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木下古栗「人間性の宝石 茂林健二郎」

出典:『すばる』2013年3月号
評価:★★★★☆

図書館で目次のタイトル読んだだけで思わず笑いをもらしてしまい、作品一行目に目を移してさっそく

「よーし、今日も一発シャブ打つぞー!」(p.184)

とたたみかけられては、評価を星四つにせざるを得ません。冒頭からぶっ飛んでいます。ここ最近、これまでの脱線につぐ脱線を重ねて支離滅裂になってしまう作風から一転、作品としていちおうのストーリーをもってまとめるという新たな境地に出た感のある木下古栗。アングラ芸人が放送禁止ネタを封印して、もっと一般受けする芸風にきりかえたような感じ。といってもつまらなくなったとは感じません。むしろ、もともとうまく書ける作家だったこともあり、それが悪い方に働いてときに表現の自慰行為に淫するだけで終わってたのが、最近の作品ではかなりリーダブルに洗練されて、読み手をどうやったら楽しませられるかという技術にウェイトを置くことで、作品にさらに磨きがかかったように思います。

本作では、『危険の感覚』という著書で有名な茂林健二郎(字面から、読み手の誰もがあの人を想定してしまいますが(笑))東京ハーバード大学グローバルビジネス学部客員教授が、平和ボケした日本人に、常識のまったく通用しない世界でも生き残るための気構えを、あの手この手で叩きこむ姿をドキュメンタリー風にリポートするという体裁。これ、あまりに語りがうまいので読む人によっては、はっきりと意識していないかもしれませんが、一貫してドキュメンタリー調の語りですね。ルポルタージュ文学というよりは、視覚的要素のおおいぶんテレビ的密着ドキュメントといったほうが正確です。ラスト付近で、「私」という語り手が唐突に出てくることからも明らか。

以下、読者を魅了してやまない茂林健二郎の人間性が多面的に乱反射する様子を引用。まずはロシア滞在時、二人組の若者につけられた茂林健二郎。撒かずにわざと二人を袋小路に誘いこみます。

「殺る気だ!」と茂林は思った。そして実際、ぐさりと腹部を刺されてしまった──次の瞬間、「ウラァアアアアアアアアアアア!」と火事場の馬鹿力が出て、力ずくでナイフを奪い取って刺し返すと、死に物狂いでえぐり、引き抜くやその血まみれの刃で、何事か叫んで襲いかかってきたもう一人をとっさに半身になって避けて足払いで転ばせると馬乗りになってしゃかりきに滅多刺しにした。もちろんその合間に、傍らで苦しげにのたうち回っているもう一人をたまに刺すのも忘れなかった。やがて自分自身の白い呼吸が聞こえ、肩で息をしながら立ち上がり、氷点下に鮮血も凍てつく両手をだらりと垂らして途方に暮れる彼を、罪など知らぬ無垢な月の光が優しく照らしていた。
「ああ、ソーニャ……お前のせいでこんなことに……」(p.198)

「罪など知らぬ無垢な月の光が優しく照らしていた。」なんてまるで大藪春彦です(笑)

次は『オイディプス王』を読んだ茂林健二郎。

ある日、茂林はギリシャ悲劇の傑作『オイディプス王』を読んでいた。御存じのとおり、実の父を殺し、実の母と交わるというアポロンの神託を受けたテバイの王、オイディプスがあれよあれよという間にそのお告げ通りの運命を辿ってしまう──熟女AVによく似た筋書きだ。(p.193)

こんな風に突飛な記述で笑わせながら、しかもこういわれれば熟女AVものの筋書きにも思えるという説得力もあります(笑)。レトリック、とりわけ比喩に長けた作家は、事物の相同性を見抜く能力に長けていますね。単なるこじつけならだれでもできるけれども、「『オイディプス王』∽熟女AV」という指摘には説得力もあり、笑いつつ痺れました。

続いて、ケーキをドカ食いしてしまう富原という女性に、茂林健二郎が送ったことば。

単に「ケーキは我慢!」「ケーキは毒物、肥満のもと!」などと謳ってみても、とおりいっぺんの抑制や禁止はかえって欲望を煽り立てることになりかねない。熟慮の末、富原に贈られた言葉は「熟女絶叫ケーキ潮吹き8時間50人2枚組」だった。茂林によるとこれは熟女AVのタイトルをもじったもので、インパクトがあり、なおかつ食欲を失わせる効果があるという。(p.191)


他にも引用したい個所たくさんありますが、こうして細切れの記述でも充分楽しませてくれる作家なので、本編を通読すればその破壊力は推して知るべしです。いますぐ図書館に走るか、インターネットで『すばる』3月号を手に入れて──下ネタに耐性がある人であれば──この作品を読むことをお勧めします。

茂林健二郎ネタやクオリアネタで書かれた作品や雑記もいくつかありますし、そろそろ対談があってもいいかもしれません。どうせなら何かの文学賞をとって、木下古栗と茂林健二郎から連想される人物だけでなく、夢枕獏も加えて三者鼎談があれば僕はその本3冊買う心がまえです。
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小山田浩子「うらぎゅう」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★★☆

