、舞台が近未来ということともあいまって、その描き込みの執拗さは大友克洋を思わせるものでした。

序盤から謎めいたターゲットにされているジョン・ポール(ビートルズからの命名でしょうか)の発見した「虐殺の文法」なる物騒なものを、世界に散布することによって国外に向かうテロの衝動を国内での虐殺に転換する着想には痺れました。もしそんな文法があればそれを使わない手はないですしね。

ディティールの凝りよう、キーとなるコンセプトと全体構想の重厚さ、一発で印象に残るタイトル、文句なしに質の高い作品でした。すこし思弁的すぎるところや、こなれない生硬な文体といえなくもないですが、デビュー作だということを踏まえれば全然気になりません。90分のアニメ映画にも十分なるだろうし、スピルバーグ監督の戦争映画にもなるだろうし、ノーラン監督のサスペンス映画にもなりそうで、とにかくいろんな方向に展開していきそうなエネルギーに溢れた作品でした。

多和田葉子「てんてんはんそく」

出典:『文學界』2010年2月号
評価:★★★☆☆

作品の字面の向こうに作品内に描かれるのとはまた別次元の世界があるような作品を書きたい、というようなことをどこかで言ってたような気がする多和田さん(うろ覚え。嘘だったらすみません)。例えば『犬婿入り』は現代の団地を描きながらその向こうに民話的世界が広がっていますし、『ゴットハルト鉄道』(傑作!)は鉄道の紀行文の中で、言葉と身体と記憶の境目がぐずぐずに溶けてしまいます。

そしてこの短編の「てんてんはんそく」。作品内の照子とか青江とかは普通日本人女性の名前で使われますが、この作品の中ではもちろんそういう使い方がされているところもありつつ、もっと別のものも思わせます。全然自信がないですが、照子は電話会社、青江はスカイプのような電話に変るサービス企業かなと思いつつ読み進めました。こういうのをレトリックでなんていうのかな。この作品全体でいうと諷喩とか寓話の技法ですね。

また、多和田葉子ならではの言葉遊びもそこここに読みとれて、言葉がなによりも音と記号が合わさったものであることを意識させられます。

照子とはすぐに繋がる。向こうはいつも客を待って待機しているのか、こちらが指先でプシュプシュと誘うように押せば、即座に凛々と呼び鈴が鳴って、それだけで、もう次の瞬間には湿った声が耳元で聞こえている。(p.20)

プシュプシュというオノマトペはとうぜんpushを想起させます。電話の呼び出し音は普通「リンリン」だったり「りんりん」だったりするところをあえて漢字をあてて「凛々」とすることで、カタカナや平仮名では出せないイメージが膨らみます。

他にも随所にこういう楽しめる言葉遣いやレトリックがあって、ただただ日常の慣例にしたがって言葉を使っていては刺激されないような知覚を挑発してきます。こんな作品は、読み解くことそのものが快いですね。文字にフェティッシュになりすぎる作品だと読み手としては気持ち悪いし疲れるだけですが、これくらいだと適度でとてもリーダブルでした。

南木佳士「先生のあさがお」

出典:『文學界』2010年3月号
評価:★★★☆☆

長野の勤務医が、以前交流のあった「先生」からもらったというあさがおの種を、夫婦で育てる話。あさがおの成長とともに、昔の記憶がよみがえったり他人からきいた話が語られたり、意図してかせずか語りの仕掛けがいくつもあって読み物として楽しめました。エピソードの一つひとつはとても具体性があって、この書き手じゃないと書けないだろうなというような内容(カンボジア難民救援団での経験とか、東京帝大出身の医者が長野にやって来たときの出来事とか)。

発話を「」(カギ括弧)でくくることなく、前後一行あけて段落サゲで埋め込んでいます。地の文となんとなく地続きなようでそうでないようで、すくなくとも「」でカッキリと発話と地の文とを分けちゃうよりは、読んでる最中はそこの区別はあいまいでした。このあいまいさが、語り手の記憶のあやふやさとうまくマッチしているように思います。冒頭であさがおの種を手渡してくる女性のどことなく希薄な存在感に、この発話の処理はうまくはまっているなと思えました。幽霊話や幻想譚を書くときには、「」使わないほうが雰囲気だせそうですね。

まあ、この処理がわざとなのかそれとも南木の他作品にもいえる単なる書き手の癖なのかは、他作品読んでみないことには何ともですが。

書き手の経歴からすると、私小説と括ってもいいだろうこの作品。三木卓「K」を読んだときのような、単なる他人の夫婦のやり取りをべたーっと読んでうんざりという読後感をこの作品にもつことがなかったのは、適度な分量(100枚程度)と、先述の内容と形式にみてとれる「曖昧さ」の演出があるからでしょうか。やっぱ知らない書き手の作品を読むときには、一工夫ないと読めないなあ。

あとどうでもいいけれども、お葬式にモツレク流す「先生」ってところは想像するとにやけてしまいました。私小説として僕はうけとったのでこの部分ももとになるネタが実際にあったのだろうけれど、お葬式にモツレク、とくにディエス・イレなんかかかると逆に盛りあがってしまうんじゃないかな(笑)

先生のお葬式の日も雪が降っていた。セレモニーセンターのなかにはモーツァルトのレクイエムが流れていた。こんな曲が似合うお葬式は先生のしかないって思った。あたしが思いつくどんなひとのお葬式も、レクイエムが流れていたらしらけてしまいそうな気がする。(p.134)


参考:Requiem K.626 - 3. Dies irae - W. A. Mozart
指揮はベーム。コーラスはウィーン国立歌劇合唱団。
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読む人

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