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原田ひ香「こなこな」

出典:『文學界』2012年12月号
評価:★★★☆☆

愉快な人間関係を描くとか心温まる家族の絆とか、そういう甘ったるいフレーズをぶっ飛ばしてくれるのが純文学の面白さだとすれば(だから万人にうけないのかもしれないけれども)、それでも実際僕らが生活していくなかで、他人と通じ合えなかったり、腹立ったり、むかついたりすることはたくさんあるわけで、一言でまとめると、他人とのわかりあえなさ、を描いたのが本作品。一言でいう、なんて乱暴ですが。

この「こなこな」には様々な層で、やり取りの嚙みあわなさが設定されています。ご近所さんのレベルで、そのご近所さんから一週間預かることになった子供とメイドさんと桃代のレベルで、桃代夫婦のレベルで、桃代夫婦の過去の友人のレベルで。さまざまな国籍、さまざまな環境、さまざまな時間を生きてきた人たちが、作中ではたしかに言葉をかわしているし、メールなんかでもやりとりは成立しているけれども、それは表層であって、深層ではどうしようもないわかりあえなさ、他人の考えていることのつかみ辛さが底流しています。

だからこそ、その容易に分かりづらいところ、ときにちぐはぐになってしまうところに、コミュニケーションの面白さや物悲しさがにじみ出てくるわけで、上にあげたそれぞれのレベルでの人間関係がいっそう味わい深いものになっていると思いました。まあ倉田夫人の、そんなに交流もないご近所さんに子供とメイドを預けるという思考回路は読了後もまったく理解できませんが(笑)。

夫の浮気を仄めかされてもあえてそれを素通りしてしまう桃代のありようには、なるほどこういうのもありだな、と思わされました。桃代が意識的にそうしているのか無意識なのかは判然としないところがいい。恐らく、容姿は下り坂、年齢は三十路間近、学歴は高卒、シンガポールにいながら英語もしゃべれない、実家の援助も期待できるほどではない、となると夫と別れた時にとても一人では暮らしていけないだろうから、この浮気の可能性を表層でスルーしてしまうのは無意識の意識、みたいなものの発動でしょうか。

夜中に家を抜け出して粉を買いに行って、そのまま粉料理を作りまくるとか、どことなく不気味です。肉を買ってきて庖丁でメッタざしにする、みたいなありきたりの分かりやすさがうすめられているぶん、粉料理をつくることの意味あい衝撃度があいまい化されて、そこに読み手の想像力を誘う余地が生まれているなと思いました。
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庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」

出典:庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中央公論新社・中公文庫・1995年)
評価:★★★★★

永遠の18歳というとやはり薫君じゃないでしょうか。庄司薫、実年齢はもう75才です。脳内イメージは、黒の徳利のセーターを着て微笑んでいる著者紹介のまんまですが、どんなお姿になられたのか。

久々に読んでみましたが、やはり傑作です。薫君のイメージとともに古びない、どころか作品のほうはますます力を増している気さえします。日比谷高校の「いやったらしい」エリート文化を描いたところには、ひとことでは形容できない、まさにこの作品一作をかけてでしか語られなような複雑な感情が何重にもおりたたまれています。その複雑な感情を語るには、この軽妙な語り、ただし問題から逃避しているのではなく、また借り物の言葉をまとうのでもなく、あくまで自分の言葉で実感をこめて語ろうとする真摯さが要請されたのだと思います。いつまでたっても「青春文学」と呼ばれるのはひとえに、薫君の語りの真率さ、まさにその一点にかかっている。

そしてこの作品が現在でこそ読み直されるべきだ、と僕がおもうのはやはりいま僕たちをとりまいている文化状況があるから。東大の学生運動がピークをむかえ、かつ下からは大衆化された世代が押し寄せてくるという、薫君たちの板挟み状況は、まさに戦前の教養主義の最後の煌めき、とでもいっていいようなかけがえのない時代で、それ以降は、感受性の人一倍鋭い芸術派の大将・小林が感じていたような得体の知れない脅威にワーッと呑みこまれて行ってしまう時代が到来してしまうわけだけれど、現在何が残っているかというともう圧倒的な大衆のパワーのまえにあらゆるものがこきおろされてしまう、そういう寒々しい状況が広がっているという。

