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小野正嗣「獅子渡り鼻」

出典:『群像』2012年9月号
評価:★★★★☆

海辺の田舎町で母と離れて過ごす小4の少年、尊のひと夏の話。過去と現在とが行き来する、というよりシームレスに相互浸透して、語られます。視点人物は小4の尊に基本的に設定されているので、小野正嗣節といってもいいかもしれない「○○だった。いや、○○でなかった」という描写の揺れや、一見意味ありげなものが、まったく意味なかったわき道にそれる書き方も、この作品ではうまくはまっているように思います。子供のころって、大人からみれば取るに足りないものに心奪われたりしますもんね。例えば当地の飛行場に降り立つ尊の場面。

ところが、飛行機から降りて手荷物を取ってから到着ゲートを出て、その人を見たとき、知っていると尊は思った。ガラス張りになったロビーの壁面沿いに並べられたベンチにその人は座っていた。やせた貧相な体つきだった。座っているからわからないが、おそらく立っても背は小さい、それもかなり小さいほうだ。尊と変わらないかもしれない。何よりも特徴的なのはその顔だった。子供なのか老人なのか、どちらでもあり、どちらでもない、未成熟と老衰がその中間を奪い合いながら混じり合う、そんな不可思議な顔をしていた。だから年齢がまったくわからなかった。だが、性別に関しては一目で男だとわかった。その人が目に入ったとき、男のほうが自分を見ているのか見ていないのかは定かではなかったけれど、知っていると尊は確信した。一瞬、どうしてなのか開路間町のスーパーで親切にしてもらった老婆を思い出した。でもあの人はおばあちゃんだった。この男であるはずがなかった。
「ここ!ここじゃーが! ひいちゃん!」
 ミツコが手を振りながら声を上げた。しかしミツコが声をかけたのは、その男ではなかった。(p.24)

ふらふらと視点定まらない感じも子供らしいといえばいえるし、いかにも意味ありげに男の描写をしておきながら、その男は全然関係ない人だったという(笑)。ただ、数度であればこういう思わせぶりな書き方も面白く読めるんだけれど、もう徹底してこのような書き方なので、いかにも思わせぶりな書き方、しかもそこには意味がなかった、という梯子を外されるような書き方ばかりだと途中で「これはつきあいきれない」と脱落する読み手もいそうだなとお節介ながら想像します。お年寄りの読み手とか、小野正嗣のことを知らずこの作品をたまたま手にとってみた読み手だとか。

「ミツコ姉」と尊は言った。いや、言わなかったのだろうか。(p.78)

こんな書き方されると、「知らんがな」といって突き放したくなります。

とはいえ、非常に力のある書き手であることは間違いなく、夏の田舎で過ごす少年という、なんともあまったるい、読者に媚びたような話に終始してしまわないのは、尊の境遇をけっこうしんどいものとして描いているから。母子家庭でネグレクトされているらしく、しかも母親は愛人の男を家に連れ込んでセックスするし、兄もなにか障害をもっているような感じ(兄が具体的にどんな状態かも、視点人物=尊のためはっきりとは描写されません。尊が兄のことを直視しようとしいないととれるのかなあ)。そんな尊だからこそ、母のもとをはなれ田舎にきているわけです。

さらに具体的な事物(蟻、兄弟、イルカなどなど)を共通項にして過去と現在とかくるくると入れ替わる描写には痺れました。こういった時間の描き方、それに目に見えないものの描き方も特筆すべきものがあります。

洗ったばかりでまだ重いはずなのに、日の光を浴びてすでに乾いたかのように、やわらかに膨らんだりへこんだりしているシーツの波間に、よーいよい、よーいよい、という母の愛おしさに満ちた優しい声がたゆたい、次第に、んあー、んあーという声が、風にたなびく煙のように、だんだん弱く、だんだん間遠になっていった。息を強く吸い込んだとき鼻から胸に流れ込んでくる草と葉の匂いとともに、こみ上げてくる笑いでくすぐられて揺れる体のなかを満たしているのは、もう小さな赤ん坊の無力さではなかった。よーいよい、よーいよい。(p.74)

光、風、声、匂い、笑い。どれも視覚以外のもの。小説の無自覚な書き手だと視覚偏重になってしまいますが、こういう形なきもの、目に見えないものの描き方は、非常にうまかったです。また抽象的なテーマとして「母性」もクローズアップできそうです。母子関係にとどまらず、海や「大きなもの」も何度も描かれていますし。

