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純文学は今後どうなるんでしょう

ブログをはじめてほぼ一年。純文学系の雑誌から適当にチョイスした作品の感想を書いてきて、だいたい120篇ほどになりました。その間いろいろ思うことがあったので、きりのいいタイミングですし、その思うことを書いておこうと思います。

産経msn.comに、石原千秋の8月文芸時評が掲載されています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130728/bks13072814230000-n1.htm

そのなかで、「文学賞の選評を読むと、知性のなさや教養のなさに驚かされることがある」とあって、ちょうど黒川創「暗殺者たち」の選評にたいする黒川創の批判のことを掲載しています。「暗殺者たち」は、ジャーナリスティックな記事でもできない、アカデミックな論文でもできない、小説という形式ならではの達成をした素晴らしい作品でした(僕の感想はこのブログに書いていますので繰り返しません)。この一つの達成を、選者という立場から一刀両断してしまった高村薫の選評を読んだとき、僕はつい「大逆事件のことって結構知られているのか。「暗殺者たち」を読んで感動したのは僕の単なる無知ゆえだったのか」と思ってしまいました。が、翌月号の新潮で、編集長の英断によって黒川創の声が掲載され、それを読み終えたとき、高村薫の選評になんともいいようのない憤りを感じました(町田康の選評は選考会で高村の意見に押された結果なんだろうと推測します)。

「そんなことよく知られている」「そんなこと常識だ」というのは、本当によくある他人の叩き方で、もちろんその通りのことがままあることは認めつつも、一方で、「エラい」立場の人がそうでない人を一蹴するときに使われる決まり文句でもあります。いわれた方は、リサーチ不足あるいは世間知らずと言われたことに負い目を感じて口をつぐまされてしまう。「暗殺者たち」選評をめぐる問題の場合、黒川創が条理をつくしてまっとうな声を上げているわけですから、高村薫はその声にたいして応答する義務があるでしょう(石原千秋のいうとりだ!)。「暗殺者たち」に描かれた大逆事件あるいはその関係者たちの記述が、いったいどういうよく知られた文献や定説にすでに書かれているのか。そう判断した根拠をきっちりと示すべきです。あやふやないいまわしてでそんなの常識だ」と言いっぱなしではあまりにもひどすぎる。

たとえばこの作品、丸谷才一が書いたものであったなら同じ選評だったろうか、とありえない想像をしてみました。実際、この「暗殺者たち」を読み終えてしばらくして、「サンクトペテルブルク大学で講演した日本人作家と、その講演を聞いていたロシア人女子大生が、恋仲になってベッドインしたら丸谷才一の作品だなあ」と勝手に想像したわけです。で、この作品をもし丸谷才一が書いていたとしたら、おそらく、同じ作品、同じテクストを扱っていたとしても、髙村薫(や町田康)の選評は同じものだったか。きっとそうではないでしょう。これはありえない想像にありえない想像を重ねたものなのでもう、妄想といってもいいものですが(笑)、この想像を通していいたいのは、ときに選評が、作品そのものを評価するのではなしに、単なる新人叩き、あるいは候補者叩きの道具になってしまうということです。

こんな風に、賞の選評には疑問を感じるものがままあります。

先の石原千秋の記事では、「選評とは異なるが、「群像」の「創作合評」なども往年の精彩をまったく欠いているし、「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」に至ってはあまりのつまらなさに絶望的な気分になる。総じて、最近の文芸誌は批評精神を失っている。」ともありました。これも本当にそう感じます。「暗殺者たち」の翌月の「創作合評」では、「暗殺者たち」という力作はスルーして、いとうせいこう「想像ラジオ」と、前月群像の星座特集短編のなかから二篇の評。評者に片山杜秀を呼んでいるにもかかわらず「暗殺者たち」を評しないのは、編集者の能力のなさ、片山杜秀という貴重な人材の無駄遣いを露呈した創作合評でした。ほかにもいろいろ失望する企画や作品が掲載されていたので今月から『群像』は買わないことにしました。

傍目からはよくわからないルールで動いている作家たちや出版社や編集者たち(人間関係とか会社の事情とか仕事のノルマとかあるのでしょうけど)とは別に、なんのしがらみもない僕が、それでもそこからスルーされてしまったり、無視されてしまったり、たいして取り上げられなかったりする作品のすごさを、ひとりでも多くの人に伝えたい。自分の備忘録的利用以外には、そういう気持ちで書きはじめたブログです。逆に、愚にもつかないような作品や、どこが面白いかわからない駄作を、無理やりほめているような書評にも腹が立つことが多いので、僕の個人的な観点からですが、駄作だと感じたものにはそう感じた理由をふくめてちゃんと書くことにしました。自分が知らないことや、理解しきれないことがあれば、それも「僕にはわからない」と正直に書くことにしています。少なくとも知ったかはできません。

