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原田ひ香「アイビー・ハウス」

出典:『群像』2012年5月号
評価:★★★★☆

書き手の原田ひ香じしん小麦粉料理が得意なんでしょうね!「こなこな」という作品ではシンガポールの小麦粉事情が、そして本作にも小麦粉を使った料理がレシピとともに登場します。とここまでは本筋には関係ない話。本作は、二組の夫婦が二世帯住宅の部屋をシェアして共同生活を送る話です。夫ふたりは学生時代の同級生で専攻も同じ、妻ふたりは職場の元先輩後輩という設定。地縁でも血縁でもなく、信頼と契約によってつながった四名の距離感の描き方が抜群にうまかったです。

一緒に暮す人が地縁血縁でつながっているならば、たとえ嫌な人であっても「しょうがない」とか「運命だ」として不承不承受け入れやすくもありますが、夫婦とか友達関係とはそうもいかないもの。「二組の夫婦が一つ屋根の下で暮らす」がこの小説の出発点なのだから、ラストに至るまでのプロセスで、夫婦関係あるいは友情関係がいかに破綻するかを描くのが腕の見せ所です。その意味で本作は、それぞれの人物造形から距離の描き方から、シンプルな文章で読ませるものになっています。

まず、一つ屋根のしたに暮しているといっても、すべての部屋をシェアしているわけではなく、夫婦ごとに生活スペースを分けて、二階と三階にわかれて暮している。この、つかず離れずの距離をたもちながら共同生活を送っている空間的距離が、お互いのあたらずさわらずといえばいいのか、プライベートをどこまで共有しているのか曖昧なままに暮す心理的距離とシンクロしています。

これである程度二組を分けて、さらに将来の見通しや社会的成功、私生活の充実などのパラメータでもってさらにそれぞれを分ける。図式的といえばいえるけれど、わざとらしさは感じませんでした。「いるいる、こういうひといる」というリアリティを感じられました。人を描き分けるときに、性格=内面で区別するだけでなく、社会経済的なバックグラウンドにきちんと目配りしているところは非常に好感をもちました。翌月号の『群像』「創作合評」で関川夏央は次のように発言しています。

隆と一樹の労働形態をはっきり書いている割には、給料を書かない。これは聞きたいところだね。(「創作合評」2012年6月号p.416)

収入がある程度明らかになっていないと、料理に使うお金がどのくらい重たいのか分からない。文学というのはリアリティーというか、ある基準を提示することでもあるから、それが無いと、いくら人物の「内面」を描いても物語は運ばない(「創作合評」2012年6月号p.416)

例えば一樹の職歴としては、父の勤めていた大手家電メーカーの子会社に就職して母親をがっかりさせ(ということは大手家電メーカーの年収よりはおそらく低い)、その後そこでの激務に耐えるのではなく生活を充実させようと価値観を転換して転職、週四日勤務残業なしの派遣社員としてIT関連の仕事をこなす(ということはさらに給料は下がる)という設定、三十代半ば、それで日々の食卓にならぶ食材の値段を気にする生活となれば、収入はだいたい推測つくんじゃないでしょうか?関川夏央の上の発言は、それゆえ、関川夏央の読み方のトンチンカンさを示しているとしか思えません。同じく創作合評で大竹昭子は

原田さんは社会の枠組みみたいなことに関心があると思うんですけど、「今の世の中って嫌ね、ほんとに」くらいで終わってしまっているので、例えば円の価値が将来下がってしまったらどうなるとか、より大きな枠組みの中で経済を捉える目を持てたらもっとすばらしいと思います。(p.417)

とトンデモを述べています。本作はどう読んでも国際金融を主眼にすえるような小説には読めません。関川大竹両名は、2012年創作合評での意見はちょこちょこ的を外していると思いました。斜め読みしただけじゃないかなと疑わせる杜撰な意見。あるいは読み取り能力の低さ。

さて話がそれましたが本作の面白さをもう少し。上で見てきたように、ちゃんと読みさえすればしっかりした経済的バックグラウンドが描かれていますが、そういう作品を形作るマクロな土台だけでなく、日常会話のミクロなやりとりにも書き手の冴えが光ります。

(一樹の発言──引用者注)「どうして、他の人間も同じようなことをしないのか、不思議だよ。これからはこういう生き方がきっと主流になっていく」
「そうかしら」薫は太巻き寿司を一つ、自分の皿に置き、半分に割りながら言った。「そう簡単にはいかないと思う。だって、やっぱり、相手のあることだし、普通の人はなかなか同居できる相手を見つけられないもの。信頼できて、絶対に裏切らない相手を」(p.66)

