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いしいしんじ「その場小説──黄・スモウ・チェス」

出典:『新潮』2013年9月号
評価:★★★☆☆

芭蕉のことばに「文台引下ろせば即反故也」とあります。もともと俳諧連歌の詩人である彼が、発句→第二句→第三句……とつづけていく俳諧連歌において、もっとも重視したものがこのことばに述べられています。すなわち、その場に集った連歌の参加者たちが、集団でコラボレートして意表外の面白い句や、一同がうなるような妙句を即興で続けていく、そのまさに連歌がつくられていく現在進行形の時間こそ最もいとおしいものだ、そこが楽しいんだから、詠み終えられ記録された連句一巻は、もうたんなる反故にすぎない、の意です。

いしいしんじは賢いとおもうので(何の根拠もありませんが僕は勝手にそうおもう)十分わかったうえで、この小説を雑誌に発表したり本にしたりしていると思うんですが、この『新潮』2013年9月号に掲載された「その場小説──黄・スモウ・チェス」もいってみれば反故……はことばがきついから記録といいかえますが、この記録だけでは十分にその場小説の面白さは味わえないはずです。つまり十分にこの「その場小説」を味わいたいのであれば、やっぱりいしいしんじ本人が創作している現場で、場の雰囲気を共有しながら、思いがけない一文が飛び出したり、陳腐なことばが飛び出したりする起伏を、文字通りその場で体感したほうがいいんだろうなと思いました。

本作は、三つの短編というかショートショートのようなもので、どれも京都大学でおこなわれたセッションの記録。それぞれ、児童文学のようなやわらかい発想でつづられた作品で、なかでも「スモウ」を面白く読みました。

学生たちとの会合や飲み会は、まるでシルバーバックが群れの子どもゴリラたちと遊んでやっているようで、嫌ではないが、日本の十代二十代は、ほんまにゴリラでいうたら乳離れしたかしないかくらいやなあ、なんてことを思う。(p.158)

「ゴリラでいうたら」がなんとも味わい深いフレーズです。ゴリラ学者ならではで、この人は日本で暮らしている日常生活のなかで、なんでもかんでもゴリラにたとえてるんだろうなと思える。即興でこういうフレーズが出てくるなんて面白いですよね。

ここはもう京都ではなく、学生時代から慣れ親しんでいるアフリカの森だと、足の裏が告げている。(p.158)

「足の裏が告げている」というフレーズも気に入りました。これもゴリラ学者ならではの感覚、表現なんですが、正確に突っ込みをいれれば、京都御所の森とアフリカの森とのおよそ植生が似ていないだろうふたつの場所を峻別できてない足の裏は案外あてになっていません(笑)。すっとぼけたユーモアを感じました。ちょうど並行してロダーリの『猫とともに去りぬ』を再読していたところだったので、児童文学的な自由な想像力に魅了されること再三でした。

その一方で、陳腐なフレーズやいまいちだなあと思える箇所もいくつかありました。これも「その場小説」の即興性ならではだとおもうのですが、この作品はあくまで「その場小説」そのものではなくて、上でいったようにその記録です。すなわち読者はその場に居合わせているわけではなくて、雑誌に掲載されている作品を場所と時間を異にして読んでいる。だから、いくつかのいまいちだなあと思えるところをそのまま掲載してしまうというのは、「その場」ということばが、不出来な箇所のたんなる言い訳になってやしまいかとも思うのです。

雑誌に掲載される小説作品は、いってみればどの作品も例外なく書かかれつつある瞬間、すなわち「その場」があったわけで、なにもいしいしんじの小説だけが「その場小説」ではない気もするのです。もちろん、集団に公開しながら執筆していくか、書き手が一人机とパソコンにむかって執筆していくかという外見上のちがいはあろうかとおもいますが、書かれていくプロセスでは、集団であれ、書き手自身であれ、書きつけられたことばの読者がそこにはたしかにいて、その読者の反応によって先を続けていくわけですから本質的には「その場」性を共有しているともいえる(僕自身、今書いているこの文章が読み手に伝わるだろうかと思いながら直し直し書き進んでいるところです)。

とすれば、この「その場小説──黄・スモウ・チェス」を書かれた結果としてのテキストだけをぽんと雑誌に掲載してしまえば、あえて「その場小説」と標榜する意義は薄まってしまう(というか推敲したり一定期間寝かせたりしていない未成熟な作品という色合いが濃くなってしまう)。ライブ感をできるだけつたえるなら、ジャズでもクラシックでもポップミュージックでもアイドルの歌でもかまいませんが、そのライブ音源のように、観客の熱狂や歓声、手拍子、溜息をもふくみこむような、すなわち受け手の反応もどこかに記されているような作品だったらいいなと思いました。参加者の反応を単に文字に起こすというような単純な方法では達成されないだろうとおもいますので、このへん、いしいしんじなら他人には思いもつかない面白い工夫をしてくれそうな気がします。

