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多和田葉子「飛魂」

出典:多和田葉子『飛魂』(講談社・講談社文芸文庫・2012年)
評価:★★★★★

飛魂 (講談社文芸文庫)飛魂 (講談社文芸文庫)
(2012/11/10)
多和田 葉子

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この前出版された講談社文芸文庫の『飛魂』から、表題作「飛魂」の感想を。ことばの世界で遊ぶとはこういうことなんだ、という気づきを促してくれる素晴らしい作品でした。この作品の工夫としていくつか指摘できます。一つは、作品の舞台を、現代日本じゃないどこか(中国の奥地を強く匂わせますが、作中では一言も中国とか、支那とか、チャイナとかいった国名・地名はでてきません)に定めていること。これによって、日常あたりまえにおこらないような出来事がおこっても、「この世界ならあり」と納得のいくものになっています。

ヘタな書き手だと、自分の好き勝手に作品世界を捏造するだけにとどまり(といっても小説を書くことじたいが捏造ですからそれはそれでいいのですが)、作者のナルシシズムがだだ漏れだったり、場当たり的な設定や固有名詞を連発して読者をいたずらにふりまわすだけだったり、いずれにしろ読むに耐えない作品になってしまうのがオチ。

一方、多和田葉子の「飛魂」では、できあいの言葉づかいを回避し、この世界特有の語彙(たとえば「幽密」)、動植物(たとえば「ハヤカ虫」)、現象(たとえば「枝叫び」)によって、作品独自の世界を丁寧に造形しています。語彙だけでなく、レトリックのうえでも

ある日、目を覚ますと、君の枕元には虎が一頭、立っているだろう。天の色は瑠璃、地の色は琥珀、この両者が争えば、言葉は気流に呑まれて百滑千擦し、獣も鳥も人も、寒熱喜憂の区別をつけることができなくなる。(p.8)

と、対句表現を用いており、この作品冒頭の文章で一気に作品世界に引き込まれてしまいます。ここだけ見ても、対句表現、「天」や「地」ということば、「百滑千擦」「寒熱喜憂」という四文字熟語から、日本語でこれを読んでいる僕たちは、ひとこともそう名指されていないにもかかわらず、中国を強く連想してしまいます。しかも、一度も読んだことのない熟語(「百滑千擦」「寒熱喜憂」)であっても日本語読者は難なく読めてしまいますし、その意味するところもすんなり了解できてしまいます。この驚きたるや、冒頭から僕はのけぞってしまいました。自分勝手な世界を書いちゃう初心者なら、書き手だけが分かっていて、読み手には全然伝わらない言葉をつかうか、読み手につたえるために、「これはこうですよ」なんてくどくど説明して物語が停滞しちゃうかのいずれかでしょう。それを単に単語をズバッとだしてきてしかも読者にきちんと伝わる(気にさせる)というのは、やはり表意文字である漢字が、意味を伝えるうえでは経済的なのかもしれません。その特性を利用しつくすこの工夫!説明しようとする僕のことばをさっさと置き去りにして、遙かとおくに行ってしまった多和田葉子。

見たことないことば使いということでいえば、沢山の比喩表現も、「飛魂」のなかに登場します。これもやっぱり、この世界をじっくり構築しているからこそ成立する比喩であって、同じ比喩を別の作品にその比喩の部分だけ取り入れても、表現は色あせてしまうと思います。

それは日差しが庭に置かれた古い鯉灯に反射して、まるで石の中から金色の鱗が生えてくるように見える朝だった(p.11)

上の一文に負荷されている情報量たるや相当なものですが、読む方としては驚くほどすんなり理解できてしまいます。一つ一つにこだわれば、「鯉灯」なんて誰も知らない造語でしょうし、「石の中から金色の鱗が生えてくる」なんてだれも見たことない事態です。いちいち引っかかれば「なんだこれ!意味分からない!」となってしまいそうなものの、一度も見たことないものや現象によって表現されるその様が、「朝」を形容する比喩としてズバっと成り立ってしまう。場当たり的でないのは、鯉と鱗で近接する語彙を、陽射し、反射、金色、さらにいえば鯉や鱗から連想される水の煌めきといった光のありようが、短い一文の中におかれ、お互いに響きあっているからかもしれません。大袈裟ではなしに、奇跡的なことばづかいにまたうちのめされました。ヘタな比喩表現と比べてみると分かりやすいかもしれません。

