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川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」

出典:川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社・2011年)
評価:★★★☆☆

『ヘヴン』が川上未映子の師匠・永井均のニーチェ理解を小説で実践したような、硬質の哲学小説だったのにたいして、『すべて真夜中の恋人たち』はずっと柔らかくなった印象。といっても作品の背後に、持てる者と持てない者にたいする視線があって、そういう社会経済的なところから読むこともできるのだけれど、ここに描かれてあるのはけっこう戯画化されている典型的なタイプの人々です。通俗といいかえてもいい。これを書くことで、川上未映子の表現の幅がひろがって新たな読者層を獲得できたとみるか、『ヘヴン』に魅了された読者を失ったとみるか。僕は後者じゃないかなあと思います。

全体を貫く「光」の使い方が非常に良かったです。川上未映子の言葉づかい、抽象的な名詞を具体的な文脈で展開する方法にとてもマッチしていて、光というとらえどころのないものを、とらえどころのないままに、小説のなかでとらえてみせたのは、読んでいて心地よかったです。レストランデートとその後に続くシーンなんかは何度も読みかえしたいくらいです。

 真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。
 それは、きっと真夜中には世界が半分になるからですよと、いつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思いだしている。光をかぞえる。夜のなかの、光をかぞえる。雨が降っているわけでもないのに濡れたようにふるえる信号機の赤。つらなる街灯。走り去ってゆく車のランプ。窓のあかり。帰ってきた人、あるいはこれからどこかへゆく人の手のなかの携帯電話。真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。
 昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ。
 そうですね、三束さん。なんでもないのに、涙がでるほど、きれいです。(p.3)

導入からして、「光」満載ですね。やり過ぎ感ありありで、これくらいわかりやすく書かないと読者は読みとれないと思ってるのだとしたら、低く見積もられたもんです。まあこれも新たな読者層を獲得しようとした結果なのかなあ。

『ヘヴン』のような、読後にも圧倒されっぱなしになる重量級のパンチを期待して読みはじめただけに、少し肩すかしを食らってしまいました。悪い小説ではない、むしろ分かりやすく読みどころは読ませるできた小説だと思いますが、僕の、読む前の期待とあまりにもかけ離れてしまったので、ちょっとがっかりしたのも正直なところです。

あと、三束さんのオチはよめてしまいました。
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青山七恵「すみれ」

出典:『文學界』2012年1月号
評価:★★★★☆

困った人、というのがいます。こういったはしから存在しはじめてしまうようにおもえる、困った人。自分一人では生きていけず、誰かに頼らなくてはとてもやっていけないような人、といって助けを自分から求めてくるのでもなく、本人のほうではなにか自分なりの考えや美学があるようで、しかし放っておいたらきっと死んでしまうような人。周りの人からの援助を結果的に引き出しては生きながらえる人。

この作品で扱われているレミちゃんという女性がまさにこのタイプで、37歳、若いころは小説家を目指していたものの夢破れ、家族とケンカ別れをし、恋人とのなかをこじらせて自殺未遂、あげく友人の家に転がり込んでしまう女性。レミちゃんほどではないにしても、自分の努力や能力がたりないからといった理由だけでなく、生まれついた環境やぐうぜんの巡り合わせによる不幸、個人ではコントロールできない要因に翻弄されて人生の階段から足を滑らせてしまう人というのは結構いるはず。しかしそうだとしても大半の人は、「運が悪かったんだよね」「しょうがないよね」「新しい生甲斐をみつけたんだ」と自分自身を納得させながら、現実と折り合いをつけて生きているはずです。

しかしレミちゃんのような人は、自分を納得させる言葉にうそくささを本人の思いこみや認知の歪みも込みで感じ取ってしまうわけで、結局自分のあるべき姿にこだわり続けて、人生をこじらせてしまう。もちろん最終的にどこかでレミちゃんが小説家になって自活していき、作品で多くの読者を獲得できるのなら、レミちゃんの考え方は「事後的に」正かったといえるのかもしれませんが、しかしそうなる可能性は限りなく低そうです。結局、ぐずぐずとあるべき姿から現状の自分を否定しつづけ前に進めないまま袋小路をさまよい続ける。こうなると他人の言葉もまっすぐには届かないだろうから、まさに「困った人」というわけです。現代社会というのは、レミちゃんのような中途半端な才能がある(とおもいこんでいる)人にとっては、降りられない社会、煽り続ける社会としてたちあらわれてくるわけで、かなり厳しい状況だろうなと想像できます。レミちゃんという人物を造形しえたこの作品は、読後も宿題を残してくれます。

