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荻世いをら「逆光」

出典:『群像』2009年12月号
評価:★★★☆☆

素直に受けとると①突然死した夫の意識が妻の身体に入りこんでしまってまわりとちぐはぐがおこってしまうSFあるあるの話と読めるのだけれども、別の読み方としては②夫の死がきっかけとなって妻の意識ぶっとんで夫の真似をしてしまっているサイコ話とも読める。書かれてある内容よりもむしろ、③言葉の働きとして「私」に何でも代入できることの不思議を利用した言語トリックとも読める。いろんな可能性=読み方を楽しめる小説だと思いました。

素直に読んでごくごく単純に①と受けとると、うまく説明つかないところが残ります。例えば、夫が大学時代からの友人にお金を借りていたのだけれどもそれを全くしらないこととして片づけてしまうところ。②とうけとるとやはり説明のつかないところが残ります。夫の浮気が元で自分の身体に傷をつけていたにもかかわらず、それを知らなかったこととして不思議に思うところ。夫、妻という画然とした仕切りがとれて、双方の意識が癒着してしまったような話として結局は読みましたが。他にも何かこの不可解な状況を解く解釈があるのかもしれないけれど、ちょっと僕の貧相な頭では思いつきません(笑)。タイトルも、メタフォリックなもので絶妙。

荻世いをらは、この「逆光」もそうなのですが、読み終われば確かに小説なのだけれど、一つひとつのピースを嵌めていっても最後のピースがうまくはまらない、もういちど別の嵌め方でピースをうめていってもやっぱり最後の空白が残ってしまう、不条理なパズルみたいな作品をつくってくれる書き手です。どこかに引っかかりを残してくれる小説というのは読んでいて(読んだあとも)楽しいですね。たぶん理系だな。安部公房の、観念的なところ、理屈っぽいところを後景に退かせて、ちゃんと作品世界を作品世界として作ってくれる稀有な書き手で毎回楽しみにしています。

以下は本筋とはそんな関係ないけれど面白いなと思った表現。こういううまい描写をさりげなくやっちゃうところも力のあることをうかがわせます。

「え」

上は、作品の出だしです。不意にこの世界に引きずり込んでいくような冒頭。会話で始まる作品はよくハードボイルドで見かける気がしますが(ちゃんと統計的に調べたわけじゃありません、気がする程度です)、この短い「え」という出だしは効果的ですね。一音で何かを聞き返している、まさに会話の渦中にあって何か言った相手がいることを、たった一文字で表す。会話の中に読者はいきなり放りこまれるわけですね。

 枯葉の擦れ合うような声には、さらなる老いが見受けられた。紫色の血管の浮き出た、木綿豆腐のように肌理の粗い手の甲が、蛍光灯のフリッカーのように、よく見なければわからないほど、細かく震えていた。(p.146)

 ニイヤマさんはこちらの顔を嘲るようにして、その美貌を私の鼻の先まで迫らせてきた。ファンデイションの彫り込んだように鋭い香りが眼球へじかに触れて痒い。(p.151)

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木下古栗「いい女vs.いい女」

出典:『群像』2010年12月号
評価:★★★★★

初めて出た星五つ。デビュー作の「無限のしもべ」を読んだ時に虜になった作家なのでこの評価には多分に思い入れが入っていますが、もともと独断と偏見で星をつけている(独断と偏見を離れた小説の読み方があるでしょうか)のでご容赦を。これこそ現代の小説とよんでいいんではないでしょうか。もともと短編=短距離走向きの選手で、ネタをポンポン出していって支離滅裂になるというのが芸風の書き手ではあるのだけれど、この作品にかぎっていうなら、その手をかえ品をかえして息切れしそうになったらポンと話題を転換する、けれど転換したあとも「ワイルドとは何か」という問いを探求する(ふりをする)身振りを捨てなかったことが作品全体を貫く軸となってこれだけの分量をもつ作品として成立した勝因だろうなあ。言葉をかえれば、「ワイルド」でボケマショー(@ごっつええ感じ)を延々やってる感じ。ついでにいうと、芸人のすぎちゃんが話題になる前に発表されたこの作品ですでに「ワイルド」に目をつけてるところが妙ににやけてしまう(笑)

いちいち出てくるネタがいつも通り馬鹿馬鹿しい下ネタなのだけれど、やはりそれを読ませるレトリックや仕掛けが随所にちりばめられているのも見逃せないです。くだらないネタをさも真面目ぶって読ませてしまう文体の力と発想とが現代の日本人の書き手の中でも抜けていますね。

あらためて「いい女vs.いい女」を一つの木下古栗の到達点とする文体やアイディアの特徴をまとめてみたいと思うけれどもここではまあこの作品に限って気づいた点をいくつかラフスケッチしておくにとどめます。

これぬきに語れない特質として、随所に「矛盾、対立」を仕掛けるということ。わざとかどうかは判別しかねますが、ちょうど桂枝雀がいってたような、緊張と緩和の、緊張の部分。一文の中にも、テーマの中にも、全体を通して「矛盾、対立」を仕掛けておいて、うまく解消して、あるいはぶつけて、笑いに変換するというのが常套手段ですね。例えば意識と身体の対立。とくに、頭では分かっていても体が勝手に動いてしまうとか、目が勝手に引きつけられてしまうとか、「自然と」「おのずと」という言葉とかをよく使ってる気がします。

ハッと我に返り顔を背けて、小走りにその場を離れた。が、覗き見などしてはならぬという気持ちがまじまじとヌードを観察したい気持ちに負け、すぐ取って返してまた覗いた。(p.59)

一度は裸男のいる現場を離れようとするも、やっぱり覗きをしたいと思って足がそっちを向いてしまう。頭と足とが矛盾しますよね。他の作品でも木下古栗はこういうギャップを仕掛けていますが、本作でこの頭と身体の(古典的で紋切型の)対立が生きているのは、やはりテーマに選んだ「ワイルド」に尽きると思います。頭と身体は、言葉と行為と言いかえてもいい。

現代の、何もかもががんじがらめになって息苦しい時代、頭でなんでもコントロールしてしまう時代、その頭を裏切り、出し抜き、反抗し、組み伏せてしまうかのような身体の動きは、まさに「予想を裏切る」ワイルドに通じるものでしょう。ワイルドを通して人間の原初へ、根源へと回帰する。脳内に住みつく裸男が原始人を連想させ、バーの向かいのカウンターに座る女を見つめるあまり野獣に変身し、野外露出を楽しむ場所が俗世間から離れたどこともいえない楽園を彷彿とさせるのはだてじゃありません。どれも息苦しい現代生活のなかでワイルドへの衝動が一瞬噴出する場面です。今までの作品ではただ笑いのネタだった頭と身体の矛盾という仕掛けが、この作品ではワイルドというテーマのおかげで一つ深くなっていまね。

また、緊張の緩和のさせ方が伝統的な文学的手法、レトリックにうまくのっとっているので、「うまい!」と思わず膝を叩いてしまうのでしょうね。そんなに小説を読まない読み手だと、単に下ネタの部分だけに反応して笑うに過ぎないと思いますが(もちろんそれでも十分楽しめる)、ある程度小説を読んできた人(あるいはすでに物書きである人たち)の間でこそこの作家の評価が高いのは、ひとえに伝統的な手法を十分すぎるほどに使いこなしながら、馬鹿馬鹿しいネタを表現できる爆発力を備えているからです。本作の終結部分に近いクライマックス、「郵政民営化は野生化だ」との主張は、そこにたどり着くまでにさんざん「ワイルド」でボケマショーを手をかえ品をかえ繰り返してきて前ふりによって読者に準備体操させておいた挙げ句の、壮大な諷喩によるクライマックスです。諷喩ってなんだっけという人はレトリック辞典で調べてください。この、郵政野生化のシーンは文学の伝統と現代とがガチンコでぶつかった、近年の小説のなかでも屈指の名場面です。教科書に乗せたい。

長くなりそうなのでこの辺でやめておこう(笑)。もう少し詳しく、稿を分けて木下古栗の文体、語法について描いてみようと思います。時間ができたらですが。これと同程度の分量をもった作品をもう一つぐらい書いて、芥川賞は審査員の関係もあって無理かもしれないけれど三島賞はぜひとっていただきたいですね。この作家に書き続ける場を!