薫のこのことばは、一樹の発言をうけてのもので、第一義的には同居をして暮すことの是非について困難を指摘した返答です。さらに裏の意味として、浮気の疑いのある夫に向けてそのことを直接指摘できないので表面上一樹に向けた発言だと見せかけて「裏切らない相手を(みつけることは難しい)」とも述べている。こういう風に、対面状況での直接的葛藤を避けるテクニックをさらっといれてみせる原田ひ香の会話を描くうまさにはうなりました。よっぽどいいたいことがあってかつ直接言えないときには、こういう風にして当てこすりをいうことが僕にもあります。

もう一点。隆が浮気をしているかどうかは、ほぼ黒ですがその相手を明確にださずに存在を仄めかすにとどめたのも成功だといえます。直截描かないことによって、その浮気相手が「本当にいるのかいないのか」曖昧になり、隆にたいする疑いは読者の想像の中でどんどん膨らんでいくからです。と同時に、直接浮気相手を見たらしい未世子を除き、浮気相手の存在を疑ってしまう一樹や薫の心理を共有できたようにも思います。だからこの場合は直には描かず存在を仄めかすが正解。関係者にしてみれば、いるかいないかわからない状態だからこそ、やきもきさせられ、自分の倫理観や夫(あるいは友人)に対する信頼も試されるんじゃないでしょうかね。創作合評で関川は「ストーキングするなら、もっと念を入れてやったらどうか(p.416)」と注文をつけていますが、浮気相手の女性はストーカーだとは一言もいわれていませんし、ストーキングしていると積極的に認められる痕跡もなかったはずです。どう読んだらそんな注文がつけられるのか、無茶ないちゃもんつけるのも大概にしてほしいなと思います。

凝った文章はほとんど出てこないぶん、内容で真っ向勝負している読み応えある作品でした。二十代半ば以上の人なら読んで共感したり、自分の身に置き換えて考えたりするところがかなり多いと思います。良作でした。
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近藤勲公「夏の底」

出典:『文學界』2013年6月号
評価:★★☆☆☆

2013年6月号の『文學界』はなんといっても鶴川健吉の「すなまわり」がヒットだったので他の作品の出来は正直どうでもいいですがそれでも、さらにいい作品があるかもしれないし、1000円分のもともとりたいということもあって、他の作品にも目を通します。

本作は、岬の集落の最後の一人となった憑き物筋の老婆コウが、空き家や庭にかつて住んでいた人の生活の痕跡をみつけながら歩きまわります。終始、なにかの死骸や腐敗したもの、使われなくなったモノが描写されます。作品のほとんどをうめつくす描写が「死」にまつわるもの。この、描写オンリーの作風なら、語り手(書き手)はなるべく存在を消すほうがいいだろうなと僕は思うんですが、そしてほとんどの場所でそれは成功しているんですが、所々で語り手(書き手)の書き癖が出てしまって、他の場所で存在が消えているぶん、かえって癖が目立ってしまうことになってしまいました。で、いくつかの特定の表現が繰り返されるたびに書き手の顔を読者に意識させてしまって、作品世界に没入してたところを醒めさせられる結果に。僕はそこが勿体なあと思いました。

作品のキーワードになるような言葉であれば繰り返しも全然OKだと思うんですが、この作品の「ザ・純文学」みたいな書き方であれば、とりたててキーワードでもないことばを繰り返すのは上の理由から損ですね。昔懐かしい「同じ言葉は二度使うな」という文章作法はこういうことを避ける意味があったのか、と勝手に合点しました。

で。ちょこちょこ繰り返される言葉は「映える」「奔る」のほかに「○○の類」。この辺が、でてくるたびに「またかよ」って素に返ってしまいました。

イノシシやシカの類が人里まで出没する(p.147)

テンかイタチの類であろう(p.147)

アオダイショウの類だろうか(p.151)

ヨシやハマボウフウの類が群生する(p.152)

ベゴニアやケイトウの類(p.156)

途中までざっと見かえして適当に抜き出してもこれだけ。丁寧に最後まで拾っていけば他にもあるかもしれません。

こう書いてくると、なんだか言葉尻をとらえていちゃもんつけているような感じですね。別にそんなつもりはないんですが、ただ作品の内容からなにか印象にのこるところがあったかといわれると、それも「うーん」と首をひねってしまいます。僕にとっては、読了後、「で?」といいたくなるタイプの作品でした。

