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ドナルド・キーン/角地幸男(訳)「日本人の戦争──作家の日記を読む」

出典:『文學界』2009年2月号
評価:★★★☆☆
ドナルド・キーン



太平洋戦争を経験した日本人作家の日記を通して、戦中戦後の日本が経験した惨禍と変化を追ったドナルド・キーンの評論です。読むにあたって注意したいのは二点。2009年以降にこの日記を読む僕らはついつい、あの永井荷風だったり、あの伊藤整だったり、あの山田風太郎だったり、あの高見順だったり、あの吉田健一だったりを前提にして、様々の作品・評論を書き上げ生涯を全うした文学者の全体像を想定して、その全体像=結論から、キーンの評論に収められた個々の日記の記述を演繹してしまうかもしれないということ。本人たちは、その後読まれることになる作品を未だ書いていないし、作家として個人としての評価も定まっていません。それどころか作家ですらない一介の青年に過ぎない人物もまじっています。よって、この日記を書いた時点では「ふつうの人」だった彼らを、あの作風の萌芽がここにとか、あの性格がここにあるとか、特別視して読むことには慎重でないといけません。

ちなみに、主な収録作家のプロフィールをまとめると、
作家名/生年/1945年時点での年齢
伊藤整 1905年 40
高見順 1907年 38
永井荷風 1879年 66
山田風太郎 1922年 23
吉田健一 1912年 33

山田風太郎は戦前戦中は単なる医学生ですね。

二つ目に注意しておきたいことは、ここに収められた作家はキーンの独自の選択によるものです。どんな基準でこの作家たちが選ばれたのかよくわかりませんが、ここで紹介された日記だけから過度な一般化には慎重であるべきですね。日本の作家はこう考えていた、とか日本の知識人はこう考えていた、とかはいくらなんでも無茶です。歴史社会学風な仕事とは別物として扱ったほうがよさげ。

こういったところに注意しながら読んでいくと、なかなか面白い記録もたくさんあり読み物として楽しめました。たとえば高見順は、

戦争終結と知って、私はホッとした。これでもう恋愛小説はいけん、三角関係はいかん、姦通を書くことはまかりならぬ等々の圧制はなくなる、自由に書ける日がやがて来るだろう、全く「やり直し」だ、そう思ってホッとした。(p.76)

と書いて、検閲が無くなったことを作家として喜んでいます。この視点からすれば、戦後すぐ書かれた小説の、男女の恋愛や濡れ場なんかも、「やっとかける!」という解放感から書かれたものかもしれないですね。最近武田泰淳の『蝮のすえ』を読んで、男に翻弄される(ように見えてじつは男をもてあそんでるんじゃないかと僕は思う)女性が描かれていたのを思い出して、あそこで描かれてる男女関係も実は裏にこういう解放感があったのかもなと。第一次戦後派作家の、恋愛を描いている場面の見る目がちょっと変わりました。

まあこの時期のテクストに、何か新たな発見がいまさらあるとは思えません。驚くべき発見というのもこのキーンの評論にはありません。けれども、単純に戦中の体験を同時代のものとして、若者の憤りを感じられもするし、壮年者の恥ずかしさを感じられもするし、一片の小説にも匹敵する生き生きした記述の連続で楽しめます。

最近の書き手だと、柴崎友香「わたしがいなかった街で」(新潮社)で、海野十三の戦中日記引用していましたね。日記は小説と相性のいいテクストだと思うので、この当時の日記はいろいろ利用しがいがあるのだろうな。

最後に無いものねだりですが、ここに収録された日記は男性作家ばかり。女性作家の日記というのも残っていれば読んでみたいと思いました。野上弥生子(1885年生)、宮本百合子(1899年生)、林芙美子(1903年生)、円地文子(1905年生)などなど。日記は既にあるんだろうけど(ものぐさなので調べてません(笑))、ばらばらにそれぞれの日記を読むんでなくて、こういう形で一つのまとまった評論風読み物として読んでみたいなと思いました。
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鹿島田真希「パーティーでシシカバブ」

出典:『文學界』2009年2月号
評価:★☆☆☆☆

21歳の女の子ミカが友人のユミから聞いたパーティーに、同じく友人のユイと、小説を書いているという男ボンクレーと参加してみるという話。とくに何が起こるわけでもなく、ただパーティーがあると聞いてそれに参加していろいろ見聞きしましたというだけの話が21歳の女の子の一人称視点で語られます。あまり深く考えていなさそうな女の子の思考ということで、単調な文末処理(~と思った、~と言った、~した)の過剰な連発も、とりとめのない表現が続くのも、まあこの語り手にしてはありなのだろうと我慢して読み進めました。我慢して、というのはあまりに何もおこらないし、あまりに語りも単調だしで、たんに面白くないからで、それでも我慢したのは、なにか仕掛けがあるに違いない、こういうくだらない言葉づかいにも何か意味があるに違いないと鹿島田真希という書き手を信頼してのことです。そしてそういう信頼を見事に裏切る言葉が最後に書かれてあったとき、一気に失望して、二度とこの書き手の本は読むものかと決意しました。

するとボンクレーが、突然なにを言い出すんだ、今までの話となんの脈絡もないじゃないか、と言った。だからわたしは、人間というものは、基本的に脈絡もないものなんですよ、と言った。そして自分で言ってみて、本当にそうだな、と思った。(p.176)

