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松波太郎「LIFE」

出典:『群像』2013年7月号
評価:★★☆☆☆

「子供が生まれたので、ふらふらしていた男が心をいれかえてまじめになった」一行でまとめちゃいそうなほどのありきたりな話でした。松波太郎というと、今現役の書き手のなかでは、脱力系の笑える人物、とくに頭の足りない人を描かせればかなり楽しませてくれる作家として、僕は高い評価をしているのですが、そんな彼をもってしても、子供が生まれた話を書かせるとこんなになっちゃうのかと、期待値がそれなりだったぶん、いくらかガッカリしました。もちろん美談も悪くはありません。ふらふら→まじめ、への転換の落差を美談でまとめあげる落語は僕は大好きですし。

この作品のふみこみが今一つだと感じられるのは、生まれてきた子供がダウン症だったという設定があるからかもしれません。父親の猫木と同様に笑えるような描写をこの息子にも適用してしまうと、どうしても作品外の倫理やデリケートな部分に抵触してしまう可能性があるという配慮、ないしは自己規制が働いたのでしょうか。僕が小説として読みたかったのは、この美談の後こそだったのですが。

音や発音への意識的なこだわりも松波太郎の特徴でそれが本作でも随所にみてとれます。

「もしかして今日カレー?」
 今日どころかあさってまでもちそうなほどの量である。
「ウッシャ!」腰元で右の拳を握った。「パーク? ツィキン? ベーフ?」
 猫木はカレーが好物であり、夕飯のカレーを翌朝も食べられることを想像して、うまく寝つけなかったり、朝早く起きすぎてしまうくらいである。
「……ベーフ」
 カレーのときだけ、ポーク・チキン・ビーフをそれぞれパーク・ツィキン・ベーフと彼なりのネイティブ発音で呼び、宝田にもそう呼ばせていた。(p.91)

「国のヨー保険とかってへんな保険に勝手に入れられて」
 大半は食器洗いである。
「給料まきあげられた」
(中略──引用者)
「……ヨー保険」
(中略──引用者)
「ヨー、ヨー……あぁ、雇用保険のことね」(p.93)

「あかちゃんの名前って、もう考えてくれてるわよね?」
 性別は男であることがすでに半年ほど前にわかっている。
「……あぁ」
 うどん職人がのし板でそうするよう、目一杯”あ”をひきのばす。(p.99)

音の表現、ニュアンスをなんとかして小説のなかに持ち込もうという姿勢はいいとして、その方法が若干単調な気もしないでもありません。おかしい発音→説明というパターンは、あとで出てくる説明の個所にいたって、作品世界外からの声、すなわち地の文の語り手(そしてその語り手とほぼ重なる書き手)の存在をかぎ取ってしまうので、読者を小説世界にはいりこませる際のノイズになっている気がします。数ヶ所ならアクセント的に面白く読めるものの、こう何度もやられると、「こういう発音ですよ」「こういうイントネーションですよ」という説明がいちいちついてまわってうざったく感じられました。表記そのものの後で言い訳のように解説を加えるのは、表記じたいの説得力がいまいちな証拠ともとれます(それ自体がなぜそのような書き方をされているか伝われば説明なんて不要なはずです)。まあ、「うどん職人」のやつは僕は好きなので当たり外れがあるということかもしれません。また、本作ではいくつか歌もでてきますがそっちのほうはフォントの大きさを小さくして歌詞を書きならべるだけという工夫のなさ。小説のなかに音を、うまい仕方で導入することの難しさを、この作品によって再確認しました。
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マブルーク・ラシュディ/中島さおり訳「クリモ、モン・フレール」

出典:『文學界』2013年7月号
評価:★★★☆☆

慣れ親しんだものをまるで新しいものを見るような眼でとらえる、文学の技法でいえば「異化」です。外からの眼でもって内をとらえる、惰性に眠ってきた眼を覚まさせるような表現ができれば異化は成功でしょうね。本作、「クリモ、モン・フレール」は、日本を外の目から捉えようとする要素のある作品です。

アルジェリア移民の両親をもつイスラム教徒の女性アリが、死ぬ間際の弟と交わした約束をはたすため日本を訪れるというストーリー。アリの眼を通して描かれる現代日本の人や土地が、見慣れたものを一風変わった描写で楽しませてくれます。