今回の作品テクストのみのままだと、録音室で演奏された小品の、ミスタッチもあるけれどそのまま修正せずにCDにしましたよというような片手おちの作品という気がしないでもない。だから、今回掲載された「その場小説」は、「その場小説」そのものというよりは、そういう試みがあったよという記録、ないしはこの記録を読んでみて興味をもった人へ、「次はその場にぜひいらっしゃい」と誘いをかける招待状として僕はうけとっておきたいとおもいます。
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二瓶哲也「今日の日はさようなら」

出典:『文學界』2013年9月号
評価:★★★★☆

面白かった。最後のおちのつけ方には賛否あるかもしれませんが、デビュー作のときのように読者を驚かせてやろうというたくらみは書き手の資質として好意的に受け取れますし、いかにもとってつけたようにならないように確かな筆致で最後のシーンにいくまで緊張を盛り上げていく手腕はとてもデビューしたての書き手とは思えません。

新潟の、親族にやくざ関係者がいる一家の話を、哲秋という小学生の視点から描きます。父親きょうだいが四人いたり、それぞれにまた離婚や再婚、子供がいたりと、人間関係がかなり錯綜しているにもかかわらず、それぞれの人の特徴をしっかり読者につたえる端正な書き方には舌を巻きました。ちょっとのシーンだけ出てくる人でも、そのちょっとのシーンに十分存在感があって、人物関係がごっちゃになってしまわない。読み進めながら、人間関係の相関図を埋めていく楽しみがありました。

哲秋とは異母兄の春彦、かれの純粋さ、そうであるがゆえに他人の地雷を踏んでしまううかつさの描き方が特に出色です。次の引用部は、近所の神社の例大祭に出ている夜店のおじさんに、哲秋と春彦が呼びとめられた場面。

「おやじのところで世話になってる者(もん)だ。お前ら、おやじの弟の子らろ? 奢ってやるよ」と男は言った。
「でも、知らね人からもらい物するなって、父ちゃんに言われてるけに」春彦は遠慮した。
「知らね者じゃねえだろ。俺は、うちのおやじと契りを交わして息子になった。だっけに、お前らは、俺にとっても親類と同じら」そう言って、火のついたままの煙草を指で弾き飛ばし、透明容器に入った焼きそばを二つ差し出した。
「ほら、取れよ」
 春彦が手を伸ばすと、男はすぐさま容器を引いて笑った。前歯が二本欠けていた。
「引っかかったな、愚図。お前、学校で苛められてねえか?」(p.105、丸カッコ内は原文ルビ)

この夜店のおじさんはここだけしか登場しませんが、笑顔をみせて「前歯が二本欠けていた」なんて書かれると、もうそれだけでこの人の愛嬌が印象にのこりますね。喧嘩して欠けたのか、シンナー吸って溶けたのかしりませんが、にかっと笑った口からのぞく欠けた前歯だけで、この人の特徴を示してみせます。

さて、こうしておちょくられたあとで二人は、焼きそばをもらえます。が、春彦は焼きそばを食べずに捨ててしまう。彼の台詞に、子供ならではの純粋さ、残酷さがそなわっていて秀逸。

「あいつは親類なんかじゃねえけね。もともと、ぼくは、父ちゃんの子じゃないんだっけ。もし親類っていうなら、哲ちゃんだけら。ぼくは違う。」(p.105)

ヤクザの組長を兄にもつ男のもとに連れ子としてやってきた春彦にしてみれば、ヤクザ=悪という倫理観は、異母弟である哲秋に面と向かって、僕は違う(=哲秋とはほんとうの兄弟じゃない)と言わしめてしまう。この作品は、三人称哲秋視点で書かれてあるので、ここまで読者は哲秋に寄り添った視点で読み進めてきて、夜店のおじさんの優しさにもふれた後で、こうして冷や水を浴びせられて面食らいます。

一方、次の引用はお盆の場面。哲秋の父の兄であるヤクザの組長が、哲秋の継母=春彦の実母と、父とをけなすことば。

「料理は不味いし、ビールは温い。出来るんは子作りだけか。どうしようもねえ後家らな。だっけに、俺は反対だったんだ。世間体気にしたんか、女の体が恋しかったんかしらんろも、まんまと子連れ女にまるめこまれやがって」(p.110)