石原千秋は今の文学を取り巻く状況として、「批評精神を失っている」と言っていました。もっときついことばで丸山健二は、(といって、彼のいっている内容のすべてに賛同するわけではありませんが)、自分の名前を冠した文学賞を創設したようです。

丸山健二文学賞宣言2013
http://shinjindo.jp/contents/maruyama_award.html

安っぽいナルシシズムと安直な散文によって構成された、読み捨て用の作品を大量生産し、大量販売するという、最も安直で、最も下世話な路線を突き進むことを主たる眼目として、また、それが文学の王道であるという自分たちにとって都合のいい解釈と誤解に身を投じながら、惰性のままにだらだらとつづけてきた結果が、このザマという、あまりと言えばあまりな、当然と言えば当然の、恥ずべき答えを出すに至った。

抜粋ですが、こんな調子で現状の日本の文学を取り巻く状況に憤り、そこから文学賞をたちあげた経緯についても書かれています。「小説家になりたい!」ではなしに、「小説を書きたい!」という人はこの賞に応募してみればいいんじゃないでしょうか。プロアマ問わずで、エントリー費用5000円というのも適度なハードルだとおもいます(笑)。たとえば、氏の賞に、文壇政治(もしそんなものがまだ残っているとすればですが)にどっぷりつかったプロが覆面作家として応募してきた作品を、氏ははたして受賞させるのかどうか。妄想がふくらみます。

だれもが終末の叫びをあげている純文学界隈。駄作も多いけれど、それでも僕は小説ジャンルのなかでは一番愛着があります。僕にとって大きな影響を与えた作品も数多いジャンル。傑作に出会える確率は限りなく低くても、確率や効率云々ではなくて、一生に一度出会えるかどうかの作品に巡り逢いたいという気持ちなので、まだしばらく、完全に絶望してしまうまではこのジャンルの作品を読んでいこうと思います。いい作品を紹介したい、駄作には早く消えてもらいたいという方針で今後も「小説を読む人のための雑記帳」では純文学作品の感想を書いていきます。今後ともよろしくお願いします。
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川上弘美「mundus」

出典:『新潮』2012年9月号
評価:★★☆☆☆

『新潮』同号の目次解説には、

「さまざまな人生の瞬間に、それはきらきらと光った──生と死と性が未知の輝きを放つ、新しい小説のmundus=世界へ。」(強調部は原文傍点)

とあります。通読して、ぽやややんとしたとらえどころのない印象(笑)。マジック・リアリズムのようなテイストというにはぶっとんだ出来事は起こらないし、かといってリアリズム小説かといえば、「それ」と呼ばれる謎の存在がでてきたり、定期的に洪水がおこる土地が舞台に選ばれていて神話的な要素もどこかにあり、決してそうもいえない。散文詩ではない。たとえばチュツオーラの『椰子酒飲み』が神話的思考を取り入れながらことばづかいの慣習を破天荒に覆していく抱腹絶倒の物語だったのにくらべると、この作品にも、どこともつかない世界で不思議な出来事が起こりはするところが共通とはいえ、いかにもこじんまりしているというか妙に所帯じみたところもあって地味。目次の煽り文句「新しい小説のmundus=世界」なんて、どこを指していってるんだろうと首をひねりました。

なんでもありのごった煮作品はどちらかといえば僕は好きな方ではあるんです。けれどもこの作品はその場その場の思いつきを、書き手の感性のままに書きつけていったような感じを受けました。シーンの変わり目の頭に「/」をいれている体裁も変わっていますが、これもどちらかといえば戦略的に使われているというよりは、それまでのシーンの続きが書けなくなったのでぶつ切りにして次に行っちゃえという気ままさの表現としてうけとってしまえます。

焦点の定まらない感じは文体にも出ていて、

すでに水の底に沈みつつある町の、わずかにある三階建ての家の屋根、小学校の校庭の国旗掲揚棒、そして物見櫓をぐるりと眺めた後、子供は隣町の城の天守閣を探した。その昔滅びた城だったが、本丸は朽ちてなお残り、夕刻ともなれば子供の住む町からは沈みゆく太陽の光をあびて輝く天守閣が望めたのである。(p.15、原文ママ)

なんて、それまでの「洪水がおこって水没した町」の話から急転、歴史小説になってしまいます。「夕刻」て(笑)。「沈みゆく太陽の光をあびて輝く天守閣」て(笑)。それに、「望めた」も「臨めた」の誤用でしょう。がんばれ、川上弘美とその編集者。

結局なにがなにやらわからないうちに作品は終わり、読み終わっても違和感もなにものこらないものでした。書き手のその場その場の思いつきにつきあっただけの印象。「きらきら」とか「甘苦しい」とか、もう雰囲気だけでことばをお手軽につかってしまうだらしなさ。感性ということばは、書き手の気ままさにたいする免罪符では決してないはずです。