 大阪APAホテルの前には大量の傘が置かれていて、リラは戸惑った。グリニーだったら、傘はもうとっくになくなっていたことだろう。警察員の緩い監視のもと、受付にびっしり置かれたスーツケースにしても同じことだ。持って行き放題なのに、誰も盗ろうとしないのだ。泥棒は、日本では絶滅種なのだろうか?(p.51)

ありきたりといえばありきたりなんですが、外の目から見た驚きというのはあらためて「こんな風に感じるものなんだなあ」と再確認させられました。本作品では、まあよくいわれる部類の言い草のオンパレードなので僕はそれほど目新しさを感じられませんでした。『ワンピース』やタケシ・キタノのバイオレンス映画にしろ、まあそうだろうなという感じ。

これはちょうど、芭蕉が歌枕に詠まれた地を訪れたときの眼みたいなものでしょうね。初めて訪れる目の前の土地をありのままに見ているのではなくて、目の前に広がる風景を、西行の歌や読本のなかの描写と照らし合わせてその一致度を楽しむという感じ。この作品の、いかにも外国人が訪れそうな場所を見ての感想について、さもありなんと思えるのもたぶんこういうところに根っこがあるんじゃないかな。アリがもし、西成区あたりを歩けばきっと自分の育った土地との親近感を感じられたはずです。傘だって取られる可能性はぐっと上がります。

さて。ということは、ただ外国から日本を訪れれば(あるいはその逆のことをすれば)、自動的に異化が可能になるというわけでもないわけですね。そこには緻密な観察と比較が必要で、さらにはそこからえられた洞察を表現する文章のちからまでも要求されるはず。たんに外国にいって「外から見た日本」みたいなものを書こうとしても、ちょっとした面白話程度のものか、外国人向けの日本の観光案内をなぞるくらいのものしか出てこないでしょうね。いっぺん書いてみて、自分がどや顔で書きつけた異化もどきがあまりにステレオタイプの日本像しかでてこない地点にたってはじめて、本当の異化にむけたスタートラインについたといえるんじゃないでしょうか。

この、細切れの面白話だけだったらこの作品にたいする評価は低かったですが、短編の分量で、ちゃんと小説としての仕掛けもあってなかなか巧みだなとも思ったので、星三つにしました。仕掛けというのは、アリの眼に映る大阪の市街地や人の描写にはさまるかたちで、弟の幼い頃から死ぬまでの人生を回想しながら、その死にまつわる謎に少しづつ迫っていくという謎解きの手法。なかなか読み手を飽きさせません。最後に近づくにしたがって、パズルのピースがひとつひとつカチカチはまっていく感じは、読みすすむにつれて爽快感を増大させてくれました。まあ、オチは読めちゃったんですけどね(笑)。

淺川継太「ある日の結婚」

出典:『群像』2013年7月号
評価:★★★★☆

今週の『群像』の特集は、「若手男性作家が描く、性・愛・恋──3篇の〈彼と彼女〉の物語」だそうです。そのうちのひとつ、淺川継太「ある日の結婚」。デビュー作から2、3年間があいて、授賞後第一作を発表というペース。たしかデビュー作で安部公房を彷彿とさせるという選評をうけていたと思いますが、今回の作品もたしかに安部公房経由っぽい比喩や文体が味わえます。もっとも、安部公房作品の場合、現代社会にたいする批評をいれないといけない(いれておきたい)という時代的な気負いも感じられますが、本作はそういう堅苦しさ(えらそうさ)はなく、アイディアと描写でみせる作品になっていますね。

冒頭こんなかんじ。

 電車を降りると、もう分かってしまう。今朝もきっとそうなるという確信がある。(p.122)

ここを読み終えた時点ですでに作品世界にぐいっと引き込まれますね。「もう分かってしまう」→何が? 「今朝も」→毎朝のことなの? 「そうなる」→どうなる? 目的語の省略や、作品世界の日常的規則の暗示、のっけからの指示語の使用。どれも読み手のあたまのなかに、いくつもの「?」を発生させます。この冒頭のつかみから、面白い比喩が続出してずっと作品を読ませられました。