鳥のさえずりを耳にした瞬間から、僕の胸の奥に抑えようのない特別な気持ちが巣くってしまったからで、それは最初ハツカネズミに心臓の真ん中を咬みつかれ続けているような感覚だったんですけど、やがて凍み豆腐が冷水を吸ってふくらんでシトシトと低温の滴を垂らすみたいに感じられたその頃には僕は悲しみで胸が張り裂けるという言葉の意味がよくよくわかるようになり(いとうせいこう「想像ラジオ」『文藝』p.80)

多和田葉子の上であげた比喩表現とくらべて、言葉数が多いにもかかわらず、密度がぐっと薄まり、使われていることばの連関はバラバラです。

話をもどして「飛魂」についてもう少し。ここまでを踏まえると、現代のいま・ここから遠く離れた世界でふしぎなことがおこるおとぎ話的な世界と割りきってしまいそうになります。いわばマジックリアリズム作品を読むときのような感覚。けれども、こんな不思議なことば使いで作品世界が作られながら(リングイスティック・リアリズムという形容さえささげたくなります)、今ここで日本語でこの作品を読んでいる読者と地続きであることをつよく実感させもします。

それは、「虎の道」を極めようとする梨水という女の子と亀鏡という女師匠との師弟関係を軸にしているから。師弟関係に、たとえ同性であろうとその根底にはエロティックなものが存在せざるをえないという洞察がそこここで光っており、実際、誰かを心から尊敬するとか本気で憧れるとかしたことのある人なら、身に覚えのあるような人間関係が、今・こことはずいぶん隔たっているはずのこの作品世界で展開されていることをずいぶんと身にひきつけて考えてしまうのではないかと思います。

上で、この作品を、リングイスティック・リアリズムとでも呼びたいといいましたが、たとえばことばそのものに注目する文学作品であれば、「不思議の国のアリス」にしろ、ベケットの一連の作品にしろ、ハイモダニズムのような作品にしろ、決して珍しくありません。しかし僕の読んできた限りでいえば、それらはどれも実験のための実験という色合いが濃く、読む途中に投げだしたくなる、通読するにも我慢が必要、また、読んでもすぐ忘れてしまう、再び読みたくない、そんな作品ばかりです。それにたいして「飛魂」は、ことばの世界で遊びながら、それが実験のための実験のようなつまらないやせ我慢主義に陥ることなく、「こんな作品読んだことない!」という驚きとともに読者をその独特なことばづかいで一行一行、一語一語でうちのめし、しかも二度読み三度読みしたくなる、ちゃんと小説として成立している稀有な作品です。自分の頭の中の日本語の使い方が、いかに「普通の」使い方でがんじがらめになっているかを気づかせ、どろどろに溶かしてくれる、エロい作品でした。

多和田葉子がノーベル賞をとるまえに、絶版になっているもの、単行本未収録のものを集めて、今のうちに出しておいてほしいものだと思います。がんばれ、講談社。
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高橋源一郎「星降る夜に」

出典:『新潮』2011年4月号
評価:★★☆☆☆

妻から

「あたし、勘だけは鋭いのよ。あんた、絶対、ものになると思うわ」(p.100)

といわれ、「だから、わたしは、書きつづけた(p.100)」と語る小説家志望の男が、40歳になっても小説家として芽が出ず、堪忍袋の緒が切れた妻に今度は

「十五年もなにをしていたと思う? ずっと、他人の給料の計算をしていたのよ。美容院に行くのは三ヵ月に一回! さっき、十五年ぶりに、鏡で自分の顔をじっくり見たの。誰、これ? なに、この、おばあちゃん!」(p.100)