(追記)「望む」でOKでした。望む、はてっきり願望の「望む」の意味しかないものだと早とちりしてしまいましたが、よく考えてみれば、「展望台」っていいますものね。僕の知識不足でした。川上弘美さん、すみません。

北野道夫「失踪」

出典:『文學界』2013年7月号
評価:★★☆☆☆

これも二人称。二人称のしくみと効果については「爪と目」書いたのでこまかくは繰り返しませんが、要点だけもういちどさらっておくと、呼びかけ手と呼びかけられ手との関係のなかで、「あなた(お前、貴様etc.)」という呼び方が、両者の関係を適切に表しているかどうか。ここがポイントでした。

この作品の冒頭では、

 お前の叫び声が聞こえる。(p.104)

とはじまって、叫んでいる「お前」と、その叫びを聞いている語り手がいることがわかります。ただしすこし読み進めると

お前は電車の騒音に搔き消されてしまうのをいいことに力の限り叫んでいる。聞こえないはずの、分らなかったはずのお前の叫び声が、私の頭の中で鳴り響くたび、私は生まれ変わったように新たに呼び起こされる。(pp.104-5)

とあって、冒頭の第一分では、叫びが聞こえていたはずにもかかわらず、ここで「お前」の叫びは電車の音でかき消されている。また、「頭の中で鳴り響く」というのも、直接聞いているのか、語り手の頭の中でだけ響いている想像上の声なのか判然としません。

出だしのこのあたりの違和感というか、謎を解いていく作業がこの作品のこれ以降の読み方になりました。ただし、視点がこの語り手には固定されておらず、ほぼ全知の語り手、いわゆる神の視点めいた立場から語り手が語る箇所もあったり、それまで語られていた内容と似たような状況のテレビドラマの状況が突然さしはさまれたり、今度はこのテレビドラマに似た出来事が語り手の身の回りおこったりして、この作品の読者は、終始安心できません。このあたりに快感を感じる読者もいるのかもしれませんが、僕には不快なだけでした。作者都合で読みを撹乱されて、「実はテレビドラマでした」とか「実は語り手の頭の中で響いている女の声でした」との種明かしをくりかえされる。描写もエピソードもたいして興味を引くものではない。作者の自己満足しか感じられません。

それに、この語り手と「お前」との関係も二人称を必要としているようには読めませんでした。語り手が誰なのか、最後にうんざりするような種明かしがあります。

あの日、私はお前から出てきて、お前を取り巻くあらゆる人物や自然、すべての言葉や出来事になった。(p.137)

「お前」と呼びかけながら、「お前」の内的独白を忖度したり、赤の他人に視点がうつったり、ほかにもいろいろ視点が拡散してきた書き方について、最後でこんな言い訳するくらいなら、最初からオムニポテントの視点で書けよと思います。ここまで作者に翻弄されてきたものとしてはがっかりしかしませんでした。なんというか、書き手一人が面白がっていて、読者は延々それにつきあわされているような感じ。芸人が自分一人で面白がっている芸を、観客は終始白けてみている感じ。「で?」っていう。

作品にいろいろ仕掛けをいれるたくらみは書き手として素晴らしい姿勢だとしても、それが実際効果をあげるかどうかというとまた別モノです。いろいろ企むことが好きそうな書き手ではあるので、一度、読者にもわかりやすい、エンタメ寄りの作風で書いてくれればきっともっと読まれる人だろうなと思います。今のままだと「狭い」ですね。

藤野可織「爪と目」

出典:『新潮』2013年4月号
評価:★★★★☆

読んでいたのでてっきり感想を書いたもんだとばかり思っていたら、ここには何も書いていませんでしたね。というわけで完全に乗り遅れた感ありありで「爪と目」の感想です。

二人称小説というのがひとつのポイントで、これは島田雅彦委員もいってたように、二人称小説の試みはいくつもあれど成功した例はそれほど多くないなか、この作品は「あなた」の使い方が実にうまかったですね。二人称小説というとパッとおもいつくのを列挙してみればビュトール『心変わり』、倉橋由美子『暗い旅』、清岡卓行『フルートとオーボエ』、近年では森健「鳥のようにドライ」、多和田葉子『容疑者の夜行列車』くらいか。色モノでは、木下古栗「夢枕に獏が……」で、作品途中から唐突に「貴様」(これも立派な二人称)を使用していたのに面食らった記憶も。まあとにかく読んでみて、ああこれは二人称うまくいってるなとか、なんだこれは!と違和感をのこしてくれたものがざっとこのくらいだとすると、失敗作や印象に残ってないものがたぶん記憶の底に埋もれたままになっていると思います(笑)。