やはり哲秋視点で読んできたので、こういう傍若無人な発言が、親族の集まっている場でずけずけと出されると、なんともいえない気持ちになります。屈辱、羞恥、反発、もろもろ。こういう、嫌味で他人の心をえぐるような言葉を吐ける人物を、テレビ的なわかりやすい紋切り型を避けて、きちっと描けて安定感抜群です。

こういうごたごたもあって、春彦はますます父親とその実子の哲秋になじめなくなってしまいます。ここから以降はネタばれしすぎてもおもしろくないので興味をもたれた方はぜひご一読を。

最後に。上の香具師のおじさんにしろ、組長である長兄にしろ、他の親族たちにしろ、その存在をありありと感じられる分だけ、登場場面がすくないのがもったいない気がしました。一読者としては、こういう人たちをもっと読みたい渇きを覚えます。この作品はこの作品で、きちんとオチもあり楽しめる一作品なので、上述のひとたちの登場回数が限られているのも十分納得したうえでいえば、この作品を土台にして、その後の哲秋の成長(や挫折)を描く作品をぜひ読んでみたいと思いました。中上健次とはまた違うけれども、一定の土地で、親族たちの愛情や憎しみやもろもろがこんがらがっていくような、広がりを感じさせてくれる世界を感じさせる作品。描写の力も確かです。

中納直子「おにんぎょさん」

出典:『群像』2013年9月号
評価:★☆☆☆☆

評価は星1か1.5です。女性作家が女性の性を書く作品は、円地文子や瀬戸内晴美から山田詠美、川上弘美を経て、山崎ナオコーラや村田沙耶香へ、と日本の女性作家だけでもいつまでも名前を挙げていられそうなほど、多く多く書き継がれてきました。円地文子の書きはじめたころこそ、「女性が女性の性を赤裸々に!」なんていうことばも褒めことばとして通用したかもしれませんが、今や女性が性欲を持っている(持て余している)なんて常識で、それを描いただけでなにか作品になるとは思いません。なにか+αが欲しい。それは作家が追求したいと強く願うテーマであったり、文学史上の重要なトピックにかかわるものであったり、はたまた誰も書いたことのないスタイルであったり。この「おにんぎょさん」から、僕はその+αの部分を読み取ることができませんでした。

三十代半ばのカフェ経営者の女性、綾乃が、バイトの学生男子と肉体関係をもつというストーリー。へたくそなセックスに欲求不満がたまり、女性用ダッチワイフ(作中のことばではダッチハズバンド)を購入しクローゼットの中にしまっておくも、バイトの男の子とセックス中に開いたクローゼットの扉から都合よくこの「おにんぎょさん」が飛び出してしまい、都合よくバイブレーターが作動し、びっくりした男の子は裸のまま部屋を飛び出て警察に駆け込むのでした。

この「おにんぎょさん」には、馬のかぶり物がかぶせられています。友人の男性が引っ越しする別れ際にプレゼントとして置いていってくれたかぶり物で、「おにんぎょさん」を起動させるときには、その男性(馬面です)のことを思いながら欲求不満を解消していたのでしょう。このへん、人形愛とか物心崇拝とか、本気で書けばいろいろ妄想広がるおもしろげな片鱗もあるのですが完全に筆力不足で、なんの深みもありません。

また、バイトの男の子からの訴えを受けて駆け付けた二人組の警官のふるまいの描き方も杜撰。

「う、馬の被り物を被せられてるっ」
「なんやて? 息はあるんか?」
 若い警官が彼に近寄り、恐る恐る肩を持ち上げた。
「うわあっ」
「どうした」
「上島さん、ひどい、体が改造されている」
「なんやて? どこをや」
「一番大事なところです。バイブに付け替えられている」
「上島さああん」
「落ち着け! 脈確認しろ!」
「う、うう、な、ないっぽい」
「なんちゅうこっちゃ。なんちゅうエグいことを。大事なもんはまだ家の中にあるんか? その被り物取れ、落合」(p.168)

読者はもちろん、この二人の警官が男性の死体と取り違えている物体が「おにんぎょさん」であることを知っているので何の驚きもありません。白ける読者を前に、警官ふたりがわざとらしいことばづかいで、テレビドラマでもやらないような態度でこれ見よがしに驚き、取り乱してみせる。しょうもないものも分かってやっているのなら、その作為がわかるように書くのがクレバーな書き手だと思いますが、この作品にはそんなところもなくただただステレオタイプな人間が、ステレオタイプなことばをつかって、既視感ばかりしかのこらないやりとりをする。もう最後の方は流し読みでした。

