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テア・オブレヒト/藤井光訳「青い海の精霊(ジン)たち」

出典:『新潮』2013年3月号
評価:★★★☆☆

短編を翻訳したもので、作品の最後に原著者プロフィールが掲載されていました。そこをみて『タイガーズ・ワイフ』の人ということにあとから気づき、どうりで見たことある名前だと思い返しました。この作品を読んでみたのは原著者というより訳者の藤井光の訳を別の本(『紙の民』『ロスト・シティ・レディオ』)で読んだことあったから。ちなみに『紙の民』は書き方がいろいろ珍しくてなかなか面白かったけれども『ロスト』のほうは僕にはいまいちでした。

さて本作は、海辺のホテルで暮らす少年がある朝目覚めると、宿泊客のフランス人の姿が見えなくなっており、周囲の大人たちが彼の行方を探す話。視点人物の少年は、わたわたする大人たちのまわりをうろちょろするというばかりで、なにか劇的な話になったりするわけじゃありません。描写の仕方が特徴的で、結構たいへんなことがおこっているにもかかわらず、少年はじめ周辺人物たちの心理描写はほとんどなし、また情緒的な形容詞もかなり排されています。ほとんど事物の描写だけから作品の雰囲気を作りあげていく、透明な文体です。この書き方はどことなくアゴタ・クリストフの『悪童日記』で全編を覆っている、子供の作文の文体につくりがにているなと思いました。といっても、こちらのほうは『悪童日記』ほど無手勝流ではないです。ちゃんと(?)文学っぽいですが。

防波堤を過ぎ、海が氷のように澄んで明るくなるあたりに、何年も前に環礁で大破した船がある。波が打ちつけて、灯台の東側のごつごつした湾曲部にある岩に船を釘付けにしている。錆びついた灰色と緑色の海軍の小型砲艦が横倒しになっている姿は、内臓を抜かれた巨大な魚のようで、滑らかなガラス窓の目は外から割られて暗闇に満ちている。(p.126)

ここ以外の描写でも、無機的で、透明で、死にまつわるモチーフを散りばめることで、作品全体の雰囲気をつくりあげています。こういう文体は、人物感情の説明を直接はしないぶん読み手を選ぶとは思いますが、おせっかいな著者が顔を出していちいち「このときの感情はこう」「このときはこう思った」なんて読者を馬鹿にしたようなサービス精神を発揮しないぶん、読者を信頼しているというか、読者の想像の余地を残してくれているので、一つひとつ説明されるよりもかえって事物を手がかりに何倍も想像力を働かせられて読めます。読後しっかり手応えをのこしてくれました。

書き手のプロフィールをみると1985年うまれということでまだ二十代。これからの良作を期待。
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川崎徹「ヨシダ」

出典:『群像』2013年5月号
評価:★★☆☆☆

小説と猫というとりあわせは、誰もが漱石の『猫』を思いうかべるのはいわずもがなとして、少し前に放映されたアメトークの読書大好き芸人のなかで、オードリーの若林くんが「純文学好きで猫飼ってたら別れ際こじれる」という読書あるあるが妙に心に残っています(笑)。こんな人にじっさい一度も出会ったことないですけれど、言われてみれば妙に説得されてしまう、読書あるあるです。

さて、本作も小説と猫というとりあわせの作品。犬にかまれて死につつある今わの際の猫が、自分の生まれや触れあってきた人間・動物たち、育った土地での出来事をふりかえる話。事切れてからも振り返りは続く不思議な語りです。漱石の『猫』だと、世界観が人間中心主義から猫中心主義に顛倒されたときの倒錯感に、批評と滑稽が共存する奇跡みたいな作品で、あれこそ猫に憑依して作家が語る意味のある形式と内容とが一致したお手本ですが、それにくらべて本作は、猫視点といいつつも妙に人間臭さがのこる観点から回想が語られていて、あまりその語りの形式に必然性が感じられませんでした。