先ほど感想を書いた今村友紀が、映画のような、あるいはネット上のコピペのような分かりやすい素材をありきたりに料理していたのにたいし、こちらの「うらぎゅう」は読者にとってよく分からない素材をうまく料理してくれた短編で、読むなら断然こっちです。といってもにているところってほとんどないですが。

この短編は、まもなく四十歳になる女性が、夫との離婚を告げるため、久々に実家のある町に帰省するという筋。これだけとりだすと、何のことはないようですが、一つの謎のことば「うらぎゅう」が一体何なのかが開かされず話がどんどん進んでいくため、読者は「うらぎゅうとはなにか?」という疑問を抱いたまま、居心地の悪さを語り手の女性と共有させられます。故郷を捨てて両親のこともほとんど顧みず外に出ていく後ろめたさだとか、久々の町がさびれている様子、バスにのれば地元高齢者が地元の話題で盛り上がる、という状況に、語り手は完全にアウェー状態。そしてタイミングよく、すこしずつそれがなんなのかおぼろげに見えだしてくる「うらぎゅう」。

バスの中でかわされる高齢者たちの地元の会話の洪水に耳を傾けるところなんかは、たとえば河瀬直美のドキュメンタリーにみるような独特の緊張感を読み手の僕はもって読み進めました。よく分からない世界に身ひとつで飛び込んでいって、そこで当たり前のように交わされる会話を手掛かりに、自分のはいりこんでいる世界のヴェールが少しづつ少しづつ剝がれていく感覚(だけど最後にまるっと分かるようにはなっていない、どこかわからなさしこりが残り続ける)。ちょうど、読み手にしこりを残してくれるのが「うらぎゅう」で、最後まで読めばなにか宗教行事のようなものだというところまでは分かるんですが、それがはっきり何の目的を持っているのかは分からないまま終わります。

よくよく考えれば、余所者がどこかの街の宗教行事や祭事に参加したところで、そこで何が行なわれているかははっきりとはわからないし、したがって同じ場を共有しながらも感情的にはそこの土地の人たちとはへだたりをずっと感じているはず。その居心地の悪さというか、状況の中にいるのに何がおこっているのかははっきりと分からない不安な気持ちにさせられる薄皮一枚の分からなさを残す省略の美学、構成のバランス感覚にうなりました。

ページをぱっと開いて、改行の少なかったり、会話も行を変えず鍵括弧にくくるだけの処理にしているのもポイント。自分とは長年関係なかった世界に飛び込んだ者の体感する、世界の遠さ、摑み辛さ、とっつきにくさ、しかしそこにたしかにある世界が存在することのたしかさが、ビジュアルからも分かります。

今村友紀短編が既視感ありありのネット上のコピペみたいなエピソードのつらなりだったのにたいし、小山田浩子短編には、はっきりとした手触りや世界のひろがりが感じられます。そこで生きている人たちが、分からなさもふくめてありありと感じられる。下はバス停まで迎えに来た母親と語り手が久々に再開する場面です。

「お母さん、元気?」「普通。あんたは?」「まあまあ」母親は家に向かって歩き出した。枝々の先端に透明な芽が吹いていた。下草には小さなつぼみをつけているものもあった。母親の地下足袋がそれらを踏んで歩いた。「お父さんは元気?」「お父さんも、普通」「今、畑?」「そう」「今は何?」「タマネギ、エンドウ」青い小花、紫の小花、白い小花、枯葉のような翅の蛾がふらふらと飛んでいた。「ねえ、お母さん。私離婚することにした」意を決して、しかし平然と聞こえるように言ってみると、母親は急にかがみこんで、地面から頭を出していたフキノトウを一つ摘んで「本当?」と言った。「うん。ごめんね。それで、離婚届に名前を書いて欲しいんだけど」「私?」「お父さんでもいい」母はもう一つフキノトウを摘んだ。
 家の前まで無言で来ると、ポケットにフキノトウを二つ入れたまま、母は畑に戻った。(p.109)

この抑制のきいた会話、描写のすばらしさ。書こうと思えば「私は母に離婚のことをいつ切り出そうかと迷いながら口ごもり、何でもない風を装って…」云々とか、ついに切り出したときの心内を独白的に書くこともできはしますが、そこをばっさりカットしてこれだけシンプルな会話と描写で書くだけで、かえって二人の間の感情のやりとりが読者の頭の中に響きます。娘の離婚を聞かされた母がフキノトウを摘む、なんてもう名人芸の域だと感嘆しました。

今村友紀「バスチオン公園の馬鹿たち」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★☆☆☆

四月一日の朝。まだ肌寒いジュネーヴの街で俺はいつもの仕事をしている。(p.82)

からはじまる短編です。日付が頭にしるされてある通りエイプリルフールに起こった出来事を扱っていて、「俺」と名乗る男が募金詐欺をはじめると、わらわらと胡散臭い人や善意の人が集まってきて、SNSなんかも通じて大量の募金が集まり、最後の最後で初老の紳士にまんまと金をだまし取られそうになるところで終わる、一種のコンゲームのようなつくりです。と、筋だけ書けば面白そうな気もしなくはないんですが、作品は既視感たっぷりの描写が連続してあまり楽しめませんでした。なんかの映画で見たなあというようなテイスト。エンタメ風の軽い読み物として流し読めてしまいます。