脈絡がないエピソードがただずらずら続くこの小説を、メタ的に言及している箇所です。日常起こっていること、日頃の行動や思考の一つ一つに、べつに脈絡なんてないというのは誰もが薄々は感じていることで、あえてこんなこと言われなくても分かっていることです。それをこの作品の作風の言い訳みたいにここで持ち出されては、たまりません。

もう一点、物事をあまり深く考えていなさそうな女子大生の一人称語りという点でも問題があります。単調で貧しい語彙による文末処理はまあ読む分にはくだらない退屈なものでそれはそれでいいとしても、統語レベルでみればきわめて整理された語順になっています。例えば一人称語りということでいえば、ウルフの一連の作品のように中断や黙説、飛躍を度々伴うものではないでしょうか? あるいは町田康の初期作品のようにぐるぐる自問自答を繰り返したり自己批判したり矛盾したりするものではないでしょうか? あるいは舞城王太郎の作品のようにいきいきしたオノマトペや言葉づかいで語られるものではないでしょうか? 残念ながらこの語り手の語りは中途半端に女子大生で中途半端に知的です。また、語彙レベルでみても、ときどきこの語り手にはそぐわない語彙が見受けられます(「婉曲(p.157)」「危惧(p.160)」「シャンソン(p.167)」ほかたくさん)。単語を取りあげて難詰するのは言葉狩りみたいで好きじゃないですがそれでも、語り手にそぐわない言葉づかいが多用されれば作品の語り自体がまったくリアリティをもたないことになってしまいます。こういったノイズが出てくるのは、語り手像をあまり突き詰めてないか、単に書き手がへたくそなのかのいずれかでしょうね。

この作品を読んだお前が勝手に鹿島田真希のことを「信頼」して読み進めて、勝手に「失望」しただけじゃないか、というご批判が聞こえてきそうです。事実その通りです。一方的に信頼して、一方的に裏切られたと怒って、単なる一読者の戯言です。だけどそんな独り言だとしても、一人の読者として裏切られた感はあるのでこの人の作品はしばらくは読みません。

村田沙耶香「街を食べる」

出典:『新潮』2009年8月号
評価:★★★★☆

Erigeron philadelphicus


地球とセックスする話によって(僕の中で)有名になった村田沙耶香。この短編「街を食べる」はwikiでは単行本未収録作品だそうですが、ぜひ読んでいただきたい一篇です。これぞ小説という展開をみせるのが96ページ目からラストまで。この部分を読めただけでも今日一日気分がいいなあ。

さてこの話は、都会でOLをしている女性が幼い頃田舎で食べた野菜や野鳥の味を思い出し、都会でも食べられる野菜はないか探すところから物語が動きはじめます。凡庸な書き手がやってしまうのは、田舎幻想をロマンティックに展開して「自然っていいよね、田舎っていいよね」という都会目線での田舎礼賛。そういうありきたりな田舎自慢をする役は、語り手の友人である雪ちゃんに割り振られています。語り手の「私」は街に出て、野草を摘んで料理して食べることに憑りつかれる。

摘草懐石といえば観光地では2万も3万もする贅沢品になっちゃいましたが、「私」のように街に繰り出しその気になれば食べられる草というのはそこここに生えているもので、

空腹を抱えて視線を這わせると、世界は記号の鎧を取り去って本来の姿を現した。私の水色のスニーカーは、記号的意味を越え、歩道をまたぎ、どこまでも踏み込んでいくことができた。(p.95)

という風に歩く姿もワイルドになっていきます。街を描写するときにはどうしても人工物を目印に記号化してとらえがちだけれどもその記号をいったん剥ぎ取ってみれば野生が溢れ出す、生命が溢れ出す。剥ぎ取るべき記号の側にしがみつく人は、野草を食べるような行為を、雪ちゃんのように「貧しい」とか「いけないこと」というこれまた記号的な意味づけをしてしまっている。そういう慣習から逃れてみればそこには新しい世界が広がっていることを確かに伝えてくれる小説でした。

 この草をあく抜きをしないで味わうのは初めてだった。口に入れた瞬間、独特の匂いと酸味が溢れてくる。セロリを思わせるような強い味わいにすがるように、私はさらに口の中に葉を押し込んだ。スーパーの売り場に冷たく横たわっている。野菜の死体にはない、生きた味わいに内臓が揺さぶられる。私はこの街の破片に嚙みつき、唾液で溶かし、飲み込み、胃の中へ落しながら、ひたすら灰色の歩道を歩み続けた。(p.98)

もうこのへんになると、その後かかれる地球とセックスする話につながりますね。

人間とそれ以外という垣根を取り払って一緒になったときに感得される一種独特の感慨を、最後にさらに一ひねりくわえてきちんと読める作品として、自然礼賛とかエコ原理主義みたいな押しつけがましい形などとらずそれらのファッション的擬態よりも、だんぜん深いところから伝えてくれる書き手だと思わされました。面白かった。

上村渉「群青の杯を掲げ」

出典:『文學界』2010年6月号
評価:★★☆☆☆
big ears


フリースクール出身の若い男二人、俊と大輔が、かつで自分たちの居場所だった建物のある場所を目指して歩いていく話です。人が死ぬこともないし大恋愛がおこることもない、かといって細部におもしろい目のつけどころがあるとか、新しい視覚が開ける話でもなく、なんというか読み終わって、「で?」と言いたくなる食い足りなさを感じました。