と不満をぶつけられ職探しに。ハローワークで紹介してもらった、入院中の子供(助かる見込みなし)にむかって本を朗読する仕事につくという話。

短編でこういう内容を展開しようとすると、筋書きだけになってしまって雑な印象をうけました。小説家を目指す夫とそれを十五年も支える妻なんて、それだけでいろいろドラマがありそうだし、さらに職探しだっていろいろ何かありそう、もちろん仕事先でもいろんな思いがあるだろう、そういうぜひとも丁寧に描いてほしいところも、この分量ではほとんど何にも描けていません。加えて、小説家志望の男もその妻も類型的だし、死を待つ子供を出すっていうのも極めて安易。

そもそもこれを書いた高橋源一郎の文面から「ここを読ませたい」みたいなものがものが全然伝わってきません。村上春樹の劣化版のような文体で、こんなおセンチなことを書かれても、「源ちゃんっぽいよね!分かる分かる」といってくれる察しのよい読者にしか伝わらないんじゃないでしょうか、これ。

あらかじめいっておけば、『ジョン・レノン対火星人』は小説の面白さを僕に教えてくれた大好きな一冊でしたし、『日本文学盛衰史』は日本の小説の書き方を確実に一歩すすめてくれた大事な仕事ですので、好きな作家のうちの一人なのは確かなんですが、この作品では読者に対する甘えというか、書き手の力の抜きすぎが感じられてしまい、あまり評価できません。まあ、十年に一回ぐらいの大ホームランを気長に待つのがこの作家のスタイルなのかもしれませんね。そういう仕事に期待しておけば、短編や連載は適当に流し読みしていいんだろうなとこの「星降る夜に」を読んで改めて思いました。

海猫沢めろん「モネと冥王星」

出典:『群像』2012年9月号
評価:★★☆☆☆

父を失ったモネという中学生の少女が母と、瀬戸内海にうかぶアートの島で暮らす。生と死に満ちた島でモネはまどろむ。まとめるとこうなるのかな。海猫沢めろんによる仕掛けが随所にあるものの、その仕掛けがうまく機能しているのか読み終わった後も疑問が残りました。

話の途中で母が死んだ(とは正確にはいってないのだけれどそのようにうけとれる)という連絡がモネのもとにはいり、かとおもうと次のシーンでは母がふつうに朝食の準備をしていたり。もちろんこれは作者の意図的な仕掛けとして、たとえば「死んでしまったお母さんがその後の世界で見ていた夢だった」とか、逆に「死んでしまったモネをお母さんが夢にみた」とか、「そもそもはじめから全部モネの夢だった」とか、幾つかの可能性を順列組合せで考えられるようになっているものの、どれかの説に決まるわけではなさそう(僕の読みが浅いからかもしれません)だし、どれかの説を採用できる可能性が高いわけでもなさそうです。合理的に読みとくヒントが少なく、モヤモヤしてしまいます。もちろん、幾つかの可能性を楽しんだらいいじゃないかという意見もありますからこれは完全に僕の好みの問題です。

冒頭の、曖昧さをかます出だしはうまくいっていると思いました。

 わたしは、白い貝殻を敷きつめ細く曲がりくねった山道だった。
 その上を母が歩いていた。
 白い雪みたいな山桜の花びらを浴びて、午睡から目覚めたばかりらしく寝惚けた目で、水場のわきの白い猫柳をゆらして、鶯のなく花曇りの景色のなかを進む。
 あたりには桃と梅の花の匂いが満ちている。
 母はずっと目を閉じていて、足元の道がわたしだということに気づかない。
 心が輪郭をなくし、あたりにうすくとけていく──。(p.54)


あとは作者の仕掛けか、たんなる凡ミスなのかもよく解らないのは例えば

わたしは心地よいまどろみの襞に巻かれつつ(p.55)

眠いのか苦しいのかわからない微睡みのなか(p.80)

作品のキーとなる「まどろみ」が、一方はひらがなで、もう一方は漢字で書かれています。語られている世界のフェーズが、それぞれで異なるのならこの書き分けもわかるんですが、これ一つだと証拠として弱い感じがします。他には、突然モネの家にいる男の書き分け。は意識的にかき分けているようで、描写をとり出すと