先日もテレビニュースで募金詐欺が話題になっていたし、震災の復興資金がよく分からないNPO法人に使いこまれてしまったりと、偽善的なものもふくめてとにかく善意から出される募金の行方は、よくよく考えてみると最後まで追跡してみないことには、じつはよく分からないものなのかもしれません。この作品で出てくるような「アフリカ植林事業財団」のような何となくありそうな団体名をでっち上げて、よせられた募金をまんまとせしめる人たちって結構いそうです。

中国人にアメリカ人にインド人。あらゆるエスタブリッシュメントが俺たちに募金する。ハトヤマとかいう不思議な髪型をした日本人が訛った英語で「友愛! 友愛!」と叫びつつ札束を押しつけてくる。(p.87)

このへんになると、できの悪いネット上の落書きと相違ありません。善意、偽善、嘘、募金、お金をめぐる騙しあい、など素材としては短編向きの面白そうなものながら僕にはいまひとつでした。

藤崎和男「負けて悔いあり我が闘争」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★☆☆

笑ってしまった作品には評価が甘くなってしまうなあ、と自覚しました。まずタイトルで「負けて悔いあり」って、「あるのかよ(笑)!!」とツッコミを入れてしまいましたし、読みはじめてすぐに

しかし文学部校舎の入口でピケをはっている学生三人は、(後略―引用者)(p.166)

「ピケ(笑)!!!」と、現代の大学のことだと思って読み進めていただけに意表をつかれてまた吹き出しました。ここからさらに日米安保条約をめぐる押し問答になだれこんでいきます。そして、「彼」の就職、ふられた女の話、労働組合加入をめぐる会社側との裁判、辞職、経済的に苦しい家族生活へと、するすると話がうつっていきます。書き手の実体験もけっこう織り込まれているんだろうなと思える、学生運動をはじめ時代の空気を反映した素材が並んでいて、要所要所でクスリとさせられる笑いがはいっていました。にしても、結構上下の激しい「彼」の半生ですが、その激しさは笑いで中和されてしまって、それが作品にとっていいのかわるいのかにわかには判断しかねますね。

出来事を堅めの口調で淡々と語っていくスタイルは、どことなく杉浦明平を思い出しました。ただ、それよりも狙って笑える要素を入れています。このあたりが評価の分かれるところで、笑いの要素といっても爆笑というものではないし、わざとらしいといえばわざとらしさも感じられるので、苦手な人もいるかと思います。

高校時代バレーボール選手だった妻にはり倒される話なんかは、書き手としては楽しそうに筆を運んでいるのだけれど、

バレーボール選手の身体は、彼が考えている以上に鍛えられていた。(p.174)

といわれても、「そもそも何十年も前にバレーボールをやっていたにすぎないんだからいまさらそれがはり倒される理由になるのか」と真面目に醒めたツッコミをいれてしまいました。そんなこと承知で狙ってやってるんだ、ともしいわれればそれはそうですねと認めたうえで、ここは僕には悪乗りしすぎに思えて笑えなかったと答えるよりほかありません。

あと20代前半の読み手であれば、そもそもこの「彼」が生きてきた時代について、ほとんど知識ないんじゃないかな。左翼?セクト?オルグ?赤軍?なにそれおいしいの?みたいな。

読み手の前提する知識と、読み手の波長にはまればすごく楽しく読まれる作品だろうと思います。50代以上の読者必読、ですかね。

千早茜「縛す」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★☆☆☆

30歳にさしかかるマンネリ若夫婦が温泉旅行をする話。道中どころか旅館でも携帯電話から目を離さない妻のうっとうしさがものすごくよく伝わってきて、夫の視点に共感させられました。妻に話かけても目すらあわせてこず、充血した目で携帯画面をじっと見る、しかし夫婦の力関係は夫が妻に譲ることで均衡をたもっており、妻の心ここにあらず状態には、読んでる側としてはいらいらしっぱなしでした。僕が男性だからなのかもしれないけれど、たぶん女性でもこんな女が友人で旅先についてきたら、心の中ではシラケちゃうんじゃないでしょうか。それくらいイラつかされました。嫌な人物、うっとおしい人物を描けるというのはポイント高いと思いました。

で、この力関係の均衡をどうやって崩すかが見せ場ですが、本作では夫が妻を縛って放置することによって力関係を逆転させます。SMですね。

温泉旅館への道中で、「一般的にはね、女性は縛られた方が落ち着くみたいよ(p.149)」と夫に話しかける妻。「一般的に」という前置きがありますが、縛られた翌朝の妻の反応はこんな感じでまんざらでもない様子。