二人称がうまくいくかどうかの分け目は簡単にいえば、語り手と、その語り手がよびかける「あなた(お前、あんた、貴様etc.)」との関係が、その二人称の語りを必然的な語りの形式として要請しているかどうかにかかっています。特に、日本語の場合、二人称小説がうまくいきづらいのは、「あなた」なんていう言い方をする関係はごく限定されているから。恋人や夫婦関係にあるものに対して「あなた」という場合を除けば、どちらかといえばよそよそしい関係、語り手と語られ手(?)との関係に隙間風のふくような、かい離する関係になってしまいます。それに、日本語だと「あなた」なんていうよりも、子持ちの妻(や夫)が相手に呼びかけるときは「お母さん(やお父さん)」といった親族関係のなかの最年少者からみた「立場」でもって「あなた」の代用とするでしょうし、目の前の人を呼ぶならばたんに「先輩/後輩」という年齢の上下関係で呼びかけたり、「社長/部長/課長/店長……」という役職で呼びかけたり、あるいは「○○さん」と直接名前で呼びかけたりする場合がほとんど(こういう意味でいえば大鋸一正「O介」『文藝』2012年秋号も二人称小説です)。こういうことばづかいの慣習もあって、にもかかわらずそれらのどれも選びとらずわざわざ「あなた」と呼びかけるわけですから、日本語の「あなた」にはかなり屈折した関係が反映される呼びかけ方になってしまう。日本語で「あなた」を使う場面というのはけっこう限定されてしまいます。

この「爪と目」が「あなた」という二人称を必然としているかどうかでいえば、たしかにそう。父親の愛人だった女性(そしてのちに妻となる女性)にたいして、父親のつれ子が感じる微妙な距離感というのは、面と向かって「あなた」とは呼びかけないまでも、こころのなかで「あなた」呼ばわりするのは、よそよそしさ、ぎくしゃく感、さむざむしさなんかを感じさせられて成功している。

 はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。父は心底すまなそうに、自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた「はあ」と言った。そんなことはあなたにはどうでもいいことだった。ちょうど、睫毛から落ちたマスカラの粉が眼球に入り込み、コンタクトレンズに接触したところだった。(p.8)

冒頭から、人間関係がどうなっているのかかき乱されますね。すこし読みすすめていけばこれが、つれ子の「わたし」が、父親の元愛人にむかって「あなた」と呼びかけている語りになっていることが了解されます。

この作品を二人称小説という形式以外でよむとすれば、「邪悪な子供」の系譜に属する作品といえるでしょうか。コクトー、ラディゲ、バタイユの描いた邪悪な子供はそれぞれ、大人の目の届かないところで、世間の常識(あるいは建前)である「子供=純粋、天使」図式を転倒してみせて、さらにその背後には戦争の残した爪痕、廃頽、秩序の崩壊なんかも読み取れるものとなっています。たいして、この作品の語り手の「わたし」には、そういった、ある意味わかりやすい大きな社会的事件の影響は見てとれません(「国内で、長く記憶されることになる天災(p.13)」に言及があるもののこれは完全に添え物です。むしろこの大天災とはほとんど無関係な場所でこの人間関係のドラマが生起していることのほうがポイントでしょう)。わかりやすい図式に落としこまないで、閉じられた人間関係のあいだでおこるやりとりが、舐めとられるコンタクトレンズや、ギザギサに噛まれた爪なんかの道具立てに象徴される不気味さに結晶しています。

二人称語りの成功、これまで描いてきたホラーテイストの作風、邪悪な子供や眼球、爪といった純文学読み好みの素材、大きな物語で簡単に割り切ってしまえない現代的人間関係。きわめてまっとうで、かつ読み終えて、たのしい、ぞっとする作品でした。芥川賞受賞おめでとうございます。さらなるはっちゃけた作品を期待しています!

馳平啓樹「三千階段」

出典:『文學界』2013年8月号
評価:★★★☆☆

三千段の階段を作ろうとした語り手の話です。ランニングシャツの工場があるくらいでとりたてて特徴のない町で、仲間たちと三千段の階段をつくろうとするも、計画の途中で、カネは出さないが口は出す人たちがわいて計画は頓挫、そのまま語り手は計画から身を引いていたものの、この語り手不在のままに三千段の階段を作る計画が再始動しはじめた、というところから話がはじまります。

語り口が特徴的で、希薄化する語りというのか、無人称化する語りというのか、無機質な語りといえばいいのか、身の回りにおこるさまざまなことから語り手は距離をとったり逃げたりする態度をとるわけですが、そういうデタッチメントな文体です。読みはじめはなれないので違和感ありましたが、読み進めればそれほど苦にならず、上のような理由で僕は了解したのでまあ必要な語り方なんだろうなとおもいました。

肝心要の彼らだけが、議論に加わらなかった。耳を貸すこともなかった。参加を求められていた。多忙を理由に避けていた。加熱するばかりの論争を知らないかのようだった。平然と作業を続けていた。(p.115)

