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荻野アンナ「いいえ 私は」

出典:『群像』2013年2月号
評価:★★★☆☆

「鰯の頭も信心から」とか「信じる者は救われる」。こういった古くからある言い回しを考えてみるに、合理主義ゴリゴリの人だと実証できないものは決して信じないのでしょうけれど、人間活動は広義の宗教的なものによって下支えされていることは否定できません。普段、健康に生活して、多少不満はあれど命に別条なく暮らしていける状況にあれば宗教的なものにあえて目を向ける機会も必要もないものの、いったん健康を損なったり、不運な事故に遭ったりすれば、自分の状況をうまく説明づけてくれるもの、あるいはそこから事態を好転させてくれるものをもとめて、「なにか」に縋る人は少なくない。その「なにか」が鰯の頭だったり願掛けだったり(新興)宗教の教義だったりするわけです。身近で大切な人が病気になってはじめて、ふだん神社や寺に足を向けない僕でさえ、いそいそとお守りを買いに行った記憶が本編を読んでよみがえりました。本作では、投薬と点滴でがん治療している語り手「私」が、「石」と「水」を願いの依り代とします。

闘病ものを小説として描くにはどうしたらいいか。一つはその切実さを切実さそのものとしてストレートに描くまっとうなやり方があり、もう一方では、本人にとっては切実でも「見方を変えてみれば随分滑稽にうつることもあるよ」とクリティカルなユーモアで包んでやる方法がある。本作ではどちらかといえば後者よりなんですが、がん治療に際して「石」や「水」に縋るようになる語り手「私」の切実さも同時に感じられました。したがってここは、たんなる滑稽ではなくて、「悲しく、滑稽」といいたい。

それゆえ、文章の細部も闘病ものの壮絶さを単に描くのではなく、壮絶な中にもどこかユーモアがあって読ませるものになっています。次の引用部は薬の副作用について書かれた箇所。

 困りものは「脱力感」で、頭を斧でぶち割られた死体が、斧の重みで頭をふらふらさせながら、辛うじて食って排泄していると思えばいい。これに全身のリンパの炎上感が加わり、枕から頭の上がらない日が増えてきた。(p.85)

シンプルに「頭が割れそうなダルさ」とでもいえばいいところをこうして誇張してユーモアを漂わせています。誰に向けたユーモアか考えてみると、まずは彼女とともに暮らす妹にむけたものだと思い当たる。妹に心配をかけまいとする気遣いが感じられます。そして、どうしようもない状況になっている自分自身にたいするもの。現状の苦しさを苦しさそのものとして自分で語ってしまっても仕方がない、せめて語りのうえだけでもどこか余裕をもっていたいという切実さが伝わってきます。さきほど言った、「悲しく、滑稽」たるゆえんの一端です。この表現自体に「死にながら生きている」という撞着語法的な状況が込められていて、死にながら生きつつ地獄の業火で焼かれ続けるあの世の予感さえ感得できます。ここまで読者に連想をつなげさせる仕掛けとして、実は、ちゃんと作品冒頭に『さそり座の女』の歌詞から

♪あなたはあそびの  つもりでも
 地獄のはてまで    ついて行く(p.83)

と引用して伏線を張っているんですね。「地獄」の文字と音がまだ読者の頭のなかで余燼を燻らせているうちにこの表現。見事なタイミングというほかありません。

こんな風に本作では、手を変え品を変え、地獄や死にまつわるモチーフを変奏していくんですね。その変奏一つ一つを読んでいくにつけ、レトリシャン荻野アンナの腕前がいかんなく発揮されていていちいち感嘆しました。いくつか目につくままに抜き出します。

たまには臓器に咲いた薔薇のように美しい癌もいる。私は自分の薔薇を畏れつつ愛した。手術後はちょうど初夏で、近所の薔薇園に日参して、手放したばかりの肉の薔薇のことを考えていた。(p.87)

 石の鏡に映る妹と私は、ふたつのぼんやりした髑髏に見える。(p.89)

流星の落ちる先は地獄の王リュシフェルの燃える口の中です。(p.90)


この作品のなかにはめ込まれれば、ブリ大根に何種類もの調味料をどばどば投入し味の微調整をくりかえす場面も、たんに面白料理シーン以上の意味合いをもってきます。すなわち、魔女がとろ火でぐつぐつ煮える大鍋の前に立って、秘薬を調合している呪術的な雰囲気が漂う。

この作品全体は、したがって、「メメント・モリ」をキーワードにした現代版地獄絵図として読解できます。中世の宗教画、それも真面目な奇蹟の場面を描いたものというよりは、民衆のグロテスクな習俗や土俗信仰をごちゃごちゃと描いたものとして。短編という分量の制約にもかかわらず、描かれた世界の「向こう側」あるいは彼岸を感じさせてくれる面白い作品でした。
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森内俊雄「飛行機は南へ飛んで行く」

出典:『新潮』2013年11月号
評価:★★★☆☆

これを小説として読むと星2つなんですが、小説というより小説仕立ての回想録として読むと楽しめました。作品冒頭でいきなり

 明治の初め、アメリカの生物学者エドワード・モースが発見して、日本近代考古学の端緒となった大森貝塚で有名な東海道線・京浜東北線の大森駅で下車した。(p.204)