なんだか金属の感じがする、ほっそりした足首……いつか理科室で見た、小さな分銅が詰まっているみたいだ。(p.122、強調部は原文傍点)

この足首をもつ女性と、毎朝、文字通り一日もはずすことなく、駅ですれ違うことになってしまっているのです。

これはコロンブスの卵的発想だと思いました。所詮は作者の筋書きにしたがって動くにすぎない人物や起こる出来事を、いかに「わざとらしくなくみせるか」はおそらくどの書き手も苦心するところのはずです。あまりに作者の手つきが見えてしまえば、読者は「ご都合主義だ!」と怒って本を投げ出すだろうし、作者が作為を気にしすぎれば人の動きや出来事が起こりにくくなる。あるいは説明くさすぎるはめになる。他ジャンルで許容されるご都合主義の度合いも、純文学ではかなり厳しい気がします。そこでこの作品の発想。

「偶然」毎朝出会ってしまう女性がいる。こんな偶然はあるはずないのに、しかし時間を変えて電車に乗っても出会ってしまう。この、作為中の作為を謎として作品の出発点にすえて、物語を動かすのはまさに逆転の発想でした。そしてこの偶然をいかに説明するか、なぞをいかに解決するかが、読者の読みを引っ張ります。

で、出落ちにもならず駅で偶然であい続ける男女は同棲をはじめます。恋愛関係にあるものどうし、「あなたを食べちゃいたい」という比喩表現がありますが、その表現を文字通り表現する描写にはおかしみもあり、「このあとどうなるの?」という興味も引かれぐいぐい読まされました。

そして、凡庸な書き手なら食べるだけで終わってしまうと思いますが、淺川継太の場合はその先を用意します。

二人の人間の体がくっついているというより、頭が二つはえている一人の人間と言った方が近い。いや、その二つの頭というのも、原形がどんなだったか知っているからこその数え方であって、むしろ強度の近視者の視界でぶれて見える一つの頭という感じだ。顔の中心線に、目の錯覚のような光の……肉の切れ目があり、その右側がぼくの顔、左が彼女の顔になっている。ただきれいに半分ずつというものではない、鼻は二股に分かれて穴が四つあるし、唇も、大きな口の真ん中をホチキスで閉じたというふうに、∞(無限大)のマークのようになっている。(p.151、強調部は原文傍点)

このあともしばらく男女が合体した人間の描写が続きます。これも考えてみると、新しい人間=赤ちゃんが誕生したときに、「この部分はお父さん似、この部分はお母さん似」と指摘しあう微笑ましい場面が思い出されますが、じっさいにこんな合成人間が描かれると、かなりグロテスクなものになってしまいます(笑)。

ワンアイディアで安心してしまわない、さらにその先にお楽しみを用意する書き手は、小説読みにとってはうらしいかぎり。アイディアを具体的なイメージとしてどんどん展開できる確かな描写力もいいですね。この書き手の文体、作風は高いレベルで安定しているので、これから先、どんどん作品を書いてくれることを期待したいです。

小山内恵美子「空想家族」

出典:『文學界』2013年7月号
評価:★★☆☆☆

読みどころはどこでしょうか。結婚適齢期の女性、琴子が双子の姉の雛子(こちらは既婚)から子供を預かることになります。五歳の男の子、陸に振り回されながらも心地よい疲労を感じて、知人の70代の女性ミチ子や、琴子のつき合っている啓介も陸の遊び相手になりながら、「家族ができたらこんな感じになるのかなあ」と琴子が想像する、疑似家族もの。家族という作品の、これまた腐るほどたくさんある結婚適齢期女性もののなかにあって、この作品がなにか抜きんでているとか変わっていると思えるところは見当たりません。

話全体がごく穏当な常識の枠をはみ出ない通俗ものに落ち着いてしまっているのも、不満。一般論としていえば、通俗もの=悪い、とは全くおもいません(そういう作品を必要としている読者のほうがむしろ多いですもんね)が、その一方で、僕個人がわざわざ純文学雑誌を読むのは、世間一般の常識を再確認して安心したいがためではありません。もっと僕の価値観とか考え方を揺るがしてほしい、気づきを促してほしい、場合によっては叩きのめしてほしい、そういう希望があるからです。その点本作は、僕の期待には全く答えられません。