ただ、語りは非常にうまいです。けっこう長い文章でもストレスを感じさせずことばを継いで、所々にきかされる体言止めも語りのリズムをうまく調整してくれています。

親が小虫だの木の実、人の食べ残し、生ゴミの袋を破って手に入れた食材の刻みかすをくわえて戻るのをヨシダは巣から身をのり出して待ち、親はその赤い未熟な嘴に嘴を差し入れ青汁をしたたらせ身をくねらす原虫の小虫、乾からびたミミズを放り込み、わたしは毛長種の血をひく母の毛むくじゃらの柔らかい胸に口を押しつけ一心不乱に乳を吸い、あたしが出掛けている間に勝手に出歩いてはならない、左右を見ずに道を渡り車にはねられでもしたら、ああ考えただけでも恐ろしい、考えなければよかった、だから何があってもあたしの留守中に出歩いてはいけないと命じた言いつけを守り兄弟身を寄せ合って親の帰りを待ち、針金ハンガーと枯枝枯草を巧みに組合わせた巣でヨシダは風に乗って縦横無尽に空を飛ぶ夢を見、土の窪みにたまった雨水を飲む母を真似てわたしも鼻先を突っ込んで喉の渇きをいやし、口に入れて良いもの悪いものの区別、たとえばいやな臭いを放つものはどんなに見た目がおいしそうでも、死ぬほど空腹でも、絶対口にしてはならない。食べ物に○×と書いてあるのなら安心だがそんな親切はどこの誰もしてくれないから、口に入れて良い悪いの判断は自分でつけなければならないこと等をそれぞれの親から教え込まれていた頃からのつき合いの顔見知りの知らせだったから、間違いはなかった。(p.122)

語りのテンポはほんとうにすばらしくて、書き写している間も指が踊るようです。ただ、猫の視点とはいいながら、「横断歩道を渡る前には左右を確認する」だとか「食べ物が食べられるかどうかに○×が書いてあればいい」だとか「親に教えをうける」だとか、もう人間の子供と変わらないほど人間に近い猫で、読んでいて語りの内容にはほとんどなんの意外性もありません。

この作品で川崎徹は何を読ませたかったのかいまいち摑みきれませんでした。もしかして、小説と猫というとだれもが漱石の『猫』を期待するという延長線上に「きっとこの作品にもなにか仕掛けがあるに違いない」という予想がでてくることを見越して、「そんなの別に何にもないですよ」という予想を外す作品を書きたかったのでしょうか。だとすると外したのは外したのだけれど、外す方向が全く面白くありません。

それとも書き手が単なる猫好きなだけでしょうか。僕は、実際の猫に特に思い入れがないですので、この作品にふれたところで「猫文学は無条件に肯定しちゃう!」というような愛猫小説読みの反応とは無縁の醒めた見方しかできないです。いずれにしろ本作の語りはうまいと思うものの、内容にはなんの新しさも面白さも感じられませんでした。

西村賢太「跼蹐の門」

出典:『文學界』2013年5月号
評価:★★★☆☆

下で取り上げた小祝百々子の作品にしろ他の多くの書き手の作品にしろ、新しく書かれた作品には似たようなテーマやジャンルの作品とくらべてその作品のどこが新しいか、どこに独自性があるかに着目してしまいますが、この人の作品を読むときは、別に新しいものを期待しません。北町貫多のいかにもなダメっぷりを書き手と一緒になって笑うという、寄席にふらっと立ち寄って古典落語を聞いていくような、「いつものアレ」を期待しています。これはこれで西村賢太の一つの芸であって、「常に新しいものを書かねばならない!」と自分自身を追い立てる意識の高い他作家とくらべて、なんだかずるい気もします(笑)。

今回は、「北町貫多、一人暮らしを始める」。実家を出、三畳一間の部屋で寝起きすることに決めた北町貫多が、母親に借金し、姉にも金を無心して、残金に気兼ねしながらも飲み代に使ってしまうという話。途中、街娼を観察するところなんかは、いかにも初心な感じが出ていて面白く読まされました。

で、何やら嗜虐慾すら疼かせつつ、どこか喜び勇んで突き進んでいった、かの上野寄りのラブホテル街は、その辻々に、貫多の期待を裏切らぬ粒揃いの糞袋が立ち並んでいた。(p.17)

街娼を糞袋って(笑)。はじめて聞いたあまりにもひどいことばなので、「このことばは西村賢太の造語だろう」と思いつつも、「念のため一応」と半信半疑で辞書を引いてみると、ちゃんとこのことばの意味が掲載されていました。

くそ-ぶくろ 【糞袋・糞嚢】 胃・腸などの古称。転じて、からだ・人間のこと

あるんですね!こういう酷いもの言いも、西村賢太ならではの正直さがあればこそ、できるものなのかもしれません。最悪、「いやフィクションですから」で済んじゃいますしこれもずるい(笑)。

