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新庄耕「オッケ、グッジョブ」

出典:『すばる』2013年9月号
評価:★★☆☆☆

新入社員にたいする自己啓発系研修合宿の話です。今話題になっている離職率の高さやブラック企業といったホットなワードともつながるので、素材はいいし、いかにも今風なのも掲載紙のテイストに合っている。ただしこれを小説として読むとなると出来はいまいちでした。小説として書いているということは、裏からいえば、評論でもないし、報告書でもないし、学術論文でもないし、チラシのうらのメモでもない、ということです。これを小説で読む意義は僕にとってほとんどありませんでした。ブラック企業の実態調査報告や統計資料、あるいは新書の類を読んだほうがはるかに面白いに決まっています。

本作の主人公は木島オサムという新入社員で、平凡な人です。大学では、

貴重な四年間を居酒屋のアルバイトと学校の往復に費やし、その間わずかに差し込まれた音楽や映画の知識、体験を拠り所としていたに過ぎなかった。(p.29)

高校三年への進級にともない、仲のよい友人にならって大学進学を目指した。学校の成績は平均よりいくらか下で、もともと勉強が得意な方ではなかった。(p.35)

リア充度を十段階評価であらわすと、オサムのそれは3か4ぐらいでしょうか。いかにもパッとしない人。ただ、そういうどこにでもいそうな平凡な人間が主人公だからこそ、今社会問題として語られている就職関連の話題を展開するうえでは、広くうけいれられそうな人物であるともいえます。この、平凡な人間が自己啓発系研修セミナーでさまざまな体験をするものの、その体験を、ごく普通に、ありきたりに描写するだけです。これなら実際に仕事を辞めた人が語った体験記や、綿密な取材に基づいて報告されるルポルタージュを読んだ方が面白いわけで、いわばここで描かれている新人研修の様子は、生々しい現実を薄めて小説っぽい雛型に流しこんだだけのこしらえものにすぎません。書き手の新庄耕は、他のジャンルの読み物とくらべて、この小説のどこが見せ場だと思っているんでしょうか? 僕の読解力では読み取れない。

もっとも、冒頭でいったように素材の選択は「今風」であること以上に、発展のし甲斐はあるものだと思います。日本の小説の中で、重要なものにもかかわらず真っ正面から扱われる頻度がそれほど高くない素材として、宗教があると思います。人類が存在してから連綿と続いてきた営みのはずですが、出版界の事情か、多くの書き手が好まないのか、日本の小説のなかでは不思議と扱いが小さい。その宗教と、「オッケ、グッジョブ」の素材である新人研修とは、多くの共通項を持っています。たとえば、通過儀礼、内部集団の結束とその内部で流通する価値観の共有など。この作品も、そこに気づいてはいるのですが、深く掘り下げることはしません。宗教的な組織のしくみを比喩的に、あるいは批評的に展開するだけでもずいぶん面白くなった気がします。

トレーナーの高崎さんは、

「これから皆さんに挨拶をしていただきます。この挨拶をどれだけ本気でやったかを各チームで競っていただきます。挨拶は頭の良さも体力も関係なく、各自の本気度が顕著にあらわれます」(p.35)

といって、新入社員たちに大声で挨拶することを強要しています。ここでのポイントは、「本気度」ということばによって、主観でしかないものをあたかも測定可能な客観的指標として偽装しているレトリックがあり、かつその測定を声を出している当人にやらせている。見えない基準を内面化させて自己管理できる身体を養成するテクノロジーです。こうして従順な身体、従順な精神が形作られていく。この高崎トレーナーの目は、そしてその背後にある会社的価値観の強制は、一種のパノプティコンとして、新入社員一人一人の身体と思考を末端にいたるまで囲繞し、矯正するわけですね。声音や声量をコントロールする権限は、ほんらい極めて個人的なもののはずですが、ここでは一人一人の声が奪われ管理され、最終的には自分自身で本気度を測ることで自己管理することまでが目指されています。

新人研修に限らず、外の世界とある程度隔たった組織や集団内部では、こういうテクノロジーが、隠れたメッセージとしてすりこまれていきます。「隠れた」というのは、表向きではないという意味。伝達される際には、表向きのメッセージの裏側にひそかにくっついて、こっそりと伝達されてしまうメッセージです。この挨拶の例でいえば、表のメッセージが「本気で声を出せ」であり、裏の(メッセージ)が「従順な身体と思考を自己管理できるようになれ」。かつて学校や精神病院を対象におこなわれた研究で使われたヒドゥン・カリキュラムという概念は、現代では職場の新人研修に応用してみれば面白いものかもしれません。

書き手もそのことにはほんのり気づいていて(だからこそ藤井さんという反発する身体が作中に登場する)、いくつかの宗教めいた研修に対する距離をとった記述もみられたものの、とても表面的で、さらっと触れるだけ。作品後半のウォークラリーでは、オサムはまんまと鋳型にはまっていってしまいます。森を走って抜けた先に広がった海を目におさめて、

オサムは、自身の心の変化に戸惑いを覚えた。いつの間にか、突き放して見ていた研修との隔たりが失われ、肯定することを厭わない心境になっている。(p.59)

ここで用いられているテクノロジーも一種の近代的な身体を養成する詐術です。オサムは、「心」が変化し、あらたな「心境」になっていると勘違いしていますが、これは四十キロ近くも歩かされてへとへとになり、かつ身体を動かすことで高揚感もえられたという、あくまで「身体の」変化を、心ないしは頭の変化として取り違えてしまっているわけですね。断食とか、滝行とか、あるいはラジオ体操でもかまいませんがそれと相同なテクノロジーが作用しています。

といろいろ書いてきていいたかったのは、新人研修をそれそのものとして描くだけでは、ルポルタージュや実体験の告白録には及ばない、新人研修という素材を通してその向こうに見える、例えば宗教であるとか、近代的身体養成のテクノロジーであるとか、なんにしろもう少し抽象的あるいは普遍的な概念と照らし合わせられるようなパースペクティブを、この小説に与えられはしなかっただろうか、ということです。五年後、十年後も読まれる作品を残す気概がこの小説には全く感じられません。
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山崎春美「皆殺しの天使たち」

出典:『文藝』2013年秋号
評価:★☆☆☆☆

評価を星一つにしたんですが、僕は正直この作品が読めませんでした。だからこれを読める人が読んだら評価が逆転して星五つにもなるかもしれません。雑誌目次のあおり文句は「「あいつただの家庭教師じゃなかったのか……」生ける伝説による初小説」だそうです。作品を最後まで読んだんですがいったい何が起こっているのか全然わからない(笑)。

 ゼアラ・ノー・サッチ・アニマルズ・イン現代、今世紀には絶滅危惧種見たことないような。そしてビッチ。
 ご都合主義だし、だいいちこの品性下劣で俗悪、恥知らずにして粗野で、無知蒙昧な破廉恥漢たるや、渾身一滴の力作たった一振りで、ロミオを袈裟懸けに、返す刀で欲得ずくに魂抜けたジュリエッタを峰打ちに、たぶらかしては、我々のようなずぶの素人を舞台裏の闇市に連れ込むのが、常套手段なんだ。隅でこっそり、いつのまにかお勘定を済ませる彼らの、例の手口にまたもや、出し抜かれてしまう。余震でひしゃげて馬鹿になったひらきっぱなしの蛇口から、ざくざくと貴重な真水が、出しっぱなしに流れ続ける。テーブルの下で渡されるのは決まって「お釣り」と次回優待券だ。口止めのつもりさえない。(pp.220-1)

作品途中からの抜粋です。薬でもキメてキーボード上の手が走るまま、自動筆記よろしく意味を置き去りに疾走する文章が延々つづきます。作品冒頭では、天使の死体が積み重なっている様子が描写されますが、そこからだんだん作品の世界で何が起こっているのか全く分からなくなってしまう。誰が何をしているのかもよくわからない(笑)。

一応、語り手はいるようで天女の死体を前にして、

なぜか右目だけ、海賊風の眼帯をしていた。ストラップが斜めに顔面を横切り、後頭部で留められていた。まずは似合わないこともない。そうっと外してみる。見て、すぐにまた元に戻す。(p.225)