作品冒頭に二人の警官が驚くやりとりを配置して、それからそこに至るまでの過程を時間をさかのぼって描く、というようにプロットを工夫するだけでも少しは読めるものになったかもしれません。短編だし。もっとも描写力がこれではやっぱり駄目な気もしますが。

作品終盤のいりぐちで、警官が綾乃の部屋に押し入りいきなり組み伏せますが、そんなこと日本の警官がやるでしょうか。裏付け捜査もしてないし、現行犯でもなく、もちろん令状なんて持ちあわせない、ただ裸で交番に飛び込んできた若い男の証言だけを頼りに、無辜の市民に対して住居侵入、暴行を犯す。フィクションであっても、そのフィクションの世界のなかでのアクチュアリティは必要でしょう。これでは、ありえなさだけが際立ちます。

この作品を、中納直子はどういう思いをもって書かれたのでしょう。女性の性を描いた他の作品と比べて、この作品のどこを優れているとか、面白いと思ってこの作品を書かれたのでしょう。暇つぶしの軽い読み物としても、僕には落第作品にしか思えません。お金をとって他人に読ませうるプロの作品でしょうか?本当に、心から、こんな作品が書きたかったのでしょうか?

青木淳悟「激越!! プロ野球県聞録」

出典:『すばる』2013年8月号
評価:★★★☆☆

青木淳悟の小説は他人にマネできませんね。この人の小説を読むと、小説の世界にハマるというより、小説を読んでいる自分の慣習とか癖とか、あるいは「小説をこう読むべき」といった制度があぶりだされます。前に「私のいない高校」の感想を書いたときに、遅れてきたアンチロマンだという言い方をしましたがその感想はこれを読んでも変わりません。もしもジョン・ケージが小説を書いたら(これもたとえが古いですが(笑))、けっこう近いものがあるかもしれません。「私のいない高校」よりはだいぶこの作品のほうが楽しめました。

「私のいない高校」と共通なところとして、小説らしくない文章を連ねるという特徴が挙げられます。「私のいない高校」では先生の業務日誌文体とでも形容したいような事務的な報告文調でした。本作も、新潟県周辺の地理を地誌や郷土史の文章からとってきたような文体、あるいは東京周辺の鉄道の様子を地図からそのまま写したような文体で延々書いていきます。これは鉄道に興味ない人間、さらに東京の地理に疎い人間には、読むのがつらい作品じゃないでしょうか。今回も主人公と呼べる人間はいないので(木枯らしもんじろう風の格好をした人物が唯一個別の人間として識別できる登場人物でした)読み手はやはり感情移入したり、生き生きしたイメージは抱きづらい。人にフォーカスするのではなく、人を取り巻く土地や、出来事を、新聞記事のように淡々と書いていく感じ。

では「私のいない高校」とくらべて本作のほうが僕には面白くおもえた理由はどこだったかというと、それは野球(用語)をメタファーやことば遊びの素材として使用しているから。野球のことばは小説の書き手を刺激するところがあるのでしょうか、たとえば高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』フィリップ・ロス『ザ・グレイト・アメリカン・ノベル』やロバート・クーヴァー『ユニバーサル野球協会』、どれも野球そのものというより野球を素材にして悪ふざけしたり、ことばの実験をしたりして、一級の作品が出来上がっています。そういう列にならべてこの「激越!!プロ野球県聞録」を読んでみたとき、話の筋や物語のつくりといったおおきな要素よりも、ディティールや、比較的短い単位の文といったちいさな要素に焦点を合わせてよんでみると、けっこう面白いところが見られました。タイトルからして、激越の越は、越後の越ですし、県聞録も、マルコポーロの「東方見聞録」をもじっています。「私のいない高校」よりも読み手を意識しているというか、サービス精神を出してくれています。

以下、面白かったところを適当に抜きだしてみます。

──数々の名勝負の舞台になった懐かしの「カワサキ球場」だが、極度に客入りの悪いスタンド風景には「テレビは見せられない」といわれた荒廃もあった。カップルが試合そっちのけで、観客四人がフェルト敷きの卓を囲んで、ある食堂楽グループが趣向をこらしスタンドの傾斜を利用して「流した」ものとは……。(p.24)

野球そっちのけの客席の描写です。すごく昭和ののどかさを感じます(作品世界の時間は2004年ごろですがこの雰囲気は昭和だ!)。最後の食堂楽グループが「流した」ものって、流しそうめんしかないだろうなと思いつつ、流しそうめんのしょぼさと、この不必要に期待をあおるようなことばづかい、とくに「……」の部分に漂う不気味な余韻はこの作品中いちばん笑いました。