また、この小説の技術的な面からいえば、レミちゃんそのものをダイレクトに描いてしまうと、目も当てられないような悲惨な人になってしまう可能性がありましたが、このレミちゃんを15歳といういまだ自分の定見が固まっていない少女の目を通して語ることで、レミちゃん像にワンクッションおかれて、レミちゃんの悲惨さ、どうしようもなさがやわらげられています。と同時に、レミちゃんとの適切な距離がつねにとられ、そこのレミちゃん的人物にたいする批評も生まれ、結果として読者にレミちゃんのような困った人について考えさせる余裕を与えてくれています。うまいなと思いました。

下はレミちゃんの語る言葉ですが、小説をよく読む人は結構共感できる部分も含まれているんじゃないでしょうか。

「でもね、藍子、いちばん単純で下品な言葉が、いちばん上品な言葉になることだって、場合によったらあるんだよ。でもみんな、間違って下品になることが怖いし、絶対に、下品にはなりたくないの。だから、本当ならひと言で済むことを何枚も何枚もどうでもいい言葉で包んで、中身を見えなくして、それらしく体裁を整えてから、どうぞ、これがわたしの考えですって相手に投げつけるの。それで、その飾り言葉のせいでずっしり重くなっちゃった包みを受け取った人が、苦労していらない言葉を一枚一枚はがしていって、最後にようやく大事なひと言に辿りついたときには、その言葉を投げつけた本人はもうその場にいないの。誰ももう、そこにはいたくないんだよ」(p.51)

レミちゃんのようになまじっか感受性の鋭い、と同時に思い込みの激しい人、そしてそういう風に周りの人間達もレミちゃんをみてしまっていることが、どんづまり感をだしている重い小説でした。

石原慎太郎「僕らは仲が良かった」

出典:『文學界』2013年1月号
評価:★★☆☆☆

暴走老人石原慎太郎の小説です。都知事から国政政党の党首に転身して小説も発表する、それぞれの仕事のクオリティには賛否あると思いますが、エネルギッシュなのは間違いない。こんな80歳なかなかいません。

で、『文學界』にたまに掲載されているけれども結構読み飛ばしている人もおおいのではなかろうかと勝手に思っている石原慎太郎の小説です。悪文という評は昔からついてまわっているみたいで、この作品もたった三人の男たちが会話しているだけの場面なのに、誰がどの発言をしているのかよくわからないっぷり。計算してやってるなら別だろうけれど書きとばしてるんだろうな、と思わざるをえない雑さです。

短編「僕らは仲が良かった」の構成は次のよう。既に社会的に地位のある三人の男たちが、お台場の役員室に集う場面からはじまり、旧制高校が新制高校に入れ替わる時代に同じ学生寮で一緒に過ごした仲間の関東から西日本への旅の回想へと流れ、そして現在に戻ってくる。老人男たちが「あのころは若かった」と回想するただそれだけの話です。にしても、芥川賞選評で「タイトルがなってない」と難癖つける割にこの短編のタイトルはひどいもんです。自分だけは例外か。特別か。

〔第133回芥川賞選評〕今回の候補作の水準は総じて高いものだとはいえそうにない。第一それぞれの作品の題名からしてが安易で、語るに落ちるといったものが多かった。題名は作品の心髄を表象する重要な一部だと思うが。

〔第137回芥川賞選評〕自分が苦労?して書いた作品を表象する題名も付けられぬ者にどんな文章が書けるものかと思わざるをえない。

はい、ブーメラン(笑)(選評は「芥川賞のすべて・のようなもの」より)

閑話休題。小説の読み方って「作品だけで評価する」という原理主義的態度は読み手の理解の幅を無理に狭めているだけのような気がしないでもないわけですが、それはやはりこの作品を、作者と切り離して読むか、作者とセットで読むかで評価がガラッと変わることによって、その確信を強めました。セットで読んだ方が断然面白い。上でいったようにこの作品、雑だし悪文です。ですが、これがあの暴走老人の元都知事が書いたものだと思いながら、あの顔、あの言動を思い浮かべながら読むと、結構楽しめる。作品冒頭、お台場のビル最上階役員室フロアから下界を眺めながら

「東京も変わったもんだよな、ニューマンハッタンか。こうして見るとこの国もそれほど傾いているとは思えないがなあ」
 大村がいった。
「いや、もうそうでもないな」
 高見がいい、
「まあ気にするな、なんとかなるよ」(p.30)

このツカミで爆笑しました。作者とセットでよまなかったら、これほど腑抜けた発話はないですが。

それともう一つ面白かったのは、雑な書き方だけに一周回って逆に味わいぶかくなっている語尾の処理。学生時代の回想パートで、「○○だそうな」という昔話風の語尾処理を連発するわけですが、いまどき「○○だそうな」なんていういい方が、たかだか60年ほど昔を振り返るのに大仰ないい方で、語られる内容との組み合わせによっては思わず滑稽な効果を生んでいます。例えば、戦後食料のなかった時代、学生寮のなかではこんな出来事があったそうな。