と、眼帯をいじっている。けれどこの人物がどこの誰でどんな外見、心理でというのは読んでいってもわかりません。

書き手の山崎春美がインディーズバンドにかかわった人物で、ネットでしらべると町田町蔵や坂本龍一といった人物ともセッションしたこともあるようなので、そういう界隈の人だということはわかりました。であるならこういう作品も、「生ける伝説」なんていわれる(どこで伝説になっているのか僕は知りませんが)この人をよく知る読者に限ってはありなのかもしれません。

ただ、ここで書きつけられたことばがラディカルなものかどうかはまた別モノで、例えば

心臓が口から飛び出しそうだ(p.226)

というふぬけた慣用句を書きつけてしまうところなんかは、詩にもとめられることばの吟味という点では落第です。「天使が……」とか「死が……」といってなんだかよくわからない雰囲気だけのことばを連続させて繋がっていくイメージも、どちらかといえば大衆的なポップミュージックのPVじみているように僕には思えました。天使にしろ死にしろ、俗悪なビジュアル系バンドの歌詞に頻出するモチーフです。

中学生にはアピールするだろうけれどある程度音楽を聴いた経験のある人にはその種の音楽がまったく響かないのと同様、この作品のことばたちやそこから立ち上がるイメージも、僕には新鮮な印象はまったくありませんでした。この作品を評するときに、「感性」とか「前衛」とかいうことばを使いたくなる人がいるかもしれないけれど、ここに書かれてあることばづかいやイメージは、上でいったように平凡です。きっちりとしたストーリーラインをもった作品を書けたり、レトリックとイメージの関係に細心の注意を払えたり、しっかりした文体を持っているような人が、あえてこういう作品に挑戦するというのなら分かります。一方、この作品はたんに、小説を書けない人が、「感性(笑)」を言い訳にして小説もどきを書いただけにしか受け取れません。手持ちの「感性(笑)」だけで突っ走ってしまうのは、勉強不足とか読書不足の別名です。小説らしくない小説を書いたつもりが、出来上がったものが実に凡庸な代物だった、というのはよくある話でしょう。

木村紅美「ナイト・ライド・ホーム」

出典:『文學界』2013年9月号
評価:★★★☆☆

岩手で母親の介護をしている青年が、かつての恩師に借金の無心をするため上京した一日の話。作中で、いろいろな嘘が交錯しながら、この作品独特のふわふわしたリアリティを作りだしています。視点人物の北田渉が岩手の外で出会う人はみな、どこかしら嘘をついている気配がありますね。そして、その嘘っぽさを深く追求することもせず、それどころかそのまま信じてさえいる様子の渉は、僕にいわせれば「お目出たき人」というのが第一印象でした。

母親の介護に疲れ、さらにかつての恩師に借金をしにいかなければ生活が立ち行かないという追い詰められた状況は渉にとってかなりしんどい現実で、だからこそこの一日の上京が一種の現実逃避、ないしは夢の中での一日、うそみたいな時間として描かれているわけですね。ツイッター上で知り合った女の子マイとなりゆきで遊園地(しかも名前はドリームランド)に行くというこの小説の立ち上がりは、渉の現実からはずいぶんかけ離れたような一日の幕開けとしてふさわしいです。道中、渉の口からは嘘まみれの自己紹介が出てきます。マイが嘘をついているかどうかは不明ですが、渉がこうして嘘をついている以上、マイのほうも嘘をついている可能性は十分あるんだろうという前提で読み進めることにしました。最初に視点人物が嘘をつく描写が出てくると、自然とその先々で出会う人が語ることばも「これは嘘では?」と疑り深くなってしまいますね。実際、恩師が離婚した男性は自分の生活状況を偽っていたことも暴露されたりしますし。

この嘘だらけ(かもしれない)一日の小説で、もっとも印象にのこったのは作品の閉じ方でした。マイと渋谷で夕飯をとるはずの約束がすっぽかされたにも関わらず渉はこんな風に感じています。

「あたたかくしてね」
 マイの伝言の最後は、そう気遣われていたような、それは自分が男にかけた言葉だったか、眼を瞑ったら、ここはベッドかバスか電車か、わからなくなった。太陽がのぼり、まぶたの向こうの部屋がみるみる明るくなる。きのうは、わるくない一日だったと言い聞かせた。なにより、女の子と観覧車に乗って知らない街を見渡すのにうってつけの秋日和だった。毛布を薄く感じるのなら、もう一枚、持ってきたらいい。おなかがすいて眠れそうにないのなら、あたたかいものを口にすればよかった。(p.66)

しんどい毎日から束の間遊離してすごした夢のような一日。そのあたたかな余韻を感じている閉じ方です。「まだ夢から覚めていない」かのようなこの部分は、あたたかい布団にくるまって「あと五分………むにゃむにゃ」とやっているあの感覚そのまま。書き手も十分わかってやっている証拠に、「ここはベッドかバスか電車か、わからなくなった」と書きいれており、布団のなかの心地よさと重ねる描写をちゃんとを示してくれています。

そしてこの半醒半睡状態は、うすくやわらかな瞼一枚分だけでかろうじて確保された束の間の休息であって、もうまぶたの向こうから否応ない太陽の光あるいは現実であり真実の光がいまにも覚醒させようと射しこんできている状態。さらにこの引用部に批評があるとすれば、「わるくない一日だったと言い聞かせた」の一文。「わるくない一日だった」ではなく、「わるくない一日だったと言い聞かせた」です。嘘に嘘がかさなったことでなりたった夢のような一日を、あえて嘘かどうか真実を追求する態度に出るのではなく、そのまま真偽不明にしておいて心地よい余韻に浸ろうとしている渉のせめてもの願いが感じられます。この一文があるおかげで、渉も薄々嘘に勘づきながらもにあえてそれに乗っかっていたのだと分かる仕掛けになっています。こうなると僕のうけた第一印象の「お目出たき人」は、そうしないと厳しい日常に押しつぶされてしまうかもしれない悲劇性を帯びたお目出たさとして、最後の最後でその切実さが一気に増大することになります。さりげないけれどうまいですねえ。

この引用部の直後にさらに、「見たくない現実なら、眼をつぶればいい」とでも付け足したくなりますがそれは蛇足。渉はきっとそうしてしまわない。眼を開けなければいけないことを自分でも十分わかっていつつ、それでもできるだけその瞬間を先延ばしにしようとする切実な「あと五分……むにゃむにゃ」な状態にいるんでしょうね。

最後に。上の引用部はじめ、さりげない一文や描写にまでちゃんと神経をいきわたらせていて好感の持てる作品でした。

 流れる景色を眺めていると、連なるくすんだ白い壁のホテルに灰色っぽい家々、黒ずんだ木造の民宿や釣具店に仕出し料理屋の看板のあいだから、時折り、藍色に光るものがのぞく。まばたきしたあいだに一気にひらけた。窓が水平線で真二つにされた。十月の終わりの空にはいつのまにかうろこ雲の隊列が広がり沖へ向かってかすんでいって、だんだん空に溶けて区別がつかなくなり、海に接した辺りは淡い灰に近いにごった薄青をしている。波の畝が浮かびあがり、漁船が銀色に輝く線を引き遠ざかった。(p.24)

ここなんて海辺の景色が、印象派の水彩画のような瑞々しい実感でせまってきます。個人的には、こんなふうに世界をとらえられる眼は、青年男性よりも、子供のそれに近しい気がしました。木村紅美の描く子供ものがあればぜひ読んでみたいなと思いました。

羽田圭介「トーキョーの調教」

出典:『新潮』2013年9月号
評価:★★★☆☆

丁寧な作品でした。東京でテレビ局のアナウンス室に努めるアナウンサーの男性カトウが、自分の中のマゾ属性を開発していく話。この作品を「丁寧」と形容するのは半分褒めているんでもあり、半分ものたりなさも感じてもいるという、両義的な意味での「丁寧」です。