津村記久子「とにかくうちに帰ります」

出典:『新潮』2009年3月号
評価:★★★☆☆

突然の大雨で交通網が麻痺し、会社(もしくは塾)から歩いて帰らなくてはならなくなった大人3人と子供1人。大雨のなか単に駅まで歩くだけの、たったそれだけの話なのだけれども津村記久子の手にかかればこんなにドラマに満ちている。あらためてこの書き手のうまさを認識しました。

うまさの一つには、人の描き方、特に典型的な人間像からのずらし加減が絶妙な点が挙げられます。紋切型の人間から、超絶ぶっとんだ人が出てくるわけではなく、かといってそのまんまのありきたりの人物でもなく。また、駅に歩いて行くわずかな時間の間に、あまり交流のない者どうし、見知らぬ人どうしが、束の間の交流を通じて、つかず離れずさぐりさぐりのやり取りしながら次第に距離を近づける(だけどありきたりのドラマチックな展開には決してならない)変化を描けるバランス感覚。

人の描き方の上手さにくわえてもう一つは、小市民あるあるに妙に共感してしまうところでしょうか。例えば

「ハラさん」前を歩くオニキリが、突然振り向いて声をかけてくる。「すみませんけど、ハラさんが買ったお茶とか、ちょっと分けてもらっていいですか?お金は払いますんで」
 こいつ、あんなにポテトをもさもさ食っていたせいで喉が渇いたのか、とハラは呆れるが、ああ、お金はいいよ、などと気前よく言ってしまう。
「紅茶とお茶と生姜入りはちみつレモンがあるよ」
 腕にかけているビニール袋は、まだ温かかった。これは使えるかもしれない、と思う。レインコートの中に入れて上半身を温めるのだ。
「じゃあ、しょうがはちみつレモンをください」
 いちばん楽しみにしていた飲み物を指されて、ハラは微かに舌打ちをした。(p.63)

こんな感じ。ハラという女性会社員が、オニキリという後輩と偶然一緒に帰ることになった帰路、コンビニのポテトをもりもりたべたせいで腹をすかせたオニキリが飲物をねだって、一番飲みたかったやつをハラさんが飲まれてしまうという場面。この、ささいな違いに一喜一憂してしまうハラさんの小市民性と、幼さに妙に共感してしまいました。僕もあるなあ、こういうとこ。

ただ歩いて駅まで帰るだけの話をこれだけの分量、面白さを失うことなく描けることは素直にすごい。

赤木和雄「神キチ」

出典:『新潮』2009年11月号
評価:★★★☆☆

本気のもの胡散臭いもの含めあらゆるところに宗教が氾濫する現代。民間信仰や土俗的なものもふくめれば現代人とはきってもきれないテーマであるにもかかわらず、最近の書き手で本格的に宗教をテーマにした作家はいるでしょうか。新人作家(といってももう3年も前になっちゃいますが)のデビュー作で宗教をとりいれたことはまず評価したいなあと思います。ただ、真正面から宗教を扱うというよりは、宗教的なモチーフをいろいろ取りいれて笑い飛ばすという趣向が強いですが。

一つひとつの、コントみたいなシーンを積み重ねて作品を構成しています。それぞれのシーンはどれもばかげているものばかりで笑ってしまいます。宗教でボケマショー(ごっつええ感じ)というコンセプトとおもえなくもない。特に冒頭でてきた自殺者とそれを見守る二人のやりとりはオチも含めて秀逸でした。爆笑。

「アー待って待って」と若者が言って枝にくくり付けてあるロープを指した。「これダメですよ、このままじゃ。これユルユルじゃないですか。何やってるんですか、これ一番肝心な所じゃないですか。ボクが来なかったら、どうするつもりだったんですか」
 ベンチの上に駆け上がった若者は、男を押しのけ、「ヒュウルルル、ヒュウルルル」と妙な息遣いをしながら、先の輪になったロープに手を伸ばした。足の縛られた男は若者に押され、ベンチ上でよろけて若者にぶつかった。若者の首が勢い良くロープの輪の中へ入り、重みがかかってロープの輪が絞まった。若者の頭の豆電球がしばらくの間明るく点灯していたが、やがてフッと消えた。(p.69)

血圧があがると頭にとりつけた豆電球が光る若者が唐突に登場して自殺の手助けの手助けをしようとしていたら、間違って自分が死んでしまったシーンです。豆電球が頭についてるだけでもニヤニヤしてしまいますが、さらに死んだら「若者の頭の豆電球がしばらくの間明るく点灯していたが、やがてフッと消えた」この一文の余韻は半端ない。

赤木和雄と同郷のよしみで、水木しげる先生による漫画化希望。

墨谷渉「カルテ」

出典:『群像』2009年12月号
評価:★★☆☆☆

左右対称に偏執的にこだわる医師の手記の話です。他にも食事の品目、カロリー、飲み物はアルコールの度数まで書き留めたり、就寝時間は分単位で記録したりと、データに並々ならぬ執着を見せる男が、職場で左右対称の顔を持つ女と、これまた患者としてやってきた左右対称の身体をもつ男とに興味を抱き、もともとつき合ってた女をけしかけて患者の男とセックスさせてしまいます。データにたいするマニアックなこだわり、ふつうの人はとらわれないところにこだわってしまうフェティッシュな性癖、手記という体裁、周りの男女関係を巧みに操作して自分は覗きに走る、というところを取りだしてみると、谷崎潤一郎的なエロ小説の系譜にもつらなるのかなと思えますが、谷崎作品にみられる、匂いたつようなエロさというのは全くありません。ここで描かれているのは確かにセックスであったりフェラチオであったり、若い男女の裸であるはずですが、記述は左右対称にこだわる医師の眼を通してのものであるため、それを読む読者は(少なくとも私は)ぜんぜんエロさをもよおさせません。ファッションとしてではなく本気で機械に萌える人なんかはこの感性を理解できるのかもしれませんが。その辺は、共感できないとはいえ、性欲のなくなった谷崎潤一郎現代版みたいな感じもうけて、こういうこともあるのかなあと他人の変わった性癖を覗き見する感じで面白かったです。こんなふう。

つい数時間前にここで、あの地味で無機質だが機能的で機械的な身体が完全な無着衣で個人的な激しい動作を展開した。しかも左右対称の所有者同士によって。そしてわたしは目撃者(あるいは窃視者)として々空間にいた。(p.58)

硬質な語彙を駆使して、左右対称にこだわる医師の偏執性をうまくとらえる文体で、この書き方はこのキャラクターにぴったりはまって成功していると思います。

ただし、クライマックス(女と患者の男のセックスの現場に、医師が立ち会う)になると、それまでつづけてきた「普通はありえないけれど、この男の偏り具合ならあるかもしれない」と思わせるそれまで守ってきたリアリティの約束を踏み越えて、女と患者の男もこの男の世界に引き込んでしまうことになります。そうなると、それまでぎりぎりのところでバランスを保っていたリアリティがいっきに崩壊してしまう結果に。医師の男限定ならありえるだろう偏った世界観を、普通っぽい二人がいきなり受け入れてしまうことはないはずですもんね。その伏線、たとえば二人が左右対称にかすかにひかれる描写とか一切なく、この医師の男の世界観にひかれるというのは、無理すぎる流れで、端的に小説として失敗だと思います。かわった性癖をもつ男の手記として文体は成功していますが、一定のストーリーをもった小説としては説得力に欠けるように思えました。