すっきりとした一重の茶色い目(p.72)

瞬きしない黒い瞳(p.76)

と言う感じ。これも外見の描写が異なるものの、どの箇所でも男としか言及されません。「だれそれ」とははっきりと名指されないので、茶色い目のほうは宇宙人、黒い瞳のほうは死んだお父さん(逆もあり)と解釈はできるものの、確定はできません。モヤモヤする(笑)。

海猫沢めろんファンのような人が、部分部分に分解して読み解くことがあれば、実は複数の解釈で揺れ動くような話ではなく、カチッとパズルのピースがはまるようにできているのかもしれません。話の構成の仕方も、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、というパートに分けられており、その内部でさらに、「*」や一行空きによってさらに場面転換される(のかもしれない)ので。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは意識的にわけられているとしても、一行空きとか「*」は作家によって結構場当たり的に使われており、この作品の場合も場当たり的に使われているのか、それとも計算されて使われているのか不明。特段思い入れのある作家ではないし、話の内容も文体も僕の好みではないので、ずぼらな僕は細かく読むまでする気は起こりませんが(笑)。

日和聡子「湖畔情景」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★★★☆☆

登場するのは、河童に人魚に龍。河童が縫製機を動かす工房に人魚が訪ねて来て世間話をし、買い物途中の人魚が龍の背中にのせてもらう、というような話。河童にしろ人魚にしろ龍にしろ、あまりにも人間臭い会話をするし、しぐさも人間臭いので、そうした想像上の生物の名称はメトニミーとして使用されているのかなと思って読み進めていました。が、龍が空を飛ぶにいたってそうではなく、ほんとうの(?)河童やなんかとして描いているのだと読みを途中でギアチェンジしました。

どこかすっとぼけたような味わいのある作品で、それぞれの発言や内心独白にキャラクターがうまく出ています。他人には強く出られない河童が、助手にはキツくあたって切れ気味に仕事にいそしむ裏表ある性格、他人のことなど意に介さず自分の都合だけでいいたいことを言ってすっきりする人魚、律儀な龍。どれもすごく人間臭く、異形の外貌とのギャップ(実は作中には外貌にかんする描写はそれほどありません)にくすぐられます。NHKのEテレで、子供向けの人形劇を見ているような感じでしょうか。もちろんこの作品は子供が読んでもそれほどおもしろくはないでしょうが、年齢が上の人が読めば、自分の知り合いに河童や人魚や龍を当てはめてクスクスわらいながら読んでいる、そんな作品な気がします。

人間の姿をとっていない、ということが前提なので、描写の仕方によってはモノにもなってしまう。たとえば龍なんかは車みたいに描かれます。これがまたおかしい。

最後まで安全飛翔を守りつつ、丘の上の町からは幾らか離れた人気のない崖のそばにいったん身幅を寄せ、仮に下り立ちて、背上の人魚を降ろすべく、できるだけ背を低くした。そこまでは頼まれていたわけではなかったのに、龍は人魚を地へ降ろす際、背骨を地に沿わせるようなイメージを浮かべてみるよう試みて、可能な限りその傾斜をなだらかにしてやろうと努めたのだった。(p.174)

背中に人魚をのせて空を飛んで、着地しようとする場面ですが、まんま車の運転(笑)。「身幅」なんてことばからは、「車幅」が見えかくれします。この場面の前の、龍と雨雲との関係について龍自身そのメカニズムがよくわからず一人(一匹?)悩むところも秀逸です。

ほのぼのとしたおかしみのある短編にふさわしい作品でした。感想を書きながら思ったけれど、吉田戦車「伝染るんです。」的な世界観なのかなあ、これ。

戌井昭人「すっぽん心中」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★☆☆☆☆

交通事故で首がおかしくなり治療休職中の男と、家出少女とが出会って、霞ヶ浦までスッポンをとりにいく話。なんだか無駄が多くて、スカスカの短編。描写はフラットだし、エピソードは断片的だし(船着き場のエピソードはこの短編作品に必要だったでしょうか)、全体として完成度は低かったです。なにか、シナリオ科学生の習作を読まされたような、駄目な邦画を見せられたような、そんな読後感。