ストーリーだけとりだすととるに足らないような小説に見えますが、油断できない仕掛けがそこここの細部に仕掛けられていて、注意して読んでいけば気づくことがたくさんある作品でした。
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いとうせいこう「想像ラジオ」

出典:『文藝』2013年春号
評価:★★★★★

3・11以降、震災とそれにともなう原発事故に何らかの形でふれた小説が量産されてきました。新人賞応募作でも震災をあつかった作品がふえたのではないかと受賞作や落選作についての選評をみるかぎり推測できます。小説にかぎったことではないのでしょうが、何らかの形で──現地に足を運ぶものから、「私は震災に関心が湧かない」という表明までもふくめて──「震災」についてふれないといけない、とだれかが義務を課したわけでないにもかかわらず、なんとなくそんな空気になってるのを感じられます。そういう流れのなかで、いとうせいこうの小説「想像ラジオ」。

まず「耳を傾ける」こと、これが強いメッセージとして打ち出された作品です。

だけどだよ、心の奥でならどうか。てか行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか(p.46)

上は復興のボランティアに携わる人の発言として作中にでてきます。

「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ。」
「そうだね」
「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原子爆弾投下の時も、長崎の時も、他の多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」
「なぜか?」
「声を聴かなくなったんだと思う」
「……」(pp.70‐1)

上は生者と死者とのあいだで交わされる対話です。「死んだ人は言葉を話せるわけないだろ!こんなの生き残った人が自分に都合のいいように捏造してる嘘っこのエゴだ!」という、僕もふくめて当然の反応をする人には作中で、これまた当然のようにそういう声にも応答があるので、じっさいに作品にあたってみてください。

なにをおいても想像力をはたらかせて声を聴き取る、聴こえてきた声に正直に耳を傾けて、声と共に歩んでゆく。この、想像力を働かせることでどこからか声が聞えてくるメディアとして、ラジオを選んだところも作者の慧眼です。メディアという言葉じたいに示されるように、ラジオを通じて死者と生者が媒介される。声なき声は、どこかから、必死で、ときに陽気に、ときに悶えながら、声をあげているに違いありません。

メッセージが前面に出てくる小説は押しつけがましさがどうしてもつきまとって、僕は好きになれないのですがこの小説は別でした。耳を傾けることを、理路を尽くして説得的にさそいかけてくる作品です。「想像ラジオ」を読み終わってすぐ、亡くなって10年ほどになる祖父の声が僕の耳に聞こえてきたとき、この作品は具体的な出来事である地震についての震災モノという枠を踏み越えて、より広い地平にでて普遍性を獲得したのだと僕には思えました。人類学的な洞察をもった鎮魂文学といえるでしょうか。そう考えれば、大惨事の現場に直行して即時につたえる報道の言葉に対して、文学の言葉は震災後数年たってやっと形になることで、「いまさら…」ではなく「いまこそ」の、文学の言葉独自の存在理由を獲得できるはずです。

あと、気になったところを二つだけ。

一つ目。これだけの達成をなしとげた作品ですので指摘するのは心苦しいですが、僕にとっても特別な曲なのでいうだけはいっておこう。「想像ラジオ」ではクラシック音楽からポップミュージックまでいろいろなナンバーがかかります、まさにラジオ。その中で、

『三月の水』って曲で、原題はwater of marchって言うて、『三月の雨』とか訳されてたりするんやけど(p.47)

ただしくは、Waters of March でwaterは複数形です。がんばれ校閲係。

二つ目。この作品の掲載媒体が文芸誌ということだからか、久々の小説だということだからか、ともするとブンガク的修辞がウザったく感じられることもありました。

なぜかというと、鳥のさえずりを耳にした瞬間から、僕の胸の奥に抑えようのない特別な気持ちが巣くってしまったからで、それは最初ハツカネズミに心臓の真ん中を咬みつかれ続けているような感覚だったんですけど、やがて凍み豆腐が冷水を吸ってふくらんでシトシトと低温の滴を垂らすみたいに感じられたその頃には僕は悲しみで胸が張り裂けるという言葉の意味がよくよくわかるようになり(p.80)