もう一点。西村作品をたくさん読み込んだわけじゃないので今の段階ではまだ一般化はできないのだろうけれど、かなり「ルーツ」に対する書き手のこだわりが、作品のそこここで浮上してくることに気づきました。とくに、人の性質を形容するときに「根が○○なので」といういい方で、人の生まれに説明要因を求める考え方がとられます。有名になったいまでこそ、西村賢太の家庭のこともだいぶ知れていますが、書き手のどこか深いところではやっぱり、自分自身の根っこにたいする複雑な思いがあるのかもしれません。そういう思いが、北町貫多のありさまをを笑い飛ばすときに、「根が○○なので」といういい方で定型句として頻出します。

根が自身の苦痛に不思議なくらい弱くできてる貫多は(p.11)

いったいに、根が何事につけ想像力に乏しくできてる貫多は(p.11)

如何せん根が偏屈にできてる彼は(p.12)

あるいは「豚の鮮血」(『文學界』2012年11月号)から

多汗症のくせして根がデオドラント志向にできてる彼は、いったいに汗をかく行為が大嫌いなのである。(p.15)

彼は、根が人数倍のスタイリスト気質にもできているのである。(p.15)

とあります。駄目なところ、愚かなところ、虚栄心のあるところを描くのは私小説のお家芸ですが、その原因として「根」を持ってくることで、自虐の笑いに転化しながらうけいれるところに、西村賢太の芸の特徴を見てとることができるのかもしれません。「根っこだからしょうがないんだよ」とでも言いたげですし、生まれつき、変更不可能であると語ることによって書き手自身が納得しているところもあるような気がします。他作品も改めて読み直してみても面白いかもしれません。

小祝百々子「卵割」

出典:『文學界』2013年5月号
評価:★★★☆☆

人の生と死を、「食べること」を通じて描き出す作品です。大きなテーマであるし、数えきれないほどの作品が挑戦してきたテーマでもあろうし、なかなか新しいところは出しにくいのかもなあと読みながら思いました。アル中気味の祖父にひきとられて育った女性の円が、料理をつくったり食べたりするなかで、いろいろな記憶が引き出されます。読後、作品総体として圧倒される感覚はなかったですが、要所要所の描写はレベルが高いなと思わされました。何が足りないというわけではないのだけれど、テーマが使い古されたものなのでいまさら独自性を出せるものでもないのだろうなあ。それでも小祝百々子がぜひとも書きたかったテーマなのかもしれません。

光る描写でいえば、目の前の食べ物や飲み物を触媒にして、過去の記憶が重なる場面の描き方。これが出色です。まあ、これだって紅茶にマドレーヌ浸して幼少時代が思い返される大作が既にあるわけなので、古臭いといえば古臭いのですが。

好恵がサイダーを出してくれた。グラスの底から昇った泡が次々にはじけて、てのひらに振動が伝わってくる。逆さの雨が降るようだと思い、雨の夜さまよっていた好恵の姿を思い出した。舌の上に枇杷と雨の匂いが広がって、喉がつかえた。飲めない喉の狭さを思って後ろめたさに焦りながら、卵と蛇の話をした。(p.178)

級友の家で出してもらったサイダーをきっかけに、記憶がよみがえります。サイダーの泡が弾ける音や振動のかすかさが、前に見た情景や嗅いだ匂いを思い起こさせる。ここには、味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚が無理なく鮮やかに繋ぎ合わされ、過去の記憶をよみがえらせます。たったこれだけの一文で、こんなうまい表現ができるだけでも力のある書き手だとわかりますね。

あとはハンバーグをつくる場面。これも本作では一つのキーです。

挽肉を手にするなり笑顔が消えていくのが自分でもわかる。牛と豚の合い挽き肉をボウルに出してほかの材料と混ぜる。挽肉を見るといつも、死してのち我が身に起きることなど予想できないものだと思う。牛と豚もまさか、死後こまかく刻まれて他者の肉と混ぜられるなどとは思ってもみなかったことだろう。(中略―引用者)ハート型がいいという夏実の要望に従って、心臓を失った家畜の肉をハートにする。火を入れると油がこまかくはじけ飛んであまい匂いがしてくる。この匂いを牛たちは知らない。自分の匂いだというのに。牛たちの母も知らない。わが子の匂いだというのに。(p.166)