JR二線、中央線快速と総武線各停は、並行する線路に停車駅数の異なる緩急の列車を走らせており、並走区間が長いこともあって乗りまちがえを犯しやすい。そして早くもこの選択の成否が、目下東京に出てきたばかりの序盤において、以後の行動に大きな影響を及ぼしかねない。最悪の場合死ぬことになる。(pp.39-40)

ここも最後の一文が効いています。電車を乗り間違える、というおのぼりさんにはありがちな日常的といっていい行動が、死につながるという馬鹿馬鹿しさ。そりゃあ、「最悪の場合」はそうなるんでしょうけれど、どうやったらそうなるのかわからない、あいだのプロセスをぶっ飛ばしたまま一気に「死」に接続された思考の飛躍に笑いが漏れました。この一文、なんにでもオチで利用できて便利ですね。「最悪の場合死ぬことになる。」

この、死ぬことになるの個所はてっきりこの場所限りのネタかとおもったのですが実はそうではなかった。新潟から出てきたと思しき人物が、電車の屋根から屋根へと飛び移る場面が出てきます。

 そいつは本物のルーキーのように若かった。そしてそれが普通では見られないファイティングスピリットだからこそ、列車間の移動で屋根を「盗む」ことに成功した暁には、何ら問題なくファンの仲間入りがかなうのである。(p.42)

と、これなら「盗む」ことに失敗すればたしかに死ぬことになりますね(笑)。野球の盗塁を「盗む」といいますが、ほかにも野球のことばはメタフォリカルに使用できるものに満ち溢れています。このへんが書き手の創作意欲を刺激するところがあるのかもしれませんね。

最初にジョン・ケージの名前をだしましたが、彼が「音をだすこと」を通して一般に流通している「音楽」とそれ以外のものという区分けを、廃棄ないしはあいまいにしたように、青木淳悟も、まっとうに「文字を書くこと」を通して「文学」の境界を攪乱しつづけてくれることだろうと思います。ただし、ジョン・ケージ作品を愛聴するひとは今ではニッチな存在ではあり、かつては興味を示した人も「とりあえず一回だけ聴いとけばいいや」という感じでその後離れていってしまいました。青木淳悟ははたしてニッチなままで満足なんでしょうか。

小山田浩子「穴」

出典:『新潮』2013年9月号
評価:★★★★☆

夫の転勤にともない、夫の実家のとなりにすむことになった妻がひと夏のあいだに体験した不思議な話。作中世界の時間設定がちょうどお盆をはさんでいることから、死者が帰ってくる作品として僕は読みました。夫からも姑からも、一言も夫に兄がいたことなど聞かされたことのなかった妻が、引っ越し後、偶然その存在を近所の人の話から知り、それだけでなくその義兄の姿を見かけ、やりとりもします。全くテイストは違うのですが、ヘンリー・ジェイムス『ねじの回転』を思い出しました。幽霊とも解釈できるし、実は本当に義兄が存在しているとも解釈できるし(ただし後者の解釈はこの作品では無理筋に近いですが)、あるいは第三の人物だった可能性もあるし、というこの「いるのかいないのかどっちなの!」の宙ぶらりん状態にサスペンスがあって、先へ先へと読者は続きがきになって読まされます。ただサスペンスなだけでなくて、またこの義兄の存在が、いかにも嘘くさくファンタジックでいい(褒め言葉)。

作品タイトルや、作中にも言及があることからわかるように『不思議の国のアリス』を一つの下敷きにしています。次は義兄とおぼしき人の発言。

要はね、アリスが追いかけた兎はただの兎じゃなくて結局女王の執事みたいな、そういう使用人だったでしょう。ね。しかし、穴に落ちるまでのアリスが見ていたのは実はタダの兎なんだな。ごく普通のね。イギリスのちょっとした田舎にはきっとそういうのがぴょんぴょこいたわけです。ね。それを追いかけている段階でアリスはただの野蛮でおてんばな女の子なわけだが、しかし、穴に落ちてからはそうじゃない。いわば兎は一人格を持った労働者だ。いや中間管理職かな。割合に偉そうな格好しているじゃない? 挿絵でもさ。つまりただのオテンバが妄想になって、それこそが大冒険だ。僕ぁ穴に落ちた後の兎ですよ。(p.42)

このいかにも作り物チックなはなし言葉は、このファンタジーテイストの幽霊話にはもってこい。この義兄にかぎらず、出てくる人物の一人ひとりが容易に想像できる造形で、うまいなと何度も思わされました。「珍妙な舌出し犬のスリッパの姑(p.33)」が個人的にはつぼでした。モデルになった人が身近にいるのかなと思わされるほどのリアルさ。