小説だったら、「明治の初め……有名な」までは二本の抹消線を上書きして「トル」と書きたいところです。この後を読んでもモースは内容と無関係。ここでこんなトリビアは誰も求めていません。ヴァレリーの「小説は歩行、詩は舞踏」にならえば、読者を着実な歩行で目的地にまで誘導するのが小説の使命です。いたずらに脇見をさせて読者の歩みを立ち止まらせるのは──わざとそうさせることをたくらんだ小説でないかぎり──小説失格です。無駄に読者に負荷をかけてもしょうがない。なので、この作品を小説として読むのではイライラしかしなかったでしょう。せっかく読むので読みのモードを切り替えて回想録として読んだところ、この後も再三出てくる細かい情報の挿入もいっそ面白く読めました。

本作の書き手である森内俊雄が早稲田の学生として過ごした日々のことが綴られています。

一九五六年、昭和三十一年四月。終戦から十一年、戦後は終わった、と言われていた。(p.206)

この時期、早稲田大学で青春期を過ごした森内俊雄。経済白書でこそ「もはや戦後ではない」といわれたころであっても、地方と都市ではまだだいぶ経済格差、文化格差があった時期。この格差が大学での浮世離れした教養主義を煌かせたわけですね。

著者の青春時代の思い出のなかでは、ロシア語学習や文学作品読解、詩作に記述の多くが割かれています。合ハイ(当時は合コンではないんですね)とか映画といった、どちらかといえば軟派でオシャンティなにおいのする娯楽は出てきません。早稲田に当時まだ残っていたバンカラな気風にわりとすんなりなじんだようで、高歌放吟しながら駅から歩いて帰ってきたとか、部屋で歌をうたっていると下宿のおばさんから注意されたとかのエピソードが読んでいて面白い。当時は(戦争)未亡人のおばさんが経営する素人下宿が大学町にはたくさんあったんでしょうね。ひとつ屋根の下に、居候とか食客とかよばれる人たちがお互いよく知らぬまま間借りしていたのも、当時としては珍しくない風景だったはず。このへんを安易にノスタルジーにのっかからずに橋本治あたりに書いてほしいなあ。

さて。細かい情報が数々挿入されるなかでも、人名がたくさん出てきます。

二年生のとき、わたしは出席日数不足で単位を取り損ねて、一年下の人たちと一緒にロシア語を勉強する羽目になった。そこには、後に教授となったロシア・アヴァンギャルド研究の水野忠雄がいたはずだが、残念ながら、お互いに知らないでとおした。漫画家の東海林さだおも同学年のはずだったが、相知ることはなかった。このすれ違いについて言えば、一年上には三木卓がいたが、お互い知りあう機会はなかった。また五木寛之、後藤明生とも年齢や在籍年数などの違いで在学中に遭遇することはなかった。残念な気がする。(p.211)

これだけ長々書いた揚句、「誰にも出会ってないのかよ(笑)!」と思わず突っ込みを入れました。もっとも、ここで名前が出ている有名人にこそ出あわなかった(記憶がない)ものの、李恢成とは会話を交わしているし、ロシア文学を中心に教授連にも名の知れた人がちらほら。今みたいに単位に汲々とするばかりではなく、「早くロシア文学を原書で読みたいと思った」というような素直な情熱も吐露されていて、つくづく、ああ教養の輝いていたころだなあ、と感慨深く読みました。まあノスタルジーまじりで美化されているだろうし、学生はいつの時代でも(あからさまにか心のなかに押し隠してかの違いはあれ)単位を欲しがったはずですが(笑)。

僕は不勉強で、港野喜代子という詩人がいたことをこの作品を読んで初めて知りましたが、森内俊雄が当時創刊した同人誌に掲載された彼女の詩「結晶」が、時を経て森内の長編『氷河が来るまでに』として結実するといった作品の舞台裏に、時間の風化に耐えることばの強さとその響きあいを感じられて、詩ってやっぱりいいなあと思った次第。最後に彼女の詩の一部を引用しておきます。

  わずかな生涯を コップの中の
  泡くずに浸っていたのでは
  洪積世直前の氷河の動きはききとれない

  常に大地の胸かき破って つかみだした
  濁ったものをも順々に並べてみよう

  煙色の水晶だってあるんだ
  氷河の来る前に
  人間の わびしい言葉を うんと集めて置こう(pp.223-4)

「氷河の来る前に 人間の わびしい言葉を うんと集めて置こう」は、いいですねえ。

福永信「三姉妹」

出典:『群像』2012年7月号~10月号
評価:★★★★☆

小説らしくない小説を意欲的に発表している現代作家として、青木淳悟や福永信の名前があげられます。書き手たちにしてみれば「これこそ小説なのだ」といわれるのでしょうが、彼らの書くものを読んだ人の多くは「うん、小説ですね」と素直にうなずけはしないはず。そうするより先に「何だこりゃ?」と自分の前提、小説観を逆に照らし返されて混乱し、「ま、まあ、こういう作風もありだよね。これも小説」と分かった風を装って戸惑いまじりに自分を納得させるというプロセスをたどるんじゃないでしょうか。そうならないなら「こんなの小説じゃない!」といって読むのを途中で投げ出してしまうか。僕自身は正直にいえばこの二種類の読者の間を、青木作品なり福永作品なりを読むたび一作ごとに行ったり来たりしています。けれど不満は別にありません。少なくともありきたりの駄作で満足してしまわない挑戦的な姿勢は買っているつもりです。僕の読解能力が追いつけないときがあるだけです(笑)。