薫君なり小林なりの文化オムニボアが真の意味で輝けた最後の時代をこの作品で振り返るのは、しかし単なるノスタルジーではなくって、あくまで「それでも何とかしなくては」という勇気づけを与えられるから。一度っきり軽く読み流す程度だと、「いい時代もあったもんだ、それもこれからは無くなっていく、あーあ」というくらいの嘆きにしか受け取られかねないけれども、やはりタイトルにもあるように「赤ずきんちゃん」を求める少女に、生爪の剥がれた左足親指の激痛をこらえながら笑顔を振り絞るその精いっぱいさ、そここそが本当の読みどころのはずです。様々な悪意、嘘っぽさ、偽善、詐欺、軽薄さ、あらゆるものが渦巻く世の中で、それでも歯を食いしばって立ち向かう薫君の姿は、もう今では手遅れじゃないのかという疑問も一方では抱きつつそれでも、僕に一すじの光を見せてくれる大きな指針となっています。

青春文学とはいわれつつ、この作品は今の十代には十全に通じないだろうなあ。ある程度年齢がいった人、あるいは現在のお寒い状況に歯噛みしている人こそ、読んで心を動かされる作品だとおもいます。

以下、気になったところメモ。

つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくったっていい。つまりなんらかのおおいなる弱味とか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるえくドギツく汚なく大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚なくてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚ないものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。そしておれはね、そういういわば絶対値競争にはもう全く自信がないんだよ。それからおれは、そんなあさましい弱点や欠点暴露競争にも参加する気にはどうしてもなれないんだ。つまり資格がない、全然もともと資格がないんだ。(中略―引用者)これじゃあ狂気の時代になるのは当たり前だ。つまり昭和元禄阿波踊りだ。そして踊らにゃ損々なんだ。おれはもう何もやる気がしないんだ。おれはね、おれはさ、日比谷に入って初めて卒業生名簿を見た時、白状するとすごく嬉しかったんだよ。まあ、どうでもいいことだけど、夏目漱石だとか谷崎潤一郎とか小林秀雄とかズラズラいてさ。それで、おれは漱石が大好きだからさ、これも何かの縁だ、おれはきっとあとを継いでやろうなんて思ったりしてね。でも、もうだめだ。評論家になってそんな時代を叩っきる気さえしないんだ。同じ小林でも秀雄大先輩とは時代がちがうんだ。阿波踊りのどまん中でモーツァルトを、いやワグナーをきかせたって、それがいいものだって言ってみたって、そんなのはそれこそナンセンスに決まってるんだ。(pp.120-2)

上の引用は、薫君に涙しながら愚痴る芸術派の総帥、小林の内面告白。庄司薫じしんが、実は自分が日比谷で過ごしたときは、薫君というより小林のような存在だったといっていることからすると、この小林のことばは、書き手の庄司薫のことばとして受けとりたくなる誘惑に駆られる。そして上の引用で非難されているのは、関西からの越境入学者中島の、劣等感に開き直っている点(そしてそれは中島個人の問題ではなくもっと多くの人に共通する問題のはずだ)だが、そういうドギツイ「下劣さ」を武器に文学界に殴りこんでいったのが村上龍だとすれば、その開き直りのパワーを目の当たりに感じた小林=庄司薫はもう四面楚歌になる以外なかく筆が止まってしまうのかもしれない、というところまで妄想を広げたくなる。村上龍の書き散らす小説の、どうしようもないスノビッシュな芋臭さ、読者をバカにしたようなサービス精神が、嫌悪感半ばしつつもウケてしまう世の中なのだから。