波多野陸「鶏が鳴く」

出典:『群像』2013年6月号
評価:★★☆☆☆

書き手は小説を書き始めてまだ間もない方でしょうか。紋切型、無意味な修辞表現を連発するかとおもったら、一方で若者言葉や雑な表現をふいに書きつけてしまう。一読して「まだ書き慣れていないんだな」と思わせる不安定さでした。すくなくともこの作品そのものがこれまで書かれてきたあまたの小説とくらべて優れているかというと、僕は疑問符を付けざるを得ません。この作品が評価されたのは、何人かの選考委員が書いているように、この作品の「熱」とでもいうべき、「なんだかまだはっきりわかんないけど可能性を感じる」といった直観がすぐれていたのかもしれません。

若い人にありがちな自意識へのこだわりを、高校生の二人の対話を通じて描いた作品です。他人から見れば取るに足りないものでも、本人から見れば重大事に見えてしまう、それが自意識のやっかいさで、そのやっかいなところを「自意識」にこだわらない人間にも説得的に描けたかどうかがこの作品の力を示す試金石になりそうです。が、僕にはあまりというかほとんど響いてきませんでした。

僕には響いてこなかった理由一つ目。トラブルを抱えた家族のなかで自身も引きこもりになった健吾が神までもちだしてああだこうだと言っていますが、「そんな家のゴタゴタに囚われてしまうんなら家から出て働けよ」というツッコミに、この作品では答えられないから。二人に一人は高校卒業したら大学・短大に進学する現在でも、逆にいえば進学しない人は半数「も」いるわけで、かつそのうちかなりの部分は正規・非正規とわず働くわけだから、煩わしい家族から距離をとるために健吾が家を出て就職するという選択肢は充分現実的におもえます。かつ経済的な自立があれば精神も安定する→自意識にこだわるのが馬鹿馬鹿しくなるとも思いますが。毎日働いているおっさんたちが、「ジイシキガー、ジイシキガー」と悩んでいるようには思えません。自意識にこだわるというのは結局は時間とかお金の心配を猶予された身分の贅沢な悩みであるわけで、「親の金でジャンプ買いに行く暇があるなら働け」という現実的解決法を与えてくれるツッコミにはこの作品はまるで答えられません。

僕には響いてこなかった理由二つ目。とはいえ、自意識へのこだわりは文学にとって重要なテーマなものの、あまりにベタに書きすぎてしまっているから。二人の対話を通じて自意識をめぐる問答が繰り広げられますが、ほとんど変わらないレベルの二人の会話なので、出口が見えない、堂々巡り、似たもの同士のやりとりはさながら独り相撲にしか思えません。新しいステップへの糸口をつかむことができず同じようなところをぐるぐる回っている感じ。たとえば、同じ自意識を扱った作品として、偶然にも同じく群像新人賞を受賞した阿部和重の『アメリカの夜』(原題:「生ける屍」)があります。『アメリカの夜』では、自意識にこだわる若者集団のなかでもとりわけ自意識の強い芸術家志望の若者たちをあつかいながら、そのなかでもさらに人一倍自分で自分をもてあます唯生を主人公に設定していました。この唯生が、自分のなかで対話する装置としてもう一人の自分を生みだし、自意識のありかたそのものについて醒めた批評と対話を繰り返します。自分一人の対話にもかかわらず考えがどんどん進展していくのはもちろん、書き手の批評が冴えているからですし、一人がうだうだ考えるのではなくて先行する小説との対話、対決をもふまえながら、唯生の狂った考えを鍛え上げていくわけですから小説読みにとってこれが面白くないわけありません。その狂いの度合いは増幅されて、読者を新たな眺めへと拉致し去ります。新しい場所にでていくような、目の前が開ける感覚、ドライブ感が説得的に描かれていました。この作品にはそれがありません。「実はこうだった」「本当はこう思っていた」と新情報が小出し小出しにされ、そこに作者都合の作為が見え透いてしまいました。

僕には響いてこなかった理由三つ目。表現の稚拙さ。作品世界を構築する言葉ではなく、書き手の慣れ親しんだ言葉使いがそのままだだ漏れになっているような箇所が散見されました。

この侵入計画が元から計画という大仰なものではなく、ある意味賭けという意識が自分のなかにあった(p.18)