こんな語りでずっとつづきます。どれも文脈の流れにそって読んでいれば読み手には了解できるものですが、そこにあってもいいはずの要素をかなり文のなかから省略しています。上の引用箇所でいえば、第二文目は「誰が」耳を貸さなかったのか書かれていないし、第三文目は「誰が」「誰に」参加をもとめていたのか書かれていないし、第四文目も「誰が」避けていたのか書かれていない。こういう空白部分を読みの中で読者は補いながら読んでいきます。飛び石をポンポンポンとわたっていく感じでしょうか。ただし飛び石間の距離は決して読者に無理な負担を強いないもので、計算がいきわたっています。

小間切れ短文を積み重ねるといえばハードボイルド調を連想してしまいますが、このお話にアクションは希薄です。むしろ語り手の特徴である、何事からも距離をとる感じ、距離をとった結果自分がどこにいて何をしているのか生き生きとうけとれない感じを、ときにはさまれる語り手の注釈やひとり合点が表現しています。次の引用は、牛丼チェーン店で並盛の牛丼を前に語り手が独白する部分。

どれだけの時間が費やされたのか。労力が、注ぎ込まれているのか。松屋で食べるとき、そんな考えがよく浮かぶ。たやすく生み出されてはいないだろう。何千時間も費やしているはずだ。血の小便が出るほど努力しているはずだ。その末に辿り着いた何かが「並」なのかもしれない。ありふれて見えるものなのかもしれない。そうであるなら、世の中に溢れているありふれた物事は、ありふれて見えるものほどありふれていないことになる。ベーシックなものほど、ベーシックでないことになる。(p.109)

牛丼一杯でこんな風に考えてしまうのが病の兆候じゃないかとか、脇筋にそれて考えてしまいましたが語り手はどうもまじめにそう思っているようです。凡庸さのなかに非凡さを見て取る発想じたい別に新しいものとはおもいませんが(たとえば柳宗悦の民芸)、そのありふれた発想をあたかも一大発見のようにいいたてるこの語り手を、書き手の馳平啓樹はどれほど突き放して書いているのかその辺がちょっと謎です。「分かってやってますよ」ということを示すなら例えばこの語り手の考えを相対化する人物や出来事がでてくるはずですがそういう作りにもなってない。

僕が瑣末なことをとりあげていない証拠に、この作品のキーワードの一つは、「ベーシック」(とその背後に隠れている非-ベーシック)であることからもわかるはず。もうひとつ、この平凡が非凡に裏返るさまは、作中なんどか登場するオセロゲームとも重ねられます。実際、語り手は牛丼の食後すぐ、スマフォでオセロアプリにいそしみます。

突き詰めてみた。結局全ては物質なのだ。そう腹を括った。無限に続く物質だった。僕を取り囲んでいるのだ。(p.124)

そういわれても(笑)。

こんなふうに一人で納得してしまう語り手ですが(このあたり、いやな感じをうけ)、省略が多く希薄化する文体は読む箇所によっては詩のようにも読め、そのあたりは読んでいて楽しめました。

 太陽が照り付けていた。視界を白くたぎらせていた。夕方近くになるはずだった。おかしかった。時間は作りものと化していた。ハリボテみたいに巨大だった。張り合うように見上げた。光の量にやり返された。僕の両目を叩いた。隅々までやられた。熱の塊を感じた。目を背けなかった。その眩しさによく耐えた。すぐに飽きるのだ。どうせ飽きてしまう。飽きてしまえば何でもなかった。
 季節は感じられなかった。春夏秋冬いずれとも違った。密室だった。外から鍵をかけられていた。雲は鎖に繋がれていた。風は一箇所に燻っていた。熱にも自由がなかった。太陽ばかりが煩わしかった。時間ばかりがむやみに威張った。そんな町で暮らしていた。よく働きもした。(pp.122-3)

第二段落のあたりはすごく好きです。最後の二文は歌謡曲調になってしまってるので、個人的にはいらないと思いますが(笑)。

語り手の態度がこの語り口、文体を要請していている作品です。僕はこの語り口は全体としてみれば成功していると思いました。

山下澄人「砂漠ダンス」

出典:『文藝』2013年夏号
評価:★★★★☆

最近になって人称をいじる小説が増えてきたのでしょうか。昔からあるといえばそうなんですが(たとえば横光利一「純粋小説論」の四人称)、ここ数年の文芸誌に掲載された書き手の、二人称小説だとか、主語を省略する小説だとかがぽつぽつ書かれているような気がします。「砂漠ダンス」も、そんなことばの可能性を広げる小説です。この小説では「わたし」がさまざまな人や動物に、憑依というか変身していく話です。この作品での語り手の「わたし」というのは、ひとりの人間であると同時に、人間をこえた語りの場といえます。語りの場で、さまざまな時間と場所が結びつき、切り離されます。物語の本質ですね。

はじめ、「わたし」が砂漠に行こうと思いたつところから話がはじまります。そこから、コヨーテになったり、見覚えのない男になったり、もともとの「わたし」が日常すれ違っている人間になったりします。さまざまな人間(や動物)に移り変わるものの、語り手の「わたし」のアイデンティティは保持されていますね。自分が何に憑依だか変身だかしているのかをはっきりと意識している「わたし」、しかしその憑依されているほうは「わたし」の自由になるとはかぎりません。このへんが特に面白かったです。以下の引用は、ある男にとりついた「わたし」。