通俗ものであっても、たとえば描写が変わっているとか、比喩表現が独特であるとか、語りの仕掛けにひと工夫あるとかなら、読んで楽しめるものになりえる可能性は十分ですが、本作はそういうところもなく、すごくストレート、すごくまっとう、わるくいえばすごく月並み、すごくつまんない。

読み手の僕が男性目線でこの作品を読むから存分に味わえないのかもしれません。結婚適齢期の、あるいは子供をもとうかどうか悩んでいるような働く女性の読者なら、本作の内容にも共感できるのかなあ。

次の引用は、陸とおふろをつかう最中、琴子がめぐらす想像。僕にも、唯一おもしろげな雰囲気を読み取れた場面でした。

 浴槽のお湯が波打つ、あふれた水が排水口へと流れてゆく。
 かすかな息、シャンプーの匂いにまじるかすかな甘い香り、湯気のなかでふたりの輪郭がにじんでいく……。血液がさかんにめぐりはじめ、無数の毛穴がゆるみ、皮膚がゆるんでいく。水はたぷたぷ揺れる。固い蕾がゆっくりと開き、わたしたちはひとつのかたまりになる……陸のからだは縮み、生まれたばかりの赤黒くて皺だらけの姿で泣き声をあげ、いつしかわたしのおなかにすっぽり包まれ、羊水に浮かびながらとくとくと脈打ち、足をばたつかせておなかの内側をキックする。臨月のおなかは、はちきれんばかりだ。わたしはついにひとつの命の源流となる、そう、母になるのだ。雛子をすぐ近くに感じて太ももの秘密のしるしに触れようとすると、すでに陸の手のひらが置かれている。(p.154)

門脇大祐「蛸の夢」

出典:『新潮』2013年7月号
評価:★★★☆☆

新潮新人賞受賞第一作。前作掲載が11月号だったのでいいペースで書いてるんですね。新人賞をとっても以降沈黙して続かない方も少なくないなか、発表できるレベルの次作をさっと用意できるのは読み手としてもうれしいかぎりです。

本作は、「この世界は一匹の蛸が見ている夢」だと一人確信を抱く二十三歳の升井直行の日常。かかわる人間に自分の確信を語るけれど、あたりまえのように誰一人信じてくれないか、馬鹿にするかで取り合ってくれません。といって、直行が頭おかしいタイプの人でもなさそうで、仕事はきちっとこなしているようです。へたに書き手が面白がっているだけのドタバタものにしてしまわなかったのはいい判断。

デビュー作ではクラゲで今回はタコ。世界観のどうしようもない隔たりは埋めようもなく、「自分はそう信じてるんだ!」という主張は、肯定する材料も否定する材料も他人には一切与えられないので、直行のようなタイプの人が身近にいればめんどくさいなあと思います(笑)。フロイト先生ならきっと、「このマスイナオユキという男性は、幼いころ海辺で、蛸のように頭の禿げた成人男性によって、身動きできない体勢を強制されて、カマを掘られたに違いないディッヒ!」とかいいかねないレベル。それくらいの無茶な論理をもってこないと凡人には納得できないレベル。

息の長い文章がときどきでてきますが、タコの見た夢を描くのにふさわしく、うねうねと続く文体はテーマにふさわしいものです。かつたとえば、長い文章を書いて読者をけむに巻くようなの作家とはちがって、長いにもかかわらず順序どおりに文字をたどれば頭の中に文意が自然とはいってくるようなうまさは、よく練られている努力のあとをうかがわせます。