一方で、デビュー作『工場』でもそうだったですが、人が働いて生きていくことに対する問いがあります。問といっても、「なぜ人は働かねばならぬのか(そんなの嫌だ)」みたいな頭でさかしらに考えるようなものではなくって、そうなってしまっている状況に投げ込まれた働く人間の存在そのものにたいする、存在論的センス・オブ・ワンダーというか。なぜだかわからないけど、とにかく働くのが当たり前になっている人間が、この作品では専業主婦となって暇をもてあまします(笑)。その、人生の空白、作中のことばでいえば人生の夏休みにおこったひとつづきの不思議な体験。ただしこの作品のなかではそう単純にもわりきれません。働くことを「地」としてとらえる人間観からすると、働いていないことが「図」として否応なしに浮き立ってしまい、結果「空白」となるわけですが、嘘くさい(まさにフィクション)義兄との交流を通して、地と図とが反転する世界観にも触れるお嫁さんの世界観は、つかのま見事に義兄の価値観に包摂されてしまいます。このへんも、アリス的。

ひと夏の「空白」をメインとしてとらえてしまうと、冒頭の非正規雇用者と正規雇用者の待遇や考え方の違いの描写が若干細かすぎて、冗長に感じられなくもないですが、この作品全体が「働くこと」と「働かないこと」との二極の価値観の間を、メーター針になったお嫁さんが行き来する作品だと考えれば、納得いきました。

大体いちいちその辺を歩いている動物だの飛んでいる蝉だの落っこちているアイスのかすだの引きこもりの男だのを見ますか。見ないでしょう。基本的にみんな見ないんですよ、見たくないものは見ない。(p.45)

これも義兄の言葉です。働かないことは存在しないことと同義になってしまう価値観が支配的な世の中で、この義兄のような人は、圧殺されてしまうしか道はないのでしょうか。この作品の閉じ方がペシミスティックになっているわけではないのですが、お嫁さんひとりの個人的な体験として、この義兄とのふれあいにけりをつけてしまうと、義兄のような存在に象徴される価値観は結局、多くの共感をえることはできないと、そう読めてしまうことになります。

ファンタジーやおとぎ話、もうすこし拡大解釈してフィクション全般は、元の世界にもどることができる安心感があるからこそ、束の間フィクションの世界で目一杯遊ぶことが可能です。義兄とのふれあいの時間がとても生き生きとしていて印象にのこるものだっただけに、物語の着地点にもうすこし解釈の広がりがあるといいなと思いました(元の世界にもどってこずに、完全に「お嫁さん」があっちの世界の住人になってしまうとか)。義兄の存在は社会的な目で見れば「いないも同じ」かもしれませんが、それが集団になったとき(その価値観のいい悪いは別にして実際に体現してしまう人たちが多くでてきたとき)、社会はその存在を無視できなくなり、急いで名前をつけたりレッテルをはったりしますもんね。

ともあれ、全体を通して、これも『工場』を読んだときに思ったのと同じく、いつまでも読んでいたい、残りページが少なくなっていくのが惜しまれる、作品世界がきちっと造形されてある丁寧な佳作でした。100枚、200枚程度といわず、小山田浩子の書く500、1000枚ぐらいの作品が読みたいです。さっさと三島賞なり芥川賞なりとってしまいましょう(笑)。

諏訪哲史「「遠い場所」の詩」

出典:『群像』2013年8月号
評価:★★★★☆

8月号の群像は作家の個人詩集特集。詩を読みこんでいる作家の小説には、ことばの選び方、音の配列にうならされることがよくあります。

 詩というと僕はこれまでリルケやツェラン、吉岡実や西脇順三郎ばかりを取り上げてきた。幼年期の憧れだった宮澤賢治はさらに頻繁に。ゆえに今回は彼ら以外の詩人から選んでみた。
 二十代、僕はずっと詩を書いていた。詩を書く以前、内外の多くの詩を読んだ。しかし、いい詩を読むたび、これは限りなく小説に近いと思い、逆にいい小説を読めば、それは限りなく詩に近しいと思った。至高の詩と至高の小説は、僕にとって同じ場所に棲んでいた。そこはいわば「詩性(ポエジー)」の神殿だ。詩性は、極小の文字列のうちに無限の空間と奥行きを包含させ、また極小の音列のうちに無極の時間と音楽性を孕ませる何物かである。意味の遠い異質感と、音の遠い異物感とが、至高の詩、至高の小説から、瀑布の如く読者に氾濫する。
 意味と音の双方において同時に涯なる遠さに至ったのは宮澤賢治だ。彼の詩とは小説であり、彼の小説(童話)とは詩に他ならない。(p.107)