ほめているところからいうと、SMプレイの道具類やその道具をつかったらどんな身体的な感覚になるかよく調べられています。設定としてもテレビ局のアナウンサーという虚ろな仕事に文字通り奴隷のように従事する人間であれば、SMプレイを通じて自分が生きている実感、自分の体は自分のものだという実感を得たい衝動にかられるというのもちゃんと分かるようになっている。また作品の結構でいえば、カトウがたまたま頼んだ出張SMプレイの女王様が、表の世界ではカトウが講師をつとめるアナウンサー講座の生徒であったという奇蹟的な偶然、この作り物すぎる作為をとりあえずこの作品の設定なんだからと飲みこんで読み進めれば、全体の人物たちもじゅうぶんありそうなリアリティを備えています。だから作品全体としては、「作為的すぎる偶然」という一点を了解したうえでは隙のないちゃんとした作りです。

けれども、この「丁寧さ」は翻って、悪い意味での「教科書的」といいたくなる意外性のなさにも直結してしまっています。ここで書き手の言い分を勝手に代弁すれば「ディティールをちゃんと調べて小説の設計や設定もしっかり作っているのに、どこが悪いんだ!」ということばが返ってきそう。そしてこの反論は十分ごもっともでもあることは承知しています。その反論を分かったうえで、この小説は僕にはいまひとつノリきれなかった。

ノリきれなかった理由を考えてみるに、視点人物のカトウが、日々の仕事や私生活から疎外されていて、生の実感を感じられていないというところがまずあります。味気ない仕事、味気ない私生活。そしてどこか自分を俯瞰して、作中のことばでいえば「実況して」しまうような疎外感を、ずっと味わっている。SMプレイしているときに、仕事や私生活の平板さから解き放たれればまだいいのですが、プレイ中でさえ実況してしまう。実況そのものは十分面白かったのですが、視点人物が一貫して冷めているので読んでいる方としても単純に冷めてしまっていました。

「ホテルのカーペットに押しつけられた顔とは反対に、私の尻はマナ女王様の麗しきお顔に向かって突き出されています。頭に血が上りトランクスの生地越しではありますが尻の穴が無警戒に広げられるという心許なさ、これこそが隷属となることで得られる非日常性なのでしょうか。私は今まさに、性的に興奮しております」
(中略──引用者)
 調教された犬──局へ入社した一三年前、アナウンス技術を”調教”された。つい、職業病として身体に染み込んだ実況技能を用いてしまった。(p.68)

プレイの渦中で自分を客体化してしかも適切にすぎることばで実況し、直後もその瞬間を振り返って「実況技能を用いてしまった」と冷静さを上塗りするようにさらに解説を重ねる。顔は「合成顔(p.75)」といわれるような平均的な顔で、ことばも職業的調教によって自分らしいことばは徹底して奪われてしまっている。もちろん、そういう人物なのだから人物造形としてはこれで申し分なくって成功なんだけれど、じゃあこれを読んだ方は面白いかというと、うーんと首をひねってしまう。

徐々にプレイにも慣れていって、過激度も増していって最後のマナ女王様とのプレイでは、女王様に強制されてなぜ自分が乳首をつぶしてほしいかを実況させられたカトウは次のように訴えます。

「目の前にいる一人との関係性さえ構築できない人間は、社会や世界へ影響を及ぼすことなどできないからです。私がアナウンサーであるためには、愛子女王様たった一人と向き合うことに全力を注がねばならないのです。だから、潰してください。もう二度と同じ時間を共有できないかもしれないあなたと私のプレイのために、潰してください。乳首も惜しがるようでは、私は視聴者の皆様を裏切ることになってしまいます」(p.112)

ここまで、少しづつ段階を踏んでプレイの危険度を上げてきて、クライマックスにいたってもこうして自分の欲望を理路整然と説明してしまう。これではプレイの過激さとは裏腹に、カトウの語法は仕事や私生活における疎外された語法と全くかわりません。アナウンサーという言葉の人をつくっている語法を、過激なプレイをしても変えることができないわけだから、結局この最後のプレイにいたってさえカトウの芯の部分は同じままのように思えました。もちろん書き手としては、それまでプレイ中はマナ女王様、アナウンサースクールでは武内愛子と呼び分けられていた人物を、こうして「愛子女王様」とプレイ中に呼ばせることによって物語のクライマックスを演出していることは分かるのですが、これにしたって作り手の作為が見えすぎてしまっていかにも教科書的。悪いわけじゃ決してないんだけれど、意外性は全く感じませんでした。

「事実は小説より奇なり」ということでいえば、去年に河出書房新社から再訳が出たジャン=ジャック・ポーヴェール『サド侯爵の生涯』三巻本を読んで知ることのできた、通俗的なサド像とはことなるドナシヤン・ド・サドの一生のほうがよっぽど僕にとっては衝撃的でした。また、サディズムという思想にかんしていえば、合理を突き詰めた末にみえてくる反合理主義、いわば合理主義的反合理主義にこそ僕は圧倒的な魅力を感じます(そしてその思想を実現した小説を、サド侯爵の作品以外で、現代の書き手の作品で読みたいという個人的な希望もあります)。対してこの「トーキョーの調教」には、それらのいずれもが持っている魅力が全く感じられませんでした。

終始疎外された生を送るカトウによりそうかのような地の文も、かなり説明的で、しかもその説明の内容も別に今さら言われるまでもないもの(たとえばテレビ局で使われることばの言い換えや無害化)ばかりでこれも、僕には「いまさらそんなあたりまえのこといわれても」的な戸惑いしか残りませんでした。あたりまえのことを、教科書通りの小説の技法で、きっちりとまとめた小説ということで、悪い小説とは決して思いませんが、これをまた読みたいとか深く読みこみたいと思わせる魅力には乏しかったです。それとも、この小説全体を通して書き手の羽田圭介は、「現代はSMでさえ、人間を変えることはできない」というような逆説的な諦観を表現したかったんでしょうか。そうであるならばそのもくろみはそれなりに成功しているとは思いますが、しかし読んだ読者に衝撃をあたえるかどうかはまた別問題です。

絲山秋子「今は限り」

出典:『新潮』2013年10月号
評価:★★☆☆☆

掌編です。意識はあるけれど身体の自由が利かず指一本動かせなくなった男がいろいろと頭の中で考えを巡らせていくうちに身体が腐ってしまう、というお話。なにぶん短いので、ストーリー云々の感想を書く自信がありません。よって思いついたことを以下適当に。

 気がついたときにはもう体が動かなかった。体が動かなくなってから気がついたのだった。
(毒虫か、それとも山椒魚にでもなったのか)(p.128、括弧内原文以下同)

とお話は幕をあけ、口も動かせないのでこの男の想念は丸括弧にくくられています。どうしてこうなってしまったのかその理由や原因は読者にはあたえられず、というか本人にも思い当たる様子はありません。一種の不条理もの。しかし深刻になるわけでもなく哲学的になるわけでもなく、ただただこの男の考えることがひたすら日常的なところにおかしみがあります。この男の詳細や外見はほぼ書きいれられていないですが、絲山秋子はどういう人物として設定したのか、その裏設定みたいなものが気になります(もしかすると詳しい設定はないのかもしれません)。

与えられた断片から勝手に推測するに、この男はオネエ的な要素を持った人物じゃなかろうか、と読み進めるうちに思うようになりました。

(この時間に死ぬのはいやだな)
 手遅れ。そう、かれは致命的なことを思い出す。
(しまった、冷蔵庫に紫キャベツと手羽元が残っていた!)(p.129)

(昨日のメシってどうしたっけ)
(ああ、グラタン食ったんだったな。やけに暑い日だったのによりによってグラタンをおれはわざわざ作って)(p.129)

一般的に、身体がうごかなくなったとしても、家族か近所の人かに発見されそうなものですが、この男はそういうところもありません。孤独なんでしょう。孤独な男がちゃんと自炊しているらしく、大変な状況のなかでも冷蔵庫の中身に執着している(笑)。しかも孤独な男が買ってくるにはあまりありそうにない食材です。ふつうの緑のキャベツではなく、紫キャベツ。同じ鶏肉であっても、胸肉や腿肉ではなく手羽元。それに、暑い日なのにわざわざグラタンをつくっちゃうという料理好きっぽさもあります。本人は気付いてないものの死にそうな状態にもかかわらず冷蔵庫の中身に執着している状況は、「地獄八景亡者戯」のサバに当たって死んだ男とも通底する馬鹿馬鹿しさがありました。