入社したばかりだったころ、設計手順の打ちあわせをするという樫尾社長に同行し、バスに揺られ、たどりついた出先の事務所の背景を埋めつくしている建造物の群れ、それが石油プラントだった。埋立地の、工場の並ぶ一帯のなかで、そこだけが金属の構造を外気に露出するように、海に面した広大な敷地に並べられた巨大なタンクから、配管が縦横に伸び、重なりあって折れ曲がり、繋がっていった先の錆びついた別のタンクから、前後左右に騙し絵のように配管は張りめぐらされ、鉄の柱と骨組みのなかに寄り集まり、わきで、煙突がもくもくと黒い煙を空に吐きだしていた。区切る場所を探そうとすると、となりに配管が繋がっていくものだから視線は散り散りになり、区画の境目もよくわからず、中心部がどこにあるのかもわからず、絶え間なく石油が流れているのであろうひとつひとつの配管には、もちろんねじが取りつけられ、組み立てられているはずで……直行は、吐き気に見舞われていた。(p.104)

書き写していて思ったのは、読みやすさの工夫の一つに適切な点の打ち方があるんですね。要所要所の語句の区切り、意味の区切りにちゃんと律儀に点を打てる。あとは、勝手な推測ですが、文章のなかに自意識をねじ込まない節度があるというのか、「どうです私の文章うまいでしょ?」みたいなナルシシズムが脱臭されているので、すっと読み手の頭に入ってくるというのもある。そういえば、石油プラントの配管設計を任されている会社ではたらく升井直行という名前の漢字も、縦横の線で構成されるもののあつまりで、さながらプラントのパイプが縦横につながっているがごとくです。そして、そのパイプと形態的に相似の蛸足。

場所の選択も適切ですね。本人にとってはこれ以上ないリアリティをもつ妄想に終始つきまとわれながらも、一般人の日常生活もおくる人間が生活する場所として、浜辺。海と陸とが境界を接している場所は、浦島太郎を思い出すまでもなく異界への入り口がひらく場所です。

そういやデビュー作でも、主人公がつきあってる女の子の首を絞めていましたし、本作でも蛸が人を絞めるし、じゃあ次回作でも絞める展開をきたいして、絞殺三部作として本ができるかもしれませんね。完全な妄想ですが。

平野啓一郎「Re: 依田氏からの依頼」

出典:『新潮』2013年7月号
評価:★★☆☆☆

語りの構造が入り組んでいます。小説家の大野のもとに、知り合いの編集者のつてをたどって小説の依頼が舞い込みます。依頼というのは、交通事故によって主観的な時間感覚がくるってしまった劇作家の依田の語りを小説化してほしいというもの。依田の語りじたい、時間の感覚がくるっているために「イントネーションがメチャクチャで、音節も混乱していた。テープを逆回転したように聞こえる箇所(p.12)」もあって、音の断片のようになっています。劇作家依田の語りがそもそも解読困難で、さらにそれを聞き書きした付添の女性の編集や歪曲も加わり、それらをもとにして、大野がリーダブルに文体を考えて小説としてまとめる、という何重にも語りを重ねています。

これは100枚ほどの短い分量のせいなのか、この複雑化した語りが十全な効果をあげていません。僕の読解力がないせいかもしれません(笑)。ただいたずらに語りの構造を重ねているだけの印象をうけました。もうすこしたくさんあれば発展しようがあったのかもしれません。これは紙媒体の小説なので、音声データの音声部はすべて欠落しています。その欠落を補うために上の引用箇所のような、語りの抑揚やイントネーションについて具体的な描写があるわけですが、そうせずたとえば、依田氏の語りがどんなものなのか、一文字一文字おこしたものを少しくらい作中に書いておいてくれたらおもしろかったかもしれませんね。まあこれはないものねだり。

依田氏の主観的時間が伸び縮みするという着想はなかなかおもしろくて、それこそこんな複雑な語りなどとらず、単なる一人称小説でもって、本人が感じている時間感覚の変容をいろいろ描写する手はあったと思うのですがなんでそうしなかったんでしょう。わからない(笑)。時間感覚がおかしくなった描写というのも大野がリライトする形であるにはあって、その箇所だけは面白く読みました。

 ある時私は、丸一日を、たった一時間ほどで体験した。その時のことは、今でも鮮明に覚えている。
 私は窓辺に座って、ただ外を見ていた。
 よく晴れた美しい秋の日で、その青空を、雲が魚の群のように、次々と西から東へ去って行った。途中で翻り、ちぎれ、形を変えて、その度に街が明るくなり、暗くなり、夕焼けを豪奢に解き放って、彗星のように太陽が没した。
 私は飲まず食わずで、ただ二度、トイレに立っただけだった。尿意は痛みとなって膀胱を急襲した。それは我慢できなかった。空腹感は、体の真ん中に穴が開いているように私の姿勢を前傾させた。
 暗くなると、星々が巨大な金庫のダイヤルのように回転し、翌日の朝日を招来した。(p.30)