彼らの果敢な決断と行動、彼らと行動を共にしないすべての若者をすべての人間を非難し虫ケラのように侮辱するその行動の底には、あくまでも若さとか青春の情熱といったものが免罪符のように隠されているのだ。いざとなればいつでもやり直し大目に見逃してもらい許してもらえるという免罪符が。若き日とか青春といったものを自分の人生から切り離し、あとで挫折し転向したときにはとかげの尻尾みたいに見殺しにできるという意識が。もともと過去も未来も分けられぬたった一つの自分を切売りし、いつでも自分を「部分」として見殺しにできる恐るべき自己蔑視・自己嫌悪が隠されているのだ。でもぼくにはそんなことはできない。ぼくだってもちろんこの現代社会が明らかにウサンくさくそして大きく間違っていることを知っている。だからぼくだってそれがどうしても必要だと分ればいつだってゲバ棒をとるだろう。それが自分だけのためではなくみんなを幸福にするためにどうしても必要であり他に方法はないということが、誰でもなくこのぼく自身の考えで何よりもこの胸で分った時には。でもその時にはぼくは、ただ棒をふりまわして機動隊とチャンバラをしたり、弱い大学の先生を追いかけたり、そしてそのことだけでも問題提起になるなどと言い訳めいたことは言ったりせず、しかし確実に政府でも国家権力でもひっくり返すだろう。やれるだけやればいいなどと言っていないで、ちょうど由美を襲う暴漢の息の根を確実にとめるように、必ず絶対に、あらゆる権謀術数、あらゆる寝わざ裏わざを動員して、時には素早く時にはずる賢くそして時には残忍極まる方法を使ってでも、確実にぼくのそしてみんなの敵を、それが政府だろうと国家権力だろうと絶対確実に倒し息の根を止めるだろう……。でもこれは明らかにぼくの捨て台詞だった。(pp.138-9)

門脇大祐「黙って喰え」

出典:『新潮』2012年11月号
評価:★★☆☆☆

新潮の新人賞二つでてたのか、と発見して(僕が見落としてただけですが)、門脇大祐「黙って喰え」。ある男子大学生のもとに、かつて同じマンションに住んでいた同級生から突然手紙が届きます。

砂原くん、わかったんだ、サナダムシなんだ。(p.46)

手紙のはじまりはこんな感じ。これだけでドキドキワクワク、期待をかきたてられて、冒頭から作品世界に引きこまれました。ただ僕にとってはここがピークで、あとは大学生と関係のある人たちとの会話を主体に、フラットな話が続いていきます。要所要所ではさまれる友達からの手紙が、そのフラットな日常とは対照的に、暑苦しい電波な内容の文面なのでいいアクセントになるのですが、それもビジュアル的な面からで、手紙が来たからといって、主人公の男子大学生はなにか日常生活や思考に影響をうけるということはありません。手紙が次々くるも、なぜお腹の中にいるというサナダムシが他人の声を受けとってくるのか一向に話が進展しません。日常パートは淡々とすすみ、サナダムシパートは堂々巡り、最後の最後で二つのパートが接触するのですがそれもなんだか拍子抜けでした。まあこの主人公ならこの終わり方も納得はいくんですが。

僕だったらこんな電波な手紙きたら一通目を読んでワクワクしつつぞっとして、二通目からは読まずにすてたり嗤いの種にしつつ友人に相談するというような、アンビバレントな対応をとっちゃうかなあ。面白半分、恐さ半分。三通目以降は、「これはいじったらあかんやつや」と考え直してそっとゴミ箱に捨てると思います。主人公が「くらげ」と呼ばれて、つかみどころがないぶん、手紙がきたら一応読むけれどそれからなにか影響受けたりはしないよーというのがフラットな日常(=作品世界)をフラットなままに停滞させてしまった要因かと思います。僕にとっては、結局、そういう人っているだろうけれどあまり理解できないタイプの人、が主人公だったので読んでいて、あんまり面白みは感じませんでした。いろいろな人間関係もでてくるけれど、こういう主人公だから話が関係が深くなっていかないのだなあ。そういう関係の面からいっても、フラット。

この、あからさまでないところ、抑制のきいているところ、さりげないところ、起伏の少ないところが、読む人が読めば上手い!と感じられるようなこの書き手の特質かも知れません。次回作に期待しています。

二瓶哲也「最後のうるう年」

出典:『文學界』2012年12月号
評価:★★★☆☆

東京での仕事をやめて群馬の実家に帰る「自分」が、過去知り合った男を路上で偶然見かけ、そこから二十年前のことを回想する小説です。最後の叙述トリック(といっていいのかな)は、乾くるみ『イニシエーション・ラブ』とか殊能将之『ハサミ男』なんかを彷彿とさせる手口で、純文学雑誌ではあんまり見かけない書き方だけに、読むほうとしては油断していて虚を衝かれた感じです。作品の本質部分として必要か、と問われれば疑問ですが、読み手をびっくりさせたいという気持ちが書き手にあるのはうれしいかぎり。また次回作も読みたくなりました。