こういうダラダラした日常、とるにたりない出来事の積み重ね、とりたてて大きな事件が起こるでもない日々、というのがあるとしても、それを作品として、短編小説として、そのまま書いていいというわけじゃない気がします。取るに足りない出来事があるという事実と、それを短編小説として構成する作為との間には、ものすごく開きがあるはず。どこかに読み手にたいする読ませる意識がないと、ほんとうにつまらない、そんな作品でした。

「そうなんです。やっぱそう見えるか。本当は十九歳なんです。世の中、はたち超えてないと、いろいろ面倒でしょ。お兄さん、名前は?」
「田野、田野正平。きみは?」
「モモです」
「モモ?」
「うん」
「あだ名?」
「違う。漢字の百が二つでモモです。名字がモモ」
「本名?」
「本名」
「出身は?」
「九州、福岡」
「下の名前は?」
「下の名前はダサいから、聞かんで」
「モモモモ子とか?」
「それ、つまらん。モモでいいから」(pp.84-5)

小説を書くとはどういうことか、その自分に対する批評=問いが徹底的に欠けた作品です。

中村文則「糸杉」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★★☆☆☆

ゴッホの《糸杉》に魅了された男がその絵がまとう狂気に魅かれるお話。仕事を失って失業保険が切れて、友人知人もいなさそうなこの男が一人称語りで、偶然自分の前を通りかかった女を尾行するようすを実況する。男の直観にびびっときた後ろ姿の女たちが、風俗嬢だ(しかも出勤前の)というのはかなり偶然度としては高くて、わざとらしいなと思えた。あとはゴッホ=狂気の作家、という図式自体かなり通俗なものであるし、この男の妄想も飛び抜けたところはなく、いってみれば電車の中で男性サラリーマンたちが妄想しているようなものの枠を超えていないし。

もちろん、最後のところで

初めからわかっている。その領域に行くには、僕はまだ孤独が足りない。糸杉は消えている。糸杉に類似した何かも。ぼくの内面は日常の枠を出ない。(p.150)

と言っているとおり、この男の独白じたい「日常的なもの」なのだ。結局読み終わってみれば、失業中のどこにでもいるような男が、通俗な絵をだしにして自分と狂気をむすびつけ、しかし日常的な妄想のなかでちょっとあそんでみましたよ、というしごく凡庸な話にしか着地していないので、これを読む僕としては何もおもしろくない(笑)。ありふれた男の、ありふれた妄想を読んだだけ、という感じ。

また、こういう変な(その実きわめて平凡な)男の妄想一人称語りだから、文章がヘンテコなのはかまわないといえばかまわないのだろうけど、いくらなんでも、断片的でへたくそだろうとも読みながら思った。狙ってこのへたくそな文章を書いているのなら分かるのだけど。無用なところで体言止め、倒置の連発、~だからという語尾で止めて一人合点、で読むほうとしては流れがとぎれとぎれになってしまってイライラしながら読み進めました。そしてその引っ掛かりが多い文章でつづられるのは結局平凡な男のひとり言というガッカリさ。

安部公房だったら、絵の中に入ったり、絵から何かが飛び出したり、追跡していた女が突然消失したり、気がつけば語り手も知らない土地に出ていたり、といくらでも妄想を膨らませていくのだろうけれど、そういうものを狙ったわけでもなさげなこの「糸杉」という作品。平凡な話をいかにも非凡ぶって語られることの苛立ちがふつふつ湧き上がってきただけでした。