「ある意味」というのは意味を曖昧にする話し言葉として若者のあいだで使われることばです。とくに、直接的ないい方をさけて婉曲な伝え方をしたいときや、含みをもたせたいときに、「ある意味○○」といういい方をする。つまり聞き手との距離を慮るときに使われる表現です。小説の地の文で「ある意味」を使っちゃうと、単に意味が曖昧になってしまうだけ書き手の考えが突き詰められてないとしか受け取れません。どういう意味でなのかを具体的に説明なり描写なりするのが書き手の責任です。

引きこもりみたいになったことがある種の優越感を俺に与えてくれた(p.30)

伸太は、混乱の真っただ中にいることから生れるある種の興奮から醒めつつあった(p.66)

書き手の使い慣れた言葉がそのまま出てきているようで、言葉のコントロールという点では不満が残りました。

と、その一方では、へんに文学的に気負ったようなところが空々しい。全体として文体のトーンが統一しきれていないように思いました。特に冒頭、健吾を待ち伏せする伸太がずぶ濡れなわけですがあれは何なのでしょうか。描写のための描写、小説ハウツーもののいいかたを借りるなら、「水にかんするモチーフを散りばめた冒頭のかまし」とでもいうのかもしれませんが、水にぬれて気持ち悪い感覚になっている設定がその後全く生きて来ません。描写のための描写こそ、書き手の自意識がだだ洩れているダサい表現に他なりません。

僕には響いてこなかった理由四つ目。作品の最後が致命的な失敗です。

 こんな気分になったのは久しぶりだと感じた。素直に泣いてしまいたいと思った。(p.77)

最後の最後まで読んできて僕には二人の対話がとくに新しい見方を与えてはくれなかったし、むしろ「働け」というツッコミが終始頭を去りませんでしたが、百歩譲ってここは「すごい対話が行われたのだ」としましょう。そういう設定だから。で、そういう壮絶な夜を健吾と過ごして「体中の細胞が祈りの声を上げ」「互いに共鳴し合い、祝福の歌に包まれているかのよう」な気分になった伸太が、その細胞の「大合唱が起こす振動に打ちのめされ、倒れそう」になりながら、「その振動が涙腺を直撃」して、熱くなった目頭から溢れる涙をこらえているにもかかわらず、上で引用した表現で作品を閉じてしまいます。こんな大仰な表現を連発して、「とにかく伸太にとっては衝撃的な体験だったのだ」とこれでもかこれでもかと描写しておきながら、その気分は「久しぶり」なのです。「初めて」とか「これまで体験したことのない」のではなく、「久しぶり」なのです。おもわず「前にもあったのかよ!!!」と最後の最後でずっこけました。

新人賞作品はどの文芸誌でも毎回楽しみにしていて、じっくり読ませてもらっています。同じ六月号の『文學界』では新人賞がありませんでした。これには楽しみにしている読者としてはがっかりしたものの、同時に、非常に勇気ある決断だとも思いました。一本の作品を選び出すのに物凄く労力がかかっていることは外目にもよく分かるのですが、駄作を無理やりほめあげて受賞させるくらいなら、「なし」にしたほうが良かろうなという気がします。駄作を受賞させても、その作品を選んだ選考委員の見る目の無さが露呈したり、掲載媒体の威信が落ちるだけじゃないでしょうか。いくら客に提供するのに労力がかかったといっても不味い料理を出されては、誰も得しません。「不味い料理がでたのもたまたまだったんじゃないかな」と、店に期待して再訪した客がやっぱり不味い料理を出されてしまっては、もう二度と店に寄りつかなくなるはずです。そして僕にとっての『群像』は、ありきたりの料理を自信満々に出す店になりつつあります。ここでしか食べられない味、素材の料理を期待して店を訪れたら、ファミレスでも食べられるものを、「素晴らしい料理です」といって出されてしまう。ここ数年で、この雑誌のテイストが大幅に変質してしまったのは残念でなりません。僕の舌が劣化した可能性もありますが(笑)。こんな店、二度と来るか!という言葉が喉まで出かかっています。

松家仁之「沈むフランシス」

出典:『新潮』2013年6月号
評価:★★★☆☆

読み手を選ぶ作品ときくと、難解だとか実験的だとか読み手のリテラシーが試されるような作品のことをいうのだけれど、この作品というか書き手も読み手を選ぶ気がします。というのは、村上春樹を読んだときのような、ある読者層の心をわしづかみにする一方で、別の読者層からはものすごく嫌われそうな、そんな印象を受けたから。後者の読者なら一読するなり「こんなやついねーよ!」と毒づくことうけあい。いや、絶対いないとはいえないし探せばいなくもないとは思う人物造形なのだけれども、その「けっこうありえない」生活感のなさが、ある種の読者を刺激してやまないことうけあい。