同号掲載の新人賞受賞作『隙間』を読んだあとも思ったんですが、新人賞の文章の上手さって凄いですね。プロとしてエンタメ系小説を何作も書いている人なんかより、デビューしたての二人のほうが明らかに描写力あります。ジャンルによって大まかにいえば、ストーリーで読ませるか、描写で読ませるかみたいな違いがあるんでしょうけれど、この『最後のうるう年』はどっちもけっこう楽しませてくれました。風俗業界で働く人は知り合いにいないので、異業種を覗き見しているようでそれだけで楽しいし、かつ出てくる人物の描き分けもそれぞれの特徴を出して巧みでした。

守山忍「隙間」

出典:『文學界』2012年12月号
評価:★★★☆☆

新人賞つながりということでこの前発売された『文學界』から。書き手の苗字は、もりやまじゃなくて、かみやま、だそうです(変換できなかった)。複数選考委員がすでに指摘しているように、覗きを扱うとか、仲のいい女兄弟とか、関西弁というキーワードから連想される谷崎潤一郎の影響が満載の小説です。影響ということでいえば、

いかにも肥えた土らしい黒い畝に、鋭く尖ったニラが整然と植わっているさまは、清潔だった。(p.24)

の、「清潔」の使い方なんかは川端康成を想起させます。

文章がとても整っていて、『肉骨茶』の暴れ馬ぶりとはまた逆ですね。非常に丁寧に、洗練されたことばを選んで使用しているというのは(後半ちょっとその緊張感が緩んだ気がしないでもないですが)、悪くいえば新しさがない保守的な作風です。まあ掲載雑誌の性質上保守的になるのは仕方ないのかもしれませんが、それでも新人らしさがいい意味でも悪い意味でも感じられない、完成度の高い優等生的作品でした。

冒頭いった谷崎との関係について一言申し添えると、ぱっと読み、確かに谷崎が好んでとりあげたモチーフが散りばめられていて「似てる」という指摘は間違っていないんですが、恐らく書き手が意図していない部分での谷崎との相違もはっきりとあります。谷崎の場合、その新奇な素材(サドマゾ、エログロ、スカトロ、百合、不倫、スワッピングその他もろもろ)にどうしても目が行きがちですが、一方で登場人物たちの社会階層や家柄には非常にこだわっています。どれくらいの収入の職業で、どんな地域出身で、どの辺に住んでいて、交友関係はどのくらいで、という風に登場人物のデータプロファイルが、綿密に作品に嵌めこまれています。そういう下部構造(死語)を土台にして、目を引く素材を散りばめるエンタメ性があるので、谷崎作品の登場人物には「いるいる、こういう人いる!」というリアリティが非常に強く感じられます。

反対に、守山忍「隙間」では社会経済的な土台の作りこみは希薄です。それが一因となって、登場人物たちの足場が固まっていないというか、どこかふわふわしたとらえどころのなさがどうしてもつきまといました。描写一つひとつは丁寧できちっといているんですが、作品世界総体を統括するリアリティの面ではあまり行き届いていないように思います。淑子の教職に就いているらしいことも終盤、取ってつけたように触れられるだけですし、覗き行為をする男にいたってはどんな仕事のどんな経済状況の人かほとんどわからない(庭のない家で育った、くらいでしょうか)。もちろん、登場人物の経済状況を逐一書き入れるような野暮な書き方は論外ですが、仄めかしくらいあれば登場人物たちのすわりが良くなったんじゃないかな、と思います。

先行作品を小器用に真似した作品でどや顔されても、こっぱずかしくなるだけなので、次回作で、なにかこの人にしか書けないような新しさを期待したいです。

高尾長良「肉骨茶」

出典:『新潮』2012年11月号
評価:★★☆☆☆
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肉骨茶って↑のような食べ物なんですね。ググってはじめて知りました。東南アジア風おでんかな(笑)

さて、滝口悠生つながりで2012年度の新潮新人賞受賞作です。最年少受賞だそうで表紙にもそう書かれてあります。作品は、拒食症の女の子が母親との旅行中、マレーシアで一人ツアーから抜け出し、旧友のゾーイーと再会して一晩を過ごすという話。新人賞なので審査員の選評がついているのと、『新潮』には作者インタビューもあって楽しみにしていました。年頃の女の子と食の関係は耳タコのテーマながら、できあいの母子関係に回収してしまわず、食べ物にたいする憎悪をひたすら憎悪として書ききったことが評価を集めた理由でしょうか。