ありがちな言葉でまとめようとするなら、家族や職場の人間関係よりも一時を敏感な時期を一緒に過ごした人間こそ友人といえるのだ、とか、生きづらい社会の居場所がない中で自分たちをいつでも受け入れてくれる場所があることっていいよね、とか、いかにもそれっぽい言葉で語ることもできなくはないのだけれどそれも強く伝わってくるようには書かれていません。前者の友人関係の話でいえば、好きな女性のことについては二人の間で共有していなかったぽい(=ということは二人の中はお互いあけすけに通じ合う仲というわけではない)ですし、後者の居場所の話でいえば、そうはいっても大輔のほうは職場仲間や社長にも信頼されているようですし、俊の方も家族が心配してお金を出している(=ということはフリースクール以外にも居場所をつくろうとすればできる)ようです。こんな風に、すんなりまとめようとするとノイズが出て来ます。

二人の目指す御殿場という地名になにか意味があるようにも思えません。唐突に挿入される『クリスマス・キャロル』の話もこの小説全体とどういう関係にあるのかわかりにくい。二人が道中いろいろ会話をしますがそこで二人の関係が変化することもありません。タイトルにも入っている「群青の杯」であるビッグ・イヤーがこの二人にとってどういう意味をもっているのかも判然としません。結局、この小説に描かれていることはそのまま受け取ったとして、別に珍しくもなんともない男二人の雑談を読んだ、という感想以外は残りませんでした。フリースクールに実際に通ったことある人や関係者だとこれを読んで何か別の感想をもてるのかもしれませんが、僕にはあまり引っ掛かりののこらない作品でした。

合原壮一郎「狭い庭」

出典:『文學界』2009年12月号
評価:★★☆☆☆

夢や狂気に憧れるというのは文学青年、サブカル女子なら一度は通る道のはず。熱が冷め、改めて自分が通った道を振り返ると赤面してしまうような経験という意味では、一種の通過儀礼といえるのかもしれません。今回取りあげる「狭い庭」もそのような、一時かぶれたもの、ぐらいの意味合いしか持たない作品です。あえてよかった場所をあげるとするなら、冒頭のですます調の夢日記が孕む不穏さ。62ページから63ページにかけての言葉のサラダ、くらい。

書き手の個人的なプロフィールを脇にどけておけばこの作品によって動かされるもの、得られるものは何もありません。書き手にとって目新しく思われる手法や表現は、単に書き手の無知を曝しているに過ぎません。脇にどけたプロフィールをもういちど戻して来れば、「年齢の割に」という限定つきでがんばってるなあ、ぐらいの感慨しか持ちません。

夢の語法や狂気の文法を探求する試みは一世紀前には既に登場しています。民話や説話、神話をたどればそれこそ腐るほどにありふれた語り口でもあります。この作品がまやかしなのは、ここで使われている語法はどれも読みやすすぎるということ。ブルトンの詩が、自動書記と標榜しつつも草稿には推敲の跡が発見されているのと同様、この作品で語られる夢の内容や狂気の言葉も、物珍しげでかつ否定的な意味でポエティックな語(戯れる、染まる)を散りばめて目くらましをしているにすぎず、その実、統語的な構造は極めて常人の語法に適ったものです。つまり夢の「ふりをしている」常人、狂気の「ふりをしている」常人、が通常の文法的規則に何ら違反しない言葉で、それっぽい「ふり」を見せているけの作品。極めてリーダブルで、書き手本人だけが悦に入っている作品は芋くさいだけで読むに耐えません。

と作品そのものの感想としては否定的な言葉しか思いつかなかったのですが、そうはいいつつやっぱり年齢的なものもあるのだろうなととここで作品以外の要素、書き手の年齢にも留意してしまいます。作者の合原壮一郎は92年生まれの人ということで、この作品が書きあがったのはおそらく17歳前後のこと。僕が17歳のときに、ブルトンのある種の読みやすさを見てとることができたかといえば決してそうではないし、ましてアルトーやロートレアモン、マラルメ、ランボーその他たくさんの言葉の実験のアーカイヴは自分のなかにはできていなかったはず。そういう自分の負い目みたいなものも勘案してみると、まあこれは一時期だれでも通る道だよね、という評価に落ち着いてしまいます。作品のみの評価なら星ひとつですが、年齢を考えればがんばったで賞ということで星二つ。合原壮一郎には、もっと作品の言葉を、狂気や夢すらをもコントロールできる作家になってほしいと、期待をこめて思います。

羽田圭介「ミート・ザ・ビート」

出典:『文學界』2009年12月号
評価:★★☆☆☆
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クラシックな小説ではあるけれど現代性はどこにあるか。車と登場人物とが一対となり(車の所有を仄めかされない人物はすぐに舞台裏へと退くか、未成年)、その所有者の性能、装備、車種からタイヤのすり減り具合までが所有者の性格を物語ります。車を所有することは、自分の力で人生を歩き出すことと符合する、つまり一人前へのステップとなっています。だからこそ予備校生の「彼」が車の所有を実家の母親に告げたとき、母親は思いとどまるよう諭しますし、と同時に「彼」は実家での自分の居場所はもはや過去のものになっているのだとも悟ります。大人への第一歩を踏み出す「彼」が所有するのは、予備校生という中途半端な身分に符合するかのように、バイト仲間の乗り古したおさがり中古車です。