東京で働いていた女性が北海道の田舎で郵便局の非常勤職員になって、配達先の男と恋に落ちる。その男は小さな水力発電所の管理をしているオーディオマニアで、発電所のことを「フランシス」と呼びながら、世界中の「音」を収集し、さらにはベッドにもマイクをしかけて女性との情事を録音したこともある。そんな男に惚れる女性……。

「オーディオっていうのは、電気の純度しだいで音質がまったくちがってくるんだよ」
「電気に純不純なんてあるの?」
「もちろん。壁のコンセントは専用のものを使ったほうがいいし、家のなかでも上流の電気をとりこまなければ駄目なんだ」
「上流?」
「他の部屋をまわって、つまりテレビや冷蔵庫やエアコンにとられたあとの下流の電気では、音に濁りがでるってこと。だからうるさい人になると壁のコンセントなんか使わずに、電柱から直接電気を引いてくるわけ。いや、笑うけど、自分の耳で聞きながら確かめてきたことだから、ほんとにそうなんだ」(p.41、強調部は原文傍点)

という、オーディオオカルトあるあるを語る男。僕なんかはこんな男に惚れる女の気がしれませんが、しかし上流の電気で音を聞くといい音がする!といいはる意見に、実際に音をきいて納得できる女だっているだろうしそういう人はこの作品をとても楽しく味読できるでしょう。納得できない人はそこここで「こんなやついねーよ」の連続です。

と、かなり生活感のない(と僕には思える)人間がでてくる一方で、作品の展開、とくに終盤はかなりベタになります。台風の影響で水車が水に沈んで(タイトルでネタばれしてる!)、暗闇につつまれた二人は満点の星を眺める。村上春樹臭がします。そして星空のもとで女はこう心のうちで思います。

 この光があるうちは、なにも絶望することはないのだ。光からの音を聞く耳を失わずにいれば、和彦とわたしは生きていける。桂子はそう信じることができた。そんなことをいま言っても、和彦にはわからないかもしれない。だからそう感じたことをわたしはまだ黙っていよう、と桂子は思った。(p.84)

和彦に伝わらないどころか、ここまで読んできた読者(というか僕)にも、桂子がなんで唐突にこんな決心をすることができたのか理解できません。オーディオオカルトをいわれるなりすんなり信じることができる女性は、やはり言葉ではないロジックで、こういう悟りの境地みたいな瞬間が、唐突に訪れることがあって、しかもその唐突さもすんなり受け入れることができるのかもしれません。もう僕には全く理解を絶した境地ですが。

なんかずっとくさしているみたいですが、部分部分の表現はすごく好きなんです。比喩なんかは読むだけで肌や耳に心地よいですし。ただ、その集積としての作品全体が、僕には理解できない、そしてその部分部分には気に入った表現がありつつも全体としてはしっくりこないという感じは、村上春樹を読んだときとまったくそっくりなのです。

加賀乙彦「熊」

出典:『新潮』2013年5月号
評価:★★☆☆☆

これを小説というフレームで読んでしまう僕がいけないのか、小説としてよむとどうしてもキレが悪い、批評がない、あった出来事そのとき思ったことをそのまま書きましたよ、という体裁でむず痒さを感じました。小説というより加賀乙彦の暮らしをつづったエッセイといったほうがいいかもしれない。

話は、信濃追分にすむ「私」の家にある日雌熊があらわれ栗の木に登って実を食べていたのを目撃、はじめは怖がっていたものの、熊にくわしいNPO法人関係者に説明を聞くと人に危害を加えるような熊ではないとのこと、また春になれば小熊をつれて現れるともきいて期待に胸を膨らませる。しかし、最期に熊は残飯を漁っているところを射殺されてしまう。それが地方新聞で報じられたと人づてに聞く。

だからなんなんだ、と言いたくなるような話です。特に前半は、軽井沢周辺の植生や動物、野鳥のことがずらずらと書かれてあって、観光パンフレットを読んでいるような手応えのない文章です。たとえば同じく軽井沢を舞台にした近作でいえば松家仁之の『火山のふもとで』では、動植物の描写が読み手の視覚や聴覚、温感にたえず働きかけるような文章がつらねられてあって、読中読後と幸せな気分にひたれたものです。それにくらべるとこの作品の前半は、悪くいえば桝目をただ文字で埋めているだけの文章。