メッセージ性をもった力強い小説なので、余計な小細工はせずに直球勝負でよかったかなとも思います。無駄に凝った表現をすると、イメージを豊かに使えるどころか逆に流れが停滞したり、イメージが濁ったりしてしまい作品の力を損ねます。が、こういうところも瑕にならず、読んだ後に静かで、確かな手ごたえを残してくれる作品でした。本職の小説家の人たちはこれ以上の仕事をしないとですね。

小山田浩子「ディスカス忌」

出典:『新潮』2012年9月号
評価:★★★★☆

とにかく言葉をつらねる書き手と、できるだけ言葉をそぎ落とす書き手とがいるとすれば、小山田浩子は後者に属します。デビュー作の「工場」の、具体的な事物が描かれているはずなのに全体像がいっこうにみえてこない不条理さに、おもわずカフカを思いだした記憶があって、すでに新人とはおもえぬ完成度の作品をとにかくおもしろく読みました。この作品は、誰にでもありうる日常的風景の一コマを描いていると見せかけて、最後の最後で、それまでの読みがガラッとかわるような構成になっていて、やられたーと思いました。「言いすぎない」書き方によって、なんでもかんでも「言いつくす」よりも、かえって何倍も言っている結果になる、こういう書き方ができる若手作家は貴重。

話としては、友人の友人の家に出産祝いで訪れることになった「僕」が、友人の友人の妻をふくめた四人でやり取りをするだけのお話しです。やり取りの言葉やしぐさも、ごくごく日常風景。だけれども終盤、友人の友人の浦部君がすこし不穏な打ち明け話をして、その後この世をさってしまったときに「まさか!」となる仕掛けになっている。こういうのはなんていうのだろう、どんでん返しというのでもないし、叙述トリックというのともちがうし。終盤の一行とか一エピソードが、それまで描かれてきたなにげない日常風景と思われた描写を、がらっとかわった違う風景の描写として読ませてしまう。

細君は柔らかい素材のブラウスを着ていて、その下の乳房が重たく垂れ下がっているのが感じられた。赤ん坊と顔がよく似ていた。(p.108)

細君はうふふふと笑った。どう見ても二十歳そこそこにしか見えない。(p.108)

もしかしたら、今子供のように見えている細君は、本当は今風の若い女性であったのかもしれない。(p.111)

産後ひと月の奥さんをそんな風に使っていいものだろうか。僕は、今から、もし妻が妊娠し、出産したら、どれだけ自分が彼女を気づかい労わらねばならないかと考えおののいているのに。(p.112)

この、若奥さんについての描写の普通さよ(ほめ言葉)!語り手の年齢が、40そこそこという設定もやはり、「細君」という語彙や、若奥さんをうらやましがるさまを自然にみせるための、計算づくの設定だと全部読んでから気づいたわけで、とにかく上手いです。普通に見えることをきちっと計算して、しかも成功させてる。はやく次の作品が読みたい書き手の一人です。

ちなみに、同号には、言葉をつらねる系の書き手である木下古栗が「IT業界 心の闇」という作品で、こちらは叙述トリック(笑)を展開していたのも偶然とはおもいますが絶妙な構成でした。

小説を読む人のための100冊

あけましておめでとうございます。現代に生きる読者にとって、読んで触発されるもの、かつ読んでたのしいもの、二度読み三度読みしたくなるもの、比較手に入りやすいもの、ほどのゆるい基準で100冊推薦図書を選んでみました。適当に詰めこんでいるので、「あの大事な作家が入ってない!」てなこともあるかもしれません。その辺はこっそり修正していきます(笑)。

何度もよみたくなる作品を選んでいますので、たとえば押しも押されぬ人気作家の東野圭吾さんなんかは入っていません。あれは一度読んでスカッとする系ですもんね。あと、手に入りやすさも考慮しているので、たとえば多和田葉子さんだと講談社文芸文庫で手に入る『飛魂』をあげています。多和田さんの作品で、僕が一番好きかつぜひ読め!といいたいのは『聖女伝説』だったりします(アマゾン中古出品で4000円近くします)。あとあと、必ずしもその作家の代表作じゃないのもまじっています。森鴎外なんて「牛鍋」ですし(笑)。