こういうお話は、非常にクラシック、悪くいえば古臭い。その古臭い題材をあえて今取り上げる中で、今までにない新しさというのはどこにあるか。僕にはそこが見えて来ませんでした。若い書き手なので、一度こういう保守的な作風を通過しておくこと自体に意味があるのかもしれないのでこの一作だけで判断するのはどうかと思うけれども、やっぱこの作品に目新しさは何ひとつ感じなかったです。車と人物との関係にとどまらず、ほかにも、地方都市が舞台とか、若者の自立とかも散々扱われてきたテーマです。

描写の力自体は悪くないと思いました。何度も言及されるタイヤと地面との摩擦音は生真面目な書き方です。

 田んぼ道から県道に出た彼は、タイヤが溶けだしているのではないかと疑った。初夏を迎え日光の照りつけが強さを増したこともあり、真新しいアスファルトが柔らかくなってタイヤに吸いつく。(p.176)

車重を支えたタイヤが砂利を踏みながら進み、押しつぶされた砂利同士が擦れあい鈍い音が鳴る。やがて後輪まで車道に出るとその音は止み、真新しいアスファルトとタイヤのたてる静かな摩擦音が時速数十キロの速さでどんどん彼から離れていった。(p.179)

 国道から伸びている一本道を、間違いなく一台の車がこのアパートに向かい走っている。その音も、国道から絶えず聴こえてくる車の騒音だと思った。といっても意識すれば聴き取れる程度の音量でしかない。いつもは聴き流せている音に注意がいっている時点で、彼は自分が過敏になっているのだと悟った。音が近づいてくるにつれタイヤと路面の摩擦音がどんどん小さくなり、原則しているのがわかり落ち着かない。(p.181)

 国道から伸びている一本道を、間違いなく一台の車がこのアパートに向かい走っている。その音も、国道から絶えず聴こえてくる車の騒音だと思った。といっても意識すれば聴き取れる程度の音量でしかない。いつもは聴き流せている音に注意がいっている時点で、彼は自分が過敏になっているのだと悟った。音が近づいてくるにつれタイヤと路面の摩擦音がどんどん小さくなり、原則しているのがわかり落ち着かない。(p.181)

他多数。反復されるだけあってここになにかメタフォリカルな意味を込めているのかもしれない(社会との摩擦、現実の生きにくさ、危うさ)とも勘ぐってみたけれどあまりそのようにも読めなません。単なる描写なのかなあ。『文學界』という雑誌のイメージにははまっている作風なんだけれど、車に特別思い入れもない僕がこの作品を読んでもなにかおもしろそうな意味を読みとることはできませんでした。車に詳しい方が読めば、もっとずっと楽しめるのかもしれませんね。

舞城王太郎「美味しいシャワーヘッド」

出典:『新潮』2012年8月号
評価:★★★★☆

この人の芥川賞受賞はあるんでしょうか。そしてもし受賞したら姿を見せてくれるのでしょうか。

さて、舞城王太郎の作品です。はじめて読んだ『煙か土か食い物』以来ずっと読み続けている書き手で、デビュー時からすでにこの人の文体、語り口は完成されていたんだなあと今さらながらに思うほど、ドライブ感のある小説をつぎつぎ繰り出してくれます。メタな部分が冗長だったり説教くさかったりするところも作品によってはあるんだけれども、この「美味しいシャワーヘッド」はそんなこともなく丁度よいくらいですね。

古い、といっても戦後数十年ほどの小説には、オノマトペの多用はよろしくないみたいな信憑があった気がするのですが(だからこそ井上ひさしがオノマトペの効用を文章読本で語ったり、野坂昭如の語りが新鮮に感じられたりした時代があった)、もうそんな因習などどこ吹く風、なんの衒いもなくオノマトペの連発で楽しませてくれる舞城王太郎。へたくそな書き手がオノマトペを不用意に使うと幼稚になったり独りよがりになったりしてしまうことがままありますが、この人の場合、どれも説得力があるのだなあ。

……。「うるさいよ」
「はは。ごめんごめん、ごめんだひょ」
「……」
ぶしーっ!「あっはっは!」(p.13)

握手だけだと思っていたら、顔のそばに引き寄せた僕の手の指を、毛利が舐め始める。一本一本、ゆっくりゆっくり、べろうり、れろりろ、ねろすちゅぼんぷ、すぷうううんろ、りろれそ、ちゅんぼり、と。(p.15)

コンバインそばの僕にはバイーンガザザザザザ!って稲から籾を取る作業音で何言ってるのかは全く判らなかったが(p.17)

 犬が「ウロロロロ!ボロロロロ!」と何かスイッチ入ったみたいになって僕の右腕を左右にステップしながら引っ張り、あ、なんだこんなもんかって気分はあったけどやっぱり怖くて「ちょ、ごめんごめん」と思わず謎の謝罪が口をついていた。(p.24)

他にもたくさんありますが面白いなあと思ったのはこの辺です。どれもありがちなオノマトペの表現からずらしたり、新しくつくったりしながら語ってゆく。ライブ感がはんぱない。最後の犬の呻り声なんかは、「う」にしろ「ぼ」にしろ口をすぼめて発音しないといけないところがちょうど犬の口の形になりますし、「ウロ」とか「ボロ」という音の連なりを字面で見ると、僕なんかはウロボロスを連想してしまいます。ウロボロスはこの場面には全く関係ないですが、読ませる文章にはこういう、読み手の思考をあからさまに、あるいはサブリミナルにマッサージして刺激する働きがあり、舞城王太郎の、特にオノマトペにはそういうところが多々あって読むたび名人芸だなと思わされますね。