「……はどこですか」
 といった。男には[……]のところが聞き取れなかった。わたしには聞き取れた。女は[区役所]といった。(p.173、括弧内原文)

男の後ろはわたしがいつも座るテーブルであり、この時間帯はわたしがあらわれるならあらわれる時間帯だ。わたしは後ろが見てみたかった。しかし男に振り返る気配はない。男は後ろに誰かがいるという事すら認識していないようだ。(p.174)


語っている「わたし」と語られている「わたし」の分離。これはなつかしのウィトゲンシュタインでしょうか。フレーゲだったでしょうか(うろ覚え)。こうして「わたし」が様々なものにずれ込みながら、砂漠にいったはずが、物語は円環を描くようにしてもとの「わたし」のそばまでもどってきます。最初のほうで、事故をにおわすような記述もあって、実はそれ以降、死んだ「わたし」が走馬灯を見ているとか、脱魂してさまざまのものにとりついているとかも読みの可能性として残されます。このへん、映画の『マルホランドドライブ』を思いだしました。

「大丈夫!!」
 ノグチが叫んだ。ノグチは膝まで湖の中に入り、肩で息をしていた。そのときわたしは空に赤い星が横切っていくのが見えた。それはものすごいスピードで、何よりも速く見えた。事実それのスピードは時速にすると時速六万四千キロ、音速の五十倍で、岩と氷のかたまりで、人間の知らない場所から飛んで来た。それはその後、ここをかすめて、またどこか人間の知らないところへ飛んで行く。どこまで飛んでどうなるのかは誰も知らないし、知るとか知らないとかの向こうへ消えていく。(p.183-4)

この一節にはポエジーを感じられて、特に気に入った部分。

彗星がさっと飛んでいく描写を、詳しい速度(人間の認識)で描写しながら、その飛び去っていく先は人間の認識を超えていってしまう。「知るとか知らないとかの向こうへ消えていく」。何度も口にしたいですね!語りえぬものについては沈黙しなければならない、の変奏かと思いました。

とても面白く読んだ作品でした。ほかにも、主語と述部をつなぐ「は」と「が」の違いとか、モノの空間的配置に執着する描写(上下左右)とか、競馬好きのタカハシさんとか、この作品をおもしろく読み説けそうなキーがいくつもあります。あえて注文つけるとすると、せっかく「わたし」が奔放にいろんなものにとりつくのだから、もっとあり得ない時間や場所に存在するものにとりついても面白かったのかもしれません。ただそうなってしまうと、事故死したはずの人間がみている夢の線では読みとけなくなりそう。やっぱりこれでいいです!浅はかでした、すみません!

青木淳悟「私のいない高校」

出典:『群像』2011年2月号
評価:★★★☆☆

『本格小説』がロマンにロマンをこってり重ねていったロマンのn乗の話だとすると、この小説を読み終わって思ったのは、ロマンからロマンらしさをできるだけそぎ落とした、遅れてきたアンチ・ロマンとでもいえばいいのかな。読後、「ふしぎな」とかしかいいようのない違和感を残してくれました。自分の感じた「ふしぎさ」はひとえにこの小説の、他の小説とは明らかにちがう、でもこれも小説といえる、そんな特徴にあるとおもうので、その特徴をいくつかに分けて考えてみます。

この作品のストーリーをいってしまえば、カナダからやってきた留学生のナタリーと、日本の女子高生やその担任、ホストファミリーたちがすごす三カ月の話。これだけだと、文化のギャップからドタバタがおこったり、恋愛があったり、青春があったり、なにか設定だけで「お話」がたちあがってきそうな気もします。しかし、この作品にはそういう「お話」としては展開しません。ありきたりな小説を拒否する姿勢です。まさにアンチ。

読みはじめてすぐおもったのは、「これは小説じゃなくて、業務日誌だ」というもの。作中ででてくることばは、何々があった、誰誰がどうした、という事実文の報告、説明のオンパレードです。でてくる人物の主観や心理を描写するくだりもあるのはあるものの、翻訳文のような受け身形で表現されることがおおいです。

今回留学生が目指すのは三級だが、日本語を母語としない者に対して多くの大学が、一級から四級まであるうちの一級の取得を出願要件としているとのことで、日本語能力試験の存在自体を最近知った担任には興味深く感じられた。(p.37)


最後に登場人物のクレジットが登場順にならんでリストででてくるんですが、この作品ではどの人物も「他人」と感じてしまいます。いいかえれば、「私」としてとらえられない、自分にひきつけて考えられない。業務日誌という感想をもったひとつには、そういうクラスメイト(やそれを記している担任までも)に客観的な距離をとって淡々と記述しているかのような体裁がとられているかもしれません。発表時はたしか、「主人公のいない」小説としてこの小説のことがとりあげられてた気がします。そしてそれはそうでありつつ、どれもどこか「他人事」としてとらえてしまうような仕掛けになっているところからも、「私」のいない小説と捉えられるかもしれません。