黒川創「暗殺者たち」

出典:『新潮』2013年2月号
評価:★★★★☆

この作品を掲載している『新潮』2013年2月号表紙には、「幻の夏目漱石原稿を作中公開!」と興奮気味に読者をあおる売り文句がついています。2012年12月号で安部公房の未発表小説を発掘した『新潮』を無意識に前提してしまったので、この文句からも僕は勝手に「未発表小説」が見つかったものと決めつけてしまいました。これが早とちりなのは、読んでみればすぐ分かります。ここでいう「幻の夏目漱石原稿」とは、「満州日日新聞」に漱石が寄稿した、「韓満所感(上)」「同(下)」というエッセイのこと。この記事は話のマクラとしてふれられており、1910年前後の主に東アジアにおける暗殺者たち(安重根、管野須賀子、幸徳秋水など)の人となりを描くうえでの素材としての扱いです。「幻の」という形容がついているのは、漱石全集に未収録の原稿だからみたい。

もっとも、漱石の小説でなかったとはいえ、この「暗殺者たち」そのものは面白く読めました。テロリストたちの人となりを描くうえで、歴史的資料や研究に目を通し十分に裏づけをして、さらにはアカデミックな歴史研究からは排除されるようなところまで踏み込んで、資料を裏読みするかのような解釈も説得的に展開していて非常に読み応えがありました。また、体裁のうえでは、「ロシアの日本語を学ぶ学生にむけた講演」という形式をとっているので、1910年前後の予備知識がそれほどない人(高校生レベルの世界史・日本史の知識ぐらいがあればOK)にとっても、十分わかりやすい話し言葉になっているため、読む方にとってみれば非常にリーダブルです。この辺もアカデミックな仕事ではできない話法。

漱石の記事以外で興味を引いたところを列挙していけば、ドストエフスキー作「僧侶と悪魔」パスティシュ問題、管野須賀子と荒畑寒村との距離、堺利彦と幸徳秋水の文体の違い、流亡ロシア人と大山巌とのやり取り、西園寺公望と管野須賀子との会見。アカデミックな歴史研究からすると勇み足ととられかねないところもあるかもしれませんが、いずれの踏みこみも説得力のあるものでしたし、かつ面白く読めました。

作中では、多くの社会主義者にもフォーカスされていることから、2010年5月号『新潮』の中森明夫「アナーキー・イン・ザ・JP」と比較してしまいました。いずれの作品も読者に分かりやすくかかれてはいるものの、「暗殺者たち」がしっかりした資料・研究書の渉猟に裏づけられた仕事なのに対し、「アナーキー」は書き手の勝手な解釈と人物事典ののっぺりした引き写しの駄文、という天と地ほどの差がありました。

本作の社会主義者たちとの距離の取り方も節度を保っていて、

管野須賀子たちにとっては、とうてい、国家元首の暗殺の実行までたどりつけるほどの強い動機はありません。口先だけなんです。本気で、どうすれば確実に天皇に爆弾を投げつけられることができ、また、それが致命傷を負わせられるか、そして、その後、どうやって、どんな社会変革をはかっていこうと考えるのか、話しあった形跡がまったくないでしょう?(p.82)

彼らと同時代、二○世紀の初頭に米国の連邦最高裁判事を長くつとめたオリヴァー・ウェンデル・ホームズは、左翼の労働運動家や無政府主義者が政府転覆を主張していたことを理由に米国の法廷が彼らへの重罪判決を下そうとする傾向が強まっていることに反対し、そうした被告たちの日ごろの主張は、未熟な想念をだらだらと述べるだけの「牛のよだれ」のようなものであって、そんなものをまじめな審理の対象とすべきではないのだ、と述べています。これにならって言うなら、これらの大逆事件の被告たちを死刑にするために並べられた罪状も、粗末な「牛のよだれ」の寄せ集めによってできています。(p.83)

冷静に見ている目に安定感があります。これも「アナーキー」が、自分勝手に大杉栄を偶像視して祭り上げて、中森一人がまいあがっちゃってる(反対に読者は読めば読むほどしらける)のとは対照的。記述の対象にたいして熱をあげるなとはいわないけれど、どこかに冷静な目、批評がないと、読まされる方は「つきあいきれないなあ」とか「この書き手は幼稚なんだろうな」と思うだけです。