舞城オノマトペに説得力がある理由の一つはおそらく、耳がいいことと耳で聞いた音を五十音に四捨五入できるテクニックが共存しているから。もう一つは、デビュー作で「文圧」という言葉が売り文句として使われていましたが、圧倒的なドライブ感をもつ文体に、感覚的直観的なオノマトペがうまく乗っていること。一度もきいたことない表現でも、舞城王太郎が作品のなかで連発するオノマトペを読めば、たしかにそんな気がするという、有無をいわさない説得力があります。

オノマトペのことばかり書いてきましたが、一篇の小説としても面白いエピソード満載ですし、オノマトペ以外の表現技術にも見るところがたくさんあります。未読の方はよかったら一度読んでみてください。損はしないはず。

片岡義男「そうだ、それから、マヨネーズ」

出典:『文學界』2011年11月号
評価:★★☆☆☆

片岡義男ってこんな感じでしたっけ?星一つの作品についてもいままでいくつか書いてきたんですが、星一つにしようか星二つにしようか迷いました。結局、星一つにするほどの怒りをもよおさせない、ただただへたくそな作品ということで星二つに。むかーしに片岡義男の本は何冊か読んだことある気がする(気がするというくらい遠い記憶で当然内容など失念)のですが、こんなへたくそでしたっけ?

まず話が面白くない。30半ばの作家とカメラマンが一日仕事で電車に乗って、地方で喫茶店をやっている元女優に取材に行くという話。設定は30半ばなんだけれど、この会話は50歳半ばの男たちと言ってもいいぐらいに古臭い感じがします。どこがどう古臭いか、丁寧に技術的に読んでみればよかったのだけど、そうしてみようという気も萎えるぐらいのへたくそさ(笑)

その杉浦をビールを飲みながら見て、大村は言った。
「オックスフォードのタッターソルのシャツに紺ブレ、そしてカーキ色のチーノに、靴は黒くてどっしりとしたエンジニア・ブーツ。手ぶらかい」
「手帳にボールペンくらいは持ってるよ」(74p.)

どうよこれ(笑)。たんにへたくそへたくそいうのも言いがかりなのでここだけでも技術的に解説してみると、まず地の文での「を」「を」の連続は音に対して鈍感ですね。またこの引用直前の文の主語は杉浦なので動作人物の無意味な転換も読む人に負荷をかけてしまいます。そして極め付きが発言内容。雑誌の服紹介でもあるまいに、自分と話している人物の着ている服や靴を逐一挙げる「発言」というのは酷い。しかも服飾品の列挙にしても使われている語彙のセンスのなさ。鍵括弧にくくって発言している以上、声(=音)に出されているわけですけれど、「タッターソル」とか話し言葉で使うでしょうか?チノじゃなくて「チーノ」でしょうか?エンジニアブーツじゃなくて、「エンジニア・ブーツ」のナカグロは音としての言葉じゃなくて文字としての言葉じゃないでしょうか。そしてしつこいようですがもう一度繰り返します。この発言をしているのは30半ばの男です。

まあこんなぐあいで、作家が書きたいように書いているだけの何の読み応えもない作品です。最後は、わかれた昔の女と偶然スーパーで再開して、一緒に買い物して「バーにいこうか」となる展開。もう一度いいますが、30半ばの男の話ですよ、これ。片岡義男ぐらいの年齢の作家になると、編集の人は原稿没にできないのかな。若手が頑張って書いた作品よりも、片岡義男という名前がついてるだけでこっちの作品のほうが読まれてしまうんでしょうかね。同じ星二つでも、昨日感想を書いた間宮緑の場合は、若書きで一生懸命書いてわけわかんなくなってしまったのに対し、この片岡義男の小説は「一生懸命に書いたのかこれ?」と疑わしくなるほど読み応えがない作品で、その意味合いは異なります。圧倒的に間宮緑の作品の方が好感を持てるし応援したくなりますし、別の作品を読んでみたくもなります。この片岡作品は、読んでいて怒りすらも催さないほど不可解な作品でした。

間宮緑「電気室のフラマリオン」

出典:『群像』2009年5月号
評価:★★☆☆☆

フラマリオンとよばれるモノ(人形なのか人造人間なのかクローンのようなものなのか)の対話で描かれる世界。言葉づかいが独特でそこに魅力がある一方、具体的なイメージとしてフラマリオンの動きなり、周囲のものの配置なりがつかみづらく描写力が今一つに感じました。さらに短編という分量にはとうていそぐわないような世界観が背景にあるっぽいのでそれが輪をかけて本作を分かりづらくしています。もっと長い分量のものを読めば、この書き手の評価は変るかもとおもわせるキラッと光るものを感じました。

このままでは、まだ読み手のことを考えられない(=ひとりよがりの)駆け出しの書き手。ただし小説家ならだれしも独りよがりなところを持っていないと何も書けないでしょう。そして、この短編から垣間見えるこの作家のひとりよがりの部分には、なんだか別の世界に読者を連れ去ってくれそうなパワーを感じたのも事実です。