さて、今回の「三姉妹」は単行本化するにあたって「戯曲+ノベライズ」という別々の形式にわけて一冊の本に収められたようですね。僕の手元にあるのは「三姉妹」の初出となった雑誌版。これら四冊から想像してみるに、雑誌版で四回に分けて四兄弟が語るパートと同時並行的に作中ページに挿入された(のちに作品自体を侵食することになる)「今号のあらすじ」というパートが、ぞれぞれ「戯曲」と「ノベライズ」という風に分けられたのでしょう(間違っていたらごめんなさい)。連載作品は連載終了してからまとめて読むようにしているのでうかつでしたが、これは連載と同時によんでいくのが正解でしたね。

つい昨日感想を書いた船越素子「ひべるにあの巣籠り」のところで「僕は戯曲が読めない読めない」と書いたものの、これは読めました。雑誌版だと、この作品のどこにも(あるいは目次にも)、この作品のジャンルを「小説」とか「戯曲」とかジャンル分けする言葉がないんですね。ということは、意識してこの作品をいずれともつかない、いずれともとれる形式として発表しているのだということが分かります。よくよく読んでみれば、作品の初めに

 第一幕 タバコと貝について

 時──二〇一二年七月

 所──高台

長男 心を鬼にしていうが……どうかその手にもっているものを投げすててくれ。どうか、そのポケットに入っているものをいますぐ出しなされ。かくさないでいいから、おこらないから、どうか、その背中にまわした手を、前へ出してください。どこにもつながっていないのだからね、ほんとうは。どこにも、だれにも……
 だれにも伝わっていないのだからね、そんなものを、駆使したところで、なんにも。すべて独り合点なのだから……
 だから、なげすててくれ、どうか、そんなものと、そんな一人芝居からは。高価なものだからといって、ためらわないでくれ。いかにそれが人を蝕むものであるか、よく理解し、そんなものとはおさらばしてくれ。あらたな……
 あらたな出発をする気持ちで、これから再生するんだと、そういうこころがまえで、がんばろうじゃないか。みんなで、手をつないで、前を向いて、ひとりじゃないということを、確認して……(p.18)

とあって、「第一幕」のことばから分かる通り、戯曲形式に読めます。あるいは小説中劇か。もっとも、僕が読み進めていたときの意識は戯曲というよりは、フォクーナーのような、現実世界ではありえないような息の長い一人がたりが延々とつづく、どちらかというと小説形式のモードでした。

さて、この「長男」という語り手が「○○してくれ。○○しないでくれ。」とひたすら懇請する形式で語りかけてきます。こんな連発で懇請する語りって珍しいですね。小説ではなく詩集で、焼き捨てられてしまって僕の手元にはすでにありませんが、オノヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』がたしか、「○○しなさい」という命令形だけからなる作品だったかと記憶しています。で話を「三姉妹」にもどして、この「○○してくれ」が延々つづく語りに辛抱強くつきあってみても、いったい何が起こっているのか、どんな人物が何について語りかけているのか一向見えてきません。これだけだと脱落する読者続出必至です。が、雑誌版だと同時に「今号のあらすじ」というかたちで、この語りがなされている背景、コンテクストが語られます。こんな感じ。

今号のあらすじ
 コミュニケーションの利便性を高度に追求した結果、人々は人間性を完全に喪失していた。二〇一二年七月、そのことを憂う口下手な四兄弟が立ち上がった。長兄は、多機能携帯電話を廃棄し、貝がらを耳にあてるよう訴える。そうすることで、人は心を鎮めることができるという。しかも、本来は聞きとれぬはずの声と交信することまで可能になり、それによって豊かな人間性を回復することができるというのだ。ただ、残念なことに、大人は貝がらを耳に当てる機会がめったにない。他方、子供は積極的に貝がらを手にし、それをごく自然に耳にあてる。(p.19)

正直、この「今号のあらすじ」がなければ僕は読むのを途中でやめていたでしょう。「今号」のあらすじで語られる内容で安心を手に入れるととたんにつかみどころのなかった長男による懇請が読めるようになります。そうか、この言い淀みや中断の多い語り口は「口下手」ゆえなのかとか、「投げすててくれ」と指示されているのは「多機能型携帯電話」なのか、とか。

あとを読んでいけば分かりますが、四兄弟のとくに長兄と次兄が中心となって、多機能型携帯電話と貝がらとを人々に交換させる話になっています。ちょっとしたSFっぽい筋立てになっていますが、SFというよりは一つの風刺寓話として読めますね。多機能型携帯電話でアプリにつかり自らを機械の末端化してしまう人間像があり、もう一方は貝殻に耳をすましそこに聞えないはずの音を聞き取ろうとする人間像がある。この二つの人間像に象徴される存在をもうすこしいいかえると、前者を「安心」に馴れきった受動的人間。後者を「不安」に耐えられる能動的人間。あるいは、レクトゥールとリズール。

実際、僕はこの小説の出だしからつづく、長男によるどこに向かっているのか見当もつかない懇請に「不安」になって、とてもこの作品を読み通せない、と雑誌を投げ出しかけたのでした。けれどもそんな僕に餌を与えるかのようにして、「あらすじ」があたえられ、そしてこの「あらすじ」によって読みを一定の水路に方向づけられた。そうされることによって、「いろいろ解釈したり想像したりして作品を楽しむ読者の自由」とひきかえに、「読み方を教えられて得られる安心」という禁断の麻薬にありついたわけです。家畜根性まるだしの、自ら進んで奴隷となる読者こそこの僕。自由からの逃走(リースマン)です。このあたりが冒頭述べた、自分の小説観を照らし出す作品という所以ですね。