とにかく、こんな短い感想にはまとめられないほど内容豊富な作品でした。どのトピックも読みやすく、また読み応えがあります。『群像』の創作合評では片山杜秀が加わったようですし、ぜひともこの「暗殺者たち」とりあげててくれればいいなあ。

島田雅彦「透明人間の夢」

出典:『群像』2013年2月号
評価:★★★★☆

星座シリーズのうお座担当は島田雅彦。島田雅彦を僕は数年ぶりに読みまして、実にひさびさ。昨日読んだ丹下健太の面白くなさにがっかりしていたのですが、それに比べるとものすごくうまく感じます。ギャップのせいなのかどうかわかりませんが。

ストーリーは、若いカップルの男のほうが職を失って、女の方も仕事がなくホームレス寸前までいき、所持金1300円で入った寿司屋で偶然好運に巡り合うというもの。作中にも言及がありますが、志賀直哉『小僧の神様』もふまえながら、しかしあくまで現代の短編作品として成立しています。

 マナブがあんなに弾んだ声で話すのを久しぶりに聞いた。ほとんど奇跡的にいいことが起きたに違いない。レイコは昔、高校で読まされた志賀直哉の『小僧の神様』を思い出した。自分の小遣いでは寿司一つたべられない丁稚奉公の仙吉は、その様子をこっそり見ていた貴族院議員Aの配慮で、憧れの寿司を腹いっぱい食べることができた。自分が寿司を食べたいことを見透かして、ご馳走してくれたその人はきっと神様に違いないと小僧は思い込む、という話だった。貧しい人は奇跡を信じて生きていくしかない、と作者はいいたかったに違いない、と感想文に書いて、おばさん先生に、ずれてるわね、といわれたのを覚えている。(p.140)


『小僧の神様』が、「めでたしめでたし」とでもつけたしたくなるような「お話」ならば、こちらの「透明人間の夢」は終盤まで「お話」と読ませつつ、最後の最後でリアリズムに着地します。この、物語と現実とを峻別する境界線をこれだけの分量でクレバーにまとめて見せる手並みはさすがベテラン作家だなあと感心させられました。プロに向ってエラそうないい方なのは重々承知ですが(笑)。タイトルも皮肉がきいていて隙がない。読後は、立川志の輔師匠の新作落語とよくにたソツのなさだなあと思いました。短編のお手本にしていい作品で、分量からいえば島田雅彦の代表作とはいえないまでも、しかし読んでおきたい小品、短編集のアンソロジーをつくるならノミネートしたい秀作です。

(追記)この2月号の星座にちなんだ短編特集の最後には星占いもついてます(今、発見した)。どの星座の占いもそんなに悪いことは書いていなくて八方美人。なんだか週刊誌とか子供読み物みたいになっていく『群像』の方向性が僕には見えません(笑)。こういう企画もたまにはいいのかもしれませんが、せっかくいまやマイナーとなってしまった純文学の雑誌なのだから、なんだかもっとこう変わった毛色の企画、不穏なもの、物議をかもす作品・記事を読みたいなあと一抹の寂しさを感じながら追記してしまいました。ちなみに2013年2月号の僕にとってのベストは中村文則「アダルトビデオの名言」であることも付言しておきましょう。

丹下健太「サタデードライバー」

出典:『群像』2013年2月号
評価:★★☆☆☆

星一つか二つかで迷いましたが、一つにするほど腹が立たなかったてことで星二つ。星座シリーズの獅子座担当は丹下健太。技術的に光るところもなければ、話も何がいいたいのかよくわかりませんでした。

話は、婚姻届を提出しに市役所に行く予定のカップルが、途中で寄ったショッピングモールで占い師に星占いをしてもらい、それまで自分の星座は乙女座だと信じていた男が、実は獅子座であると指摘されたことでヘソを曲げてしまい、予定していた市役所へは行かないとダダをこねはじめ、つられて苛立った「私」が三年ぶりの運転を買ってでる、という筋。読後の感想としては、他愛のない痴話げんかを読んだだけ、というなんともつまらないものしか残りませんでした。