因果で説明してしまわないとなると何より描写の筋力が必要になると思いますが、この作品は言葉のマニエリスム、フェティシズムがまだ抜けきっておらず、その点描写力といっても荒削りで読者のことは置き去りだなあ程度の印象しか残りませんでした。肩に力が入りすぎというか、書き手本人が書きたいだけで、読み手につたえることは副次的というか。しかしそこに「やむにやまれぬ」感を読みとった選考委員がこの作品を押したんでしょうね。

説明をしないどころか、仄めかすこともほとんどないので、僕はどうしてもそこに戸惑ってしまいました。いちいち理由が必要だ、なんていうつもりはないですし、仮にそんな話があればそれは読み手の自由度を奪ってしまうつまらない作品だと思いますが、それにしたって一義的な解釈はなくっていいから、何通りか読み解けるヒントのようなものを仕掛けておいてほしかったとも思いました。

拒食症で骨と皮だけになった赤猪子に対して鉱一はなんでいきなり魅力を感じるようなそぶりを見せたのか、ゾーイーと赤猪子との仲はなんであんなに親密なのか、ツアーから忽然と人ひとりいなくなれば大事件じゃないのか、あれだけ食べ物に嫌悪を感じていた赤猪子がなんで歯を肉骨茶に当てたのか。もういろいろと疑問がつきませんが、これに対する解答のヒントは当然用意されていません(笑)。もしかして小説の書き方本なんかで、「説明」じゃなくて「描写」が大事!なんて書いてあるのを真に受けて、一切の説明を排したとかそういうことだったりして。

ともあれ、受賞者インタビューでは「古典が好き」と答え、受賞のことばでも「自分自身を越えてゆく努力を怠らない」と宣言している書き手でまだ19歳。将来性に期待の、頑張りま賞というところでしょうか。頑張ってください。

滝口悠生「わたしの小春日和」

出典:『新潮』2012年12月号
評価:★★☆☆☆

デビュー作「楽器」と似たようなテイストで、この作品も視点人物がバンバン切り替わります。人物が変わるだけじゃなくて時間も行ったり来たりして読む方としてはなかなか気が抜けません。何か大事件がおこるわけじゃない、職を失った「私」が職探しをはじめるところから語りがスタートして、別居生活にはいったり、中学の友人と再会したり、その間にも、ヤンキーの同級生や母やなんかに視点人物が移動していき、気がつくと時間は過ぎ去っていて…というなんとも要約しづらい、純文学らしい作品です。保坂和志と磯﨑憲一郎を足して二で割ったようなテイスト。

滝口悠生がどんな先行作品(や他ジャンルの作品)からインスピレーションをうけてこういう作風にいたったのか、デビュー作が掲載された新潮を引っぱりだして、インタビュー記事から名前を拾ってみると、保坂和志、岡田利規、市川真人、渡部直己、芳川泰久、佐々木敦、千葉文夫の名前が挙げられていました(登場順)。小説に批評的なスタンスをもちつつ創作にのぞんでいるのかもなあ、と安直に想像してしまいますがそれにしてはこの「わたしの小春日和」から、なにか批評的なきらめきを感じとれたかというと、うーんいまいち、という感じ。僕が読めてないだけかもしれませんが。

視点人物きりかえであれば、ウルフの作品だったり、語りも含めればヌーヴォー・ロマンの一連の作品だったりでだいぶラディカルに試みられてきた伝統がありますしそういうのに比べてこの作品に何か新しいところがあるかというと、あまり見当たらない。僕が読めてないだけかもしれませんが。

あとは、上に名前をあげた磯﨑憲一郎だと一行で時間が一気に数百年遡ったり、何の前触れもなく場所が中世ヨーロッパに飛んだり、その跳躍力に一種のふてぶてしい開き直りを感じられて心地いいのですが、それに比べてやはりこの作品でいうと、そういう振幅の幅も小ぶり感が否めません。

途中途中で面白そうなエピソードもはさまれて飽きないことは飽きないのだけれど、先行作品群と同列にこの作品をならべてみたときに、なにか足りないものがある感じ、この書き手独自のものが今一つない感じが、どうしても残ってしまいました。デビューしてまだ一年ほどだし、次の作品を読んでみればもっとはっきりするのかもしれませんね。