この辺の描写はかなり映像的で頭の中に早回しでバーッとイメージがありありと広がりましたし、「尿意は痛みとなって膀胱を急襲した」なんて何度読んでもおもしろい表現だなあと思います。ただ、分量的にいえば、こうした本人の時間感覚の変容の主観的な描写は少ないんだなあ。もっと書けば楽しかったのに。

あとは書き手の平野啓一郎じしんがサービス精神旺盛だといえばいいのか、読者を信頼していないといえばいいのか、依田氏の付添女性が、依田氏の語りを脚色した可能性について作品の中であからさまに(ネタばらし的に)言及しているのもマイナスです。わざわざそんなことせず、ほのめかし程度にとどめておくか、まったく言及しないほうが、読者の中に違和感をのこして不気味さが際立つでしょうし、想像力を働かせる余地を残せたように思います。時間感覚の変容の描写をのぞけば、全般的に説明的すぎる気がします。

作中には戯曲案みたいなものもでてきますが、それはそれとして別建てで、それこそサロメ舞台化したときのように、舞台用に別個で書いたほうがよかったんじゃないでしょうか。平野敬一郎なら面白いかどうかは別にして器用にそういうのもこなせそうなイメージです。僕自身が三島由紀夫にそれほど関心がなく、戯曲や舞台には全くうといので十分この小説を読みこなせたとは思えませんが、上のような不満点ばかりが残る読後感でした。

木村友祐「猫の香箱を死守する党」

出典:『新潮』2013年7月号
評価:★★★☆☆

「猫の香箱」というのは下のような猫の座り方をいうのだそうです。
猫の香箱

この作品では、野良猫迷い猫が安心して暮らせる社会をめざす「猫の香箱を死守する党」をたちあげる男性の話。ここだけ読むと、猫好きの人向けの小説とうけとってしまいますが(もっともそれは間違いではないのだけれど)、それ以上に、この男性がこの党を立ち上げるに至るいきさつや人間関係なんかを読んでみれば「猫の香箱死守」をたんに党是とするだけでなく、社会変革……とはいわぬまでも社会の見方を変えようとする芽のような、より大きな視点をもった小説となっています。

作品を二つのパートにわけてみると、一つはこの四十代の男性、相楽さんの社会人としての暮らしの話。務めていた会社が倒産し現在は搬入荷物をはこぶ作業用エレベーター係として一年雇用ではたらいています。妻は正社員として勤める会社の勤めがきつく疲れきっているようす。男性として夫として、先行きに希望が見いだせずかなり苦しい状況です。また、相楽のバイト先の後輩である平野という青年は二十代ながら正規雇用の道にすすめず不安定な身分。もう一つのパートは、相楽が生活のなかで唯一安らぎを見出す猫との交流のパート。飼い猫のクロタロはじめ野良ネコにたいしてまで、かなり甘ったれたことばづかいで文字どおり猫っ可愛がりします。大の大人が猫に惑溺する姿はかなり読むに堪えません──と途中まではうんざりしながら読みました。

「はらぁ。いたのかお前は」
「はらぁ」とは自分でもよくわからないけれどもおそらく「あらぁ」の感嘆をつよめた言い方なのだろう。ふだんは口数が多いほうでないおれも猫が相手だと自然にさまざまな擬態語や感動詞を口走っている。(p.52)

「ほれほれほれぇい。う~んクロにゃん、待っていたのか。待っていたのか。お前よく留守番してたな、ん? よくいたな。これ。この猫め。ほっほう。お父さん帰ってきたよ。帰ってきたよ。ほれ。ほれ。ほれぇい」(p.54)