後半も、生活圏内に出没した熊に恐怖を感じつつ、一方で愛着を抱き始めた夫婦がしかし、熊親子の一年をおさめたDVDのうち春から秋にかけてしか視聴せず、秋の残飯あさりをしているところやおそらく射殺のシーンも撮影されているであろう部分を見ないことにした、という部分には、この語り手のエゴしか感じられませんでした。これはなにも僕が勝手に解釈しているわけではなくて、作中で以下の夫婦のやりとりがあるからのことです。

「事実を言っているだけだ。ぼくはねえ、あの熊と友達になれたらいいなと考えている。もし熊語てのがあるなら、うんと勉強して話せるようになり、その生活ぶりや思想を学びたい」
「熊の思想……馬鹿馬鹿しい」妻はからかわれたと思ったのか、怒ってキッチンに入ってしまった。私は本気だったので、妻が怒ったのが残念だった。(p.68)

「熊語を勉強」して「生活ぶりや思想を学」んで「友達になりたい」と一方的に熊に親近感を抱いた語り手「私」が、最期の最期で熊の人間たちに生活スペースを奪われてそれでも生きていかざるを得ない姿(残飯あさり)や、人間の手で射殺される姿からは眼をそむける。本気で友達になりたいと思ったわりには、友達の死に目はあえて見ようとしない。「本気だった」がチャンチャラおかしいです。

これが実はそういう人間のエゴを描いた作品なのだというのであれば驚きですが、そういう説を積極的に肯定するような記述はありません。その場その場で思ったことをただただつづっただけという老人エッセイです。読んでムカムカするだけでした。

鶴川健吉「すなまわり」

出典:『文學界』2013年6月号
評価:★★★★☆

星五つにちかい星四つ。行司として相撲世界に入った「自分」が語る相撲界。デビュー作「乾燥腕」のフレーズ、「マン毛が空を舞った。/チン毛が床を滑った。」というおちゃらけたことばづかいからは想像できない真っ向勝負の小説で、とても同じ人が書いたとは思えない正統派の文体です(おもわず作者名を確認してしまいました)。冒頭からすこししてこんな感じ。

 直角に曲げたひざのすぐ下で、装束のすそを束ねて綴じて、うす黄緑のほそいひもでしばってある。だからひざから下はむきだしで、すね毛の先には飛んだ砂粒が引っついたままぶら下がる。力士が立ち上がらず、ひざは力み、じりじりと土俵を踏みしめていると、足の裏の感触が表面の砂からその下の土の固さにすり替わる。(p.114)

書き手の鶴川健吉が見てきたかのように、というかほんとうに行司を務めてきたんじゃないかと錯覚するほどに、リアルな描写です。土俵にたつ行司のすね毛に引っついたままぶらさがる砂粒を接写したかとおもうと、こんどは足裏の感触から、土俵の固さへと感覚がうつっていく。視線をわずかづつわづかづつ下に持っていく描写には、嵐の前の静けさといったらいいんでしょうか、激突前に力をためていく様が同期します。視線を文字テクストのうえでも下に下に誘導するしかけとして、「すぐ下」「下は」「下がる」「立ち上がらず」「その下の」とこれだけ短い文章のなかに「下」を連発していることからもあきらか。

また音の面からいえば「サ行」を繰り返すことで緊張のこもる静けさの演出にも成功しています。サ行をふくむ単語を、ひらがなにほどいて抜き出すと「ひざ」「すぐした」「しょうぞく」「すそ」「うす」「ほそい」「しばって」「ひざ」「した」「むきだし」「すね」「さき」「すな」「さがる」「りきし」「ふみしめ」「あし」「かんしょく」「すな」「した」「すりかわる」。またサ行の音の親戚である「じりじり」もふくめれば、足の裏と砂とかかすかなおとをたてて擦れるさままで想像できます。これだけの技術を丁寧に駆使できるこの書き手は本物です。この小説の読者のなかで行司を実際につとめたことある人なんていないでしょうが、そんな経験のない人もここを読むだけで「行司ってきっとこうなんだろうな」と思わせるリアルさと説得力で作品世界のなかに引きずり込まれます。