この作品ひとつを通読して、狭い意味での読みの制度があぶりだされます。「読者が感情移入できる人物を描かなくちゃならない」「心理を描かなければならない」。こういう考え事態、なんか時代を感じますが(笑)、本作を読むなかで、なかなか入りこめない自分を発見すると、あらためて自分もそういう予断をもって本を読んでたんだなあということが知れました。

文章の特徴としては、ほぼすべての文末が「た」で終わっています。これも、「日本語の特徴として文末の表現が「た」で終わって単調になってしまう(だから書き手はそうなる事態を避けるべきだ)」という暗黙のルールに、アンチを唱えるような書き方です。そして、たしかにこのルールのいうとおりこのような内容でしかもこんな文末を連発されると、ものすごく単調でさらに作品世界に入りこめなくなってしまいました。そして自分の思い込みをふりかえって、「まあ無理に入りこまなくてもいいのかな」とも思うようになりました。

こうして、徹底的に「ありきたり」を拒否する姿勢が貫かれて書かれた作品だからこそ、作中に紋切り型がでてくると、ほっと安心しもしました。水が飲みたいのに水が一滴もない砂漠を「もう限界だ」とさまよっていたら、ぽつんぽつんとオアシスがあってのどの渇きをいやすような感じといえばいいのかな。たとえば、

町田駅での待ち合わせから同国人とのパーティーを楽しんで家に帰宅するまでのことをぼんやり頭に思い浮かべたりした。「無事、家に帰り着くまでが──」(p.54)

生徒は一度は起きてこれを聞こうとしたものの、ほとんどが興味もないし眠いといった態度であり、無線塔の紹介が済んで楽にしていて構わないと言われた途端、また眠り込む動きがあちこちで起こった。その「トラ、トラ、トラ」の打電から「リメンバー・パールハーバー」のことまで、話の間に私語こそ出なかったものの、担任は傍らで聞いていてもまるで手ごたえが感じられず、あとで大久保主任とは「やはり女子高生には──」という話になった。(pp.90-1)

決まり文句は言わずともわかるということで、上の引用では「──」で省略してありますが、先に続く文字列を読んでいればこの「──」に入る部分も、読者はそこまでの流れから自分の頭で補って読むことになります。延々報告書のような文章を読んできて、この、「自分の頭を働かせて読む」という瞬間の喜び(笑)。

ありきたりの小説に飽きた人、たくさん小説を読んできた人には結構楽しめる、普通じゃない感じがある不思議な作品です。僕にとっては、「まあこういう小説もありなんだろうけど、二回目は通読しないだろうな」という類の作品でした。

水村美苗『本格小説』

出典:水村美苗『本格小説』(新潮社・新潮文庫・2005年)
評価:★★★★★

これを読んだことないひとは損をしています、そう断言したい一冊。ぼくにとっては、年に一度か二度は読む小説で、久々に本棚から取り出して読みふけっていました。日本語でこの小説が読めることの幸せをかみしめながら、読むたびごとに新しい発見のある小説としてページをひらけばさいご、いつまでも浸っていたくなる一冊です。挑発的なタイトル、「本格小説」の名に恥じぬ堂々たるストーリーテリング。『嵐が丘』や『櫻の園』はじめ、その他あまたの小説、民話、もういろいろひっくるめてこれまで世界各地で語り継がれ、書き継がれてきた「お話」の流れがこの一冊の中で合流しています。よく悪いニュアンスを込めて「お話」ということばがつかわれますが、ここではそんな含みは全くありません。

まずもって恋愛小説であり(文庫の後ろには「超恋愛小説」とあります)、女中小説でもあり、出世譚あり、没落譚あり、復讐譚あり、幽霊がでたかとおもえば、俗っぽい色恋もあり。これだけ楽しい「お話」の要素をぎっしりと詰め込みながら、「どうです、こんなに先行作品を読んできたんですよ」といったしょうもない衒いもなければ、消化不良をおこすこともなく、とうとうと流れてきたお話の系譜に敬意と批評の眼を同時に向けて書かれていることがわかります。水村美苗の深いところにいったん吸収され濾過され蒸留された「お話」の純度のたかいエッセンスが、今回の何度目かわからない再読でもまた堪能できました。

今回なんでこの小説を取り出したかというと、先日読んだ平野啓一郎「Re: 依田氏からの依頼」(『新潮』2013年7月号)にずっと、ひっかかりを覚えていたから。ひっかかり、というのは「いろいろ仕掛けがあるのに、それをいまいち楽しめなかったのはなぜだろう」というもの。もちろん、僕が戯曲にほとんど興味や知識がないというのも大きな理由なんですけど、それにしたって工夫のあとがみられる小説なんだから、いくらなんでももう少し楽しんでよむことはできなかったのか。数日、疑問をかかえたままでしたが、そこでふと気づいたのが『本格小説』の存在。