僕にとってよくわからない原因の主なものは、僕自身が星占いとか血液型うらないとかを酒の席での話のネタ程度にしかおもっていないからで、この作品にでてくるカップルの男の方が、「今まで乙女座だと思って生きてきたが、実は獅子座だった」という事実に気分を害してしまうという態度に、まったく感情移入できないからだろうなあと思います。

主人公の男性のうけた衝撃が凄まじいものであることを示すためには、この男性がこれまでいかに乙女座であることにこだわって来たかが示されていなければならなかったでしょう。といっても、少しすれば気分がなおっているし、自分でも

「それはいいとして、別に星座で性格が変わるわけじゃないんだからさ。いいんじゃないの?」
「いやそれはそうだけどさ。でも、逆に星座によって性格が違うって言ってんのは占い師とかなんだぜ。だいたい俺も全面的に占いを信じてきたわけじゃないけど(略:引用者)」(p.58)

とも言っていることからすれば星座に対する物凄いこだわりもないわけだし、結局、読み終わって起伏の少なさになんの引っ掛かりものこりませんでした。星占いの結果にへそを曲げた男が、痴話げんかをしただけだという。

へそを曲げる男にたいして、一人称語りの「私」がなにか働きかけるとか、心の中でだけ皮肉を利かすとか、そういうわけでもないし、人称の選択もなんかおざなりな感じ。橋本治の短編の場合は、まさに語りが効果的だっただけに、こんな気の抜けた作品を読んだ分時間を損したような気になりました。何が狙いだったんでしょうか、これ。

橋本治「安政元年の牡羊座」

出典:『群像』2013年2月号
評価:★★★☆☆

12星座にちなんだ短編を12人の作家がそれぞれ分担して執筆というなんともギャルギャルした趣向の『群像』はどこにむかっているのでしょうか。ギャルギャルした企画の、ギャルギャルしたトップバッターとして『桃尻娘』の橋本治をもってくるところもなんとなくにやけてしまいますが、作品も短編らしく肩の力が抜けて読めるもの。橋本治の語りが光ります。

冒頭から

これは、いい加減な話である。(p.9)

と一行だけで作品のトーンを宣言しておいて、何度か同じ注意を促す。読み手としては、まんまとこの催眠術にかけられていってしまい読む方もいい加減に力が抜けてリラックスする状態で読むことができました。

作品を読めば、舞台設定は幕末の山陽の小藩、主人公その藩で渋柿の収穫を仰せつかった「柿奉行」の男、笠間甚左衛門。ともすると「時代考証がなってない!」「こんな時代にこんな言葉づかいするはずない」云々と枝葉末節が気になって批判的なスタンスをとってあらさがしをしてしまう読者の機先を制するかのように、「この話はいい加減だ」が語り手によってくりかえされるのは、うまい方法だなと思いました。

この語り手が、主人公にたいしてツッコミをいれたりや冷や水を浴びせたりするような距離感が絶妙。「牡羊座」担当ということで、牡羊座生れの主人公なわけですが、詐欺師の男に「牡羊座こそ一等すばらしい星座である」といわれて、それまでの自分の世界観をガラッとかえてしまうほど暗示にかかりやすい単純な主人公。その主人公にことあるごとに語り手がいれるツッコミが、たとえば

牡羊座生まれの常として、笠間甚左衛門は他人の星座など眼中にない。「牡羊座が第一等と言われ、知性と戦いの星だ」と言われれば、それだけでその気になってしまう。「我こそが一番」と思い、全人口の十二分の一が牡羊座の生まれであることは頭に入れず、「我」ばっかりが一番と思う。テレビの星占いを見ても、牡羊座や乙女座や蠍座の運勢がよくて、牡羊座の運勢がよくないと「今日は特異日だ」と決めてかかるクチである。(p.14)

という感じ(笑)。なんども「いい加減な話である」と、読者に刷りこんでおいてこそ、このツッコミが決まります。司馬遼太郎の語りをもっとずっといい加減にしたような語り口には、橋本治の名人芸が光りました。短編らしい短編で面白かったです。
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

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