谷崎由依「jiufenの村は九つぶん」

出典:『すばる』2012年10月号
評価:★★★★☆

谷崎由依のデビュー作『舞い落ちる村』に似ていなくもない、この本を手にして読んでいる読者にとって、時間と場所があいまいになるところの小説です。変ったタイトルですが、jiufenときくと千と千尋の舞台になった台湾の街を連想します。読んでいくともっと南の南洋諸島のことがお話になっているような、あるいはjiufenのずっと昔の話になっているような、やはり曖昧な感じがただよいます。読んでいるときの私のイメージは、ゴーギャンのタヒチものでした。ただ、時間場所を正確にどこそこ!と確定できないことがこの小説のポイントで、だからこそこの小説に出てくる人たちも今現在の私たちとは異なる風習、思考、行動をしてそのたびになにかおかしみがあります。

小説の仕掛けとしては上のような曖昧化にくわえて、音としての文字にもフォーカスしているところが読んでいて面白い。例えば、

土地には雨が降っていた。瀝青を塗った黒い屋根に、shitoshitoshitoとbarabarabaraと、音をたてて落ちてくる。屋根のしたでは飯を食っている。しとしとと、しょうしょうと、しょうぜんと静かに箸を動かし。(p.124)

櫃から冷えた飯を盛り、鍋から煮すぎた汁を掬う(p.124)

冥界からの魔物を祓うため、BunKABunKAと騒々しく打楽器管楽器を鳴らし(p.127)

上の引用以外にも名詞がアルファベットで書かれることもあり、日本語(漢字、カタカナ、ひらがな)でさらっといつもなら流しちゃうところに引っ掛かりをつくるのは新鮮でした。引用箇所でいえば、shitothitoshitoとかbarabarabaraというアルファベットのならびが、雨のオノマトペであると同時に、落ちてくる雨粒のようにも見えてきます。また、「屋根のしたでは飯を食っている。しとしとと、しょうしょうと、しょうぜんと静かに箸を動かし」の二文は、s音を巧くつかって、その直前のshitoshitoshitoの残響を引き受けていますね。

屋根のした(Shita)では飯(meShi)を食っている。しとしとと(ShitoShito)、しょうしょうと(SyouSyou)、しょうぜんと(Syouzen)静かに(Shizuka)箸を(haShi)動かし(ugokaShi)。

書かれてある内容だけでなく、音に注目させる小説って最近のものだとあまり見ないので久々感、新鮮感がありました。これだけやるなんて嫌味だろ、という人はナボコフ読んでみるといいよ。

次の引用部でも韻を踏んでいますね。櫃(Hitsu)から冷えた(Hieta)飯を(Meshi)盛り(Mori)、鍋から(Nabe)煮すぎた(Nisugita)汁を(Shiru)掬う(Sukuu)。音数も、七五調に近いので読んでいて不思議と心地よいリズムがあります。

最後の引用はなるほどなあと思ったんですが、リズムの拍(強弱)をとるときに、アルファベットにすれば大文字小文字の区別があるので、その違いを利用して、リズムの強いところ弱いところを分かち書きできるというところ。良書を翻訳をされている谷崎由依ならではの仕掛けでしょうか。あんまり見たことない表記の仕方ながら説得力があっておもわず呻りました。昔からある書き方だったらすみません(笑)

さて、こう書いてくると内容だけじゃなく音にも引っ掛かりをのこして、言語の振る舞いそれ自体を重視した詩的な作品にようにもとられかねませんがそんなことはなく、沢山の人物が生き生きと行動します。とくに、日本語話者(そして恐らく他のほとんどの言語の話者)なら当然起こっている事態を名指すことのできる言葉をもっているために、その言葉を使ってさっさと片づけてしまうような出来事も、この世界の人々は適切な言葉を持たないがゆえにいろいろ苦悩します。そのもどかしさがすごくコミカル。例えば、不倫とか間男という言葉をもたないために、今起こっている状況(ある男が仕事にでたものの都合悪く予定より早く家に帰ってきたら、その間に間男が自分の家に出入りしている場面に遭遇した男の話)をうまく理解できず苦悩するところなんかはこの作品中屈指の名場面です。

 先ほどああして振る舞っていたのは、あの女の亭主のように見えた。だがあの女の亭主というものは、この自分以外にない。ということは、とかれは考えた。──あの男はこのおれ自身なんだろうか。しかし、だが、そうなると、ここにこうして居てものを思っている、おれという存在はなんなのか?
 頭が痛くなってきたので、筵へ仰向きになった。(p.132)

ただあちらの自分のほうが、幾らか床上手らしかった(p.137)

こんな風にちゃんと物語や人物もあり、また書記方法に対する批評的なしかけもあり、ずいぶん楽しめる一作でした。お腹いっぱい。2012年10月号の『すばる』は分厚い特大号ですし、買っても損はしないはず!

朝吹真理子「家路」

出典:『群像』2010年4月号
評価:★★★★☆

文間の広さ狭さを小説の技法として広めたのは井上ひさしでした。文間とは、簡単にいうと文と文との間にある意味的なつながりの広さ、狭さのこと。あまりに広すぎると支離滅裂になってしまいますし、あまりに狭すぎると似たようなことが延々と反復する暑苦しい文章になってしまう。その間合いの取り方は書き手によっても、また作品によっても当然異なりますが、この作品「家路」の文間は、全体的に広いですね。一文ごとに共通するモチーフを飛び石として文間の広さ狭さをうまくコントロールし、時間的な進み具合の速さ遅さ、場所や位相の違いを、伸縮自在につなげたり切り離したりしています。おみごと。

 ひとりの中年男性が寝そべっている。明け方降った雨で石のにおいが湖畔にはこばれ、湾曲した岸辺には城址がみえる。夏深く、芝生もそれらしい青さで茂り、浅瀬で水浴する少年少女らがしきりと馳せ回っている。新聞紙や蛍光色のビニールテープがパラソルの間を転がる。いたって幸福な、書き割りのような景色のなかで、男はたるみのでた腹部にオレンジ色のタオルケットをのせ、湖水のむこうに聳える山脈の起伏のひとつところに目をうつしていた。とりたててめずらしくもないその岩肌に、海底で隆起し始めた何億という昔の造山運動のすがたをかさねてみていると、目の前に何があるのか、しだいにわからなくなる。山の稜線、岸辺に転がる岩も、人間も、輪郭というのがながめるうちにわからなくなる。(p.30)

この作品の雰囲気が予告されているかのようなばっちりきまった冒頭の一段落です。男の話が始まるのかと思いきや(第一文)、気候と風景(第二文)、またもどって男の周りの情景(第三文、第四文)、そしてここからグイッとアクセルを踏んで、男の腹のたるみから山脈の隆起へ(第五文)→時間を数億年早回しして造山活動に思いはせて(第六文)、ここまでの文章の連なりをまとめて作品全体の基調低音をなす一文へ(ラスト)。

時間も場所もぽんぽん跳んで、輪郭がわからなくなりますが、一文一文をばらばらにならないようつなぎとめているのは、しりとりみたいに前の文と後の文に共通するイメージを一本の線としてしかけているからですね。一つ取りだすならば、「曲がる」イメージがあげられます:湾曲する岸辺、おなかのたるみ、山脈の起伏、造山活動。

また書き手が自分の表現そのものに没入してしまうことなく、一種冷めた理性でもって言葉をコントロールしていることは、「書き割りのような」とか「とりたててめずらしくもない」という評価語に見て取れます。書いているそばから書かれたことばを突き放す、嫌味にならない程度にこういう批評性がある小説は信頼できます。批評性が皆無の小説には吐気がします。

冒頭だけでもこれだけの技法がさりげなく織り込まれて読んでことばの流れに身を任せる、そのことが楽しい小説でした。実力のある書き手だと思います。『流跡』にしろ『きことわ』にしろこの「家路」にしろ、わりと小説をよく読む層に好まれそうな作風ですが、いちどわざとベタベタの恋愛小説でも書いてファンをたくさん獲得したあとにまた書きたいことを書けば爆発的に売れるんじゃないでしょうか(笑)。全然作風や嗜好はちがうとおもいますが、村上春樹的な。