『本格小説』の語りも入り組んでいるので、どこがどう違うのか、語りの点から比べてみることにしました。

で、結局いきついたのが「声」のあつかいなんですね。「Re: 依田氏からの依頼」の場合、語りの層がいくつか積み重ねられてはいるものの結局最後は小説家大野の編集手腕や文体の選択に、小説の「声」が収斂してしまうんですね。いくら依田氏の体験する時間が伸び縮みしようと、付添の女が自分の都合のいいように依田氏の語りを改編しようと、最後には大野の手によって、一編の小説としてそれほど矛盾のないひとつの「声」にまとめあげられてしまう。最後まで読めば分かりいいんだけど、ものたりないわけです。

対して(並べてしまうのはなんだか頓珍漢な気もしないではないんですが)、『本格小説』の場合、語りの層がいくつか積み重ねられながら、それがいくつもの「声」や視点に分かれているから。といったそばから矛盾するようなことをいえば、この『本格小説』の最初と最後は「私」となのる小説家が、加藤青年から聞いた話を小説の体裁で書いているということにはなってはいて、この点「Re: 依田氏からの依頼」と変わらないはずなんですが、『本格小説』に書かれてある内容や文体は、かなりの程度「私」の存在を消しています。

小説家大野が律儀に作品のつくりを説明、解説してくれる「Re: 依田氏からの依頼」とはちがって、その場その場で違う語り手に憑依するように、別々の「声」や視点から作品のリアリティを構成する『本格小説』は、それぞれの視点から、見えるもの、見えないもの、見ようとしていないものが分かれています。作品世界の奥行きを読者に想像させてくれる余地がある。初めて読んだとき、女中だったフミコさんの語りにまんまと乗せられたあとで、冬絵さんが「第二みどりアパート」を訪ねていったときにでてきた、下品な女の語りにうけた衝撃は、再読するとき仕掛けが分かっていても、やはり読むたびごとに衝撃を受けます(何でもかんでもネタばれすると面白くないので詳細は伏せておきます)。

このあたりが、「Re: 依田氏からの依頼」と『本格小説』とをくらべてみて感じた、語りかたの違い、そしてそこに根っこがある、おもしろさいまいちさの分水嶺。

また、『本格小説』って、これでもかとベタな要素を詰め込んで、使われることばや文体も決して凝ったものではないにもかかわらず、これだけ読者をひきつける。それはひとえに、ベタの強度にあるはずです。ベタを中途半端に無自覚に書きつけてしまう小説は、焚書にしてしまえばいいと思いますし、またベタを毛嫌いするだけしか能のない小説には書き手のドヤ顔やスノビズムしか感じられませんが、これだけ徹底して、なおかつ戦略的にベタを積み重ねてしまえば(何しろタイトルからして『本格小説』です。書き手から差し出された「分かってやってますよ」というメッセージに、読者は本を手に取った瞬間からめとられます)、こんな大傑作が誕生するわけです。ベタをベタだと認識するためには、莫大な量の小説やお話に触れて、しかもただ触れる量だけでなく、深いところに落としこんでおかねばならないという質も必要なはず。水村美苗は間違いなく、その条件をクリアしている稀有な書き手です。

 今さら弁明してもしかたのないことですが、三枝家の山荘に足を踏み入れたとき、わたしはよう子ちゃんがいないものと決めてかかっていたのです。屋根裏部屋でその姿を最後に見たのはもう十年近くも前のことでした。しかも今や物置と化した屋根裏部屋はもうゆう子ちゃん一家ですら長い間使っていなかったのです。それに加えてわたしももう五十半ばで昔の足腰の強さがありませんでした。建て増しし、やたら広くなった山荘を一階から漫然と見回り、最後に屋根裏に行く階段にかかりましたが、半分昇ったところで足を留め、廊下に面した三つの扉が閉ざされているのを眼にしただけで、そこから引き返してしまったのです。でもそれだけならあとでこうも自分を責めることはなかったでしょう。引き返そうとしたその瞬間、妙な感じがしたのです──したように思うのです。あとから記憶を塗り直してそう思うようになったのかもしれませんが、三つの閉ざされた扉が何かを語りかけているような気がしたのです。というより、あれは未だに訳がわからないのですが、幼いころのよう子ちゃんが亢奮して一人でしゃべっている声が聞こえてきたような気がしたのです。あたりは森閑としているのに一瞬幻聴があったのです。階段を一段一段降りるのにも、その幻聴を振り切るような思いで、そうっと音を立てずに降りたような記憶があります。雅之ちゃんとの寡黙な帰りの道中も、もう一度確かめに戻りたい衝動と戦っていた記憶があります。(pp.417-8)

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