そして意識がだいぶ混濁して最後には、

 派手なシャツの男は自分の肉体もまた鶏肉や紫キャベツと同じように腐敗していくということに、最後まで気がつかなかった。かれがもはやそこにいないのであれば死体はかれのものではなかった。完全に無関係とは言いがたいが、別物であった。冷蔵庫で腐敗していく鶏肉よりは近しく、そして鶏よりははるかに厄介で悲惨の度合いが大きかったがそれはかれの知るところではなかった。(p.132)

派手なシャツを着る孤独な男性。これはオネエです。すくなくともオネエ的な要素はある。

孤独死は誰にとっても想像しただけで恐ろしいものだと思いますが、それに対する恐怖は女性のほうが強いのかもしれません。というのは全くの偶然ながら、ヘレン・フィールディング『ブリジット・ジョーンズの日記』を読んで、主人公のブリジットが孤独死、それも孤独死の果てに腐乱死体として自分が発見されるバッドエンドを想像して身震いするシーンが再三でてくるのを最近読んだから。絲山秋子は、たぶん、というか絶対『ブリジット・ジョーンズの日記』なんて読まなさそうですが(笑)、僕のなかで奇しくも本作「今は限り」と『ブリジット・ジョーンズの日記』とが、「孤独死の果ての腐乱死体」というワードで繋がってしまいました。

女は、どれほどひどいあばずれでも、三〇代になると、それまでの奔放さをなくし、初めて感じた生存不安──誰にも看取られずに死に、三週間後になかば腐乱した状態で発見されるのでは、という不安──の痛みと格闘するようになる。(p.27、強調部は原文傍点、ヘレン・フィールディング/亀井よし子訳『ブリジット・ジョーンズの日記』(ソニーマガジン・2001年))

なので、この身体が突然うごかなくなった派手なシャツの男、この人はオネエにちがいありません(笑)

(追記)絲山秋子オフィシャルウェブサイトによると、2013/8/24の日記にて、この「今は限り」は18篇ほどの掌編からなる一冊の本のなかの一作品といういちづけのようです。それぞれ並行する18の世界が矛盾しながら一つの掌編小説集のなかに収まっているというのが完成形だそうなので、「今は限り」をその全体のなかの位置づけで読んでみるとまた印象がガラッと変わるのかもしれません。早く出来上がりを読みたいです。

中原昌也「司馬遼太郎に似た人 知的生き方教室 その十三」

出典:『文學界』2013年10月号
評価:★★★☆☆

お笑いの手法に「権威の失墜」があります。読んで字のごとく権威を失墜させることで笑い飛ばす、古くは風刺寓話から現代の漫才やコントにまで連綿と続く手法です。たとえば皇族や貴族、たとえば政治家、たとえば富裕者、たとえば社長や上司、たとえば大御所芸能人。それぞれがまとう権威の裏づけは血であったり社会的評判や身分であったりさまざまですが、とにかく人々からふだん「えらい」とされているものの権威を失墜させるわけですね。「えらい」は「遠い」ですから、その距離を縮めて卑近な例にあてはめたり、あまりにも日常的なあるあるのなかに落としこんだり、そうやって寓話や演劇のなかで「近い」ものへと変身させて笑いとばすことが権威の失墜につながるわけです。今回、中原昌也が笑いとばすのは「司馬遼太郎」。

いやもうタイトルがあまりに直接的で読む前から吹き出してしまったんですが、中身もそれに劣らず笑えました。司馬遼太郎を笑うために選ばれた舞台はファミリーレストラン。ファミレスでのコントが延々展開されます。具体的には、司馬遼太郎に似た人の噂をかねてから聞いていたらファミレスで発見して、そこからその男性に「あなたは司馬遼太郎に違いない」「いいえ、違います」というやりとりをしつこいくらい繰り返すという仕立てで、いわば司馬遼太郎をネタにどれだけボケられるかを試す作品。

語り手は「司馬遼太郎を限りなくリスペクトしている」とことばを変えネタを変え執拗に繰り返すのだけれど、そのどれもが「おまえ絶対司馬遼太郎を馬鹿にしてるだろ(笑)」と言いたくなるメッセージの書き方です。メッセージの内容と差し出し方との乖離をうまく笑いにつなげられているんですね。褒め殺し、というやつでしょうか。

中でも、とりわけ司馬遼太郎などを読むと、常に背中を押されて「私もこういう感じの文章を書けるよう精進しなければ」という気分になる。というか、一生かかってでも会得しなければならないという使命感のみに、私の文芸の魂は常に突き動かされている。(p.147)

典型的な誇張法ですね。「使命感のみ」という極端な限定、「文芸の魂」という大仰な比喩。そして司馬遼太郎の文章を見習いたいと言っている当のことばが「こういう感じの文章」という、司馬遼太郎がおよそつかわなさそうなぼんやりした言い方(笑)。メッセージとメタメッセージの乖離です。

司馬遼太郎が亡くなったのが一九九六年の二月。人気番組『マネーの虎』の放送開始が二〇〇一年十月。司馬遼太郎があと五年長く生きていれば……と悔やまれてならない。(p.148)

司馬遼太郎がもう少し長生きしていれば、『マネーの虎』のような作品を書いたにちがいないという仮定のもと、悔やむ語り手。「お前、どこが司馬遼太郎を尊敬してるんだよ!」と思わず突っ込んでしまいますが、しかし司馬遼太郎がもう少し長く生きていて『マネーの虎』のような作品を書かないとは断言できません(確率はかぎりなくゼロに近いといえど)。無意味な仮定です。

司馬遼太郎という人物が存在したおかげで、私たちはこうして平和な国に住んでいられるのだ。それには一生頭が上がらない……寧ろ、現代に生きる我々の方が、司馬遼太郎という人物に依って創造された世界に生きている、と言っても過言ではないだろう。(p.148)

創造主の地位にまで祭り上げられた司馬遼太郎。司馬史観といえば「明治の人間は偉かった、大正以降は軟弱になって堕落しつづけている(だから現代の人間は明治の偉人の生き方を学ぶべきだ)」と僕は理解しているんですが、その見方にしたがえば現代人が享受する平和は決してほめられたものではないはず。やっぱり「お前司馬遼太郎馬鹿にしてるだろ(笑)」と言いたくなります。しかし、この荒唐無稽な想像も、この通りの可能性はほとんどないだろうと分かっていつつも論駁できません。無意味な想像です。

それほどまでに司馬遼太郎に傾倒する人間であるから、とにかく憤りと呼ぶに相応しい感情がこみ上げ、天をあおいで気絶しそうな勢いであった。(p.149)

仰々しい表現。司馬遼太郎の歴史小説の、見せ場にならこういう表現も出てきそうなきもします。

と、こうとりだして来ると、この語り手の語る司馬遼太郎像がことごとくヘンテコなことには誰でも気がつくことだろうと思います。そしてそこが笑いどころ。しかし、ちょっと考えてみると、誰かに猛烈に傾倒するというのはこういう誤読が、その誤読をしている当人にとってこのうえない真実味を伴って達成されてしまう経験ではないでしょうか。当人と直接あったこともないのに、「この人は絶対こうだ!」と読者に思いこませてしまうなにかが、魅力的な作家にはあるのかもしれません(この人、のところにそれぞれあなたの好きな作家や、作家でなくとも尊敬する人物、スポーツ選手、歴史上の人物を当てはめてみてください)。こうなると、中原昌也はべつにこんなこと考えず勢いで書いているだけなんだろうとは十分承知しつつも一方で、他人の批判なんてものともしない壮大な「誤読」から傑作が生まれる可能性だってありそうだし僕はそういう本もぜひ読んでみたいです(99%以上は読めたものじゃないでしょうけど(笑))。