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藤野可織「かげ踏みあそび」

出典:『文學界』2010年12月
評価:★★★★☆

気づけば男性作家ばかり続いたので女性作家を。芥川賞の候補になった「いけにえ」で化けたなあと思った作家、藤野可織。この人に、「化ける」という言葉つかうと違う意味になりそうですが(笑)、とにかくぞっとさせる想像力を確かな描写で具体化できる素晴らしい作家さんじゃないでしょうか。日常生活も一皮めくればなにが潜んでいるかわからない、通りの裏、部屋の隅、クローゼットのなか、などなど。生活空間だけじゃなくて、そもそも人間も一皮めくればどんなものがつまっているのか、なにをおもっているのかわからないわけで、それをホラーなイメージとして描いてくれます。この作品「かげ踏みあそび」は一皮めくると赤いビーズ玉が溢れ出してくる。

長くない作品ですが、見せ方がしっかりしていて中盤の転調にいくまでにこっそりいくつも伏線を仕掛けています。赤いビーズ玉が出てくるまでに赤い丸の要素を、さりげなく、二回目読んだらなるほどーと気づく風に。サブリミナルに赤に注意するよう読者に刷り込んでおいて、中盤、鞠子の身体からビーズがじゃらじゃらじゃらじゃら溢れ出す場面は啞然とします。

あと特筆すべき点としては、幼さと境遇ゆえにかなにごとにも主体的にかかわることのできない智也の視点に近い語りを採用することで、要所要所の恐さが際立つということ。姉鞠子の言動も、その裏にどういう意図が潜んでいるのかあえて探ろうとしない智也なので、かえって読者には鞠子の不気味さが伝わります。また智也自身、再々目を固く閉じて耳も塞ごうとする現実逃避的な傾向がありますが、それでも伝わってくる音や振動を通じて、逆に視覚以外の部分が活性化して恐怖感を煽ると同時に、目をつぶっただけにかえって自分のなかで妄想が膨らんでこれまた恐怖を昂進させてしまう。そういったあたりの描き方も非常にうまいですね。智也、逃げてー!という気持ちで読んでしまった僕は、まさに次に何がおこるかうっすら予感しながらホラー映画を見ている観客さながらでした。しかも藤野可織は、そういった観客の予想もみとごな描写で裏切って別次元の世界につれてってくれる。

智也の妄想を最後に引用しておきます。

自分の腹めがけて仲間のカブトムシたちが降ってくる。声も立てずに腹や脚、角、あるいは背が迫ってきては積もっていく。それらはコーラそっくりの色艶に照り輝いている。それから、粉が降る。透明のような白いような、少し光るような光らないような、ばらばらかと思えばくっつきあって大きな塊で降るものもあり、彼はそれを舐めたいと思う。上に重なるカブトムシたちのせいで、彼のところにはわずかしか届かない。せっかく届いた数粒の砂糖も、彼の角や脚の付け根に落ちるばかりで、口には入らない。最後に、水が降る。さっき振りかけられた砂糖の一部が溶け込んだ、ほんの少しだけ甘い水だ。ずぶぬれになりながら、彼は舌を出して水を受ける。このようにカブトムシは甘いものが好きで甘いものをおもに食べているのだから、その体もおそらく甘いはずで、とすれば尚更コーラである。彼は今からコーラになる。水位は彼の背中を浸すくらいでとどまっており、背中に、すぐ下のカブトムシたちの溺れもがく感触がある。もうだめだなあ、と思う。だって、もうじきミキサーがまわる。ギューッという轟音とともに、なにもわからなくなる。炭酸の一粒一粒は、無数のカブトムシたちの最後の一呼吸だ。(p.68)

自分とカブトムシを想像の中で溶け込ませ、砂糖をふりかけて、ミキサーでグシャグシャに混ぜてしまう。細密に写実的に描写するとグロテスクそのもので吐き気を催しますが、ここでは子供の幼い空想というオブラートにつつんで、さらに使われる小道具が砂糖やコーラや炭酸といった甘さを象徴するものなのでこれもグロテスクさを中和しています。つくづくうまいなあ。また読みたい作品です。

石川淳「紫苑物語」

出典:石川淳『紫苑物語』(講談社・講談社文芸文庫・1989年)
評価:★★★☆☆

僕が何度も立ちかえる作家のうちの一人石川淳。小説を読んだときに、石川淳印といってもいいような独特の言葉はこびが再読するつど思考を刺激してくれる気がします。表題作「紫苑物語」は石川淳の小説にはいるときに一番いいんじゃないかなと思う作品です。一言でいうなら弓をモチーフにしたアレゴリカル(諷喩的)物語。

対立物をぶつけて弁証法的にさらに高い次元で対決させて、という話の運び方は多分に図式的です。悪い意味で図式的というんではなく、作品の構造がかなりあけすけに見てとれるだけに、その構造をつかって他のものを考えるときに役立てることができる、応用力のある図式。本作では、歌と弓、いいかえると知力と武力とがまず対決し、その対立が解消した後に、弓と宗教、言いかえると武力と霊力とが対決します。知力、武力、霊力というのは古代から支配者が被支配者をコントロールするうえで独占しようとしてきた力です。その対決であるわけで、時代をずらしても十分通じる話ですね。天皇制でもいいし、『至福千年』に描かれた江戸時代でもいいし、現代の国際政治にも使える図式です。

再読してみて、なかなか面白い箇所があったので引用しておきます。やられ役臭がプンプンする小役人の藤内をさげすむセリフ。

笑止のきわみながら、藤内はうまれついて陽根のあわれにも小さく、しかも皮かぶりにて、ひとなみの役にはたちかねるものなれば、当人もみずからふかく恥じて、これはひとには見せもせず語りもせぬことでございます。まして、このちび筆をもって、ほかならぬ姫のお相手に、恋の手習いがかないましょうか。(p.64)

下ネタについつい魅かれてしまうのは僕の個人的な趣味かもしれませんが、下ネタいうにしてもこれくらい気の利いた言葉で語れる知性が欲しいです。これは紫苑物語中屈指の名台詞。

他にもさりげない描写に光る名人芸、メタファーの使い方、動作動詞はじめ語彙の豊かさ。いちいち例は取り上げないですが再読するたびに感心する表現があるのはいい作品である証拠ですね。

梅崎春生「幻化」

出典:梅崎春生『桜島・日の果て・幻化』(講談社・講談社文芸文庫・1989年)
評価:★★★☆☆

梅崎春生第二弾。「桜島」の妙な魅力にひかれて、同じ文庫に収録されている「幻化」を読んでみました。こちらは、「桜島」と比べると老成した感があり、筆の赴くままに思い出すことをぽいぽい書いていったというような感じ。妙な力みがなくってすらすら読めました。会話も多かったしね。

精神病院を抜け出した語り手の五郎が、飛行機に乗って大分に降り立ち、そのまま若い頃住んでいた熊本周辺をぶらついて最後は阿蘇を目指すという内容。筋だけをまとめるとこうなっちゃうんですがこの小説の面白さはこんな筋にはなくってむしろその場その場で思いつきのように書きつけられる感慨や、ふっと浮かんでくる過去の思い出、現地の人たちとのゆきずりの会話、そういったところがふわふわつかみどころなく楽しく読めます。寝ぼけてとりとめのない夢をみているような感じでしょうか。

自分の今いる状況をびしっと整理してみせたり、分析的な思考を展開してみたりが見られないのは、「桜島」同様です。梅崎のよさは、誤解をおそれずにいればあまり賢くないのだけどなにかこう、こだわりたいものがあって(それは作中でははっきり語られません)、そのこだわりに決して肉薄はできないのだけどその磁場にはとらえられて、まわりをぐるぐるとまわり続けるような、永遠に迂回し続けるところにあるのだと思いました。

ぐるぐる迂回すること自体は他の小説にもみられるけれどそこで無理にさかしらにはならず、高踏にもならず、晦渋にもならず、ただ「なんとなく」ぼやぼや考え続ける。考える、という言葉をつかうのも憚られるくらいとりとめのない思いつきが延々繰り返す感じ(笑)

梅崎春生「桜島」

出典:梅崎春生『桜島・日の果て・幻化』(講談社・講談社文芸文庫・1989年)
評価:★★☆☆☆

ふるいやつ読もう第二弾。梅崎春生の「桜島」。出だしが有名ですよね。

七月初、坊津にいた。(p.51)