その猫を仲間がまた摑まえて、今度は誰かが陸上競技部の部室から持ち出してきた砲丸投げの鉄の塊で頭を殴って殺し皮をはいで、その肉をすき焼きにして食ってしまったそうな。(p.34)

ここにはこの小説のなかで、一番爆笑しました。ただでさえ食べ物のすくない時代の学生寮で、食堂に忍びこんでは食べ物を盗み食いしていた猫が退治された場面です。まるで人を化かして悪さをするタヌキを村人たちが懲らしめて狸汁にしてしまったようなイメージそのままに、「すき焼きにして食ってしまったそうな」(笑)。この「○○そうな」が計算されてこのエピソードを紹介するときに配置されているのならたいしたものですが、ここ以外でもエピソードの種類にかかわらず「○○そうな」は乱発されるので、計算というよりはきっと語り手の、過去を語るときの口癖(筆癖)なんでしょう。しかし下手な鉄砲かずうちゃあたるで、この猫鍋エピソードの語り口は面白かった。萌写真集の猫鍋じゃなくてリアル猫鍋。

山田詠美『ベッドタイムアイズ』

出典:山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社・河出文庫・1987年)
評価:★★☆☆☆

ブックオフ100円シリーズ。

綿矢りさの「ひらいて」で描かれた三角関係が、男-その男と付きあう女-その男とつきあえないので女を寝取る女、という関係だったのにたいして、この作品の三角関係は、女-その女と付きあう男-その女とつきあえないので男を寝取る女、という関係で読みながら似ていなくもないなあと思いました。綿矢作品の人間関係が『ベッドタイムアイズ』を意識していたというのは妄想レベルの主張だとおもいます(笑)が、三角+α関係というのは古くから文学作品にとりあげられやすい人間関係なんでしょうね。

さて、綿矢作品と関係ないといいながらしかし人間関係ではにたようなきもする『ベッドタイムアイズ』。文庫解説は竹田青嗣。解説で

ここに書かれているのはひどくナイーヴなひとつの愛のかたちにすぎないのだが、それについてなにか言おうとすると、しかし簡単でないことがすぐに判る。(p.144)

と、戸惑いをいきなり表明しています。私もこの作品を読んでいて、この作品を通して何かいいたいことがありそうだという印象とか、自分の思考が刺激されるような示唆だとか、そういうものはあまりうけませんでした。ただただ黒人のスプーンと呼ばれる男と、スプーンにほれたキムという場末の歌手との濡れ場を、キム視点で展開しているだけという。三角関係にも一瞬なりますが、ほんと唐突に三角関係になって、なにもなかったように関係が解消されます。結局竹田のいうように描写しかありませんが、デビュー作ということもあってか描写力もすごく素朴、わるくいうと拙いのでそこに魅かれるかというと僕はぜんぜん魅かれません(竹田の解説ではそこに「解釈」や「観察」がなくただ場面場面が肉体の動きや息遣いのなかで描かれる技法が新しいのだ、といっています。ほんとかよ(笑)と思いますが)。

発表時が1985年で、発表当時は黒人男性とのカラミを赤裸々に女性作家が描いた、という要素がそれなりに刺激的だったのかもしれません。ただ、今の時点で読むと、遅れてきた村上龍のような印象しかうけませんでした。「私はとにかくスプーンがすき、すきすき大好き、スプーンはなにか悪い事をしているみたい、でもそんなの知らない。あたしにとってはスプーンがすべて、惚れたあたしがあほやねん」というような演歌浪曲浪花節でしょう、これ。作品は一貫してキム視点ですが、これを相手のスプーン視点にきりかえてみれば、「自分の手を染めている犯罪行為も深く穿鑿してこないし、クスリをやってもうけいれてくれるし、酒を飲んで暴れても許してくれるし、おまけに飯やセックスの相手までしてくれる」都合のいい女=キム。どうしようもないなこりゃ。

綿矢作品には、人間関係の微妙な揺れをそれこそスタンダールのように心理小説としていまどきあえて描いていることに一種新鮮な感動を覚えたのにたいし、この『ベッドタイムアイズ』には場末の酒場で有線からながれてくる演歌のようなBGM程度の重みしか感じませんでした。まあ読み手の感受性の問題でしょうね。