女性が料理をするときにこんなことを考えているのかどうか僕は聞いたことないですが、料理される素材の来歴や気持ちを想像するのも、これはこれで面白く読めました。わざとらしいっちゃわざとらしいんですが。こんな風に思いながら料理したハンバーグは、このあと「味わって食べ」られることになりますが、僕ならおいしくは食べられないなあ。というか残してしまいそうです。

正統派といえば正統派だし、古臭いといえば古臭いし、何とも言えない作品でした。まあ、掲載媒体の編集方針とか読者層にはとてもぴったりだと思います。力がある書き手なので、どんな作品出も書けちゃいそうなきがします。ぜひ、他の作風の作品も読んでみたいと思いました。

谷崎由依「……そしてまた文字を記していると」

出典:『すばる』2013年4月号
評価:★★★☆☆

谷崎由依アジアを行く。台湾の次はチベットです。もっとも「jiufenの村は九つぶん」にしろこの「……そしてまた文字を記していると」にしろいずれも国名の固有名詞はでておりません。タイトルや作中の表記から読み手である僕が、具体的な地名国名をあてはめてそうじゃないかなあと推測しているだけ。

本作では「書くこととは何か」という批評が作品のはしばしに出てきています。書きつけられた世界がそのまま作中人物の生きる世界にとって替わるような、書くことと書かれることとの相互浸透、相互循環に目眩を起こしそうになる作風。安易なメタフィクションに逃げることもなく、どことなくナボコフの『賜物』を連想しました。

冒頭はこんな感じ。

……そしてまた文字を記していると手許の灯火が筆(pen)を、その先端の金属部分をごくちいさく照らし出し、銀色にひかる点があとをついてくるのだった。その点の通ったところから、黒い筆跡があらわれてくる。筆先の太さぶんの墨の痕跡は、夜のなかにあってささやかに照らされる彼の手許のひかりのなかの、その見せかけのちいさな昼の、さらに内側のちいさな夜、筆のふとさぶんだけのごく細い夜であり、その夜のつらなりを、手のなかの軸よりなめらかに流れ出してくるそのあとを途切らせないよう気をつけて、細心の注意を払いながら、彼は追いかけていく。追いかける先には何もない。くすんだ白の写本用紙は、彼の右手より先にはまだ何も書かれてはおらず、それよりした、つまり彼の胸許のほうへはさらなる空白が広がっている。その白さを思い、彼はおののく。(p.136、括弧内は原文ルビ)

横書きに写経しているらしい人物の写し取っている文章の筆先には世界の昼と夜との循環が孕まれ生まれていくさまから書きおこされています。読み進めていけば僧院でくらす修行僧の話であることが明らかになってきます。そこの世界観は

 書物は世界を映すもの、世界を描いて閉じこめた鏡のごときものだと、ある地方では言われているらしい。この土地よりずっと低いところ、空が遠くて茫洋として白っぽく湿った地方の話だ。彼には信じられないことだった。この土地で生まれ、物心ついて間もなく僧院に連れてこられ、以来ずっとこのなかで暮らしてきた彼にとって、そのような発想は、まったく倒錯的だった。意図的に物事を混乱させているか、さもなければ完全な無知、蒙昧ではないかと感じられた。
 というのも、この土地にあってすべては逆だったからだ。書物とは世界そのものである。何千巻、何万巻もある経典は、この世のあるべき様態をすっかり閉じこめてそこにある。(p.141)

という部分に示されてある通り、「書物=世界」となっています。したがって、この作品の文体にも納得いくという次第。

上でナボコフをおもいおこすと書きましたが、人によってはこの倒錯が高踏的に思えてしまいいくらかのとっつきにくさを感じてしまうかもしれません。作品世界に書いてあることをそのまま受け取って、しばし身を任せた時にこの作品の麻薬のようなたゆたいが読み手を魅了してくれるはずです。ただ後半にいくにしたがって尻すぼみな印象を受けもしました。ナボコフ的饒舌の催眠効果は、あの読者を圧倒する(そして一部の読者を途中で挫折させる)分量にも負っているはずなので、もっと厚みのある分量でこの作品のねらいを実現した作品がでてくればいいなと期待しています。
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読む人

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