戦争がおわってすぐこの作品の執筆にとりかかったらしく、自分でも起こった出来事をどう総括してよいかわからないかんじでバーッと書き出したような印象をうけました。何か語らずにはおけない、けれどその書きたい気持ちに文章の技術がおいついていない感じ(笑)。その文章にやどる、ある種へたくそさは全体を通してみれば単にへたくそなんだけど、場面によっては著者の狙いはたぶんなかったろうけれどもコミカルな効果を与えているところがあって、部分部分ではヘタウマ感を味わえる作品となっています。

 軍人以外の人間には絶対に見られない、あの不気味なまなざしは何だろう。奥底に、マニヤックな光をたたえている。常人の眼ではない。変質者の瞳だ。最初に視線が合ったとき、背筋を走りぬけた戦慄は、あれが私の脅えの最初の徴候ではなかったか。私が思うこと、考えることを、だんだん知って来るに従って、吉良兵曹長は必ず私を憎むようになるに決っている。それは一年余りの私の軍隊生活で、学び取った貴重な私の直観だ。あの種類の眼の持主は、誤たず私の性格を見抜き、そして例外なく私を憎んだのだ。
「苦手!」
 私はそう口にだして呟いた。(pp.62-3)

帝大生の軍人嫌いといってしまえばそれまでかも知れませんが、世間での学歴と軍隊内の序列にギャップが生まれて、しかも先任の兵曹長が理不尽に新兵をいじめたおすだろうという予感にとらわれる場面。「苦手!」と一言叫ぶなんて現実にはないはずで──もっとリアリティだすなら、「嫌だ!」とか「ああああ!」とかでしょうか。苦手を単語でぽんと出しちゃうのは書き言葉です──そのありえない言葉あポンと出されるところが、ロシア文学(ただし翻訳もの)にありそうなセリフで、思わず吹き出しました(笑)ゴーゴリの喜劇ものとかイメージ。

読んでいて語り手の思考はシャープじゃないですが、それでも語り手の学歴の高さ、しかも一中→一高→東京帝大という生粋のエリートではなくて、地方出の頭が悪いがプライドは高いという傍流のエリート性をうかがわせるのは、上の引用部にみられる「私」「私」の連発、内面の思考をぐるぐるめぐらせること、考えることにこだわり続けること、コチコチの職業軍人を毛嫌いすること、文体からいえば前言撤回や訂正を過剰に連発することからよく分かります。

作品世界を通して作品世界の向こうを想像してみることもできます。本作では、吉良兵曹長が職業軍人の嫌な部分を体現する人物として造形されていますが、しかし嫌な部分は直接は描かれない。新兵いじめしているところも語り手が途中から介入して辞めさせますし、殴り合いになるところも語り手は直接見ていない。こうして目をそらしているのは語り手であると同時に、書き手である梅崎春生です。暴力やいじめを直接描けないほどに軍隊生活でよっぽどつらい経験をしたのか、しかし軍隊嫌いはそこここで表出するし、周囲の軍人たちには終始違和感を感じているし、吉良兵曹長に対してはこんな嫌な奴!という感じでそこここで嫌悪感の表明をしている。ちなみに吉良兵曹長は語り手に直接手を加えることはないですし、陰湿ないじめというのもここの描写の限りではありません、それにもかかわらず、職業軍人の嫌な奴ステレオタイプである吉良兵曹長への嫌悪は半端ない。

そういうごちゃごちゃした違和感を、しかしながら、整理できるほどのシャープさがないのが梅崎春生の限界であるとともに、それは裏返せばごっちゃになった感情の生々しさを余計な修辞なしにできるだけそのまま伝えることが、本作の「今だ自分で整理もついていない気持ちありのまま」に肉薄するよさになっているのだとも思います。

したがって、修辞的な効果を狙ったところは作為性が目だってあまりうまくない。この作品を書いた時点ではそれほど散文修行もしてないはずですよね。ただし、そのうまくなさが一周まわって笑いを誘ってしまうのは、著者の計算では絶対ないと思いますが、その天然の産物です。そういう怪我の功名の例が以下。時間があるときに雑談をしにいっていた偵察兵がグラマンの機銃にやられて死んだ場面。

 死体が僅かに身体をもたせかけた栗の木の、幹の中程に、今年初めてのつくつく法師が、地獄の使者のような不吉な韻律を響かせながら、静かに、執拗に鳴いていたのだ。(p.109)

地獄の使者のような韻律を響かせるつくつく法師(笑)。「こいつら軍人と俺とは違う」と日頃考えていたとはいえ、戦友の死を目の前にしてこういうレトリカルな、余裕すらのぞかせる語りをしちゃう意識は、この場面に立ち会っている「私」ではなくて、戦後これをかいている梅崎自身の冷静な、出来事と距離をとることのできた意識でしょうね。この大仰な表現に思わず笑いましたが、大藪春彦の『野獣死すべし』を思い出しました。

計算しつくされた冷たく美しい完全犯罪の夢が頭中にくすぶり始め、やがて積もりつもった彼の毒念はついにその吐け口を見いだし、次第にそれは確乎たる目的の型をなした。失った己れを見いだした邦彦は、絶望の淵から死と破壊をもたらすために、苦々しく蘇生したのだ。(p.28、『野獣死すべし』新潮文庫)

安岡章太郎「海辺の光景」

出典:安岡章太郎『海辺の光景』(角川書店・角川文庫・1979年)
評価:★★★★☆

第三の新人の作品は高校のときに一通り読んでみたくらいでさして印象にものこらず内容すら忘れたもののほうが多いですが久々に読んでみた『海辺の光景』(うみべ、じゃなくて「かいへん」とルビがついています)はなかなかよかった。作品と読者の出会いって早すぎたり遅すぎたりすることがあって、適当な時期に出会わないとあまり意味のないすれ違いに終わってしまうな、思ういい例でした。

東京で暮らす主人公の信太郎が、母キトクの知らせをうけて高知の精神病院に赴き、職業軍人だった父とともにその死までの九日間を過すという話です。単に死んでゆく母を看取る、いってしまえばそれだけの話なんですがこの話の背景にあるテーマは、いくらでも大きなテーマとして取りだせるものが盛りだくさん。父と子の葛藤であるとか、そこに母を交えた家族の崩壊であるとか、戦後社会で苦労する一家の物語とか、「恥ずかしい父」ものの系譜とかとか。

ただ、こういった大きなテーマをいくつも抱えながらも、江藤淳の『成熟と喪失』や、あるいは蓮實重彥による文庫版解説「真実と「軽症の狂者」」でも読んどけばよいのであえてそういうところは脇に置いとくとして、それでも一つひとつの端正な描写、比喩の使い方のさりげないうまさのほうに惹かれました。

太い指先につまみあげたシガレットを、とがった脣の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸い込むのだ。(p.17)

信太郎が心理的懸隔を感じている父・信吉の煙草をすう仕草を眺める場面。「窒息しそうな魚」という言い方じたいは平凡ですがそのあとの「エラ骨」というのは当然魚の鰓と人間の下顎つけねのでっぱりを重ねられるし、父に対する疎ましさ、遠さというのもこの仕草を描写する仕方から伝わってきますね。息の詰まる感じ、せせこましい感じ、人間に決して近くない魚に喩えること。

父に対する描写はこの「遠さ」の感覚をやはりにじませます。別の場面で、父が弁当を食べるところ。

まるでそれ(弁当を食べるしぐさ:引用者注)は機械が物を処理してゆく正確さと、ある種の家畜が自己の職務を遂行している忠実さとを見るようだ。(p.27)

比喩をふたつ重ねていますね。でもしつこくない。機械と家畜、つまりモノと生き物というある点からすれば正反対のものを並べながらも、その二つに共通する性質、ここでは自分の意思で行動していない主体性の欠如、なすがままもぬけのから状態、を、父を象徴する特徴として重ねあわせている。けっこうアクロバティックだけどもさりげなくやっちゃうところがすごいですね。