文体のうえで、とりたてて面白いとも思いませんがルビの多様は特徴として挙げられます。

「ねえ、その封筒なあに」
「金もうけのもとだよ」
「見せて」
 中を覗こうとする私を台所(キッチン)に追いやり、彼はあちこちに電話をかけ始めた。私は仕方なく氷を割りバーボンソーダを作り始めた。
「OH! SHIT! そのガッデムマザーファッキンソーダをくれよ」
 電話をたたきつけるように切ると彼は私の方に向きなおった。彼の四文字言葉(フォーレターズワーズ)は極めて音楽的に聞こえる。それに入っていない優等生英語は今の私にとっては不能の男の飲む気の抜けたビールのような代物だった。彼が私をbitch(あばずれ)と呼ぶ時、私は親愛なる同志を見るように感じる。スプーンはビッチの男なのだという根拠において。
「お前が仕事に行くまでパーティしようと思ってよ」
 エボニーマガジンの上に白い粉をあけてスプーンは均等にその粉の分量を量っている。IDカードで仕切られたホワイトラインを見詰めながら私はぼんやりと傍に立ちすくむ。やはりニューヨークのハーレム育ち、ドラッグとは共存関係にあるらしい。
「オレのディックはろくでなし。プッシィ欲しくてディスコにカフェバー…」(pp.33-4、括弧内は全て原文ルビ)

綿矢りさ「ひらいて」

出典:『新潮』2012年5月号
評価:★★★★☆

作中でも引用されているとおり「サロメ」に着想のヒントを得たとおぼしき小説です。短編とか長編とか、正式な定義をしらないので結構感覚的に使ってしまいますが、この「ひらいて」は240枚ということで中編でしょうか。綿矢りさの作品というと、あまりたくさん読んだ記憶がないのですが、その理由は『インストール』『蹴りたい背中』を読んで、なんというか「うまいけどこじんまりした感じ」といったらいいのか、「俗っぽいうけねらい」というか、そういう感想をもってしまってそれ以降、短編ていどに目を通すことはあったものの、基本的には敬遠していました。どうせにたようなもんだろう、と。

でこの「ひらいて」ですが、読んでみてその評価をあらためました。「サロメ」を下敷きにしているから、というわけでもないですが、『インストール』『蹴りたい背中』同様、少年少女をあつかいながらも、その人の動かし方が俗っぽくなりすぎず、展開をぐいぐい引っ張ってくれるから。

三人の男女、語り手の「愛」、愛が恋する「たとえ」、「たとえ」と5年にわたってつき合っている「美雪」が主な登場人物です。俗っぽくなり過ぎない要因としては、それぞれの人物をキャラものとして紋切型的に描くのではなくて、一人ひとりはもちろん丁寧に描きながら、その一方で一人ひとりの「関係」にまで踏み込んで描ききっているところが挙げられます。語り手「愛」の立ち位置から見える関係は、そのつど恋愛感情になったり、嫉妬になったり、友情になったり、征服欲むき出しの関係になったり、さまざまに姿を変える関係の流動性、離合集散が、読者をめまぐるしく魅了してくれます。ぐいぐい引き込まれました。

特に、たとえ君がふりむいてくれないあまり、語り手の愛が、たとえ君の彼女の美雪に手を出してレズビアンのような関係になってしまうというところ。この発想は秀逸です。こんなんあるんかな(笑)と半ば信じられず読み進めていましたが、作中でも

私はなぜ、好きな人の間男になったのだろう! 好きな男にふられた腹いせに彼の女と寝る、こんな女子高生が他にいるだろうか。(p.70)

と、語り手の愛が、自分自身に突っこみを入れています。女の子が自分自身を「間男」呼ばわりしつつ、こんな女子高生がほかにいるだろうか?って(笑)。ビックリマークもふくめて後藤明生的なセンスですかね、これは。