一人称の選択として「自分」を持ってきたのも、これしかありえないぴったりなチョイスです。私でもなく、僕でもなく、俺でもなく、「自分」。相撲の世界に魅入られて、力士になれない体格ゆえに行司となるためからだひとつで飛び込み縦社会のなかで職務を粛々と執行する人は、おのずと「自分」になっちゃうだろうなと思います。体育会系に近い感覚かもしれません。さらには、「自分」ということばにそなわる「我のなさ」というか「個別性のなさ」は、行司というしごとをこなすこの語り手のかたりをして、代々引き継がれてきた行司という職業そのものが語っているかのような語りへと、語りを開いてくれます。

もう一点。相撲の世界というと近年では、旧態依然とした世界とか、理不尽な暴力がまかり通る世界として、外の社会から一方的に断罪されています。そしてその厳しい目は、法律に基づいていたり、「一般常識」にもとづいていたりで、一定の正当性もあることから、相撲界側も従わざるをえないことになっています。なにより公益法人として税制優遇もうけていますし外の要請にこたえて体質改善していくことはなにより相撲協会側の義務でもある。当たり前の話です。それをわかったうえでしかし一方では、相撲の世界や論理を内側からかたることばが聴こえてこないこと、また外側の正しい人たちも相撲界叩きをすることで溜飲をさげるだけになってしまうことには、違和感ものこります。この小説では、そんな相撲界の世界をみる行司の目から、相撲界の内側のことばでかたられる相撲界の論理が展開されます。たとえば、外側のことばでいえば「リンチ」「私刑」「暴行」「傷害」「刑事事件相当」なんてくくれそうな先輩によるしごきも、この小説のなかでは「くらわす」という内側のことばで呼ばれています。もちろん「リンチ」……の外側からのことばは正当な見方なのですが一方的に違法性を指摘するだけではなくて、この作品で行司が内側から語る自分が「くらわされる」たびに成長していくという語りかたにも一定の正当性があると思えるのです。それを即断して「じゃあお前は体罰を肯定するのか!」という話につなげちゃうと、やはり相撲界が外側の世界のことばづかい「だけ」に回収されてしまうのですが。

相撲界どっぷりの人だと「いや、リンチとかしごきとか外の人はいうかも知れないけれど、くらわすことにも必要なのです」と内側どっぷりのことばづかいだけで「必要だから必要なんだ」といういかにも頭の悪いトートロジーで語ってしまい、結局、内と外との主張が平行線をたどってしまう気がします。あるいはやはり法律のことばによって、相撲界の人が不承不承に口を噤まされるか。しかし、今回のこの小説を読む意義があるとすれば、業界の言葉をつかいながら、その世界内の体験を、外にいる人にもリアルに追体験できるように一続きの物語として提出することに成功している、つまり、内と外をつなぐことばをこの小説が獲得していることこそが、この小説を読む意義だと思います。この小説が、安易に暴力肯定、体罰肯定をしているわけではないことは、行司見習いの人間が何人も脱走、脱落していることを書き入れていることからもわかるはずです。

鶴川健吉自身が行司として就職して相撲界で暮らし、いくつかの立ち合いも仕切ってきたんではないかと思えるほどにリアルなことばづかいと感覚の描写、的確で端正な文体には、終始うならされっぱなしでした。『文學界』新人賞は受賞作も佳作もなしで今回の6月号は残念かと思っていましたが、この作品に出会えただけでももとは取れました。未読の方はぜひ読むべし!

(追記)
とかいたところで、鶴川健吉じしんが行司出身だったのですね。どおりで。

飴屋法水・朝吹真理子「いりくちでくち」

出典:『新潮』2013年6月号
評価:★★★☆☆

目次では二人のクレジットで「共同創作」とあり「九州の半島に滞在した演出家と作家の体験とヴィジョン。土地に遺された記憶、人々の声。言葉による未知の「ツアー」に読者を誘う」と説明が続きます。本作品を読めば、数葉の写真が時折はさまれ、「Scene○○」と題された断章がぼつぼつと続く形式で、これを小説と呼ぶには座りがわるいし、かといって紀行文でもなければ、シーンによっては詩でもあり、無理やりジャンルに当てはめてもあまり意味が無さそうです。この「よくわからなさ」が一見、作品のとっつきにくさになっているともいえはするけれど、書かれてある文字を読んでいくぶんには、べつにとっつきにくくはありません。それぞれのシーンに魅力的なことばづかいもあって(そうでないのもあって)、気になるところをつまみ読みしながら読みました。