文藝春秋発行の『文學界』で司馬遼太郎を馬鹿にするというのは、いかに司馬遼太郎が偉い作家とはいえ物故作家だからできることなんだろうなとなんとなく思いました。たとえば『群像』で大江健三郎をネタに中原昌也はこういう作品を書けるんでしょうか。彼なら書けるか(笑)。ほんと場当たり的に自由に書いている印象の中原昌也。他の作家たちとも別に仲良くしたいわけでもなさそうだし、いっそこういう風に、他の同時代の作家や有名人を適当に茶化すような「作家モノ(有名人モノ)」で短編連作してくれれば面白くなりそうな気もしました。

(追記)この作品の素材は司馬遼太郎ですが、文体やユーモアは土屋賢二のエッセイそのものですね。

木下古栗「新しい極刑」

出典:『すばる』2013年10月号
評価:★★★★★

何冊も本を読むことは自分なりの天体地図を作っていくことにたとえられます、と言ったはしから誰かがこんなことを言っていたような気がするんですが出どころはおもいだせません、すみません(笑)。話をもどして天体地図の話。最初のうちは、読む本読む本それぞれが一つひとつの孤立した星に見えるものですが、読んだ本が積み重なっていくうちに、それまでバラバラに見えていた星が繋がっていく。どんどん結びついていく経験はやがて、いくつかの近い星どうしの星座を形作らせる。星と星、星座と星座との距離感がつかめてくるとおぼろげながら天体を見渡せるようになる。といっても見渡している天体の星星は見ている人の読書経験によってつねに変わっていく可能性をはらんでいます。子供のころに見たもののほとんど印象に残っていなかった星がある日突然輝いてきたりもして、日々、本を読むことでかたちを変え、輝きを変える天体地図は読書家ひとりひとりの宝の地図です。とここまでは地図の詳しさや広さに程度差はあれ、だれでも一枚はもっているはずの地図。僕が小説家に見せてもらいたいと願うのは、既知の星座や既知の星の解説ではありません。そうではなくて、いままで誰も知らなかった星や、あるいは既知の星であっても「その星とその星が結びつくのか!」という未見の星座です。

木下古栗の「新しい極刑」には、これまでの純文学の小説家にはない星と、その星と星とを絶妙に結びつける手並みがあります。ここ最近の作品で、編集者の求めか作家の試行か、「いい女vs.いい女」でみせたぶっ飛び具合を、より広く受け入れられそうなかたちにブラッシュアップしているような印象でしたが、ここにきて発表された「新しい極刑」はその、ぶっ飛んだエネルギーと、受け入れられそうなかたちとを見ごとに両立させた作品です。

木下古栗のこれまでの作品の舞台に選ばれていたのはだいたい日本でした(だいたい、というあいまいな言い方を許してください。木下古栗ファンならすぐに幾つも作品を思い浮かべられるはずです)。日本という舞台を選びながら、そこに外国人を登場させたり、変わった趣味の人物を出したり、レトリックの中で宇宙の話を持ち出したり、世界各国を渡り歩いた人物を登場させたり、虎と闘ったり。つまり日本人読者にとっての日常(日本)を、日本でふつうに生活していては出会えないような人物や出来事(非日常)にぶつけて、無理やりドラマをうごかしていく。「いい女vs.いい女」の感想を書いたときにも言及しましたが、この矛盾する対極のものをぶつけて、そこに発生するエネルギー(両極が離れていればいるほど激突時のエネルギーは大きくなります)で読者の笑いをさらう技量にもっとも長けた作家こそ木下古栗です。その木下古栗がこの作品で到達した作品の大地は、日本ではなくアメリカでした。日本人ならとてもとらないような無意味な、馬鹿馬鹿しい行動も、アメリカ人なら難なくやってのけてしまう。ちょうどテレビでよくみる「アメリカから届いたおバカムービー」のなかで笑いの対象にされる白人男性(スキンヘッド)を想像すれば丁度いい。「本当にいるのかよ、こんなやつ!?」という驚きとともに画面越しに繰り広げられる白人男性(スキンヘッド)の奇行。それは現実と非現実とのあわいで存在自体が揺らいでいます。小説の登場人物もほんらいそうではなかったか。

「矛盾」を一つのキーワードに、その両極を強引に結びつけていく。その結びつけ方がおざなりであれば読者は途中で読むのをやめるんでしょうが、木下古栗の場合はその詐術がみごとなんですね。レトリックをふんだんに駆使し、評論調というより論文調の固めの言い回しで、読者をみごとに幻惑してしまう。「新しい極刑」ではいくつもの相対する人物、要素がこの作家一流の力技で結びついています。「生と死」、「人間と機械」、「美と疾患」等など。こうキーワードを抜きだしてくるのはさして難しいことではないにしても、それら両極をうまくつなげられるのはやはり、木下古栗のこれまでの読書体験(とうぜん小説だけではない)によって描かれた天体地図のあつかいを自家薬籠中のものにしているからにほかなりません。

行き過ぎた改造によって不気味の谷に足を踏み入れた不自然な外貌の中毒者もまた同じ人間とは思えず、時として「整形サイボーグ」と呼ばれもする。つまり半ば機械化しており、その蔑称的な比喩の裏には当然ながら、違和感の因子となる内面の病的傾向が含意されている。肉体に瀕死の傷を負った兵士を治癒するために生まれた技術が、時を経て進んで血肉を加工させる中毒者の精神に宿り、すなわち「美か疾患か」の疾患の側面に繋がり、すべてがロバート・ミラーの展示の付属企画、公開講座の壇上での対峙に収束する。(p.55)

そして大人の場合、表から「やる」と裏から「生まれる」の二通り、二種類の巨大女性器に頭を通すと受胎に必要な行為と出産の感覚をまさに「頭で理解する」ことになり、大まかに言って、受精そのものは神秘に包まれたままながら、その前後を身をもって追体験できる。(p.66)

名実の不一致そのものが数奇な巡り合わせの一致を感じさせることすらある。元アメリカ海軍特殊部隊所属、イラク戦争時に公式記録で一六〇人を撃ち殺した米軍史上最強と謳われた名狙撃手がこの講演の直前、テキサス州の射撃場において、退役後に設立した非営利団体の、PTSDを患う退役軍人の支援などを目的とした活動の最中、PTSDを患う退役軍人の若造によって撃ち殺された。(p.71)

それぞれ短い引用箇所ですがいくつも「矛盾」が仕掛けられています。それもことごとくうまくいっているし、作品の一部分だけでうきあがらず全体と照応してもいます。「ことばともの」との、本来別々のレベルにあるものを、小説のテクスト上で戦略的にごちゃごちゃにしてみせる。ここに妙な説得力というか、「言われてみれば」とか「うまいこと言う」と思わず読者をうならせる、思いもしなかった思考回路あるいはものの見方がうまれます。これこそ木下古栗にしか見えていない、というかこの作家も描き出すまでははっきりとは見えていなかったかもしれない星座です。「言葉によって言い表されることでてはじめてそういう見方があることに気づく」というのは、すなわち、佐藤信夫のレトリック研究でみいだされた洞察、《発見的認識の造形》に他なりません。

こうして、この『すばる』10月号を手に取っている読者とはかけ離れた世界を延々描いておいて、最後の最後、「○○はアート」「○○はアート」のリフレインによってそこまで書き連ねてきた散文を詩のように3ページにわたってパラフレーズしながら、作品の本当に最後、

自動的に死んでいく人間はアート(p.87)