他にも学ぶべき表現はたくさんあります。テーマ批評についてはたくさんの評論家先生方がすでにやっているでしょうし、自分にびびっとこない限りはそっちを読めばすむ話なのではしょりますが、古い作品にはこういう表現がまだまだたくさん埋もれていて、その一つひとつを味わうだけでも価値がありますね。再読の効用をあらためて感じました。

長島有「問いのない答え」

出典:『文學界』2012年10月号
評価:★★★☆☆

作品の終りに「〈連作四・了〉(p.77)」とあるからこの作品にくるまでに3作あったんでしょうね。先日読んだ阿部和重作品と同じ感じでこちらもこれ一作だけで独立して読めました。

ネット上でツイッターやフェイスブックを通じて、つながっているようなつながってないような人たちがすれ違ってゆく中、一人黙々と巨大掲示板に行動や心情書き込み秋葉原に事件を起こした加藤容疑者のことについて描かれてあります。普通に暮らしている人はいまや直接会えない人にたいして、その人にどうせまるか考えるといくつかの言葉があるというのがこの短編の一つのキーでしょうか。もちろん連作なので他も読んでみないと全体のテーマはわかんないですが。

駆け出しの小説家として専門学校で講義をうけもつサキが、「この世に作用する言葉には、報道と、文学と、長淵の言葉がある」というところがおかしみもあり、一つの真実もあり、作中人物たちは大爆笑したとありますが、妙にあと引く言葉として心に残りました。

一つの極端なケースとして加藤容疑者に迫る言葉を探るときに、報道のように(ナイーブな紋切型と知りつつ)正確をめざす言葉があり、そこから漏れ出すもの隠されたものを引き出そうとする小説の言葉があり、有無を言わせず人の芯にガツンと響いて行動させてしまう言葉があり。もちろんこれ以外にも「何種類もの言葉がある(p.75)」はずで、そのまだみぬ言葉、語法を探求するのが小説の生きる道なのかもなあとぼんやり思いました。ほんとぼんやりと。

問いを後から発表して先に答えを募集するツイッター上での遊びが出て来ますがこれがいまいちでした。未分化なそれぞれのつぶやきとしてどんどん流れていく言葉があることはわかるのだけれども、それが作品のなかでどういう位置づけなのかよく分からないのと、単によせられる数々の回答が面白くない(笑)。一般の人が反射的にほいほいしたツイートなんてじっさい考えてみればもともと面白いものではないですね。面白さを求めた僕が間違いでした、すみません。…と書くはたからおもったのは、加藤の言葉が独白だったのにたいし、ツイッターの言葉は独白でありながら他人の目も意識する点で違ってくるのかな、そしてその違いが加藤と一般人との違いで、もし加藤がツイッターを使いこなしていたら、あるいは一般人のなかの同じような人がツイッターを使っていなかったら、結果は入れ替わっていたかもしれない、というような恐ろしく単純なことを言いたかったのでしょうか?うーん、やっぱりよくわかりません(笑)

木村友祐「天空の絵描きたち」

出典:『文學界』2012年10月号
評価:★★★☆☆

基本に忠実でいい小説でした。ビルの窓ふきを受注している会社の社員たちの小説です。展開はある程度読めてしまう部分があるものの(危険な現場で作業する人たち、頼りになる先輩、今度映画いこう、とくれば先輩死亡フラグたつでしょう、そりゃ)、人物や仕事状況の描写が丁寧なのでそれほどわざとらしさは鼻につきませんでした。ワルモノにも共感できる面があったり、イイモノにも下卑た部分があったり、登場人物が結構いながらそれぞれ多面的な側面が描かれていたのも読んでいて、ああこういう人いるいるという感じでリアリティがありました。

窓ふきの描写一つとっても、単なる説明とは違った、やりがいのある仕事だなということが伝わってきます。

ほかのみんなにくらべて一際大きい権田の背中が、腰を中心にして左右に振られる。どこにもムダのない、なめらかな動き。窓に塗られた水が、まるで折り紙でも折るように、きれいにひとつにまとめられていく。その奥から、つやつやと洗いたての窓が現れる。(p.108)


最後の場面も言葉の選び方が良かったです。権田さんことクマさんが落下事故で死んでから、その弔いのようにクマさんの拭きのこした窓を同僚たちが拭きはじめる場面。

「大丈夫。あのやさいいクマさんが、見守ってくれてますよ」
 その言葉でからだのこわばりがほうっとほどけていく感じがした。小さくうなずき、息をゆっくり吐いて、彼女はもう一度、左右の手のなかのロープをにぎり直す。そう、今までどおりに。習った手順どおりに。あの焼き鳥屋で権田が見せた、ヒゲ面のおっきい笑顔が思い浮かんだ。心のなかで彼女は、見ててください、と語りかける。(p.156)

言葉の選び方としては、「ほどける」というチョイスがいいですね。このラストにくるまで一本のロープが人の安全をつなぎ止めたり、逆に奪ったりしてきた、そういう描写を積み重ねておいての、こころが「ほどける」はなかなか味わいある表現だなと思いました。たくさんの人に読まれるといいな、と思える小説でした。

あとあんま関係ないですがまわりから「おしゃべりクソヤロー」とよばれている苅田さん。これはアメトークの有吉が品川祐につけたあだ名が元ネタでしょうか(笑)

阿部和重「□冬」

出典:『文學界』2012年10月号
評価:★★★☆☆

変ったタイトルで「□(しかく)冬」。SF短編です。身体部位を交換できたり東京で銃撃戦や爆弾事故があったりどことなく攻殻機動隊とか、伊藤計劃『虐殺器官』とかを思い出しました。この世界独特の組織や直接は登場しない人名らしき名前(人というより人に似たアンドロイドかロボット)も出てきたりして、とても短編には収まりきらない世界観を展開している作品、と思っていたら阿部和重ツイッターにこの作品のことがツイートしてありました。

【文學界10月号】阿部和重「□(しかく) 冬」は、スタンリー・キューブリック監督がスプラッターを撮ったかのようなグロテスクかつ美しい短篇。意外にも小誌に掲載される同氏の初の小説。「真夜中」誌に「春」「夏」「秋」と掲載されていた連作の最終話です。

だそうです。先行作3つがあったんですね。ただこの短編は短編で分からない部分はそのまま受けることもできてそこが奥行きの深さスケールの大きさを仄めかしてもいるので、これ一本だけでも楽しめます。

気になったというか、あれそうだっけ?、と思った点が一つ。阿部和重って会話を書くのがこんな下手でしたっけ?かなり説明的な会話が続いてわざとらしさが目についてしまいました。同様のことは『クエーサーと13番目の柱』のときにもふと疑問に思ったんですが。水垣鉄四が質問→烏谷青磁が解答、という順番で話が進められます。地の文にしない分臨場感は出るには出るんですが、一方で話を進めるためだけの会話という印象をうけました。

SF、とりわけ近未来設定でロボットやアンドロイド的なものがドンパチやる世界観がすきな人は楽しめる一篇じゃないでしょうか。

広小路尚祈「うちに帰ろう」

出典:『文學界』2010年4月号
評価:★★★☆☆

広小路尚祈というとデビュー作のオフビートな調子が僕には印象深かったんですが久々に本作で読んでみると、「自然体」という言葉が似合う作家だと思いました。「お文学」のダサさにはまらない、肩の力の抜けた、文章は読んでいて非常に心地よかったです。ヘタすると、この「さらさら書けている」が「だらだら書いちゃう」に転化しちゃうんですが(後者はお年寄りに多い)、キーフレーズをうまくはさんで作品のリズムを作っていたり、ここぞという箇所で絶妙な比喩を使っていたり、また人の描き方も中心となる人物とその周辺の人間たちの描き分けがさりげなくうまいし、まあとにかく、長くない作品ですがいくつも印象に残る場面がありました。面白かったー。