あと特筆すべき点として、濡れ場の描き方。これはうまいですね。身体やアクションの描写の合間合間に、抽象度をあげた記述が入ってきてこれまた魅了されました。

歯の浮くせりふを並べたてながら再び美雪にキスをしたとき、私はすでにそれを作業として事務的にこなしていた。なるべく相手が女だと考えないように苦労して唇や舌を動かしていると、突然美雪が反応を返してきて、私もしばらくその感触に夢中になった。顔を離すと美雪はそのまま熱い唇を私の首や鎖骨にまばらに降らせた。だれか止めてくれと心のなかで叫びながら、私は冷えたままの手で自分のブラウスのボタンを外し、前を開いて肩までずらすと、美雪のキャミソールもまくり上げた。細身の美雪の素肌と、私なら絶対つけないような綿素材のブラジャーが現れて、目の前がくらくらしだした。いままで男の人との間に積み上げられてきたいくらかの経験が、何の役にも立たないまま崩れてゆく。
 つらい状況に陥り、息もできないほどに追い詰められると、いつも頭に思い浮かぶ風景が私にはある。ごく幼いころに訪れたどこかの旅行先の海の風景だ。クリームソーダの色をした異国の海は、強すぎる光で白く見える太陽を浴びて、のっぺりと、しかしとてもつめたそうにきらめいていた。幼い私は缶を振ったあとコップに注いだ炭酸飲料のようにシュワシュワと泡立つ波打ち際のあぶくを踏みながら、小さな歩幅で砂浜を歩く。
 遠い記憶はまるで曇ったガラス瓶の内側に詰められたようにぼやけた、甘い色彩をしている。手を浸けた海水は冷たく、私は泳がずにしゃがんで、ただ波打ち際の砂を掘り返し、掘る度に冷たくなっていくその海水と泥のように重い砂のなかに、静かに両足を埋めた……。
 美雪の痩せた腰、浮き出た鎖骨、産毛が埋める肩の肌の味、後ろから強く摑んだらくずれそうなほど柔らかい乳房。そのどれもが私に鳥肌を立たせて、私に絡みつく彼女の脚を振りほどきたくなる。感じると切なげに私を締めつけてくる彼女の脚は、内股だけが溶けそうに熱く、私の太ももに熱を移す。臍から胸までの身体の真ん中を、下から上へ舌でそろりと舐め上げていると、美雪があまり大きな声で喘ぐから、階下の彼女の母親に聞こえないか心配で、思わず恐くなって美雪の口をふさいだ。
 髪をかき乱し、私の愛撫一つ一つにきつく目をつむる美雪は、ときどき薄目を開き、私の顔がこわばっているのに気付くと、手を伸ばして私にも触れようとしたが、私はどうしても悦ばされる側にはなりなくなくて、さりげなく避けた。すると彼女の手は目的を失ったままベッドに落ち、重い、快感に耐えるうめき声が響きだした。
 女の身体で知らないところはなかった。彼女の身体は私と同じく、隆起や曲線を複雑に描き、ときどき私は自分の身体を抱いている感覚に陥り、ゆるい吐気に襲われた。どこをどんな風に触れば良いか考えるとき、私は私の経験を思い出さなければならず、そのたびに私の身体の映像が彼女の身体の上に重なった。
 くだけた熱いゼリーのような感触の場所に指を進めると、(pp.67-8)

この続きは、ぜひ作品に直接あたってみてください(笑)

青木淳悟「江戸鑑出世紙屑」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★★★★☆

江戸のポップといういい方っていつごろからされているのでしょうか。文学作品のみならずあらゆる技芸の作品が引用によって成り立つなら、江戸の近世文化を取り入れることで現代の目に、ある種の異化効果をもたらすことは結構ポピュラーになっているのかもしれません。文筆家なら、石川淳が江戸留学したり、野坂昭如の語りが井原西鶴と比較されたり、他分野なら山口晃の浮世絵アート、会田誠の「巨大フジ隊員VS.キングギドラ」なんかをパッと思い浮かべられます。江戸の資源を使いながら現代の人にもうける作品には、どこかしら過去のものなんだけど過去のものとはおもえない現代性、時代を超えた普遍性みたいなものを巧く演出する力があるということでしょうか。アーティストのセンスの問題かしらん。

そして短編作品ながら、この青木淳悟の「江戸鑑出世紙屑」は黄表紙や滑稽本のエッセンスをぎっしりとりこんだ現代の小説として面白く読めました。古いものを新しく解釈させる、両方の時代をつらぬく普遍性として、ここでは「滑稽」がとりあげられているのかなと思います。とくに赤塚不二夫のマンガにインスパイアされているように、ナンセンスの滑稽を。

文体というか書かれるテクストの意匠として、くの字点や庵点を用いたり、台詞の頭に発言者の名前を書き入れるテクニックは一見江戸っぽいですが、その一方でたとえば台詞の鍵括弧を閉じている(これが定着するのは明治にはいってしばらくしてからです)など現代の書記方式に従った書き方もなされています。「時代考証ちゃんとしてないじゃないか!」と怒り出すのはお門違いで、現代の読者にむかって書かれているのだからこれは現代の読者が読んで楽しめれば、古い意匠を忠実になぞっていようが、それっぽく擬態していようが、どっちでもいいのだと思います。

そして、お上(堅苦しさ)をバカにしてひっくり返す秩序転覆の言語モードが滑稽の本質だとすれば、その物騒さを現代の読者に接続するために、赤塚不二夫を引いてくるのはこれまた素晴らしいセンスですね。…といいつつ赤塚不二夫がわかるのは現代でいえば30歳以上の人でしょうか。もっと上か。