 彼の目はクローゼットに閉じ込められていた。
 そこには把手がなかった。防虫剤の臭いが漂っていた。見えない指を開ききり、関節でかぼそい息を乱しながら壁を探った。壁は硬質で、石のように冷たく、音を返さなかった。次第に狭くなる壁に掌を這わせながら、彼は当てもなくめちゃくちゃに指を走らせ、湧き始めた想像を振り払おうとした。突然の声、背後の影、この場所をねぐらにしている悪魔について……
 彼はスイッチを探した。指は知らぬ間に胸の中に入り込んでいた。血の感触がした。彼は息を止めた。出し抜けにスイッチを見つけた。骨の内側で、闇につぶされながら明りが点いた。
 古く、消耗しすぎて、明滅をやめなかった。
 翅をふるわせる仄白い発作の上を、彼は走っていた。体内には小径が食い拓き、拘束と決別とを繰り返し、暴走する蟻たちが足跡を遺して行った。電燈は海岸の火のように揺らめいていた。翅に火の点いた虫が口を開けて迫り、あらゆる明りを飲み込んだ。
『また夢をみていたんだね、フラマリオン』
 扉の向こうから、声が囁きかけてくる。
『気分はどうだい?』
 目を開けた。暗闇の中に彼は手をのばした。その手が見えなかった。動きのない影が拡がっているばかりだ。(p.165)

不可解な状況にはかわりありません。目がクローゼットに閉じ込められている状況とはどういうものなのか。目だけ分離されても意識はあるし身体を動かすことができる「彼」とは誰なのか。突然カットインする声の主は何者なのか。魅力的な冒頭部を引用しましたが、この、なにか期待させそうな世界観が、短編という分量にはそぐわないと思います。短編に合わせた見せ方(書き方)を身に着けるべきだったかもしれません。

澤井繁男「若きマキアヴェリ」

出典:『文學界』2012年7月号
評価:★★☆☆☆

いまも人気の『君主論』執筆時のマキャヴェリが、若き日に見聞したフィレンツェと都市をとりまく政争、戦争を回想する小説。そこで出会った人々が『君主論』にどのように結実していったかが見ものです。

マキャヴェリの眼を通して、メディチ家の人々や宗教改革者、芸術家などが描かれるんですが、これがなかなか作品世界にデタッチメントな態度です。このへん作中のマキャヴェリも自覚しているような感じもあるけれど、例えば「アマデウス」の中でモーツァルトをまなざすサリエリが、嫉妬、羨望、驚嘆、敬服などあらゆる感情をないまぜにして目の前に体現された音楽の天才を終始見続けるのとは対照的に、このマキャヴェリの視線にはそういう個人的な感情はぬきに、とてもスコラティックに周辺人物の批評をしてゆくので、なんというか教科書の用語・人物解説集を読んでいるような気持ちにさせられてしまいました。

書かれてあることは間違ってないし、フィレンツェ内部の政治状況やイタリアをめぐる国際政治の布置にも歴史的な事実誤認はなさそうである一方、その解説に終始していてこれが小説として読まれる醍醐味みたいなのが今一つ感じられませんでした。もちろん、感情移入こそ必要だとか、人間を描くべきだ、みたいなナイーブなことは言うつもり毛頭ないですが(感情移入を拒絶する小説、人間を極力描かない小説でも傑作はいくつもあります)、この作品の場合、歴史的事実や解釈をここで書いておいて、そこからもう一声、というものがありません。

作中で、若き日のマキャヴェリとボッティチェリが対話しますが、

「そうとも。ギリシア語習得がはじまった十四世紀末からやっと原典の翻訳が盛んになった今世紀の半ば以降、この国は確実に変わっていった」
「わからないでもないですが」
「じっさいに身を置いた者でないとなかなか理解しがたいであろう。かのフィチーノ師によってギリシア語からラテン語に翻訳された、『ヘルメス文書』、新プラトン主義者のプロティノスの『エネアデス』などの反キリスト教的な文献の数々。斬新だった。特に『ヘルメス文書』は世界最古の書で聖書より旧いというのだから、絶大なる信頼を寄せたものだ。君も知っての通り、いまの時代は旧いものほど価値がある、という思潮が主だから。根本は太陽崇拝だよ。それに生命をきわめて重視して、神をいのちと見立てて、神は細部に宿れり、と、いのちの連鎖を旨としている。わたしも、ヘルメス思想を絵画として表現しようと努めた。この思潮は、多神教の世界でこそ描きやすかった」(p.122)

といわれたところで、そうですか、としか言いようがない。教科書的な、けして間違ってはいないのだけどおもしろくもない解説を登場人物に語らせているだけと言ってしまいたい誘惑にかられます。だからどうしたんだ、という。マキャヴェリに興味のある人、この時期のイタリアに興味のある人、歴史小説や人物列伝がすきな人、向けの小説ですね。僕はあまり面白くは読めませんでした。

この書き手にしてこの小説ありというのはよく分かります。ただ書き手の学者的態度が前面に出すぎている感じを受けました。アカデミズムで争点となる正確さ、正しさは、小説のスケールを小さく切り詰めてしまうものにしかなりえないのでしょうか?