かちゃかちゃという小さな音で目が覚めた。障子を通した朝の光が部屋を青白く染めている。布団から身を起こすと、鞄から化粧ポーチを取り出していた麻子が振り返った。
「化粧も落とさないで寝ちゃったじゃない。メールやツイッターの返信もできてないし。仕事の電話しなきゃいけなかったのに」
コットンに化粧水を含ませている。口調のわりに穏やかな顔をしていた。肌もほんのり光って見える。
「仕方ないじゃない」と、僕は言った。
「だって、縛られていたんだから」
 麻子はパックを広げる手を止めて、「そうよね」と呟いた。
「縛られてたんだもの。仕方ないわよね」
 そう言うと、顎をひいてちょっと睨むような仕草をした。悪くない顔だと思った。(p.154)

結局、マンネリ夫婦が旅行先でいつもと違うプレイで絆を再確認してリフレッシュ、という取るに足らないお話でした。文字通り「縛られる」ことによって、それまで強く出てこなかった夫にもじつは妻を「束縛する」ような執着を感じて安心した、というのが妻視点での結論。縛る、ということばがあまりに直接的すぎるのと、他には「縛る」ことにまつわる素材がみられないことから、メタフォリカルな作品というよりは、普通の夫婦の通俗的なやりとりを駄洒落のようにしたてた作品、といったほうが適切でしょう。

岡本学「高田山は、勝った」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★★☆

星三つか四つでまよいましたが、まあ短編という短さでも結構楽しめたので四つで。ちゃんと読ませる世界としてこの書き手の描く世界を、デビュー作を読んだときと同じく感じられました。社交的でない人間がひたすら部屋に閉じこもって趣味の世界に没頭するというところが、デビュー作と共通。デビュー作では、むりやり外の世界へと開かされましたが、今回の短編は、純粋に趣味の世界にはまりっきりになる。趣味、というのは、大相撲の取り組みを、力士のデータや動作などのパラメータをいじってシミュレートするというもの。アルゴリズムじたいは省かれますが、というかブラックボックスになっているからカオスかなにかかな、とにかくこのシミュレーションを実行している平岡という男にも出力結果=取り組みの結果は予測できません。そしても一人の主人公が、シミュレーション中の、何かがおかしいしかしどこがおかしいか分からないふるまいをする一データの、高田山という力士。小兵の高田山が、本人にも、シミュレーションを実行する平岡にも分からないままに勝ち続けてしまうので、なぜ高田山が勝ち続けるのか、という疑問が駆動力になっています。

自分の人生が誰かに操られているものである、とか、あらかじめ人間を超越する存在によって書かれた筋書きを人間はただなぞっているだけである、といった思想は古今東西かなり反復されている話型で、こういう普遍的な物語の古層にふれつつも、それを日本という文脈で(力士)、かつコンピュータ関連の用語で現代的に変奏(シミュレーション)してくれており、かつ短編として読んで面白い、というなかなかの完成度。

スピノザとかデカルトとかいった哲学系の言葉や、あるいはカオス理論とか複雑系といったニューアカ(死語)くさい数学系の言葉を、へたに持ってこなかったところも節度があって好印象。書き手の岡本学はシミュレーションが専門の大学の先生のようなので、出そうとおもえば専門的な議論を出せたのかもしれませんが、短編の分量でそこまでやってるとさすがにおさまりきらない気がします。へたくそな作家だと、下調べしたことをそのままダラダラ書いちゃうんだろうなと思いました。

またデータ上の相撲取りの名前も、高田山とか浜田山とか味もそっけもない名前。かつ力士たちのキャラクターも細かくは描写されません。これらは欠点というより、この作品の読ませどころが、キャラものではなくて、データたちが予想外の振る舞いをしてしまう世界そのもの、あるいはその世界に翻弄される平岡の世界そのものにあるのだと読めました。人物とかキャラクターにフォーカスするのではなくて、描かれる世界やルールにたいして目配りできるところはなかなか巧みです。

 実際の高田山の設定値を使ってシミュレーションにかけてみれば変化がでるかどうかはすぐにわかるが、それはためらわれた。人体実験にかけているような、倫理的に抵抗に近い卑怯さを感じたのだ。馬鹿らしいこだわりだ、と自分で思いながらも、彼なりのルールとしてシミュレーションに本データを使わないことを平岡は固く守っていた。だから、手元の電卓でいくつか適当な数値例を手打ちで計算してみて多少は結果に変化が出ることを認め、プログラムの修正に踏み切った。あとは、次の場所を待つだけだった。この修正で変わればいい、祈りに近い感情だった。十両一場所だけの優勝ならビギナーズ・ラックで済ませられる。(p.97)

自分のシミュレートするPC中の相撲世界を「これは俺の小宇宙だ」と一人ひそかに作り上げていく平岡が、自分ルールというか自分なりの倫理観を持ってシミュレーションしていく、そして自分で勝手に決めたルールに縛られて、結局望むような結果がえられない(笑)。自閉的な人物が、自分のルール(倫理とか、もっとうまく描かれれば美学ともなりうる)にのっとって行動して、ドタバタあがくというところが面白い。他人からみればどうでもいいようなことに、本人はとことんこだわる、パースペクティブの狂い、あるいは倒錯とでもいえばいいんでしょうか。読みやすい円城塔、といってしまえば失礼かな。