どぜう犬「江戸市長がまたタヌキなんだってな、ヱヽ、なに、御一新はねえのさ」(p.10)

阿太郎「コンニャロメー、八百屋の頓痴気ィ」(p.12)

他多数。江戸の意匠をまといつつ赤塚不二夫を参照して現代の閉塞感を笑い飛ばす滑稽味、諧謔味、これが書けてしまう青木淳悟のセンスに脱帽です。短い短編ですが密度は非常に濃くしかも最後まで笑える、7コマ漫画でした。

ちなみに、同号の新潮では、杉本博司「能 巣鴨塚(修羅能)」という戯曲(でいいのかな?)も掲載されています。これも「能」という文化的資源を利用した作品ですが、「江戸鑑出世紙屑」が現代の読者に向けて書かれているのに対して、この「能 巣鴨塚(修羅能)」は誰に向けて書かれているのでしょうか。

皆様、ここからは私が漢詩を現代語に訳して皆様にお聞かせいたします。昔は、日本人で教養のおありになる方々は、こちらの板垣様のようにみなさま漢詩を読み書きなされておりました。が、今では戦後民主主義教育のおかげ様で、漢文はちんぷんかんぶん、になってしまいました。(p.250)

ここには読み手をバカにしきった、書き手の排他的な意識しか読み取れません。『新潮』2013年1月号を手に取る読者のほとんどが、戦後民主主義教育でしょう。だいたい戦後民主主義教育という一語で70年近くつづいてきた学校教育を一括するのも雑な知性を露呈していますし、そういうわりにはこの戯曲じたいが新仮名遣いで書かれているしわけがわかりません。その読み手にむかってなんでわざわざこんなことをいうのか。そもそもなぜ板垣征四郎や東条英機の記憶を今、能の形で演じる意味があるのか。「能 巣鴨塚(修羅能)」は、そこが全く見えてこない駄作でした。

丸岡大介「カメレオン狂のための戦争学習帳」

出典:『群像』2009年6月号
評価:★★★★★

一人でも多くの人に読んでほしい、この一言に尽きます。群像新人賞受賞作で、この時の選考委員はみなこの作品を押していますがなかでも松浦寿輝は「文運隆盛」としてこの作品の受賞を寿いでいます。寿輝だけに。いやそんなことがいいたいのではなくて、松浦寿輝選評のなかにこんな言葉があります。

ゴーゴリとカフカを潜り抜けた後藤明生がピンチョン的手法で「戦争」の学習を行っているかのようだ。(p.135)

とあり、たしかにそういわれるとそうだなあと思えるほど文学的滋養を十分に吸って花咲いた作品です。ある地方都市の教員寮を舞台にして、寮の動静を密かに探る教員田中は、学校と寮生活で多数の視線にさらされ神経をくるわせながら、その様を喜劇的にレポートしつつ、記述はただ言葉の表層を滑って、実体定かならぬ「敵」の姿をパラノイアックに妄想していく。ここにはゴーゴリ、カフカ、後藤明生、ピンチョンが息づいています。

それだけではなく、この作品に絶大な影響を与えていると思われる作家として、野坂昭如を忘れてはなりません。その影響はまずもってこの作品の流れるようなリズムをつくり出す怒涛の饒舌体に見て取れますし、作中でもサングラスをかけた田中が野坂昭如をリスペクトし(笑)、『マリリン・モンロー・ノー・リターン』を五連唱するという直接的な記述もあれば、レズビアンが爪を短く切りそろえているとまことしやかに語られるところや、いまだかつてないオナニーマシーンの開発秘話などは野坂のデビュー作『エロ事師たち』に該当箇所があったはず。さらにタイトル『カメレオン狂のための戦争学習帳』の「カメレオン狂のための」という部分は、野坂によるカポーティの訳書『カメレオンのための音楽』にむけたリスペクトともとれます。

こう書いていくと文学的な裏付けが読みとれる人じゃないと楽しめないような、ともするといたずらに「高踏な」「難解ぶった」作品ともとられかねません(だいたい一般の読者にとってゴーゴリ、カフカ、後藤明生、ピンチョン、野坂昭如らは馴染み薄いはず)。が、決してそんなことはありません。選考委員の絲山秋子をして設定勝ちといわしめた教員寮というのは、学校の先生たちの生態であるし、また学校の先生視点からの学園生活ものとしての側面も多分に持ち合わせているので多くの人にとってなじみある素材を扱っています。