木村紅美「八月は緑の国」

出典:『文學界』2011年12月号
評価:★★☆☆☆

依子30歳生活水準を切り詰めながら派遣社員として働く、趣味は妄想。渚、大学生、バイトにいそしみボンボンの彼氏とつきあう。二人はいとこ。渚が実家に帰省すると家族も実家も忽然と消え去っていた、頼れるのは依子だけ、二人は渚の家族の行方を追う、というストーリー。NHK特集で無縁社会が大きな話題として取り上げられたのが2010年、格差社会の人間関係版としてとらえ直すなら、依子も渚も持たざる層に位置します。地元で暮らしているはずの家族が忽然と失踪してしまうという状況が、絶対にないとはいえない特異な状況だけに、このめったにない状況を徹底的にリアリズムで突き詰めれば、大きな社会状況とも対応しながら面白そうな話に進んだんだろうけれど、ディティールのこじつけ臭さが作為的すぎるのと、結末のつけ方が唐突過ぎるのとで、なんだかもったいない作品となりました。

こじつけ臭さということでいえば、なぜ渚は警察に捜索願を出さないのか。いちおう

自分でも信じきれてないくらいなんだから、お巡りさんに説明しろって言われても、信じさせられる自信がないよ。証拠が何もないんだし(p.119)

と、渚の台詞で理由づけされているけれどもこれはいかにも弱すぎないでしょうか。納得できないといった口で、なぜ依子に頼るのでしょうか?。市役所や郵便局の転居届はどうなっているか、登記簿確認するとか、あったはずの家を解体した業者をあたるとかいくらでもできることはあったはず。高校や中学のアルバム見ても何も出てくるわけがないです。依子と渚の二人だけの状況をつくる結論ありきの展開のため、かなりこじつけ臭さ、無理矢理感がでているのだろうと思わざるをえません。

ラストの急展開も説得力がありません。渚の件は「絶対ないとはいえない」くらいの状況だったのにたいし、ラストの依子の身におこったことはおよそ考えられないこと。もちろん、小説はリアリズムだけを扱うわけではないので、非リアリズムや幻想小説でも、言語的なアクロバシーを探求するものでもかまわないといえばかまわないのだけれど、こう急展開してしまっては作品内でのロジックを無視して読者を置き去りにするだけじゃないでしょうか。無縁社会を描くといったような社会的テーマとか、自分が何者であるかは自分を知っている者との関係でしか証明されないといった哲学的テーマにもっていくのなら、例えば時間を一気に数年だか数十年だか進めて依子がとうとうホームレスになってしまったような状況を描けばいちおうリアリズムの側にとどまれたし、それなりに説得力もあったろうにと思います。

筒井康隆「三字熟語の奇」

出典:『文學界』2012年4月号
評価:★★★☆☆

このブログで取りあげる作家の方針はまったくないのだけれど、気がつくと三十代ぐらいまでの比較的若い書き手が多い気もしたのでここで筒井康隆御大を。マルチに活躍する作家の印象ですが、本業の小説も最近純文学雑誌によく発表しているような気がします。へたな若手よりも多作。こういうのって大御所から原稿がくると編集者は無下に没にできないとかそういうシステムなんでしょうか(笑)

まあそれはおいといて、本作はすべて三字熟語で構成されている変わった作品です。四字熟語ばかり集めた単語集なんかでも、その熟語の由来や解説がついてくるわけですが、この作品はタイトルと作者名、最後の〈了〉以外は全部漢字三文字です。まず立ち並ぶ字面に圧倒され、小説はビジュアルも大切だということを実感させてくれます。三字熟語が書かれるフォーマットも一行あたり21マスの原稿用紙風。

また、並んでいる三字熟語が全くランダムには選ばれていないということも不思議です。書かれてある三文字熟語一つひとつには解説など全くないわけですし、それらをつなぐ機能語、分ける句読点も一切排除されています。正確にいえば、三字熟語と空きマス一つのブロックが延々と繰り返されています。単なる三文字の漢字+スペースの繰り返しのはずなのに、それぞれをつないだり句切ったりする言葉や記号はないはずなのに、読む方はいつしかそれぞれの単語をつなげたり、切り離したりして読んでしまっている。

万万歳 政治家 参議院 不安定 共和国 不快感 無愛想 軍資金 任免権 官僚的 威圧感 不適切 議事堂 不案内 衆議院 風雲児 風水害 被災者 避難民 密入国 居留地 移住者 大使館 不穏当 喧嘩腰 国務省 伏魔殿 指導者 不景気 人国記 君主国 宗主国 議定書 独立国 国際色 北半球 (pp.11-2)

たんなる字面とスペースから、物語を立ち上げてしまうのはあきらかに読み手の思考が働くからで、この作品を読んで改めて、読書というのは本だけでは成り立たない、読者がいて初めて成り立つアクティブな行為なんだということが判ります。ないはずのものが立ち上がるわけですから。広い意味での読書行為を明らかにしてくれる手がかりとなる小説なのは間違いありません。

この漢字を連発する小説(といえるのかどうか不明ですが)は、一つのアイディアでいろいろ応用できそうな雰囲気もありますね。スティーブ・ライヒなんかを聞きながら読むのが正しい読み方でしょうか。

ただこういう作風が許されるのはやっぱり大御所だからというのも同時にあるのだろうなと思います。上であげたようにこの小説が持っている意義というのは確かに感じ取れましたが、じゃあ同じ作品が小説の新人賞応募作として応募されてきたときに最終選考ぐらいにまで残るかどうかは結構怪しい感じがします。あるいは新人賞受賞後第一作としてこれを脱稿した新人作家がはたしてこの作品を掲載してもらえるかどうか。これも結構怪しい。そう考えると、作品と作者とはやっぱりセットなのだろうなあという、文学の制度も意識させてくれます。いい悪いは別問題として。