作品にへんな自意識がたれながされないぶん語彙から文体からものすごく読みやすい。しかしこのプレーンな文体で、この人が本気をだせばいまだ誰も読んだことのないド変態文学が誕生するんじゃないかと秘かに期待しています。

(追記)
ああ、これロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』のパロディか。今ごろ気づいた。

橋口いくよ「芸能人気取り」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★☆☆

短編らしい短編で面白かったです。結婚に際して名字を変更する場面にであう女性ならではのアイディアにまず惹かれましたし、そこからおこるドタバタもこの次どうなるんだろう、と期待をかきたてられました。タイトル「芸能人気取り」がストレートに象徴するように、結婚によって姓名が「マツダセイコ」になってしまった女性が主人公。もっとも漢字は松田政子であって字面は異なりますが音は共通。というわけで、冒頭の病院の会計で、しかもセレブ御用達の病院で「244番マツダセイコさん、ご準備できました」と名前を呼ばれたときには周囲の空気が一変します。もちろん周りの人びとが期待する松田聖子(一発変換)ではないわけで、そのときの気恥ずかしさたるや相当なものでしょう。冒頭からぐっと作品世界に引き入れられました。

そして、このマツダセイコはこの後どうなるかというと

あの病院に行くということは、また人前でマツダセイコと呼ばれるということだ。そんなことになれば、また本物のマツダセイコとかけ離れていることに失望されるうえ、偽キティを見るような目で冷笑され、最後はなかったことのように視線を逃がされる。ダメだ。貰われたばかりの嫁が、夫の目の前で失望されてはならない。偽物でも美しいと思われなければならない。そして、その美しい存在を連れている良太を羨む目があれば最高だ。披露宴の時に、お世辞まじりでありながらも、良太を羨む声があちこちで上がったように。(p.160)

と決意し、徹底的にセレブを模倣しようと決意します。もっともこの決意をした時点で、松田聖子「である」ことは生まれによって根拠づけられているものであって、この松田政子がいくら模倣しようと、松田聖子(に代表されるセレブ)に近づくことはできても、それ「になる」ことは決してできないのだから、敗北を運命づけられたようなもの。この敗北に向かって突き進むのか、それとも別の道が用意されているのか期待がいやがうえにも高まりました。

決意してからのマツダセイコは、髪にコテをあて、ふだん食べたり食べなかったりの朝食をちゃんと準備し、グリーンスムージーまで飲みだします。『Seikoブログ』を開設し、有名人がしゃれたカフェにいったと知ればそこに足を運び、パンを焼いた記事をみれば自分もパンづくりにトライする。徹底して模倣するこの姿には、芸能人情報に安易にながされてしまう人々にたいする批評が備わっています。それに今この作品を読むのなら、芸能人ブログでペニーオークションの宣伝行為が問題化している時期にもリンクしていて読みごろ感がありますね。

そしてラスト。模倣のうえに模倣を重ねたマツダセイコが見出したのは、どこまで模倣しても本物の松田聖子には及ばない、ぴったりと重なることなど永遠にない敗北ではなく、今ここにいる唯一かけがえのないマツダセイコなのでした。他者への模倣を徹底的に繰り返した果てに、本物のマツダセイコ(松田聖子ではない!)に出会うラストのなんと幸せにみちていることか。読後、一読者の自分もハッピーな気持ちになれました。

そして、書き手の橋口いくよ自身も、自分のブログあるんですね(笑)。下がリンクです。

橋口いくよOfficial blog 「Mahalo Air」

澤西祐典「砂糖で満ちてゆく」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★☆☆☆

全身性糖化症(一般に糖皮病とよばれる)という不治の病にかかった母の死を看取る娘の話です。糖尿病なんてのもポピュラーだし、とすれば小説的想像力のうえで糖皮病というのもありなのかな、と字面から連想するに一応納得いく設定です。難病ものだと安手のメロドラマ、お涙ちょうだい作品がいつの時代にもヒットしますが、この作品は別にそういうウケ狙いものではありません。身体が日々砂糖に変化してゆく母に静かによりそう娘がその死をうけいれるまでが、かなりフラットに描かれます。

分量的に短編で収まるものだったのか、膨らませようと思えばいくらでも膨らませられる、むしろ膨らませたほうが面白い題材だったろうなという気がしました。同じ難病者を近親者にもつもの同士の朗読会では「死と文学」という連綿と書き継がれてきた作品を扱えそうですし(本作ではタイトルと著者の書誌情報がでてくるだけ)、朗読会での人間模様によって死をうけいれる/うけいれないさまざまな態度の偏差を描けるでしょうし(本作では終盤近くで梶浦さんという男性がちょこっと登場するだけ)、母と娘を軸に家族の来し方行く末をいろいろ展開できるでしょうし(本作では葛藤も大きくはありません)、この病気の発生メカニズム(とくに触れられません)とか、この病気を社会ではどのように扱っているのか(とくに触れられません)、ほかにもいろいろ拡がりを感じられる題材ではありました。が、分量のせいなのか書き手の意図的な判断なのか、その辺はほとんどなし。