文体の変奏も多彩で、野坂譲りの饒舌体、主婦による投書文体、演説調、ピンチョンを思わせることば遊び&妄想の連打、報告文風、などめくるめく転調が楽しめます。この辺も音楽的。そういえばタイトルの「~のための」というのも楽曲によくあるタイトルのつけ方ですね(e.g. 2台のピアノのためのソナタ、18人の音楽家のための音楽)。文体をさまざま使い分けるだけではなく、地口、比喩、パスティシュはじめあらゆるレトリカルな仕掛けもそこここにあります。使い方もレトリックのためのレトリックになっておらず、ちゃんと作品のテーマや場面と絡み合った必然性があるもの。

 まずは音、続いて光、いくつもの。十代少年集団の運転による違法改造オートバイの十台ほど、彼ら流の《誰にも縛られたくない》という例の主張どおり交通法規にも縛られることなくあきらかに制限スピードを越して国道を疾走しながら騒音と排気ガスをまきちらす。それが部屋の中にいても聞こえる。(p.6)

上は、冒頭の一段落です。ここを読んだだけでこの書き手のセンスがよく解る。のっけの「まずは音」はどことなく石川淳『至福千年』の出だし、「まず水」を想起させますし、そこから途切れず「続いて光、いくつもの。」と続けることで、五七五の音で作品世界へ導入しています。ヘタな書き手が韻文を意識するとダサいだけですがこの導入はすばらしいですね。音への注目は次の文の暴走族の爆音へと繋がりますが、そのなかでも「十代」「十台」と同音を並べています。さらにはこの一文が、規則(とそこからの逸脱)をめぐるこの作品全体を予告する象徴的な文ともなっている。そしてさりげなく視点を、というよりこの場合「聴点」とでもいえばいいのかもしれませんが、それを部屋の中にスムーズに移動させる。

冒頭だけ気合入っていてあとは失速するというのは新人賞受賞作(とか優秀作)にたまに見られるタイプですが、この作品は最後までこのテンションをたもって疾走します。どこも読み応えがありますが、特にラスト付近のシーン、コーヒーカップが宙を舞い静止する場面では、そこにたどり着くまでさまざまに仕掛けてきた伏線を鮮やかに回収し、さらにはこの作品が栄養としてきた従来のあまたの文学作品をあざ笑うがごとく、コーヒーカップの絵から物語が噴出します。これには度肝を抜かれました。現代文学史(というものがあれば)に登録したい圧倒的な描写でした。

そしてなによりこの作品が強い力を持っているのは、古今東西、マクロミクロレベル、あらゆる場面で人類と切り離せない「戦争」という大テーマを、これでもかというくらい執拗に描いている普遍性があるから。この通奏低音としての「戦争」があらゆる場所、あらゆる言葉の裏から噴出して倍音、いやこの作品でいうなら爆音を響かせています。歴史として習う戦争、隣とのいさかい、同室で寝起きする者との殴り合い、敵対する組織との暗闘、職場内の権力闘争、イデオロギー同士のぶつかり合い、などなど「戦争」というものと現代とは決して無縁ではありません。だからこそこの作品はいつまでたっても読まれうる傑作たりえています。

この作品の前々回では諏訪哲史『アサッテの人』が群像新人賞を受賞し、そのまま芥川賞を取りました。この作品の強度は『アサッテの人』に勝るとも劣りません。だのになんでノミネートされなかったのか非常に不思議でたまりません。ラストの辺りでは、「キチガイ」という記述がいくつかみられる(単行本化にあたって修正済です(笑))ので、もしかするとこの言葉が芥川賞のコードに引っかかってしまったのかなあと邪推しないでもないですが。

書き手の丸岡大介はこの作品を書いた後、紀行文と雑文、短編をそれぞれ一つづつ書いて以降沈黙しています。このデビュー作を超えるのは並大抵ではないでしょうがこの書き手ならいつかは書いてくれるに違いない、それほど力のある書き手です。僕はいつまででもこの人の作品を待っています。未読の方は、芥川賞受賞作なんかよりも、是非この『カメレオン狂のための戦争学習帳』を読んでみてください。

久保田智子「息切れ」

出典:『群像』2012年7月号
評価:★★☆☆☆

先ほどとりあげた横田徹同様、「特集5篇のデビュー小説」の書き手のうちの一人です。

久保田智子【くぼた・ともこ】TBSアナウンサー。77年生。『日日猫猫』


やはりアナウンサーという経歴にからめた作品「息切れ」。大物政治家田貫洋二郎が党の代表選挙の演説に向かう直前、つき合ってきた女たちによって議員会館の自室に軟禁されてこらしめられるところを、妻に救われるという話です。一応小説としての体裁は整っていますが、この小説を読むことでなにか面白さ、新しさがあるかというと全くありませんでした。なんというか「小説らしいもの」にこだわりすぎている印象をうけました。