あと、英語が苦手なんでしょうか、ちょっと変なところが二か所ほどありました。

そういえば坂口は衝動的な、パフォーマティブな習性があり、中学の卒業式でも校長の祝辞の途中で突然ステージに上がって隠し持っていたリコーダーで君が代を吹きはじめ、強制退場させられたのだった。(p.62)

パフォーマティブという単語は普通、言語学のなかで「遂行的」という訳語があてられるような専門度の高い言葉です。上の箇所で書き手がいいたいことはこれとは違いますよね。大阪弁でいうところの、いちびり、ですね。編集か校閲かチェックは入らなかったのでしょうか、これ。

英語ならってるんだ。えーと、ホワッチャネーム?
マイネームイズ、ヨウヘイアンザイ。

主な語り手の「私」の母と、「私」の同級生の子供との会話で、この場面はコミカルな狙いがありそうなのでこれはこれでいいのかもですが、今はマイネームイズみたいないい方では教えられていないはずで、「I'm~」という受け答え方が一般的、かつ日常の使用にかなった答え方かと思います。次回作で頑張ってください(笑)

安部公房「天使」

出典:『新潮』2012年12月号
評価:★★☆☆☆

安部公房の出発点として新しく位置づけられるべき作品が発見されたそうで、それが12月号新潮に掲載されていました。安部公房の作品にはほとんど目を通していますが、後年の、具体的な記述身体的な記述を積み重ねて、抽象性へと至るような書き方とは違って、観念的哲学的な語り方をされた短編となっています。もっとも、部分部分では若書きながら魅かれる記述もたびたびで、未読の方は短い作品なので読んでみて損はないはず。

いま・ここから抜け出してゆく、超越的志向みたいなものは、語り手を精神病院に収容された狂人に設定していることからも顕著ですね。何をいっているのかわからないような書き方も、この語り手ならありかと納得できます。ただ、安手といえば安手ですが、時代が許してくれたってのもあるのかな。

以下、気になった表現など適当に抜粋。

それは私が一つの正確な世界に住んでいた、或る意味では、正六面体の宇宙に住んでいたと言う事の為に発見した真理、第一級の真理の事なのだ。御承知の通り無限を意味する灰色の六つの、いや五つ半の面と、半分の未来とに世界は仕切られている。お解りだろうか。実の所を言えば、私も始めはこれは唯の部屋だと思っていた。所があにはからんやである。これが宇宙そのものだったのだ。そして固い冷い壁だと思っていたものが、実は無限そのものであり、恐ろしい不快な鉄格子だと思っていたものが、実は未来の形象そのものに他ならなかった訳なのだ。(p.8)

何時しか其の不吉な花に誘われて、私は枝元から手折って顔をよせ、静かにその香を求めても見た。けれどその花は唯冷いばかりだった。目にも耳にも鼻にも答えようとはしなかった。私はそれを上衣のボタン穴に挿し、丁度心臓の上に其の炎が凍りついている様な具合にした。そうすると何んとした事だろう。私の胸は一そう晴れやかになり、一しおさえた青が雲を包み、太陽は葉群れや窓に金色になって笑った。(p.13)


全集に収められた安部公房作品すべてを読んできた僕にとっては、「安部公房の初期短編が発掘された」という売り文句がこの作品を最後まで読ませてくれたわけで、これが別の作家のものだとか、近年の若手によるものだったとしたら、最後までは読まず途中でやめちゃっただろうな。

荻野アンナ「背負い水」

出典:荻野アンナ『背負い水』(文藝春秋・文春文庫・1994年)
評価:★★★★☆

ここ数年の文芸誌の感想が続いたのでブックオフで買ってきた100円文庫本をとりあげてみます。

アラサーという言葉が広まったのは2000年をだいぶまわってからだったと思いますが、「背負い水」の語り手はまさにアラサー女子。結婚するかどうするのかで不安定な立ち位置にいながら、何人かの男の間で揺れ動く女性です。「背負い水」の初出は1991年の『文學界』なので執筆時期なんかを考えてみれば、丁度世の中がバブル景気でウハウハだった時期の終盤。狂騒する世間を尻目に語り手の女性は、「清貧」に甘んじるという構図が文学作品として描かれる意味はあったんだろうと思います。