さて、もう少しこの「三姉妹」全体のことを。結局この作品を強引に内容と形式に分けるとすると(そんなことはできないという原則論は百も承知ですが)、連載が一回目、二回目、三回目、四回目と進むにしたがって、兄弟の語りパートと、あらすじパートとの分量が逆転していきます。初めはその量からいえば、語りパートが主だったはずが、最終回にはあらすじパートが作品全体をのみこんでしまう。これについて風刺寓話風に僕なりに読み解いてみましょう。

近代小説の母胎は戯曲です。小説の世紀にはいって多数の小説を生むフランスにかぎってみても、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』を例外的に早い事例とみれば、戯曲の傑作が生まれる時期のほうが小説のそれより先んじています。戯曲の隆盛から小説の世紀をへて現代へ。受容者も、王侯貴族から、新興中産階級(ブルジョワ)、インテリ、マス・インテリ、大衆へとどんどん広がって現代へ。

ということはこの「三姉妹」という戯曲とも小説ともつかない連載作品は、このひとつの作品のなかで、教養のある少数の選良が楽しむ戯曲・小説の時代から、ことばはきたないですが、アホでも読める大衆小説の時代へ、という数世紀を、圧縮して表現してみせた作品ともとれます。そして同時代作品としてこの本を手に取る読者の多く──「多く」というのはあくまで僕の想像でしかないですが──は、「あらすじ」のパートを与えられてやっと「安心」を得て満足し、カタルシスを味わう読者です。わざわざ貝殻を手にとって、そこに聞えないはずの潮騒をあえて聴き取ろうという苦労もせず、のうのうとあらかじめ用意された世界観を受容するだけで満足する読者(僕も含め)がここでは風刺されています。

こう単線的な歴史と重ね合わせてこの作品を語ってきましたが、しかしこの作品にはもうひとひねりあります。連載第四回目の「あらすじ」パートが全体をのみこんでから、それまで語ってきた内容が繰り返されるくだりがある。これも歴史とあわせて読んでみれば、「歴史は繰り返される」というおなじみの箴言に帰着しそうです。ということは、現在の読書界を覆う停滞した雰囲気(そこでは「面白い作品を!分かりやすいストーリーを!」の大合唱です)を払う/祓う時代が、またやってくるという希望が語られているのかもしれません。その希望を語るパートが「あらすじパート」だというのがなんとも皮肉です。そしてそんな時代の到来には僕自身、極めて懐疑的ですが。

自分の理解力を棚に上げて「何だか分らないけどこの作品好き!」みたいに言っちゃえる能天気な自己愛まみれの感想を臆面もなく吐きだす読者(「この作品が好き」ではなくて「この作品が好き、だといっている自分が好き」)を別にすれば、僕たちは福永信の「三姉妹」という挑発的な作品を前にして、どのように受容するのがよいのでしょうか? 僕たちの耳は、貝がらから潮騒を聴きとれるでしょうか?

(追記)自由からの逃走は、リースマンでなくてE.フロムでした。読み返すたびに恥ずかしさを思い出して自分への戒めとするため本文中にそのまま残しておくことにいたします。

(追記)「貝殻に耳を澄ませる」という表現をとりいれた詩や小説は数多くあるかと思いますが一例として西脇順三郎訳のコクトーの詩から。「オレの耳は一つの貝殻である/海の残響を愛す」

船越素子「ひべるにあの巣籠り」

出典:『文學界』2013年11月号
評価:★★★★☆

大手の出版社が発行している文芸雑誌のメインはもちろん小説なんだろうけれど、数としては少ないながら戯曲や詩も掲載されています。僕は戯曲には全く疎くって、観劇はもちろん楽しめるんだけれども、紙媒体に掲載された戯曲を「読む」ことにはいまだに慣れません。劇台本を読まされているようで、しばらく読み進めても要領をえずきまって途中で飽きてしまう。ほぼ会話だけのやりとりから情景を想像するちからが僕にないんでしょうね(笑)。戯曲とはちがって、詩は、読むセンスがないことは自認していますが、「なんとなくいいなあ」とか、「このフレーズは沁みるなあ」とか、茫洋とした感想ながら自分のなかに引っかかりは残るものもあります。その点、どこに自分をひっかけていいのかわからない戯曲を読むのとは大違い。

さて、いまさらながら気づいたんですが『文學界』の、巻頭小説が始まるよりも前の、扉ページといったらいいんでしょうか、ちゃんとした用語で名称があるんだろうけれど僕は知らないので仕方なくページの場所をこうして説明していますが、こうしたまどろっこしい説明を読むよりも、『文學界』をひらけば分かる、その最初の最初のページに、一篇の詩が掲載されています。

2013年11月号は船越素子「ひべるにあの巣籠り」。

これがよかったのでここで「よかったよー」とご紹介。ひべるにあ、というのは古代ローマ側からアイルランドのことをそう呼んだ名称だそうで、この詩もその「ひべるにあ」をテーマにして作られたものです。アイルランドやゲール語というと小説読みはジョイスのことに思い当たるはずで、この詩にもジョイスのことが隠喩としてうたわれているのかもしれませんが、その辺はよくわかりません(僕のジョイス本人についての知識はほとんどありません)。まあ、ジョイスの絵解きのように本作を矮小化してしまうより、詩なんだから、ここに書かれてあることばそのものを舌のうえで転がしたり、ビジュアルとして読んだり、各々好きな味わい方でリジョイスすればよろしいんじゃないかと思います。