じゃあ何があるのかというと、体が糖化してゆく母を気づかい静かに死にゆくまでを看取る娘の姿、これだけです。その娘の言動もありがちなので読んでいて退屈でした。母親が砂糖になってゆくというところがミソで、最後の最後に母親をぜんざいの砂糖として利用し、食べてしまおうとするところが唯一この作品ならではの場面でしょうか。ここにも近親者の肉を食べるという宗教的なテーマにつながっていきそうな芽がありますが、最後の最後でこのシーンがでてきて終りなので、やっぱり膨らみません。

砂糖になりゆく母親の身体の描写も至極あっさりです。CG映画全盛の現代において身体が砂糖になった女性のすがたを想像することはさほど困難ではありません。ちなみに僕は、スパイダーマンに登場した砂男を最初想像しました。ほかにもテレビゲームや漫画にだって鉱物でできた人間がでてくるし、そもそも人間は泥からつくられたのではなかったか。こういう膨大な表象を前に、砂糖化してゆく母親の身体描写が、一線を画しているようにはみうけられませんでした。映画のほうが音と大画面で迫力あって、この作品の母親描写はどうしても見劣りしてしまいます。僕の想像力が足りないのかもしれませんが。

母は寝ているのかひっそりとしていて、電灯のスイッチを入れ真っ暗闇に光の輪を浮かべながらそっとただいまと言うと、由希子の名を呼ぶ声が聞えた。押し殺したような、震えた声だった。廊下伝いに電気を点けながら寝室に向かい、灯りをつけた途端、由希子は思わず悲鳴を上げた。母の上に蟻がわらわらと群がっていたのだ。震えることのできない体で、母は必死に助けを求めていた。
 由希子は母の体の上の蟻を薙ぎ払い、無我夢中で床の蟻を潰した。夏場には何度も注意され散々気を付けていたのに。もう冬なのに。由希子はこの季節にいるはずのない蟻を手で叩きつぶし、畳に死骸がこびりつくのも厭わずに、半狂乱になって蟻を殺した。あたかも、そうすれば目を離したことを許されるかのように、あるいは死が少しづつ母を運び出していくのを防げるかのように、蟻を一匹ずつ、ぶちぶちと潰していった。
 すべての蟻を一匹残らず潰し終えたときには、もう夜更け過ぎになっていた。由希子は母の体の上に散乱した蟻の死骸を丹念に取り除き、その跡を拭いた。鼻の腋、頬、首筋、上腕、足の指の隙間、蟻は至るところにいた。それが冬でも活動するアルゼンチンアリという外来種であることを、あとで病院で知らされた。動けない体で、無数の蟻が這い上がってくるのをただただ耐えているのはどれほど恐かったろうか。母の目尻には、涙の流れた跡が筋になって糖皮をえぐっていた。ごめんねと何度も呟きながら、由希子は母の体に涙を零さないようこらえるので精いっぱいだった。(pp.132-3)

結構劇的な場面で、不謹慎ないい方かもしれないけれど、「絵になる」シーンであるはずの砂糖になりつつある母の体に蟻が這い登る場面も、視点人物不在だったため事後描写にとどまりかなりフラットです。「無数の蟻が這い上がってくるのをただただ耐えているのはどれほど恐かったろうか」といわれても、「しらんがな」としか答えようがありません。そこを描写するか、暗示させるのが書き手の力量じゃないでしょうか。

着想は面白そうなものの、分量のせいか書き手の技量のせいか、全体としてはなにか食い足りなさばかりが残る短編作品でした。娘の由希子がけっこう甲斐甲斐しく母親の面倒をみるいい子寄りの設定だったから、こういう物足りなさが残ったのかもしれません。たとえば由希子が母親に憎しみや怨みを抱いていたら、もっといろいろ見せ場ができたろうにとも思わないでもありません。

片瀬チヲル「コメコビト」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★☆☆☆☆

うーん。前にこの書き手が群像新人賞の優秀賞をとってデビューしたとき、あまりにもな完成度に新人さんにもかかわらずきつい感想を書いてしまったので、今度読むときはもっといいところ取りあげるようにしよう、となるべく温かくむかえる心がまえでいたのですが、今回、受賞後第一作となる短編「コメコビト」を読んでみて、やっぱり厳しい評価してしまわざるをえません。優秀作受賞作品から退化したんじゃないか。

とはいっても、優秀賞受賞作はアマゾンレビューでは評価高いようですから、作品そのものが面白くないというよりは、この書き手の作風が僕と相性悪いだけということなんだろうと思います。ではどこが相性わるいのか。以下、この短編を読みつつ思ったことを書いていきます。

作品には、コメコビトという炊飯器うまれの想像上の生きものが出てきます。米の妖精なんていってしまえばファンタジックになっちゃいますが、描かれ方はもっとリアルで、炊飯器で炊かれたご飯に人間の体がくっついたような頭でっかちな存在。妖精というできあいのことばを避けて、「コメコビト」で一貫しているところにこだわりがかんじられるものの、まず肝心の、こだわりの存在のキャラクターが確定しません。というのは、生まれたばかりで炊飯器の持ち主とおぼしき女性蓉子とであうのですが、初対面で

「あんまり乱暴にするなよ、しないでください」(p.114)