と、視点を読者自身にもっとも身近な、いや、読者自身である「人間」にもってきて作品を閉じる。このフレーズを日常的な言葉づかいでいい表わすとすれば、十人中九人は

自然に死んでいく人間はアート

というはずです。なんの前置きもないならば「自動的に死んでいく」という形容詞が「人間」にかかってくるのは違和感がある。ほんらいなら機械にたいして用いられるべき「自動的」という形容詞が、生命体である「人間」を修飾するという語と語との関係は、ここまで使ってきたことばでいえば矛盾、より正確にレトリック用語でいいなおせば撞着語法(オクシモロン)です。この撞着語法には、他のレトリカルな表現方法とくらべても、《発見的認識の造形》を達成する効果がとびぬけてあります(もちろん成功すれば、の話)。この作品にそくしていえば、「自動的に死んでいく人間はアート」にたどり着くまでのすべての文章は、最後の決めフレーズ、その修飾被修飾関係からいえば違和感があるはずの撞着語法を、そこまで読んできた読者に納得づくでスルッと読ませるための壮大な前ふりだったんですね。実際、この最後のフレーズを、「あたりまえ」のものとして抵抗なく読み流してしまったとすれば、それは、木下古栗のレトリックによって見事に説得されてしまったことの最良の証左です。ここにたどり着くまでに読者のものの見方=認識の仕方が、それと気づかぬうちに木下古栗流に造形されてしまったわけですね。

この傑作を読了後しばらくは、意味と無意味の判別自体が意味のない、一種悟りのような境地にすらさせられました。この作品を、なんとしてもアメリカの読書家たちに届けたいですね。日本のローカルな、ローカルというよりも作家の身辺に起った出来事と、たまたま直近に読んだと思しき本から「影響をうけた」部分をさして面白みのない手つきで書きちらした駄文の掲載されることも少なくない純文学雑誌。その中にあって、この作品が勝負している地平はそんなせせこましい土俵ではなく、時代と地域を問わない、「文学空間」としかいいようのない普遍的な空間です。キラ星からほとんど光を発していない星まで満天の星で埋め尽くされた天体のなかで、この「新しい極刑」の光が没してしまわない。木下古栗という作家の持っている天体地図は恐るべき読書経験の質と量とに支えられたかけがえのない地図のはずです。訳者の技量に絶対的に依存してしまうのは仕方ないとしても、この作品を何としても日本語読者以外に届けたい、読ませたいです!『すばる』編集部、なんとかしてください!

波多野陸「アフター・ジャスティフィケイション・オブ・ライフ」

出典:『群像』2013年10月号
評価:★★★★☆

語りのドライヴ感に緩急をつけて、この愛すべき「クソ野郎」の一人語りが、ぐんぐん読ませるものになっています。新人賞受賞作の生真面目さが先生に読まれることを意識して自分の調べたことをまとめた学生のレポートみたいなものだったのにたいして、この作品には語り手の「声」がいやおうなしに満ち満ちています。そしてその「声」に極端なかたちで体現されている叫びみたいなものは、就職活動という通過儀礼を経験した学生のなかには、おそらく共感できる人は多いはずです。

次の引用は、就職活動中の学生鷹三(たかみ)が耳にさしたイヤフォンから流れてくる音楽に反応する場面。

(前略──引用者)「ロッキーのテーマ」ことgonna fly nowだ。映画『ロッキー』を観たことがある人間なら、どんなに落ち込んでいようとも、どんな性質を持っていようとも、聴けば必ずトレーニングシーンを思い出してテンションが上がってしまう曲。この名曲がもしかしたら歴史上初めてその効用を発揮できていないのかもしれない。gonna fly nowは聴く者を、つまり今で言えば俺のことを陽気な気分にさせようと必死だ。だけど俺は、人類史上初のgonna fly nowに打ち勝った人間として鬱々とし続けている。するとgonna fly nowは、いや、もういいや、めんどくせぇ、ロッキーのテーマって呼ぼうっと、gonna fly nowって頭に思い浮かべると、日本語の中でそこだけ浮いて、しかも脳内音声でネイティブっぽい発音する始末だからなあ、で、どこまで考えたんだっけ?ていうか、考える意味あんのかよこんなことに、って、こういうふうに考え出したところで、今日の俺は考えるのをやめることが出来ないんだろうなぁ、そうかぁ、今日はそういう日かよ、いやだろうなぁ、もう、考えんのやめたいんだけどなぁ、って、またこれじゃループじゃん、もういいや、諦めようっと、さっきの続き続きっと、そまずは片づけないとね、えーと、どこまでいったんだっけ?(p.42)

この一人称語りの軽さ、リズミカルさ、脱線してメタになっていくところなんかは初期の町田康ばりに読んでいて楽しい。そこから、急に視点が切り替えられて三人称になると妙にかしこまった「である」調になったり、説明口調になったり、この転調していく文章は読んでいて心地よいものでした。面接(の妄想)中にいきなり過去の回想になだれ込むところなんて語りの層がかさなっていることを自己言及してしまいます。

ちょっと思いこみが激しすぎるのかもしれません、論理的ではないかもしれません。まあ、それもいいでしょう。要は、村上春樹だったら、私(という一人称を使う私を許してくださいね、何せ今、別のレイヤーでは面接中なものですから)だって名前を知ってるぐらいの超売れっ子ですよね?(p.55)

回想のなかで「スローターハウス5」を原書で読んでいる女の子に話しかけながら、しかし回想のなかであることを自覚しつつ、そのまま話を進めていく。「別のレイヤーで面接中なものですから」の変態的なことばには震撼しました。

こんなふうに幾層にもおりたたまれた時間がノリノリの語りのなかで垂れ流されていきます(褒め言葉)。この時間感覚や、上の女の子とのエピソードや、頻出するSo it goesの台詞にみてとれるとおり、『スローターハウス5』をこの作品の背景に想定することは読者のだれしもやることだろうとおもいます。いまどき『スローターハウス5』を持ち出すセンスは僕としては買いですね。携帯音楽プレイヤーのシャッフル機能のような語りと相同です。

しかし、この作品の語り口の「若さ」や「青さ」について考えてみれば、僕は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や、モブ・ノリオの『介護入門』の響きを聴きとってしまいました。前者は大人社会の胡散臭さや欺瞞に対して、後者は親族らの厚顔無恥や世間の老人介護にたいする考えにたいして、その独特の語り口で、あるいは「声」で、するどく切りこんで行きました。そして、いずれもその語りを発動させるイノセンスや、純粋さゆえに若い読者たちの共感を勝ち取った傑作。

本作の鷹三の語りの根っこにも、この「純粋さ」があります。そして、『キャッチャー』や『介護』同様その純粋さは分別ある大人からしてみれば、「世間知らず」や「幼稚さ」ともみなされかねない、紙一重あるいは表裏一体になったものです。21世紀の現在、その純粋さを維持するためには、『スローターハウス5』のビリーが戦線離脱したのよりも手前の、就職戦線にすら参加しない徴兵忌避(面接をばっくれる)になってしまうんですね。見方を変えればただの社会不適合者ですが(笑)、しかしその社会不適合者が語る語りには、就職活動や大人になることにたいしてついてまわる欺瞞やしょうがなさにたいするいらだちが満ちています。しかも、自分の純粋さは、その欺瞞等などをで撃つ方向にばかり向かわず、同じ衝撃でベクトルの向きを反転させて、「ちゃんと適応できない」自分にたいする自己批判へも向かいます。「世間の常識や分別のある大人たちのいうことは分かる、分るんだがそれに自分は適応できない(し、したくない)」という歯がゆさ。そしてその自分を傷つける衝撃がきわまったとき、思考は鬱状態にむかい、ひきこもりを志向するようになる。

あー、ちくしょう、ひきこもってりゃこんなことなかったのに、ちくしょう、ちくしょう、またひきこもりてぇ、ひきこもりてぇ、くそぉ、くそぉ。あぁ、そうさ、俺は普通になりたいっていつまでもほざいてる、人間の中で最も弱くて情けなくて能力のない人種なんだ! あぁ、大学とか下手に行くんじゃなかったよ、こんな「プライドだけは持ってます」みたいなクソ人間が生まれちまったんだからな! 生活能力のない、就活さえまともに出来ない木偶の坊がここに誕生しましたよ! ちくしょう、意味のないことしちまったなぁ! 意味はねえんだよ、知識とか教養なんて、生きていくためには結局邪魔なだけなんだ、意味のない妄想繰り広げたり、ひたすら自分の惨めさを覆い隠すために使ったり、現実を変えられそうにない理想論を抱いたりして、あー、全部無駄じゃねえか!(p.74)