本に限らずですが他人になにかを進めるとなると、なかには「どや、オレの趣味!イケてるやろ!」(関西弁になる必要ありませんが)というふうに、他人に薦めるふりしてじつは自分の趣味を押しつけるしょうもない人がいますが、下で選んだ本はどれも読んでみればなにか得るものがあるんじゃないかなと思える、ぜひとも読んでいただきたい作品に限ったつもりです。僕が実際に読んで、涙を流したり、ずっと引っ掛かりを持ったり、その小説を読むことで確実に小説観が広がったり、こんな小説書きたいと打ち震えたものばかりです。

高校生ぐらいの、ちょっと深く本を読んでみようかなあ、でも何読めばいいのかわからないなあ、と考えているくらいの人を想定してすすめています。なので早熟な高校生や文学部の学生さん、小説好きの方、小説を実際に書いている人にとっては、ほとんど読んだことあるものばかりじゃないかなと思います、とくに海外文学のほうは。あと、あくまで現代の読者を想定しているので、リストの日本人作家ではバリバリ書いている現役作家さんを意識してとりあげるようにしました。

芦原すなお『青春デンデケデケデケ』
阿部和重『シンセミア』
安部公房『他人の顔』
池澤夏樹『静かな大地』
石川淳『紫苑物語』
石坂洋次郎『青い山脈』
いとうせいこう『想像ラジオ』
泉鏡花『高野聖』
絲山秋子『妻の超然』
井上ひさし『吉里吉里人』
今村夏子『こちらあみ子』
岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』
江戸川乱歩『盲獣』
円地文子『女坂』
円城塔『松ノ枝の記』
大江健三郎『万延元年のフットボール』
大岡昇平『野火』
岡本かの子『老妓抄』
織田作之助『夫婦善哉』
開高健『日本三文オペラ』
梶井基次郎『檸檬』
金井美恵子『柔らかい土をふんで、』
川上未映子『ヘヴン』
川端康成『眠れる美女』
木下古栗『いい女vs.いい女』
桐野夏生『残虐記』
小島信夫『抱擁家族』
後藤明生『挟み撃ち』
小松左京『日本沈没』
司馬遼太郎『燃えよ剣』
島尾敏雄『魚雷艇学生』
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』
諏訪哲史『アサッテの人』
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
武田泰淳『ひかりごけ』
太宰治『斜陽』
谷崎潤一郎『細雪』
多和田葉子『飛魂』
中上健次『枯木灘』
中島敦『文字禍』
中原昌也『あらゆる場所に花束が……』
夏目漱石『吾輩は猫である』
野上弥生子『秀吉と利休』
野坂昭如『エロ事師たち』
林芙美子『放浪記』
百田尚樹『永遠の0』
深沢七郎『楢山節考』
二葉亭四迷『平凡』
舞城王太郎『煙か土か食いもの』
町田康『くっすん大黒』
松浦寿輝『不可能』
丸岡大介『カメレオン狂のための戦争学習帳』
丸谷才一『輝く日の宮』
三島由紀夫『豊饒の海』
水村美苗『本格小説』
宮部みゆき『模倣犯』
村上春樹『ノルウェイの森』
村上龍『限りなく透明に近いブルー』
モブ・ノリオ『介護入門』
森鴎外『牛鍋』
森見登美彦『太陽の塔』
安岡章太郎『海辺の光景』
吉村萬壱『独居45』
吉屋信子『花物語』

アゴタ・クリストフ『悪童日記』
インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
エミリ・ブロンテ『嵐が丘』
カート・ヴォネガット『スローターハウス5』
ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
ゴーゴリ『鼻』
サルバドール・プラセンシア『紙の民』
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
ジュール・ヴェルヌ『海底二万マイル』
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』
ジョン・アップダイク『クーデタ』
スタンダール『赤と黒』
セルバンテス『ドンキホーテ』
ドストエフスキー『罪と罰』
トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』
トマス・マン『魔の山』
トルーマン・カポーティ『冷血』
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
ハーマン・メルヴィル『白鯨』
フランツ・カフカ『変身』
フランシス・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』
フローベール『感情教育』
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
ホメロス『オデュッセイア』(松平千秋の訳で)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』
マーク・トゥエイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ミシェル・ビュトール『心変わり』
リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
ロンゴス『ダフニスとクロエー』
プロフィール

読む人

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