分量的には全文引用できますが、著作権侵害になっちゃうのでそんなことはしません。第一聯だけ以下に引用して、つづきは『文學界』で、ということにいたしたいと思います。

 アイリッシュ海に面した丘陵地を意味するその町で
 わたしは毛繕いをする 庭先でゆっくり緩やかな指先で
 身体を思いっ切り伸ばし微かな潮の匂いを吸い込む
 幾層もの時の吐瀉物を抱いてなお廃墟も遺跡も
 血まみれの歴史も海に流れるほどつつましやかな呼吸をする
 古い港町なのだもの ユリシーズを読んだ?
 そんなふうに出会った そんなふうに言葉を 仕舞おうとした

詩の書き手にとって、もともと縦書きだったものを、こうして「引用」と称して横書きにされてしまうことや、著作権への配慮からとはいえ詩の全体から部分を断片として切り取ってしまわれることは許しがたい冒涜だと思います。それを承知でこんな──ちょっとことばは大げさですが──蛮挙にでたのは、この「ひべるにあの巣籠り」がよかったよ、ということを伝えたいがためです。

文芸誌は雑誌だからこそ小説以外も楽しめる、雑食の味わいがあるのですね。小説に限らず僕にとってはつまらない作品も掲載されることいく度とありますが、それでも自分が普段興味関心をそれほど払っていないジャンルの、すばらしい作品と出会える機会がえられるのは「なんでも乗せちゃう」雑誌のおかげに他なりません。この扉ページの詩はいつもスルーしていた(眼には入っていたのだろうけれど、読んではいなかった)ので、本棚にある『文學界』バックナンバーを繰っていく楽しみができました。

KSイワキ「さようなら、オレンジ」

出典:『太宰治賞2013』(筑摩書房)
評価:★★★★☆

2013年の太宰賞受賞作の評判がよいようなのでつられて読みました。単行本化するにあたって著者名はKSイワキから、岩城けいに改名されています。名前の由来や執筆背景についてはご本人のインタビューがありますので興味あるかたはそちらもご覧いただければ。

 リンク→ 太宰治賞を受賞 KSイワキさん(42)「ビックリ、私、専業主婦ですから」(MSN産経ニュース)

アフリカから難民としてオーストラリアにやってきたサリマという文盲の女性が、シングルマザーとして仕事と子育てをこなし、さらに英語習得を通じて自分を語ることばを獲得していく物語です。今の日本の状況と照らし合わせてみると、日本の識字率は極めて高いので、一見この話はピンボケでは?と思いそうですが全くそんなことはない。ちょっと想像力を働かせてみましょう。大正生まれくらいの人なら文字の読み書きに不自由する人はいました。戦後でも在日朝鮮人第一世代の人たちや、あるいは現在でもブラジルなどからやってきた出稼ぎ外国人労働者が、自身の日本語運用能力の低さに由来する苦労を体験しているはずです。もう少し想像をひろげてみれば、日本のような識字率の高さを誇る国のほうが世界のなかでは特殊です。こうして日本語で小説を当たり前に読める──もっとも本当に「読めている」かどうかは僕自身もふくめて疑ってかからねばなりませんが──僕たちの、壁一枚、あるいは国境ひとつ、あるいは時間の数十年をへだてたお隣には、文字から疎外されて暮らす人々というのは数多いはずです。だから文盲の女性サリマのことばを習得するプロセスは今、読まれなければならない。

もう一つふたつ個人的な話を付け加えます。外国語学習をするときに、とくに「聴く・話す」で自分の存在が揺らいだり、不安になったりする経験はなかったでしょうか? 僕の出身大学のある講義で、外国人の先生がやってきて、「さあ、語彙を習得するにはゲームが一番だ」といってパズルゲームみたいなのを毎回やらされたときには小学生あつかいされたような気になりました。不満を述べようにも、外国語によってだと直接的な言い方しか思いつくことができません。とうのたたない表現や、穏便ないいまわしでもって先生に不満を伝えるような微妙なニュアンスをことばにできず歯嚙みした思い出があります(ことばのあつかいにおいてはたしかに小学生レベルと変わらなかったでしょうね)。それに今だって、仕事をするなかで、「こんなの誰が読むんだろう?」と思う書類を義務で書かされることがままあります。これらの背景が僕にはあるので、サリマの体験する「ことばから疎外される」状態は、決して他人事ではありませんでした。大仰な言い方をすれば、言葉と存在の乖離とでもいえるでしょうか。

そうなもんで、僕はサリマのパートを読むのも楽しかったんですが、むしろもう一つの手紙のパートのほうにより感情移入しながら「そうだよな、そうだよな」とうなずきつつ読むことになりました。手紙のパートとは、サリマの話と交互に語られるアジア人女性サユリの手になる手紙の文章からなる部分です。サユリは、サリマとは違い母国語で学士論文を書いたくらい母国語に通じてはいます。けれども外国語のなかに放りこまれると、たちまち母国語なんて何の効果ももたなくなり、とたんに無力になってしまう。サユリが生活を続けるためにアルバイト探しする場面。

「生鮮食品加工のパートタイマー経験不問」の求人をみるなり、ほとんど衝動的にカウンターへ走り寄って、あの仕事に興味があると店員さんに伝えていました。その店員さんが私の言葉遣いとアクセントを耳にして、いやな笑い方をしたのを私は見逃しませんでした。(p.62)

と、ことばによる差別に直面しています。もっとも、これはサユリ視点からの語りなので「いやな笑い方」の原因は本当にサユリのことばづかいによるものなのかは不明ですが(うがった読み方をすれば、ことばの問題で頭をいっぱいにした彼女が因果関係を取り違えたかもしれません)、ともかくもそう語られている。