と蓉子にむかって言い放ちます。これが彼が生まれて最初の発言。生まれて初めての発言で、初対面の相手との関係を察知して、「するなよ」という命令口調から「しないでください」というお願い口調にとっさに言いかえるところは、対人関係を即座にとらえ機敏に反応できる賢さが表現されています。お願い口調になったことからわかるように、蓉子を自分より上位に位置するの存在として認識し、

コメコビトは蓉子の子となることにした。(p.114)

と母子関係をむすびます。子供側から親を選択、決定できるなんて設定としておもしろい、と僕には思えるんですがこの母子関係はこの後展開しません。それどころか母子関係が忘れられてしまったかのごとく友達口調で話し出します。

蓉子は、学校へ行く前にかならず、バナナを鞄へしまうと、リンゴを取り出して丸かじりしていく。
「蓉子、アメリカンだね」
「白雪姫っていってよ。コメコビトの発想には糖分が足りてない」
「アメリカのホームドラマで、リンゴ丸かじりにしてるの見たよ」(pp.115-6)

この友達感(笑)。学校行くまえの朝なら、直ぐエネルギーにかわるバナナを食べて鞄のなかで圧力や温度が変化しても変質しないリンゴを鞄にいれておくんじゃないかなとか、「学校へ行く……していく」は重言じゃないかとか、友達みたいな親子関係というのもないことはないかと、次々頭をもたげてくる疑問を強引に飲み込んだとたん次の台詞。

「コメコビト、あなたにも婚約者がいるんだから、いいでしょ」
「コンヤクシャって何。どんな人、なんて人、どうして」(p.116)

初対面の人間との上下関係を即座に察知し、テレビから情報を得ている、それもホームドラマを視聴しているコメコビトが婚約者という単語を理解できないという設定は一貫性にかけます。婚約者という言葉が意味するところは知らなくても、蓉子が家につれてきた婚約者の彰二君(上の台詞で「あなたに『は』」でなく「あなたに『も』」といっているところから彰二君が婚約者だと知れます)という男性が登場すると、コメコビトはあからさまに不快感をあらわします。そもそも婚約者が何を意味するか知らないにもかかわらず、二人の関係に不快感を表明しているのは矛盾じゃないでしょうか。それに、母親が連れて来た婚約者とキスを交わしたことに、真っ向から不快感を表明する台詞(「蓉子、学生のくせに早いよ、まだ早い」(p.116)は子供視点からの発言でしょうか。

「深呼吸しなさい」
「やーー」
「あなたの頭が大きいのは、耳垢のせいなのよ」
「やーー」
「それのせいで、人の声も自分の声も聞けないのよ」
「いーー」(p.118)

上はコメコビトの婚約者といわれるシャモジンルイとコメコビトとの会話。少し手前で、母親である蓉子が婚約者とキスすると「学生なのにまだ早い」といつの時代のおっさんかと思うような古風かつ道学者的忠告を与えていたコメコビトが一転、自分が婚約者に耳かきしてもらうときには上のように幼児退行して、やーー、やら、いーー、やら連発してしまいます。ここにきてコメコビトの性格の一貫性が全く失われてしまいました。あと、婚約者というからには、結婚があるはずですが、コメコビトとシャモジンルイの結婚が最後まで読んでも何を意味するのかはまったく分かりません。タイトルにもなっているコメコビトの存在が場面場面でころころ変わりすぎて安定しないところ、これが大きなマイナスです。

他には不用意な言葉づかい、誤用とよべるものがいくつかみられます。

肘を掻いた時やくしゃみをした時などにその細胞は剝がれおち、誰の目にもとまらない小さなコメ粒になった。(p.113)

「目にもとまらぬ」は、動きのあるものがその素早さゆえにとらえられない、の意味のはずです。辞書ひきましょう。そして忍者ハットリくんのオープニングテーマを100回唱和しましょう。

コメコビトは真っ暗な部屋で手足を丸め、しゅうぱちと肌が粟立つ音を聞いていた。(p.113)

「肌が粟立つ」のは恐怖感の表現です。前後の文脈からコメコビトが恐怖を感じているとは受け取れません。辞書ひきましょう。また、コメなのに「粟」というのも引っ掛かります。さらに、次は誤用ではないですが前後の文意が矛盾しているもの。

その部屋の暖かさと湿度はコメコビトの関節の動きをよくした。彼は腕をあげたり足を曲げたりしたくて仕方なかったが、この狭さでは動けない。(p.113)