たとえば、過剰に「小説らしさ」にこだわるとこんな表現が出てきます。

テレビではいつものように大きな画面に映し出された地図の前で、大きな渦巻き模様を指差しながら、大きな身振りで女の子が一生懸命喋っているけど、今、私の小さな世界では、いっさいの微風すら吹いておらず、奇跡的でかつ奇妙な空気の均衡が保たれている。温度すら感じることの出来ない均衡を崩すまいと、私は目が覚めた後、しばらくは微動だに出来なかった。私のちょっとした挙動が全てのバランスを壊して、混乱を呼び起こすんじゃないかという小さい頃からの誇大妄想がよみがえって来た。(p.194)

「奇跡的でかつ奇妙な空気の均衡」といわれてもなんのことやらイメージできません。悪純文学くさい表現でげんなりします。「小さい頃からの誇大妄想」というのも冒頭のこの場面で言及されるだけで、この後の「私」の造形にはなんにも寄与していません。けっきょくここも「文学ぽい表現ってこんなもんですよね」という姿勢が透けて見えます。小さい頃からの誇大妄想って(笑)

こういう気負った姿勢がある一方で、描かれるメインの政治家軟禁&解放シーンは、既視感ありありオンパレード。上昇志向の強い女とか、金に執着する娼婦風のロシア人女、掃除に一生懸命なつつましい女、未練たらたらの年増女、ちゃらちゃらしたアナウンサー女、政治家を陰で支え続ける内助の功の妻。どれも紋切型すぎて読むに耐えません。これもやはり「小説らしさ」にこだわった結果の、典型的にすぎる人物描写です。これなら韓流ドラマだとか昼ドラでも見てた方が映像プラス音もあるぶん迫力があって楽しめます。つまりこれが小説で書かれる意味がまったく感じられません。

ものすごく気負うか、紋切型をなぞるかで、うまく書く力をコントロールできていないのも新人ならではだと思うのでもし次の作品を書くことがあったら、そういう肩に力が入りすぎるところや、無防備に力を抜きすぎるところを修正して、もうすこし読ませるものを書いていただけたらと思います。というかこういう作品がそもそも書きたかったのかな。書きたかった作品というよりは、小説を書いていくうちに紋切型をなぞってしまっという印象をうけました。あたかも書き手が「息切れ」しているかのようなこの作品。楽しめませんでした。

横田徹「狙撃兵」

出典:『群像』2012年7月号
評価:★★★☆☆

「特集5篇のデビュー小説」のうちの一つです。奥付の著者紹介から引用すると、

横田徹【よこた・とおる】フォトジャーナリスト。71年生。『REBORN AFGANISTAN』共著に『外人部隊の日本兵』『SHOOT ON SIGHT 最前線の報道カメラマン』(共著)


この経歴が生かされたことが容易に推測される「狙撃兵」と題された短編は、傭兵としてアフガンに出兵した日本人狙撃兵の物語です。日本で暮らしている人にとって戦場はやっぱり遠いものです。この作品の狙撃兵の目を通して、戦場の緊張感とか、そこで働く様々な力学を体感できました。一人称を選ぶことが、この否応なく迫ってくる臨場感を勝ち取っています。

戦場とはいえ戦闘のルールにのっとって対応しなければならないこと。絵にかいたような敵ばかりではないということ。判断ミスが仲間や自分の命を一瞬で奪っていくこと。生々しさがはんぱない。戦争を、戦場や内地でじかに体験した世代が書き手としてどんどん亡くなっていくということは、その記憶を小説に書き留める人がいなくなることと同義ですが、かつて書かれてきた戦争もの、戦争小説を現代的に書き継ぐには、横田徹のような書き手はぜひとも必要だと思いました。

短編として限られた分量にもかかわらず、一瞬の緊張を現在と過去を交錯させてうまくまとめあげていると思います。とても新人とはおもえない構成力ですが、新人というのはあくまで小説書きという意味での新人であって、ジャーナリストとしてはかなり活動されてきたのかもしれず、とするならものを書くことには習熟しているのかもしれませんね。新人よばわりするのが失礼なのかな(笑)

戦場を肌で体感する書き手というのは、いまの文学界において貴重だとおもうのでこの方向でもっと長い作品を読んでみたいと思いました。たとえば実際の日本兵のインタビューや手記なんかも交えながら、現地の人の声もとりいれたりしながら。あるいは、伊藤計劃のような近未来SFな方向でも面白いかも知れないし、本作から読み取れる限りだと銃器の知識も豊富そうなのでハードボイルド小説みたいなものでもこの人なら書けそうだなあとおもいました。とにかく、いろいろ可能性を秘めた書き手の今後を楽しみにしています。
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