ちなみに、サユリの夫はチョムスキーを研究対象にしているようです。チョムスキーの根底にある「人間みな平等」みたいな思想を夫が机上で学ぶのにくらべて、妻は日常生活のなかでことばの不平等を肌で感じているところがなんとも皮肉でした。僕の実感としては圧倒的にサユリ寄りなんだなあ。オーストラリアのスーパーのレジで働いている人なんて、オーストラリアで暮らす人のなかでは決してことばの運用能力は高くないでしょうし、さらにいえばオーストラリア英語じたいが英語圏のなかでは「田舎者」みたいに見られているでしょう。こうしてことばの、本来ことばそのものからは導き出されるはずのない階層構造が、人びとの暮らしのなかで実際に運用されるなかで、区別や差別を何重にも生み出すことになります。

だけど翻って、ことば遣いが拙いことがいつも「悪い」のか。「そうはならない」という見方を取りこんでいるところが、この小説に膨らみを持たせています。母国語の運用能力に長けた女性サユリの手紙パートと、母国語がなんなのかもわからないままただ生きるためにことばを習得するサリマのパートとが、互いに呼応しあって、「ことばを習得するとは何なのか」という根本的な問いが深められていきます。次の引用は、サリマが「私の故郷」というテーマで、習いたての英語をつかって、アフリカでの体験を書きつづった場面。

「私の故郷」というテーマにもかかわらず、サリマには故郷とか国の意識がなかった。ただ彼女に起こったことだけを、サリマは書いた。「弟たちを外であそばせて自分もいっしょにあそび」「かけっこも、うたもうたった」。そこにうれしい、かなしい、さびしい、たのしい、といった心の動きを表す言葉は一語たりともなかった。(中略──引用者)話の締めくくりは、これがまた飾り気がまったくなくいきなり終わるのだが、ぶつりぶつりと、それこそ大きな肉の塊を並べ立てたようなごつごつした文章なのに、響くものがある。(p.66)

と、まさに受肉したことばでもって、サリマの存在から肉を切り出すかのような作文がかかれます(全文は作品で)。複雑な言い回しなどひとつもない。難しい語彙も全くない。けれど、語り手(あるいは書き手)の肉に食い入るようなことばは、どんな拙いことばであっても、どれだけ文法的に「間違い」であっても、というよりそうであるからこそ読み手を魅了することがあります。サリマが獲得したばかりのことばで自分のことを語ったくだりは、まさにそんな幸福なことばとなりえたのでしょうね。

こうした作品の内容だけでなく、作品全体の構成も最後までよんで楽しめるものでした。なぜ手紙パートとサリマパートに分かれていたのかが一気に解決されるところまでくると、「なるほど」と納得させられる爽快感を得られました。人間とことばとの関係をテーマに据えながら、その大きなテーマに押しつぶされることなく一篇の小説=フィクションとして書き上げられた「さようなら、オレンジ」は、たしかに僕が今年度読んだ日本語の小説のなかでも上位にくる作品でした。

奥田亜希子「左目に映る星」

出典:『すばる』2013年11月号
評価:★★★☆☆

若手のそこそこ人気ある俳優をつかって映画にすればウケるんだろうな、これ。

これも星三つをつけたものの、先日の新潮新人賞受賞作「太陽」にひきつづき、ご祝儀が入っている気がしないでもないです(笑)。僕の好きなタイプの小説ではないんですが、そんな僕にも読後すわりの悪さを残してくれた小説なので、バッサリ「こんなの面白くない」と切り捨てることはできませんでした。さっさと「恋愛小説」というくくりに放りこんでしまいそうになりつつ、いや待てよと自制が働きました。主人公の早季子が小学校四年生のときの吉住君に恋して以来ずっと、吉住君以外の人を好きになれないまま「孤独」に過ごす。その彼女が最後の最後に文字通り張り倒されて、孤独から脱するときに口をついてでる言葉がとても印象に残りました。この台詞に出会うために僕はこの小説を読んできたのだといってもいいくらい。

「でもそれが、宮内さんと一緒だと素敵なものに思えるんです。映画も音楽は悪くなかったよなとか、リリコも唇の形は可愛いな、とか。宮内さんといると、私はどんどん好きなものが増えて、楽しい気持ちになります。宮内さんの、私とは全然違うところが好きなんです。だから私は、宮内さんに何度だって会いたい。宮内さんともっとたくさんの時間を過ごしたい」(p.108)

それまで孤独の殻に閉じこもって、「私はたぶん、この世界の誰とも付き合えない(p.31)」なんていっちゃうほどの傍目にはイタい女性の早季子ですが、そんな彼女が最後に孤独から脱することばです。

そもそも何で孤独にこだわるのかといえば、幼少期に左目だけが近視+乱視になって左目だけで見えた世界に

「衝撃的でした。確固としてそこにあると思っていたものたちは、単に目を通じて見えているだけの存在で、だから目が違えば、簡単に別の世界に変わりうる。上手く言えないんですけど、なんだか急に世界がひどく脆いもののように感じられました」(p.49)

と衝撃をうけた経験があります。これに加えて、引っ越しを繰り返して友達ができにくいという境遇にあったところで、唯一、彼女の世界観を分かち合える吉住君という同級生とであえたからこそ、吉住君以外の人間とは深く交流することなく、「私ってば孤独」状態をひきずってきたわけです。その早季子が、最後に自分のこだわってきた信念の見方を変えて、「他人と見えている世界が違う」という前提は同じながら、「価値観の違う他人を受け入れる」という選択をしたところには素直に感動がありました。恋愛を通じて一人の人間が成長する小説だったんですね。ここで、プロセスを簡略化してあらすじを語ってしまうと、彼女とともに成長することができませんので、気になる方は小説を読んで、早季子の見方の変容を味わってください。