このうんざりすることばづかいで40半ばの男が猫にデレデレしている姿を想像するだけで虫唾が走りました、中盤までは。

しかし、この猫にむけられる愛情が、本作を読んでいくうちに「なるほど、そうかそれならわかる」と、猫にたいして好きでも嫌いでもない僕みたいな人間にも思えるようになっているため、本作は成功だといえます。そのからくりは、上で描いた二つのパートが密接に関連しています。つまり、妻とふたりでくらしながら先の展望がみえない、それでも生活を送っていかざるをえないなかで、猫への愛情は、もしふたりがもっと経済的に安定していたら、あるいは希望が持てる生活をおくれたら、ふたりのあいだに生れていただろう子供にむけられるはずだった愛情の代償となっているからです。いや、本文にそんなことは一切説明されていませんが、上の引用箇所も、猫に向けたことばでなく、夫婦の間にうまれた赤ん坊にむけられたことばととらえればすべてすっかり納得できます。

希望が抱けない、かなりしんどい生活のなかでも、動物にたいして愛情をむけたり、あるいは疲れている妻(夫、子ども)をいたわったりしてなんとか社会生活を送っている人というのは考えてみればかなり多いはずです。一方、相楽の後輩平野くんには、かれを社会(=人々の輪)につなぎとめておく存在はありません。使い捨てられ擦り切れてゆくだけの立場にたたされながら、それでもなんとかバイトをつないで生活をおくる。だからこそ、苦しさが本人の忍耐を超えてしまったときに、彼の中にそれまでたまった恨み辛みが、社会の、安寧な暮らしを得られている人々にたいする敵意に変わり、恨みを晴らす行動へと短絡してしまいます。似たような状況にある人間でも、もしだれかが平野くんの傍らにいるならば、平野くんはかなり高い確率で思いとどまることのできた人じゃないかとも想像します。職場で相楽にむけて告白する平野くんの胸の内にはかなりの程度動かされるものがありました。書き写すと長くなるのでぜひご一読を。

その意味で、社会の中にかろうじて引っ掛かりながらも、同時に平野くんのような人の立場も身をもって理解できる相楽が、最後の最後

〈子ザル捕獲。ようやく今おとなしくなった。〉
 おれはお兄ちゃんのからだにふれたままその短い書き込みをじっとにらんでいた。気を許せば「いいね!」を押そうとする自分を持てあましていた。(p.94)

と、平野くんの暴発をも承認してしまいそうになる葛藤でもって小説を閉じるのは、うまいまとめ方だと思いまいした。気を許してしまえば相楽も同じような方向に走る可能性は十分ありつつも、そうならないよう踏みとどまる。この姿はたんに猫を可愛がる幼稚な精神とは対極にある分別です。

一方で本作に不満な点をあげるならば、日本一党という右寄りの政党と、その政策を急進的に支持する護国真珠隊という人々の描き方。もちろん本作はフィクションなので、政党名なり隊名なりも作品世界内の作りごとだと思えばそれでいいのだけれど、相楽や平野くんの描き方はリアリズムでありかなり説得力もあるものなので、その一方で右よりの人を戯画化して、いかにも頭悪そうに(笑)描くというのはフェアじゃないと思えました。2013年の現在この小説を読む人はどうしても、日本一党の背後に、ここで描かれているよりも穏健とはいえ特定の政党を読み取ってしまいますし、護国真珠隊の人々にもそれに該当するグループを想定してしまいがちです。この描き方が損なのは、リアリスティックな部分からかなり浮いてしまうがゆえに、現実の特定政党などを透かしみる読者が「こんなわけないじゃん」とあきれてしまうかもしれないのが一つ。もう一つの損なところは、右よりの思想にも読むべき部分や参考になる部分はたくさんあって、その右よりの「よいところ」をまったく無視して藁人形叩きになってしまっているところ。右翼思想の読み直しというのは90年代半ば以降でしょうか、実証的なかたちでかなり進んできています。右にしろ左にしろ人を無理やり一色に分けするのはどちらも、馬鹿馬鹿しいだけです。

最後の最後によく理解できなかったところ。地の文では読点(「、」)がいっさい排除されていました。一文一文の長さは短めで読むぶんには全く負担にならなかったんですが、読点なしが何か効果をあげていたか考えてみても僕にはわかりませんでした。珍しいといえば珍しい試みながら、効果的でない(笑)という、なんだかよくわからない工夫でした。
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