僕個人は、詩を読むセンスがないので、こうして作家たちが自分のお気に入りの詩を各々の設定したテーマで紹介してくれる特集はうれしい限り。知らない詩人と出会うことができるのも、こういう目利きの人がいてくれればこそです。諏訪哲史の選んだラインナップは、佐々木幹郎「シャクナゲ・ホテル」、萩原朔太郎「荒寥地方」、粕谷栄市「啓示」、柳田國男「遠野物語第百六段」、安西冬衛「海」(漢字が出ない!)、入澤康夫「「木の船」のための素描」。どれも読めば遠くに連れ去ってくれる詩たちでしたが、初めて読んだ入澤康夫の詩が特に面白かったです。入澤康夫の詩集か作品掲載誌かを手に入れて少し読んでみようと興味がわきました。

諏訪哲史のいう「小説は詩で、詩は小説だ」は持論かと思いますし、たしかに彼の作品には詩(や詩性)が横溢していて、読むたびにうちのめされます。今回の特集をきっかけにして、久々に、『アサッテの人』を開いてみてまたうちのめされました。

[巻末付録]…大便箋より…
◎右半分の文章

『…荒縄に似た、ぼくの、ほそながい、影。
 平らな、白壁、目の、まえの、剥がれかけた、表面、もろい、縁を、伸びた、右の、手の、その、影の、へしまげられた、指が、かりかり、かりかりと、しきりに、掻く、掻いている。
 指だけが、掻く。 影は、指いがいの、影は、動かない、止まっている。
 ひじの、かたの、こしの、その他、関節の、まるで、さびついた、圧倒的な、凝固。かちんと。
 ともかく、「さびついた」は、ひどく、難しい。
 浮沼の、団地の、一室の、平らな、白壁にうつる、荒縄に似た、ほそながい、影、ぼくの、影、かりかりの、指。その、指の、へしまげられて、しきりに、かりかりの。
 ふつふつと、やがて、大胆に、呪文じみた、言葉、口の、端の、泡、いとも、楽しげに、はじまるよ、軽やかな、つぶやきが。

ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。…へえー、だって。
ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。…へえー、だって。

 まったく、莫迦げた、ハハハハ、これは、また、どうしたことだ。 この、莫迦げた、埒もない、フレーズだけが、ともかくも、延々、いつ止むとも、知れず。
 こんな、気の狂った、ほらまた、ポンパッカと、たのむから、止めさせてくれ。止めさせてくれ、その、深刻そうな、顔を。 その、敬愛らしい、つぶやきを。つまり。 そう、つまり、何だ、これは? いや、ポンパッカ、という。
 なにが、「へえー、」? なにが、「だって。」だ? ずるして、ぴょんと飛ぶ。』

(諏訪哲史『アサッテの人』(講談社・2007年)pp.184-6、強調部原文)

アサッテの世界に失踪したおじさんの残したとされる文章が、小説「アサッテの人」巻末に掲載されています。雑誌掲載の初出時に比べると、この部分は、ことばの流れを寸断するように、読点(「、」)を挿入したり、文と文のあいだに空白スペースをいれたりと、若干の修正があります。修正後のほうが断然いい。この、便箋にのこされた文章は、はたして詩でしょうか、小説でしょうか、どちらでもない落書きでしょうか。なんなんでしょうか。この作品の語り手の、「◎右半分の文章」という注解によってこの文字列がフレームにはめられていなければ、そういう分類はできないし、意味もないことだとわかります。

無茶苦茶に書かれているように見えて、ちゃんと計算がいきわたっている。たとえば「馬鹿」ではなく「莫迦」という漢字の選択は、この文章をのこしたおじさん(そして宮澤賢治に憧れる諏訪哲史)にしかありえないチョイスです。今回再読してみて、「右の、手の、その、影の、」のところなんかに僕は北園克衛の詩を思い出したりしました。ほかにも、僕の知らない小説や詩の滋養が、隅々にいきわたっていると思しき精巧な作品。散文として読むと、ほとんど意味をなさないこの文字列の、それでも読み進むにつれて自分の中にいわくいいがたい何ものかを感じられるとするならば、それが諏訪哲史のいう「詩性(ポエジー)」なんでしょうね。いやー、何度読んでもしびれるなあ。 ずるして、ぴょんと飛ぶ。

神里雄大「亡命球児」

出典:『新潮』2013年8月号
評価:★★☆☆☆

饒舌な語りで、語り手の妄想が展開されるお話。北京に行く約束をすっぽかして頭のなかでうだうだいろんなことを考えながら、図書館に行く………と、ここまでは日常的な設定なんですが、