で、この小説の根っこの部分はきわめてまっとうなものだと認めつつも、いくつか雑なところがあってこの小説の美質をそこなっています。以下、雑なところを適当に列挙します。

語り口の雑さ。たとえば26歳の早季子が、心のなかの吉住君にむかって呟くことばが

分かっているよ、吉住くん。分かりすぎていて……もう痛いよ。(p.98)

です。こんな、頭の足りない女子高生みたいな語りは、それまでのクールな早季子像とはちぐはぐでした。DQN女のツイッターのノリで書いてはだめでしょう(笑)。

論理の雑さ。次は、吉住君がどれほど早季子の精神的支柱になっているかを語る場面です。

 吉住くんは、私を構築してくれた。
 この思いは種子のように固く早季子の中心にあった。孤独との付き合いも、右目を瞑る癖も、すべて吉住からもらった。吉住を抜いた自分を、早季子は想像できない。昔、職場の先輩たちとカカオ九十九パーセントのチョコレートを食べ、これはもはやチョコじゃないと騒いだことがあったが、それと同じだ。吉住成分の抜けた自分は、もはや自分ではないのだ。(p.33)

「それと同じだ」の前後が論理的に繋がりません。カカオ成分九十九パーセントのチョコレートはチョコレートじゃないというのなら、吉住成分九十九パーセントの早季子は早季子じゃない、としないと論理的につながりません。となると、それほど多くない、ほどほどの住吉成分で構成されるのが早季子だ、となってしまいます。しかし、書き手のいいたいことは真逆でしょう。雰囲気で書き流さないでください(笑)。あと、「構築」というのは建築用語から転義してきたことばですので、ここでの使い方はしっくりきませんでした。使い慣れていないことばは無理に使う必要はないはずです。

また、雑とは逆に、凝っている点がマイナスになってしまうところも。「兼子」とよばれる人とセックスを終えた直後の描写が作品のはじめにあります。語り手が女性だと思って読んだものの、「兼子」という相手の名前のせいで、語り手の早季子はレズなのか?と一瞬解釈で戸惑います。しかし、読んでみれば男性とセックスしたということが分かる。つまりレズではない。すると、男性1の女性2(早季子、兼子)で三人プレイをしたのか?と、また解釈を変更しました。しかしこれも違う。こうした迂回路を経て、「兼子」というのは名前ではなくて、苗字だったのだということに気づきます。書き手としては読者の読みを撹乱して「してやったり」なのかもしれませんが、僕はもうここで読むのをやめようかと思いました(我慢して読んだけど)。こういう、無駄に読者を引きまわすような書き方、作品の重要な部分と無関係な方法のための方法は、作品を安っぽくするだけです。ウケないギャグを自分だけが面白がっているだけです。「山田」でも「佐藤」でもなく、「兼子」でなければならない必然性があったかどうか書く前に問い直すべき。

他にも細かいところで、語彙の選択がしっくりこないところ、人物造形やセリフがステレオタイプすぎるところに再三躓きました。というわけで、本筋のところではまずまず読めたんですが、細かい部分で少なくない引っかかりを覚えちゃった作品でした。けれども、根っこの部分がしっかりしているなら、テクニック的な部分、小説表現での拙い部分、論理的な展開の不十分な部分などはどれも、枝葉にすぎないかもしれません。それらはみな編集者らとのやりとりや書き手の研鑚によって、いくらでも改善出来る部分かと思いますんで、今後頑張って書かれることを期待しています。綿矢りさや朝井リョウの筋狙いならうまくいきそうな気がします(無根拠)。

川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」

出典:『新潮』2013年11月号
評価:★★★★☆


ぱっと紙面をひらいてまずビジュアルに気を使っていることがわかります。ひらがなの多さ、改行の少なさに呑みこまれて、文字を読む前からもう作品世界にぐいと引きこまれる。また書きだしも語り手が何について語っているのかよくわからないんですね。いきなりなぞなぞをかまして読者の頭に「?」を叩きこみ、思考を活性化させて物語をはじめる。小説を書くことに意識的な書き手でないとこうはできません。その書き出しはこんな感じ。

 フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415。四十代まで430、野菜ブーツはいつでも500。512は雨のお墓で、夕方、女子がいつもたまっている大猫ベンチは607。(p.8)

名詞と数字が一対一対応でならべられていて、「なんだこれ?」となります。すぐ次の段落で

話しかけられると数がわからなくなってしまうから、ぼくはいつもうつむいて、できるだけ誰とも目をあわさないように、すれちがうときはきゅっと息をとめたまま、白い線のうえを歩いてゆく。ときどきひび割れてときどきとぎれる線のうえを、規則正しく、かくじつに、ぼくはスニーカーの靴底をぴったりつけてリズムをふんで歩いてゆく。(p.8)

とあって、なぞの数字はどうやら、どこかから出発して「フロリダ」(というお店?)や「丁寧」(というキャッチコピーが出ているポスター?)などに到達するまでの歩数であることが推測できます。

換喩の連発をこうみごとにやってのけた例をぼくは知りません。換喩とは…と、ためしにwikiをみてみると

修辞学の修辞技法の一つで、概念の隣接性あるいは近接性に基づいて、語句の意味を拡張して用いる、比喩の一種である。また、そうして用いられる語句そのものをもいう。メトニミー(英: metonymy)とも呼ばれる