「関節の動きをよくした」というのは、どうよくなったのか具体的な描写で書けという初歩的な技術論はこのさいスルーします。で、関節の動きがよくなったにもかかわらず、狭くて腕や足が動かせない、というのは意味不明です。上の三つの文はどれもこの作品の最初のページに現われる表現ですが、僕のこの感想でのべた「今度はあたたかく読もう」という心がまえがいくらあっても、冒頭からこんなずさんな表現を連発されると、やっぱり前作の稚拙な表現のことが思い出され、最後までよんでも結局は前作から成長したところが読みとれずとても残念に思えました。他にも、電子レンジはチンと音がしたり、サナギコレクターという独特の存在の名称を出しておきながら最後の最後で「リス」などと不用意にいってみたり。もう作品を作る姿勢の詰めの甘さがこれでもかこれでもかと目について、やっぱり僕とは相性悪い書き手だなと再認識しました。文学作品ではないですが、ディズニー&ピクサーの映画で「バグズライフ」でも「カーズ」でも「WALL-E」でも「トイストーリー」でも、非人間を擬人化してしかも大人も子供も楽しめる傑作があります。お節介ですが、こういった先行作品を丁寧に参考にしてみたらいかがでしょうか。これらの傑作映画とこの短編を並べて見たとき、後者の魅力は一つもないように僕には思えます。もうこの人の作品は読まないことにしました。

吉村萬壱「大穴(ダイアナ)」

出典:『文學界』2013年3月号
評価:★★★☆☆

同じ作家はなるべく取り上げないという自分ルールで書いてきたんですがだいたい今の文芸誌で書いている人をとりあげた感じなので、同じ人でも何回でもとりあげることにします。そして吉村萬壱の小説「大穴(ダイアナ)」。タイトルに括弧つきでカタカナの読み仮名。

吉村萬壱というと汚物や愚鈍な人間、ひっくるめてノーマルから外れた存在を、これでもかこれでもかと、まるで画面全体にピントを合わせたスーパーリアリズムのようなどぎつい(ときに露悪的でさえある)描写でみせてくれる作家という印象です。この作品にも、ゲロや垢や、オツムのたりなそうな女が出てきて、それらのディティールの描写が素晴らしく気持ち悪い(誉め言葉)。

一方、話の筋は、前を歩いていた女が偶然怪我をしてその女を介抱をしてやった男が、後日偶然同じ電車の車両に乗りあわせ、さらに車中で体調を崩した女をまた介抱するふりを装って「お持ち帰り」してしまう、というけっこう偶然にすぎる偶然がかさなるご都合主義な話。なんなんでしょう、この話のつくり方。美男美女が街角で偶然再会して恋愛するというような、通俗ドラマのような筋立てを反転させて、売れない初老作家と頭のたりなそうな不潔な女で描くことで、「やーいやーい」と言いたかったんでしょうか(笑)。シェークスピアだと「きれいはきたない、きたないはきれい」ですが、この作品を読んだあとも、「きたないものはやっぱりきたない」としか思えません(誉め言葉)。

例によって汚物描写は、読み手としては目をそむけたくなりながらも、しかしついつい読まされてしまいます。

 彼女は諦めたように顔を上に向け、頭頂部をゴン、ゴンと窓ガラスにぶつけ始めた。角度のせいで、白目を剝いているように見える。そして突然俯いたかと思うと、猛烈な勢いで上体を前に折り曲げた。押し込んだ詰め物を鼻から引き抜いたような、気持ちのよい音が鳴った。同時に彼女の口から形の定まらない塊が噴出し、それは一瞬空中で静止したかのように見えた。エクトプラズムかと思った。そして夥しい量の肌色の液体が、ビチャビチャと音を立てて床にぶちまけられた。飛沫が私のズボンにまで達した。更に「つ」の字の姿勢の彼女は、洗面器半分ぐらいのモンジャの原液そっくりの液をもう一頻り吐き出して、「ひぃぃ~」と声を上げながら呼吸を確保している。
 嘔吐物はジーンズの裾と靴を濡らし、床の上に立派な池を作って湯気を上げた。
 老婆が身を乗り出してこちらを見ている。(中略―引用者)
 ふとダイアナが顔を上げ、涙目が私を透かして虚空を凝視した。口の周りが汚物でテラテラと光り、顎に飯粒のような欠片が付着している。(p.134) 

最後の、「顎に飯粒のような欠片が付着している」なんてすごく揮ってると思います。あー気持ち悪い。

あるいは、まんまと汚い女を自分の部屋までお持ち帰りした男が、寝ている女の足指を舐める場面。

人差し指と中指の間に黒い糸屑が挟まっていた。私は彼女の指の股を押し開き、それを取り除いてゴミ箱に捨てた。自分の手の匂いを嗅ぐと、ほんのりと煙草臭いだけだった。彼女の爪先に鼻を寄せてみた。親指の爪の端に黒い爪垢が見え、薄っすらとセメントのような臭いがした。私は唇をドーナッツにして、親指の先端に宛がった。マトリョーシカのようなその親指を、丸ごと口に含みたいと思った。舌を少し出し、舌先で爪の厚みとカーブを感じた。するとダイアナが寝返りを打ち、足は毛布の中へと引っ込んでしまった。舌先に、砂を舐めたような味が残った。(p.141)

これも、「舌先で爪の厚みとカーブを感じた」なんていう描写を読んでしまうと、雑誌を開いてこの一文を読んでしまった自分の舌先に、ビリビリと不快な舌触りが再現されるようで、なんとも気持ち悪くなりました。

書いている内容のどぎつさからあまり一般受けしそうな芸風ではないけれども、コアなファンはいるんだろうな思う作家さんです。ラブレーのように、汚物まみれのハチャメチャ長編を書いてくれないかなあ。
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