貧しい苦しいという独り言だと何の面白さもない伝統的お文学ですが、この作品はそういう堅苦しさは背景に退き、語りの軽みが前面にたっています。落語由来の軽妙洒脱な語りが、世間を斜に見ながらフワフワ生きるこの女性のものの見方とマッチして楽しい。荻野アンナ自身、2005年に11代目馬生師匠に弟子入りしてるんですね。いまググって知りました。

表現レベルでいえば、こういう軽さがある一方きちっと伝統的な文学レトリックも踏まえていて、固有名詞以外は今読んでも古びません。自意識過剰な女の子がペラペラ閉じられた言葉でお道化を演じる小説とは一線を画す真剣さが背後に感じられます。また、この作品が書かれて後の、アラサー女子の悲喜劇を予告していたという意味では、現代性も先取りしていたということになるかもしれません。

知性の閃きといったらいいのか、これこそ落語のサゲがばちっと決まるような見事な締め方で、最後の一文を持ってくるセンスには脱帽しました。

最初から半分諦めていたが、意外なことに快諾してくれた。
「わたし、ウソッコ大好き」
 取材が記事にならないことなど日常茶飯事であるからして、気にしない、気にしない。剛毅である。これでこそ親友というもの。目頭が熱くなった。今後彼女の記事は眉唾で読むことにしよう。(p.81)

語り手の女性が、親友に名義貸しをダメもとでお願いしたところ快諾してくれた場面。OKの返事をもらって、目頭熱くなりながらも、最後の最後で、「彼女の記事は眉唾で読もう」というのは思わず吹き出しました。

女性作家で、こんな風に語り口が楽しめる作家はそれほど多くないと思うので、荻野アンナ、もうちょっと読み直してみようと思います。

大森兄弟「松ぼっくいとセミの永遠」

出典:『群像』2012年10月
評価:★★☆☆☆

宿題の工作に、おばあちゃんの作った松ぼっくい人形を提出してひと騒動おきる小学校五年生の「僕」一人称語りのお話です。ひと夏のドキドキ、セミの鳴き声が聞こえなくなって新しい季節に、みたいな描き方って、うんざりするほど繰り返されてきたもので、いまさら感があります。小学生とか中学生がこれを読めばぴったりなのかもしれませんが、僕には無理だったなあ。もう一点注文をつけるなら、ここに描かれているのは、小学生あるあるばっかりで、それはそれでノスタルジーに訴えかけてくるところもないではないけれど、この作品ならではの新しさというのは特に感じられませんでした。通俗イメージをきっちりなぞっている感じ。既視感ばかりでした。

詰めも甘い。お婆ちゃんのつくる人形が、松ぼっくり人形じゃなくて、「松ぼっくい」と呼ばれているところがポイントでどうやらこれは方言のようなものと仄めかされるのですが、一方お婆ちゃんの話し言葉は方言に染まらない無味乾燥なものです。

「すこやか苑の安西さんに習ったんだ。でき栄えがいいってみんなの前でほめられてさ、そこで働いてる人らが自分にも作ってくれって言ってきてな。他にすることもないし、仕方なく作ってる」(p.168)

この、ラノベ臭。顔のパーツは十代少女で豊齢線だけ書き足されて無理矢理「おばあさんキャラ」にこじつけられているへたくそなアニメ絵を想像してしまいました。お婆ちゃん、というのがリアルじゃなくて具体性のない記号に過ぎないんですね。

話の組み立てとして、語り手の僕はドキドキしながら松ぼっくい人形を分解していきます(このシーンはドキドキ感持ちながら読めました!)が、そうするまえになんでお婆ちゃんに電話して作り方や材料についてたずねないのか。小5でリダイヤルできないのか。そうか、できないのか。

作品全体を通してみると大きな傷じゃないのかもしれないけれど、こういう細かいディティールに引っ掛かりを感じてしまったこと、あとは新しさのない通俗イメージをなぞるものに過ぎないと僕には読めたこと、これらから星二つと判断しました。中学生のときくらいに読めば、もっとたのしめたんだろうな、これ。

馳平啓樹「クチナシ」

出典:『文學界』2012年11月号
評価:★★★☆☆

働く人を描いていきたい、といっていた馳平啓樹。この作品でも働く人が主人公です。もっとも職場の正式な業務が何なのかははっきりしませんが(主人公の部下が、マーマレード瓶に張り付ける売り文句を考えていることは分かる)、むしろなんだかうんざりする職場で働いてそれで家に帰って子作りをしなければならない、その家庭生活の方に主軸が置かれている感じ。