以下、印象に残った個所。

微笑った美和さんの唇の端と眉毛の尻がきゅっと上がり、鼻に細かい皺が寄った。この皺は、可愛い。皺の寄った鼻梁の中央を人差し指で抑えて、親指と中指で丹念に皺を伸ばしたら、カーネーションが咲くのではないか、と思えるほどに、可愛い。(p.18)

もちろんカーネーションは咲きはしませんが(笑)、可愛さの表現として「カーネーションが咲く」ほどという言い方は新鮮でした。凡庸な書き手なら直喩で「○○のように」と処理してしまいそうですが、「咲く」という動きを伴った動詞(蕾の状態からパーッと花開く)を使ったことで読み手の感情にも動きが出て華やぐことと思います。またカーネーションというのも美和さんという「母」にふさわしい花ですし、カーネーションそのものの可愛さというのは、バラやユリにはないささやかさ、可愛さというのがありますね。おもわず「うまい!」と膝を叩きました。

この腰。この腰につい目が行ってしまうのは、たまに下着がチラリとするからでもある。肝心な部分には最も遠い、腰の辺りの布を見ただけで欲情をかきたてられるほど初心ではないが、問題はその先。おれの頭の中。その布は、肝心な部分に必ず続いている。いわば肝心の末端。葉を見て木を想像する、海を眺めながら遠くアメリカを思う、そういうことである。(p.28)

人妻美和さんのローライズからチラ見えするパンツとその先に思いを馳せる部分です(笑)。何より目を引くのは、「海を眺めながら遠くアメリカを思う」という表現の壮大なばかばかしさですね。素人だとこれが書けたら悦に入ってしまうはずですが、広小路尚祈がプロなのはその壮大な喩えにいくまえに一つ、「葉を見て木を想像する」というワンクッションを入れているからです。三段跳びでいえば、布が見えている(ホップ)→葉を見て(ステップ)→海を眺め(ジャンプ)という跳躍をするうえで、ステップの部分があるからこそ最後のジャンプで遠くまで飛べる、そういう表現です。うまいなあ。最後の最後にある、「そういうことである」という言葉もきいていますね。「海を眺めながら」の壮大さ、馬鹿馬鹿しさに突っ込みがあるかもしれないのを制して、「そういうことである」と括ってしまえば読み手のほうも突っ込みの矛先を収め、「そういうことなのか」と強引に説得されてしまいます(笑)。

ここで取りあげたのは印象に残った比較的細かい部分ですが全体を通して、さりげないうまさみたいなものが漂う作品でした。他の作品も読みたくなるなあ。

片瀬チヲル「泡をたたき割る人魚は」

出典:『群像』2012年6月号
評価:★☆☆☆☆

言葉の無駄遣い、ぼやけた比喩の乱用、貧しい人間関係、幼稚な人物造形、中途半端な世界観、古今東西散々描かれてきたモチーフのなんの工夫もない利用。新人の作品を読むときはちょっとくらい雑なところがあってもこなれないところがあっても、「新人だから」という意識が働いてそういうところも「むしろ味」として読むようにしていますが、この作品に限って言うと読み進めるのが苦痛でした。苦痛の理由は冒頭にあげたようなもの。

幼稚なナルシシズムがいたるところに充満していて、書き手が自分の小説を批判的にみる目を全く持っていないことを露呈しています。比喩の乱用でイメージがぼやけ散り散りになってしまいます。

人魚というのは、二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせるようにしてできあがると思っていたのに、そうではなかった。(p.61)

直喩は本来、知的な操作に基づくレトリックのはずです。「○○のように」というフレーズは普通○○の部分に誰しもが了解しているようなものを持ってきて、その○○とは容易に結びつきそうもないものと結びつけて、「ほら、似てるでしょ」と指し示すレトリックです(見たこともないもの、聞いたこともない言葉で表現するタイプの比喩については高度なのでここでは触れません。)。そしてその「ほら、似てるでしょ」にどれだけ多くの人が納得するかが直喩のキモ。かつ納得すると同時に意外性もあればそれがよい直喩です(「想像もしてみなかったけど、言われてみればたしかに似てる!」)。ところがこの引用部では、「二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせる」という事態が、少なくとも僕には全く馴染みありません。花びらはふつう扁平でペラペラなもの。それを蜂の針(蜂を潰して抜き取るのでしょうか?)で縫い合わせるとはいったいどういう事態なのか。しかもそれがちょうど、人魚の上半身と下半身がつながる仕方と同じであると思っていた(実際にはそうではなかった)、とのこと。上半身の人間にしろ、下半身の魚にしろ、花弁のように薄くペラペラでしょうか。僕には全くそのようには思えません。この直喩に納得できる人は頭の中がお花畑でしょう。

僕が恣意的にできの悪い箇所だけを取りだしていない証拠にいくらでも上のような不鮮明な直喩が取りだせます。直喩に限らなければもっと。

薫の両足は、分厚い辞書を閉じるように隙間なく結合した(p.61)

辞書の文字が紙から浮かび上がってごちゃまぜに黒く黒く重なり合うように、言葉ではなくなった苦しみで頭が埋まっていく。(p.62)

ネコジャラシの王様みたいな花を咲かせる菖蒲(p.65)

山に走る亀裂のように乖離している布団の間に、二人のこぶしが落ちる。(p.75)

書き写すさきからキーボードが腐る気がします。これらのどこが駄目な直喩かわからない人はおそらく著者と同じ言語感覚の持ち主なんでしょう。おめでたい。

人間関係にしても、瀬戸君にしろ村井君にしろ山越君にしろ、どの関係も「恋」とは異なるとたびたび言われますが、そもそもこの作品の中で「恋」がどのように規定されているのかはっきり述べられていません。「恋」するかどうかが作品の重要なキーとなっているはずなのに、そもそもの「恋」がぼやけているのではなんもいえねえ。どの男性の造形も類型的すぎて、かつ主人公の女に都合よくつくられすぎていて、全くの失敗。「飲物を配達して暮らしている魚になりたい願望の女(20過ぎ)」になぜこうもまわりの男たちは優しいのか全く理解不能です。いい歳してぺんぺん草と遊ぶような瀬戸君の感性を理解できるお花畑の読者なら理解できるのでしょう。

人物造形の失敗についても延々ダメなところをあげられますが面倒なので一点だけ。「顎の下とか耳のうらとか、眉間だとかに、コメ粒よりおおきい絵の具をつけている」絵描きの瀬戸君ですが、クローゼットには「白いワイシャツしか入っていない」そうです。顔の汚れてしまう状況にある絵描きの男が白いワイシャツしか着ない(汚れがあるという描写はなし)というのは極めて現実感に乏しい。これは作品の中の生きた人物というより書き手の趣味か、単なる不注意な描写です。現実の美大、芸大前をちょっとでもうろつけば、みなさん結構ガテン系のつなぎとか着てドロドロに汚れながら作品と格闘していますよ。とにかく妄想先行で生み出された瀬戸君。人物造形の甘さにも目をつぶって、瀬戸君すてきーといえちゃう人はお花畑なんでしょう。

魚屋ガテン系の村井君、アート系夢追い人の瀬戸君、唐突に現れて求婚する大金持ちの山越君。あまりにも類型的すぎて(何十年前の少女マンガでしょうか)お話にならない人物造形ですが、寓話として一定の役割を与えられているのかもとも考えました。アリとキリギリス、みたいな典型を通して何かを語ろうとする諷喩的手法を使っているのならそれはそれで納得もできますが最後まで読んでも決してそうは思えない。近現代のセクシュアリティ研究の枠内でこの作品の人間関係も語れそうです。なんの新しさもない。

それに、寓話にしたって世界観の構築が極めて中途半端です。様々な色の泉がきれいな水を湛えている島の右側だとか、ピタニィという変わった飲物だとか工夫しようとする姿勢はうかがえるものの、一方で小学校中学校高校だとか、原チャリだとか、寓話にはそぐわないあまりに現実的な単語が安易に使われてしまいます。結局書き手の頭の中で、この世界を突き詰めていないからこういう甘さがでちゃうのでしょう。人魚を使えば即寓話になってしまうわけではありません。「人魚になってみたーい!」「ピタニィ気になる!」と言える人は、この世界観に対してあまりにも(略)

新人の作品ということを割り引いても、僕の目には駄目なところしか目につかない作品でした。根底にあるどうしようもない幼稚なナルシシズムがずっとつきまとい、小説のよさげなところを徹底的に台無しにしています。僕のいうことが理解できない人は例えば次のような仮定をしてみてください。この作品をお笑い芸人のなかから、ナルシスティックな人を選んで演劇にしてみるのです。主人公の女はアジアン隅田、瀬戸君はノンスタ井上、村井君は狩野英孝、山越君は南キャンの山ちゃん。これらの芸人たちが自分の容姿と演技に酔って舞台に立つ「泡をたたき割る人魚は」。とても見れたもんじゃありません(恐いモノみたさしかありません)。

群像の下読み委員の方、これのどこが他の候補作より優れていると思われたのでしょうか?