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磯憲一郎「見張りの男」

出典:『文學界』2012年7月号
評価:★★★☆☆

ある時期まで磯憲一郎の小説を読めませんでした。もっと正確にいうと磯作品をうけいれるだけのキャパシティというか、読み方が私の中に備わっていなかった。でもひっかかりは残りつづけて、時機がくれば読めるようになるのだろうとおもってとっておいたところ、いくつかのとっかかりができて読めるようになりました。

理解の助けになったのは、ひとつはカフカを通過しているのだろうということ。保坂和志との対談でもなんどかカフカや小島信夫のことが話題になっていたと思いますが、そうであればカフカを読むように磯作品をよんでみようという、読みの方向が見えてきました。さらに、蓮見重彥の批評で「そこに書かれている言葉が、その言葉以外の何ものをも指示していない」ということばにであったとき、ああこれで読めるや、と思ったものです。蓮實先生の批評は、「随想(十)」『新潮』2009年10月号を参照のこと。

つまり小説を通して、とか小説によって、その向こうになにか現実の対応物とか教訓を見いだそうとするのではなく(最終的にはそうであっても問題ないのだけれど初めからそのつもりで読もうとするとたぶん挫折する)、小説に書かれてあることそのものをそのまま受け取ることが、磯憲一郎を読むときの決定的なポイントです。

夜、山頂から見下ろすと、平地には青白く照らされた粗末な小さい家々と水田があった、黒い水面には満月がその細長く歪んだ姿を晒していたが、空のどこを探しても月そのものを見つけることはできなかった(p.53)

月は磯作品でもよく出て来ますが、本作でも上のように表現されています。このように表現される情景を現実のなかに探そうとしても無理です。だって、水面に月がうつっていながら、空にはどこを探しても月なんてないのだから。あたかもこの作品と現実との関係についてメタ的に言及している箇所ともとれます。だからここはそうではなくて、この言葉そのものを語る物語行為に身をゆだねたときに初めて、面白さがわかるのだなと(すくなくとも自分はそうでした)思います。さらにいえばこの一節とってみても、現実的な対応物を探しても無駄であるかのようにいくつもの屈折が仕掛けられています。水面なのに黒い、黒いはずなのに満月が映っている、満月なのに細長い、という風に。

ですので次のような箇所も同様の仕方で読めばいいはずです。

他には誰もいない板張りの部屋、たった一つの白熱灯の下で、自分の身体より大きなチェロを懸命に弾く白髪の老婆の姿が浮かんだ、老婆は季節外れの厚手の黒いセーターを着て、同じ黒の長いスカートを穿いていた。それは彼の母の姿であり、彼じしんの姿、そして私の姿でもあった。じっさいには彼の身体はまだアパートの自室にあって、視線は誘蛾灯の光に固定され両手両足を伸ばしたまま立ち尽くすばかりだったのだがそれにしてもこんな田舎町で、夜中に楽器を、しかもチェロを弾く人などいるものだろうか?(p.61)

大人向きの、ビターチョコレートのような作家だなと思っています。読むだけで、というより読むことのなかにだけ楽しみが宿る、そんな作家です。

松井雪子「森の靴音」

出典:『群像』2009年7月号
評価:★★★☆☆

女子高生数人組の話がアニメでもラノベでも大量生産された(されている)印象がありますが、本作はそんな女子高生その後の話を、折にふれて過去に立ち返りながら展開する話。最初から全体像を見せずに、いくつかの謎のワードを布石としておいておいて(フィーバー、神代桜、みすず…)、話が進むにつれて一つひとつがどのような意味をもっていたのかが明らかになる、その段々景色が見えてくる構成の仕方がうまかったです。最初っからさっぱりわけわからない世界を遠慮なくどかどか展開するでもなく、既視感ありありのお話しを出してくるでもなく。ちゃんと読者のことを考えた構成で好感がもてました。

二百と十歩目が踏まれるたびに、みすずの悲鳴が聞こえるような気がして遥は息をのんだ。ある女のピンヒールがタイルの上を通過したときにはきりりと差し込んでくる圧痛に耐え、ある幼女のサンダルが笛を鳴らしながら駆けぬけたときにはけたたましさに耳を塞ぎ、ある男のスニーカーに踏みつけられたときには靴底にうねるラインをはっきりと読み取ったような気がした。ベビーカーを押した男が立ち止まり、子供を覗き込みながら押しては戻しを繰り返し、車輪に躙られる様を見るうちに、脇腹の肉が捻られるような痛みを覚え、背を向けた。(p.56)

最後まで読めばこの冒頭がいかに効果的で練られたものかがわかります。丁寧な出だし。

恐らく高校時代、クラスの中では地味な3人組として周囲からは認識されていたであろう元女子高生たちの、短い期間ながら濃密な時間、絆、それを思い出にして今につなげて生きるというのはぐっときました。外からみたらぜんぜんぱっとしないのだけれど、本人たちにとってはかけがえのない経験でつながっているお互いに大事な友人だという、その個人的なところを巧く掬っていたと思います。とくに絆を描く上で、3人で共同作業してしあげた物語はそれだけで一つの読み物としても読んでみたい作品でした。

もうちょっとだなあと思うところ。人の描き分けでしょうか。みすず以外の二人、尚子と遥の高校生時代はどっちがどっちでもいいような、別々の人として認識できない描き方だったように思います。僕の読解力がなかっただけならすみません。あと、最後の最後で、思い出の場所でワゴンセールをやるとそこだけ商品がバンバンうれる、みたいなのはちょっと蛇足かなあと思いました。
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