作品全体で、なにか枠にはめてしまうことを拒否しているような、分かりやすいストーリーやジャンルに落とし込んでしまうような安易な態度にNOをしめしている感じです。開かれているぶん自由に読めて僕個人としては楽しかったのですが、「自由からの逃走」じゃないけれど、これだけフリーダムに「お好きにどうぞ」と作品をぽんと差し出されると、読み手によってはかえって不自由さを感じてしまうかもしれません。「この作品はこんなふうに読んでください」という縛りが好きな人もいますもんね。自由ということでいえば、なにか主人公みたいなものが活躍するわけでもなく、ヒトもモノも自然も、この世のものもあの世のものも、あらゆるものが等価に配置されています。

読み手によっては疎外感を感じてしまうでしょうね。「これは私むきの作品ではない」とか。あるいは思考停止して「何だかわからないけど好き!」と言っちゃう自分好き人間もいそう。西村賢太は口をきわめて罵倒しそう(想像)。そういう意味では、読み手の姿勢を照らし返すような、読む人の好みや態度をうつす鏡のような作品でもあります。作品じたいに「ああ読みなさい」「こう読んでください」という注文がないぶん、読み手の意識がダイレクトに反映されるかんじ。

以下気になったシーンを適当にメモ。

Scene 童謡

うみのおと さふさふ
いちめんのなみ
きのうは かわ あすはあめ
あすは はれ
いつまでも あすに ならない おてんき

Scene 山音

ノヤキ、メヲモグ、カマキリ、イネカリ、
ツメキリ、カミキリ、ユビキリ、神鳴リ、

滝口悠生「かまち」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★☆☆

小説の方法論、とくに視点について関心のあるこの書き手の短編。初の短編でしょうか。今までの作品だと、小説の方法にたいする批評がしたいだけで、語る内容なんて特になくてもいいんだろうな、という感じをうけていました。なので、デビュー作「楽器」にしろデビュー後第一作「わたしの小春日和」にしろ、読後の印象ののこらなさは圧倒的。読むそばから消えていくような小説もあってかまわないものの、読み手としては正直食い足りないし、書き手の自己満足にすぎないと思わないでもありませんでした。方法のための方法ほど小説をやせ細らせるものはない。

そして、全二作と本短編の違いをあげるとすれば、視点に対する批評をもちつつ、それが語りの内容とそれなりに合致しているところ(それゆえ、読後いろいろ印象にのこるところ)、です。伊澤さんというアマチュア女性落語家の話のマクラかと思いきや、伊澤さんが語りかける猫の視点に語りがよりそい、それらの視点を想像でおぎないつつ語っているのは伊澤さんの向かいに住んでいる八巻さんという男性であるというつくり。これら語りの層が重複しながら、出来事の断片が過去にいきつもどりつして読み手をいい意味で翻弄してくれます。

「猫」という動物は、小説の語りについて語るうえでの古典的参照項だし、それをアマチュア女性落語家という落語家の語りにオーバーラップさせつつ(いわずもがな、漱石と三代目小さん)、もう一人の語り手八巻さんは語りの終盤で熊田さんという近隣住民のかたわれを得て、「熊さん八っつあん」としてニコイチになる。この短編そのものが落語みたいな作ったような話でうまいオチだと思いました。

思い返せば、伝統的に「よい」とされる純文学小説は、作為を感じさせないもの、できるだけ読み手に「自然さ」を感じさせるよう作られたものだったはずです。その伝統的な価値観にてらせば、上のような「いかにも」「わざとらしい」「つくったような」「お話」の小説は、及第点をもらえなかったでしょう。それを特にここ五から十年くらいでデビューした作家たちでしょうか(うすらぼんやり)、作為を作為としてうけとめながら小説の領土をひろげてくれている気がします。それはそういう作家をうけいれるような土壌が純文学にうまれたのか、そうした作家たちが鋭意開拓していってるのか、鶏と卵の話になっちゃいますが、ともかく、わざとらしさをそのまま受け止めて書く一群の作家の系譜のなかに、この「かまち」をひっさげて滝口悠生が登録されたことを僕は喜びたいと思います。

以下は、この作品の出だし。

 白黒模様の猫は道路からの階段を一段、二段と上がり、門扉の下十センチほどの隙間をくぐって玄関に入っていった。玄関の戸は開けっ放しになっていた。上がりかまちに紫色の大きな座布団を敷いて、ピンクの着物を着た伊澤さんが今日も座っていた。
 よう八っつぁん。
 なんだい熊さんかい。
 熊さんじゃないよ、あたしゃ猫さんだよ。(p.135)

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