佐飛通俊「さしあたってとりあえず寂しげ」

出典:『群像』2012年8月号
評価:★★☆☆☆

派遣社員の女の子のお話です。三人称一視点(岸田菜子という30過ぎの派遣社員)で語られるものの、地の文でかなり書き手=佐飛通俊の声が全面にでてしまう印象でした。奥付の著者紹介を見ると、「作家、評論家」とありますし、となれば書き手の声というのは、評論家としての声のことかと納得。

ミッション系の女子大をかなり成績優秀で卒業した菜子、という設定なので小難しいことを考えるというのは一応わかるものの、菜子の周りにある事物や関係についていちいち「これってこういうもんでしょ」「これってこういうもんでしょ」というコメントというかパラフレーズがかなり浮いてしまっています。小説の中に批評的な要素は必要だと私は考えますが(むしろ、それがない小説は読めたもんじゃない。経験上)、それが出すぎると、小説にしなくてもいいんじゃんと思ってしまいます。小説を書くなんてまわりくどいことせずに、素直に評論なり論文なり書けばいい。

作品の背後に透けて見えるテーマとしては、システム化してしまう社会、自由の度合いがどんどん狭くなってしまう現代において、自由の領域は可能か、ありきたりの成り行きを回避することはできるか、という古典的な問いが据えられています。近年の作品だと、諏訪哲史『アサッテの人』が最も先鋭な形で、しかも小説でなければならない形でこの問いに挑戦しましたが、それに比べると本作はどうしても「小説らしさ」がない様子。

上の問いをずらして答えようとするからこそ「アサッテ」というねじれの位置にある概念を持ってくる必要があったわけで、この小説はそういう「ずらし」を全く考えず、真正面から問いにぶつかってしまったことで小説として失敗してしまいました。その敗因は、菜子の大学時代の同級生(彩音)をできるだけ紋切型の人間に造形しておいて、それとの対比で菜子の紋切型から逃れようとする姿を浮き彫りにしようとする仕掛けでしょうか。これだと何か異なる要素を二人の土俵にもってこないと、結局「あれか、これか(菜子か彩音か)」の二項対立から抜け出すことができずがんじがらめになってしまいます。ねじれの位置に向けて、斜めに飛んでいくアサッテの運動力はみじんもありません。

彩音の自殺が、紋切型から逃れようとした唯一の抵抗だったみたいなことも地の文はぬけぬけと語ってしまいますが、自殺というのも現代ではありふれた紋切型になってしまっています。決してそのような哲学的な意味合いは見いだせない掃いて捨てるほどあるような事例でしょう。

本作が挑戦したテーマにたいしてはみごとに回答を出せず失敗に終わっていますが、救いがあるあるとすれば、物語のなかで意外な行動をとった人物が一瞬みせる面白さ、意外さみたいなところでしょうか。事務仕事のOLがラーメン屋に来てまずビールとチャーシューをたのんで「うまい」ともらし締めの一杯はラーメンとともに、というのは紋切型からうまく抜け出る姿でしょう。また、派遣先の嫌な上司として描かれてきた石沢が最後にみせる意外な側面。これにも意外性の種が備わっています。こういうのは細かな点ですが、この細かだけれど書き手の問題関心からすると見逃せないであろう描写を積み重ねた先に、もしかするとさしあたってとりあえずの回答があるのかもしれません。

中森明夫「アナーキー・イン・ザ・JP」

出典:『新潮』2010年5月号
評価:★★☆☆☆

現代のパンクかぶれの高校生の身体に大杉栄の精神がよみがえる。着想は高橋源一郎の『日本文学盛衰史』をだれもが思い浮かべるはず。「アナーキーをキーワードにパンクロッカーとアナキスト大杉栄とを結びつけてみた」という作品だったわけですが、面白かったか否か。私はあまり楽しめませんでした。

ひとつはかなり内向きな言葉で語られていたということ。例えばパンクバンドの名称が「百円ロッカー・ベイビーズ」とか「風花暴力バーズ」とか誰向きの言葉でしょうか。あるいは、

オレは……死んだ。(p.155)

と書いちゃうところなんかは、女子高生向きのケータイ小説を揶揄したコピペを思い出しました。

アタシは死んだ。スイーツ(笑)

というやつですね。

多くの社会主義者やアナキストの名前が列挙されていて、クライマックスでは古今東西の大物が入り乱れてのライブシーンとなります。が、大杉栄と伊藤野枝以外は、事典の人物紹介以上の精彩を欠いていたように思います。いうなれば事典そのまま引き写し。大杉栄の切られ役として無理矢理登場させられた気もしますし、なんというかこれも大杉栄に対する思い入れみたいなものはあるのだろうけれど、フェアじゃないなと思いました。

文章も基本的にへたくそで、へたくそというのはそれ自体がアナーキーでいいじゃないかという言い方も一方ではできるかもしれませんが決してそうは思えません。

……りんこりんだ。(引用者注:りんこりん=語り手の憧れのアイドル)全裸だった。タバコを吸っている。青白い煙が浮かんでは消えていた。彼女の裸体が白くまぶしい。長い黒髪が肩にかかっている。豊かな胸が陰影を作っている。ほっそりとした腕。くびれた腰。真っ平らの腹部。ヘソの窪み。二本の細い脚がすんなりと伸びている。そのつけ根あたりに無防備なアンダーヘアーが見える。無表情だ。うつろな瞳。どこか遠くを見ている。けだるげで、なんだか放心しているみたいで。まるで投げ出された裸の人形のよう。それが時折、タバコを口にやると、そっと煙を吹かしている。窓から射し込む淡い光に、その姿が薄青く映えている。(p.135)

どうでしょうこれ。身体の各部位に凡庸な形容詞をつけて体言止めで順番に言及。何の順番かといえばおそらく視線の動きに沿っての順番でしょうがしかし、臍→脚というふうに一度局部を迂回してから、「アンダーヘアー」に視線を戻す。凡庸な形容詞は作家の、というより語り手(高校生)のといってしまえば凡庸な形容詞でもまあOKでしょうけれど、じゃあ男子高校生が憧れのアイドルを目の前にしてなんで局部を一度迂回するのかあまり理解できません。むしろそこばっかり凝視しちゃうんちゃうかな。この辺に書き手の甘さが露呈します。さらには、彼女の裸を「白くまぶしい」といっておいたその口で、「その姿が薄青く映えている」。白くてまぶしかったんちゃうんかい。この辺も甘すぎる。書くことにたいして非情に無防備で、技術もないのかなと思ってしまいます。

昔の作家みたいに文章修業をしろ、みたいな堅苦しいことは言いませんがそれでも無手勝流に書き連ねるだけでは何も生まれない。小学生や中学生がだらだら書いた文章とほとんどかわらない非常に貧しい表現には、貧しい思想しか備わらない(すくなくともそのようにしか思えない)ことがよく分かります。

結局、高橋源一郎の二番煎じで、文章をへたくそにした感じ。たくさん文献を参照したわりに未消化な部分も目立つ。内向き言葉で通じる人に通じればいいというのは非常に幼稚なスタンスで、これのどこがアナーキーかと思いました。
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