「ふつうの人間」がなまじ教養をつけたためにその教養に邪魔され通しで八方ふさがりになっている。旧制高校的な身分文化としての教養主義が死滅した21世紀の現在となっては、大衆化した大学の大学生たちにとって教養とはたんにじゃまくさいもの、あるいは将来学者や作家をめざしている打算を隠しながら身につけるべきダサいものになってしまったのかもしれません。この苛立ちをこの軽く青臭い、そしてちょっとバカっぽい(笑)ことばづかいできちんと書けるのは、やはり書き手の波多野陸の今の年齢とその技量があってこそ。小賢しい学生レポートのような小説ではなしに、こういう生の声(や偽装された生の声)を響かせる小説をストレートに書けるんなら、それをどんどん書いてくれるとうれしいなと一読者としては思いました。

綿矢りさ「大地のゲーム」

出典:『新潮』2013年3月号
評価:★★☆☆☆

中学生役の小林聡美が「女にSFは無理だ」と兄役から断言されるのは映画『転校生』のなかの一こまで、公開年が1982年だったことを考え合わせれば当時すでに、「女はSFに不向き」という通説があったんでしょうか。漫画なら萩尾望都や竹宮恵子、あるいは小説であれ『ゲド戦記』のル=グインはじめSFに詳しくない僕でも女性作家数名がすぐ思い当たりますから、そんなの嘘っぱちだとわかります。しかし、それから時をへだてること30年あまり、本作を読了後そういう眉唾説が口をついてでそうになります。簡単にいえば、作品世界の造形の詰めが甘い、という読後感。

作品タイトルから想像できるとおり「地震もの」です。そうはいっても作中一度も日本ということばは出てきません。

「相次ぐ急激な気象の変化、それに伴う衣食住の変化、また不安定な国内情勢により、私たち国民の平均寿命は年々短くなり、去年、ついに女性は七十代後半、男性は六十代後半となりました。しかし思い出してください、もともと我々は百年を軽々と生きられる民族だったのです。男女とも平均寿命が百年近くまで上がる、確かにそんな時代も過去にはあったのです。(後略──引用者)(p.61)

上のことばは、大学生で「反宇宙派」のリーダーが聴衆に向けてかます演説からの引用です。というわけで、日本とは完全にかさならないんだけど、僕たちが生きている今から数十年か数百年単位すれば、上でふれられているような時代が来ないとは断言できないほどの地続きの未来話と僕はうけとって読みすすめました。脇道に話をそらすと、上の演説でそれを聞いている聴衆は「熱狂し、興奮する(p.61)」んだそうですが、新聞の社説みたいなことばでは僕の心は全く動かされません(笑)

どうやら原子力発電から自然エネルギーへの転換をすませた社会らしく、電気の無駄遣いも許されないというのも本作品の大事な設定。このあたりも、今の時点で読む僕としては、困りものの福島第一原発をかかえる日本のその後とるかもしれない選択肢の一つの社会を描いているとうけとりました。しかし、この設定にしても、作品背景としてざっと説明があるだけで、具体的にどういう不自由を被っているのか、あるいはそんな社会になったことでどういういいことがあったのかが、作中人物の具体的なうごきとはそれほど結びついているとは思えません。そこを生きたかたちで展開するのが小説の面白いところじゃなかろうか。

そしてもう一つ大事な設定として、一度大きな地震によって「国土の半分が破壊(p.30)」され、さらにその後にも九十パーセントの確率で同規模の地震が起こると予報されている不安の中を生きている大学生たち、というものがあります。国土の半分が破壊される甚大な被害も、ここでは具体的にどういう不便が生じているのかがリアルにシミュレートされておらずやっぱり説明があるだけです。外国からの救援がどうなっているのか全く書かれてないし(語り手の関心の埒外なのでしょうか)、地震直後には

のちに誤報だったと分かるが、政府の意向として学校側が門を閉鎖し、助けを求めに来る侵入者と逃げ出そうとする脱走者を防いだ。混乱と余震が続くなか、七日間、私たちは学校のなかに閉じ込められた。(p.30)

という状況があったそうです。普通、災害時には、大学のような大きな機関は緊急避難場所として用地を提供することになっているはずですし、大学職員にもそれ担当の職員や対応マニュアルは準備されているはずで、大学を封鎖するなんていう暴挙はまずありえません。「この作品の設定ではこうなんだ」といわれれば、そうですかとしか言いようがないですが。そして、震災二日後に届いた救援物資は、

ハンバーガーと酒だった。冗談だろといまなら思うが、備蓄食糧が足りず、周辺の協力店がファーストフード店とリカーショップだけだと政府から聞いたわたしたちは、なんの戸惑いもなく、毎日二回、武装トラックが運んでくるぺしゃんこのハンバーガーと聞いたことのない名前の生ぬるい缶入りの酒をむさぼった。(p.31)

のだそうです。周辺住民を無慈悲に締め出し、学生たちを強制的に拘束するような大学に、救援物資が運ばれて来る、というのはどういうことか。しかも、つい前のページで、誤報に基づき地震後「七日間」学生を拘束した大学側は、地震後「二日」たってやってきた救援物資を運ぶ武装トラックの人から、二日目も三日目も四日目も五日目も六日目も、なんらかの情報は得なかったのでしょうか。それともこの武装トラックというのも、公的機関のトラックではなくて、民間の義勇軍的な組織のものなんでしょうか。原発がなくなってエネルギーに厳しい社会で、民間の組織が、燃費の悪い武装トラックを所有しているなんて想像力の乏しい僕には想像つきません。「この作品ではそういう設定なんだ」といわれれば、やっぱりそうですか、と頷くよりほかありませんが。

上の二つの引用で語り手が自分の語りの内容に「誤報だった」とか「冗談だろ」とか注釈を加えるところは、語り手のことばというよりむしろ、書き手の綿矢りさ自身ですら本気で信じられていない適当な設定にたいする、書き手の言い訳でしかありません。

「国土の半分が破壊される」という未曽有の大災害に匹敵する経験でいえば、僕たちは、太平洋戦争を知っています。そして、その戦争直後の虚脱状態や、混沌、あるいはそこから這い上がる人たち、取り残される人たちを描いた小説作品を多く知っています。そういう、圧倒的なカタストロフを実際に経験した人たちが、圧倒的にリアルな作品を書いてきたものにくらべれば、この「大地のゲーム」なる作品は、全く地に足がついていない、作家の粗雑な想像の産物でしかありません。ですから、作中で人々を熱狂させるといわれているリーダーの主張にしろ、それに対立する派閥の主張にしろ、まったく説得力にかけます。作中人物も、この未曽有の大災害を経験しかつ目の前にさらに同規模の危機が迫っている状況のなかでも、なにに突き動かされているかといえば「ほれた、はれた」の恋愛話や痴話喧嘩ばかり。これでは、たんなる中高生の学級会、あるいは小学生の「地震ごっこ」遊びレベルです。社会に対するどんなビジョンを抱いているのか、大学卒業後どのような職につこうとしているのか、大災害の経験はこの登場人物たちの生き方にどんな影響をあたえているのか、ぜんぜん描かれません。

結局最後は、語り手の女子大生が「私の男」と露天風呂に一緒に浸かり、

すっかり夜気に熱をさまされた私の男の腕が、私を捕まえて抱きとめ、背中のありとあらゆる場所に唇を押し付けながら、貫こうとする。
「おまえとやるのが楽しみすぎて、胸が痛い」(p.79)

なんてことになって、なあなあのうちに大団円(笑)。女子大生の温泉好きには目を見張るものがある!