夜中に笑い声をひびかせる隣人、疲れて帰ってきても問答無用で子作りを迫ってくる妻、そしてぱっとしない職場。とってつけたような救い(職場の美人な新人と不倫する)とか、とってつけたような諸悪の根源(主人公を不機嫌にさせるようなトラウマ)とか、とってつけたような一人合点(主人公がいきなり悟る系)みたいなものは描かない節度が保たれていて、それだけにかえってこういう人こそ、声をあげないけれどたくさんたくさんいるんだろうな、と想像します。疲れた若い勤め人が読んだら、すごく共感するところあるのかもしれません。

デビュー時から描写の手堅さは際立っていた印象で、この作品でもそこはしっかりしています。形のないものを実体化したり、動作主にしたり、そういう書き方をさりげなくやってのけるクラシックな書き手です。たとえば、

距離がまだ遠く、姿を確かめられない。気配の糸を手放さなかった。むしろ強く握り締めて歩いた。夜空は雲に覆われて月も星も隠れている。他に行くところのない厚い湿り気が地上で冷やされる。冷やされた挙げ句、無造作な勢いで肌に張り付く。クチナシの匂いが横溢する。匂いを詰め込まれて鼻が億劫になる。ふてぶてしい。見た目に取り柄がないならば、その名前にも何の愛嬌も有りはしない。どうして匂いばかりが一人前でいられるのか理解に苦しむ。(p.193)

気配、で止まるんじゃくて、気配「の糸」とすることによって、気配が実体化して、主人公が「手放さなかった」り、「強く握りしめて歩いた」りできるようになります。湿り気は「行くところがない」と形容されることで、湿り気が動作主化されて、主人公の肌に張り付くときは「無造作」になります。この辺さりげないですが、全編通して、こういう何気ないテクニックがしっかりしているので安心して読めました。こういうきちんとした書き手は好感がもてますね。頑張ってほしい。

西村賢太「豚の鮮血」

出典:『文學界』2012年11月号
評価:★★★☆☆

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ブックオフにいっても100円では叩き売られていない西村賢太の人気の秘密は、いまだ記憶に残る「風俗行こうと思ってた」発言や、メディアでみせる「あいかわらずだなあ」という西村賢太節といった、その人物が多くの人を引きつけるところにあるんだろうと推測します。あと、映画化もされたしね。そういう人が私小説を書けばそりゃ面白くないわけがないですが、その面白さを書き手だけに還元してしまうのはもったいない話で、事実、この「豚の鮮血」は書き手のデータがない人にも楽しめる作品となっています。

この硬い調子は、藤澤清造経由のものなのでしょうか。藤澤作品は未読なので今度読んでみようと思いますが。言葉づかいは硬い調子です。文末は、「である」「である」連発するし、漢字も多い部類。だけどそこにしばらくつき合って読み進めていうけばそれほど苦にはなりませんでした。で、そういう硬い感じの基調低音をつくっておいて、そこにたまにさしはさまれるすっとぼけたカタカナ語がことごとく決まる。決まる、というのは読み手を笑わせることに成功している、という意味で。

多汗症のくせして根がデオドラント志向にできてる彼は、いったいに汗をかく行為が大嫌いなのである。(p.15)

彼は、根が人数倍のスタイリスト気質にもできているのである。(p.15)

デオドラント志向ってなんだよ(笑)。スタイリスト気質ってなんだよ(笑)。

体裁は私小説でネタ元も実際に西村賢太の身に起こったことなんだろうなと思いますが、作中の主人公を貫太とし、「彼」と呼びならわしていることからもわかるように、書き手と作中人物との距離はきっちり取られています。西村賢太のさすがだなあと思わされるテクニックは、やっぱりこの距離の取り方で、微妙に貫太を突き放すような(それでいて同時に抱きとめてもいるような)書き方で書かれることによって、批評的な視線が入る余地がうまれていますね。その、書き手と作中人物とに生まれた距離をうまく利用した一つが、上の引用箇所。

この調子でどんどん書いていってほしいですね。個人的には、貫太がいいともに出演したときのエピソードを待っていますが(笑)
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