図書館に着いて、重い扉を開け中に入った。かつて図書館だったこの場所は、いまや難民センターと化していて(p.113)

と、日常的な世界から遊離します。遊離しはじめたところで作品が終わってしまうので、正直なところもうちょっと続きがあれば読みたかった、そんな作品でした。話が面白くなりそうなところでブツッと切れた感じ。連作かなにかの一つなんでしょうか、これ。

饒舌な語りや、現実と妄想の生き来、また表現やレトリックでもいろいろ工夫しているところがみられて、僕には筒井康隆の作品を読んでるようにも感じました。

眠気の波をサーフボードでかきわけ(この表現は陳腐だと思うけれど)(p.106、括弧内原文以下同)

昼まで眠っていたってよかったのに、寝室もこの居間もサウナ状態で(サウナ状態とよく言うが、本当にサウナ状態だったらとんでもない)(p.106)

まさか冷水に浸かって眠れるわけがない(死んじゃうよ)(p.106)

引用元のページ番号みてみればわかるように、同じページに近だけわんさか丸括弧にくくった自己注解が頻出します。括弧内の突っ込みは平凡だし、大して面白くないので、これを書き手の神里雄大が面白がって書いているようならどうしようもないセンスだとおもいますが、まあこれは一人称の話だし、この括弧内の平凡さ、サムさもふくめて、語り手の特徴なんだろうなと納得しました。暑苦しい部屋で、こういうウザい妄想を語りくだすには、こういう語り手も効果的ですね。

表現の工夫ということでいえば、女性の体を征服する様子を、日本全国の旅行にたとえて語る仕方も面白く読みました。

百合子はまだ寝ぼけていて、やっぱり酒臭かった。正直、いい気分はしなかったが、酒臭いくちびるを、舐めまくった。俺も汗だくだった。汗と汗とが混じる感覚、百合子のケツと脈打つ俺の股間。甲子園で俺は日本を制覇できなかった。出てもいない。でも、俺は百合子をこれから制服することで、日本を制覇できないものかと考えた。そう考えると、酒臭い百合子の口は、草原の広がる、遥か大地の青々とした空へつきぬける風の、牛の鳴き声と、メロンのプリンとした甘みなどを感じさせた。同じサンマでもこの北の大地では別格で、生乳を飲んで味噌バター、君の鼻筋はノルディックのジャンプ台。首筋はさしずめ東北地方かな、舐めまわす。だが、このあたりはネックではあるけれど、ある程度にとどめておけばよいだろう。りんごと盛岡冷麺と牛タンの絆。きりたんぽにさくらんぼ色の首筋をすり抜け、鎖骨のあたりにハワイアンセンターの苦しみを感じ、そのあたりは適当に済ませ、さっそく関東を焼き討ちだ。(pp.109-110)

この後も、西日本に入って行きます(笑)。エロに関する行為や部位を、こうして別のものごとで置き換えて諷喩的にメタファーを連続させるという手法は、たぶんずっと古くからあって、最近訳された本でいえば、小林章夫訳の『エロティカ・アンソロジー』(研究社・2013年)のなかにも、旅行案内記を模した体裁で、女性を口説き、体を開き、結婚し離婚することごとくをつづった面白い作品がありました。それは18世紀の小説だったので、実に2、300年前にすでに採用されていた方法を、こうして反復している。

それでもこの作品の上の表現が新しいとすれば、最初は書いている内容からエロい行為を想像させる方向だったのが、「メロンのプリンとした甘み」あたりからベクトルが逆転して、日本全国名物案内を書く(語る)行為自体に、記述の力点がシフトしています。「りんごと盛岡冷麺と牛タンの絆」なんて、この表現でどの部位を使ってどんな行為がおこなわれているかは、もうほとんど想像つきませんものね。ご当地グルメに何の意外性もない物産をチョイスしているあたりもふくめて、このサムい語り手ならありなんだろうな。語りの自己目的化、オナニー体質。日本に見立てられた女性は一方的に、男の欲望の対象でありつづけるままです。

語り手の気もちを忖度すれば、語ること自体が楽しいんだろうなと、ちょっと突き放した見方をしてしまいますし、書き手の気もちを忖度すれば、書くこと自体が楽しいんだろうなと、この作品でいろいろみられた工夫の跡を読んでおもいました。でも、けっこうスベッてしまうところ、わざとらしすぎるところ、ベタすぎるところも筒井康隆の悪いところを読んでいるようで、まあ通読するといまいちでした(笑)。
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