総じて、作者自身も信じきれていないし、詰め切れていない設定を、大地震や原発事故を経験した今だから書いておけばとりあえず読まれもするだろうということで、なんとなく書いたんだろうと思わせる、ぬるま湯SFでした。「女はSFに不向き」は訂正します、「綿矢りさはSFに不向き」。

(追記)とは書いたものの、どれほどの大災害に遭ったとしても、人は「ほれた、はれた」の方が重大事だし、あるいは他人から承認・賞賛されることの方に関心があるのだ!というシニカルな人間観を出しているのかな。おざなりな設定の瑕への評価は変わらないけれど、こういう状況のなかでの人間の見方にはそれなりに説得力はあるきもしてきました。

諏訪哲史『ロンバルディア遠景』(講談社・講談社文庫・2012年)

出典:諏訪哲史『ロンバルディア遠景』(講談社・講談社文庫・2012年)
評価:★★★★★

先日読んだ『群像』8月号の「「遠い場所」の詩」つながりで同じ書き手のものを。初出は同誌2009年5月号で、文庫に収録されたものが積ん読状態だったので、これを機に再読しました。文庫解説は『アサッテの人』のエピグラフで引用されたアルトーの訳者、宇野邦一です。

この作品のつくりを、最も素直に単純にうけとればこうなります。美少年詩人の月原篤の才能と容姿に惚れた、詩誌編集者の井崎修一が、彼と過ごした日々の思い出と、ヨーロッパ各地から送られてくる篤の詩稿や書簡とをもとに、小説を書く話。作中では、二人の関係が「本当にあったのかどうか」、特に、天才詩人月原篤は実在しているのかどうかが争点となって、作品の中にフィクション論のような批評も取りこまれています。一冊で、詩、小説、批評が混然一体となった作品で、読者の頭をぐしゃぐしゃにしてくれるんじゃないでしょうか。

諏訪哲史が私淑した谷川渥にささげられた一冊。残念なことに僕は谷川渥の本を一冊も読んだことないのでその影響関係は全くわからないのですが、それでも十分楽しめました。さまざまな小説や詩、ことに異端ものの毒を吸って咲いた大輪の黒薔薇、といったところでしょうか。読者によっては嫌悪感を催す表現もあるかもしれませんし、ことばづかいもかなり古風なので万人向けの本とは言い難いものの、しかし『ドグラ・マグラ』とか『黒死館殺人事件』のように書き手が完全に逝っちゃってて読者が置き去りにされるようなものにはなっていない、読みはじめ面食らったとしてもじっくり食らいついていけば絶対に楽しめるギリギリの線で書かれていると個人的には思いました。

情報量が膨大なので色んな読み方ができそうですが、今回は、なりふりかまわず本気で人に惚れこむ人間の真率さと滑稽さとを同時に味わえる純愛小説として読みすすめました。たとえば、イタリアのベルガモから郵送されてきた篤の便箋と封筒を前にした井崎さんの反応。

 紙面から、アツシの面影を溶かし出し、アツシの存在の濃度を高め、そこにアツシ自身が屹立するまで、私は両手の指の腹で、いとおしく撫で、さすり、唾液が粗相せぬよう気をつけながら、たっぷりと熱い吐息を、衣のように覆いかぶせ、かぶせたその、架空の息の衣でできた、無作為な褶襞、しわの流線を、淫らにねめまわし、視姦する。口にほおばり、かなうものなら、咽の奥まで呑み込まずにはいられないアツシの熱い全身を、決死の禁欲のうちに、じっと呑み込まず、舌先を触れることなく這わせ……、這わせるのはもっぱら十字の折り目のうち、唯一「谷折り」になった一筋の溝に沿ってであるがしかし、ああ、この耐えがたい煉獄の業火に炙られてなお、終に達することだけは自らに禁じ、固く禁じ、それは、硬く、かたくかたく緊……、禁じられ、いましめられて、遮られて、私は歯痒く、身悶えする。そこにしたためられた、若いアツシの、肉筆、そう、彼の、肉、その、いたいけな、筆先から、滴った、青インクの香気に、命を奪われかねない。(p.20)

漢字の表記に揺れがありますがすべて原文ママです。眼の前には単なる紙とそれにかかれた文字しかないのに、それだけを素材、いやこの場合はオカズというほうがいいのでしょうけども、オカズに、四十がらみのホモセクシュアルである井崎さんは、アツシを幻視、激しく発情してしまいます(笑)。狂的な恋に身悶える人間にとって、想い人からとどけられた紙はそれだけで聖性をまといます。書きつけられた文字のインクの染みも、「肉」筆からしたたる芳しき液体に変じます。想い人が手の届かないところにいる分だけ、妄想のなかでその存在感を無限に肥大化させてしまう、これぞ変態文学の真骨頂。ちょうど、ハンバート・ハンバートが、目の前にいないニンフェットをその名、ロ・リー・タの文字だけを口腔内の舌先で愛撫するようにして連呼し、召喚しようとしたような呪術的倒錯ですね。

こうした陶酔境にあっては、ことばの意味も揺れて、さまざまな連想につながっていきます。だから上の個所では、性的なほのめかしが読み取れるようになっている。みうらじゅんの「これ、絶対入ってるよね」にならって、「これ、絶対咥えてるよね」といいたくなる語りです。「アツシ自身」という文字表記は当然、「アツシ本人」という意味と、「アツシのペニス」という意味の間で揺れ動いていますし、「褶襞」や「しわ」も、それぞれ紙の折り目やしわであると同時に、ペニスの裏筋やしわでもある。「肉筆」はさらに露骨。その便箋や文字を「ねめまわす」はあくまで視線のアクションですから「視姦」につながりますが、一字違いのことば、「なめまわす」の残響もあたりまえのように織りこまれています。固く禁じるということばも、ペニスが「硬く」「緊張」するさまに横滑りしてしまい、最後に肉筆から滴る青インクは、とうぜん射精されたスペルマでしょう。井崎さんはもちろん、あからさまなことばづかいは避けていますから、ここでの意味の揺れ、記述から連想される「ペニス」だとか「裏筋」だとか「スペルマ」ということばは正確にいえば、読者である僕の妄想です。読者の頭をこんなふうに妄想で活性化させてしまうのはひとえに、井崎さんという強烈な欲望とことばをもった人物を造形しえた、諏訪哲史の力量に他なりません。本当にすごいなあ、このくだり。

次は、泥酔した二人のやりとり。嘔吐をこらえ瞑目する井崎さんに、蜂蜜をさし出す美少年の篤。

「気持ち悪い。蜂蜜はいらん」
「ハハハハ、違うよ。おい、目を開けてよく見ろ。あんた、これが舐めたかねえか?」
 ……その時、もしや、と、ある非現実的な、凄まじい妄念が私を貫いた。
 夜毎顕現し、私を悶えさせた「あれ」、あの偶像を、ついに自分は現実に舐める……。全身の血が頭に殺到する感覚を気つけに、私はカッと両眼を見開いた。(p.151)

このくだりで爆笑してしまいました。さすが妄想の人、井崎さんだけはあります。見る前から自分の願望が先走り、直接小説中に記述はないものの、篤がペニスに蜂蜜を垂らしている姿でも想像したんでしょうね。最後の、「全身の血が頭に殺到する感覚を気つけに、私はカッと両眼を見開いた。」なんて木下古栗です(笑)。

自分自身も詩や詩評を書く井崎さんだけあって、使われている言葉がかなり古風な(そして月並みな表現もすくなくない)ことによって、この同性の美少年にたいする憧れを爆発させる数々のくだりを面白く読ませます。普通のことばで書いてあるだけだったら、なんのことはない安手のポルノになってしまいかねません。

なんだかこう抜粋してくると、未読の方に、たんなる中年男性のエロ妄想小説と取り違えてしまわせそうで心配ですが(笑)、いや、それはそれで一つの読み方なのだけれど全体を通して読めばそれ以上に、数々の収穫がきっとあります。サドマゾの関係、書くことと書かれることの関係、表層と深淵、異端小説や奇想小説の系譜、さまざまの要素が、井崎さんと月原篤という二人(もしくは本当は一人)の人間のなかで合流し、圧倒的な水量と勢いで読者のなかになだれ込んできます。とかく「難解」だとか、「哲学的」だとかレッテルをはられて敬遠されてしまいそうな書き手の、そのなかでも一見しただけではかなり込み入った風にも見える小説ですが、けしてそんなことはない、じっくりつきあえば絶対に笑えるし、泣けるし、頭は沸騰するし、身悶えできる、何でもありのディオニュソス的欲動によって突き動かされた現代版異端文学。黒い精髄がこの一冊に濃縮されています。
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