とあって、なんのことやらその続きの説明をよんでみてもわかりません(笑)。僕なりに「換喩とは」をざっくり言い換えておけば、「あだ名つけ」です。

さて。この「ミス・アイスサンドイッチ」という作品は、タイトルをふくめて換喩=あだ名つけ、から成り立つ小説です。あだ名は、そのあだ名が何を示しているのかを知っている集団のなかではじめて機能します。たとえば、日本語を知らない人間にとって、「永田町」や「丸の内」は単なる地名でしかありません。「矢来町」も部外者にとっては単なる地名ですが、出版業界をしる人は新潮社のことを、落語が好きな人は古今亭志ん朝のことを思い浮かべるはずです。

で、大人の世界で流通することばでもいろいろ探してみれば、そうと意識しないほど擦り切れてしまった、いわば死んだ換喩はたくさんあるんですが、やはり「あだ名」となじみ深いのは子供の世界です。まだ、世間一般の常識や慣習を知らない子供は、「あだ名つけ」によって、自分のまわりの世界を固定していきます。死んだ換喩や死んだ隠喩にとりかこまれる前の、世界の生々しい感じとじかに対面しているのが子供の世界といえばいいでしょうか。子供の視点から語られる物語だからこそ、大人ならただの「白線」としか認識しないものを(というより白線という存在すら日常生活では無視するはず)、その「ひび割れ」や「とぎれ」にまで気がついていちいち描写しないではいられない。子供の目線に読者は同調させられます。

そして、世間一般の常識からすれば「整形手術に失敗した可哀想な女性」がミス・アイスサンドイッチなわけですが、語り手の男の子(小四)の目にはそんな風にはうつりません。

 ミス・アイスサンドイッチっていうのは、もちろんぼくがつけた名前で、それはミス・アイスサンドイッチをみた瞬間にぱっと決まった。ミス・アイスサンドイッチのまぶたはいつもおんなじ水色がべったりとぬられていて、それは去年の夏からずっと家の冷蔵庫に入っていて誰も食べなかったかちかちのアイスキャンディーの色にそっくりで、それで毎日あそこでサンドイッチを売っているからで、でも、ミス・アイスサンドイッチはそれだけじゃなくて下を向くとそのふたつの水色のうえにマジックで描いたみたいな、まるで目をつむってからもうひとつ目を描こうとして途中でやめにしたみたいなくっきりした黒い線が入ってる、すごいまぶたの持ち主だ。そしてふつうに前をむくとそれがぐんと中にのみこまれて、目がすごくすごく大きくなるのだ。(p.9)

となります。ここには一片の同情も、禁忌に触れた感覚もなく、ただただその他人とは違った顔のつくりに見惚れている様子があるのみです。何かに魅了されるという経験は、他人には通用しない自分だけにわかるレンズでその何かを見る経験に他なりません(恋は盲目)。そのレンズのことを、あだ名といいかえれば、ミス・アイスサンドイッチというあだ名でこの女性をとらえるものの見方に読者は同調させられてしまうんですね。以降、同じ視点で、同じレンズをかけて見えてくる世界を楽しむことになります。堅苦しい常識や「良識」にしばられない、自由な子供の目。それは、写実主義に否を唱えた、印象派の画家たちともどこかで通底するものでしょう。「俺にはこう見えるんだ、その印象こそを大事にしたいんだ!」

「よし、換喩をつかって小説を一篇書いてみよう」としたってこうはいきません。方法のための方法が前面に出た作品は、作者の押し付けがましい自意識を露呈するだけで、作為だらけの安っぽい作品にしかなりえません。世界の生々しさにじかに触れる目を持つ子供、そしてその子供の視点から語られる物語を描いたら、結果としてこうなったというのがこの「ミス・アイスサンドイッチ」の真相でしょう(とひとり合点)。本物の書き手とは、こういう達成をやすやすと──本当はすごく苦労、努力しているのかもしれませんが、読者には舞台裏を気取られないように──やってのけるんだなあと恐れ入った作品でした。

上田岳弘「太陽」

出典:『新潮』2013年11月号
評価:★★★★☆

星四つ自分でつけておきながら評価をちょっと盛っている気がしないでもないですが、新人賞受賞おめでとうございますというご祝儀も込めて。ここ数年の新潮新人賞受賞者はけっこう活躍していて読ませる作品も多いことから読み手としても注目したい新人賞です。今年度の新潮新人賞受賞作「太陽」も、タイトルの名に負けない大ボラ話です。近年の純文学がSFに近づいていっているというかすり寄っているというか、そもそも純文学やSFというジャンル分けがもうあまり意味をなさなくなっているような気もするなかで、それでも純文学らしさみたいなものがあるとすれば、それはほかジャンルの小説にくらべると、破格への許容度が読み手に高いところだろうと思います。本作にも、古臭い「小説らしさ」にこだわらない意志みたいなものが感じられました。

冒頭、太陽と核融合の話が始まり、急に視点が日本の大学教授のもとに切り替わります。

 そのようにしてようやく金は生まれる。が、これはある閾値を越えた質量を持つ恒星の話であって、太陽のことではない。
 そのため、金だ
 金
 金
 金が必要だ
 と切実に願う、太陽から数えて三番目の惑星の住人、春日晴臣の欲するものは太陽からは生まれない。もっとも、春日晴臣がこの時欲していたのは金であって金ではない。(p.122)

強引な視点の切り替えも、この後この大学教授がデリヘル嬢と待ち合わせすることになり、かと思えば錬金術の話題を経由して、一気に南アフリカにあるという赤ちゃん工場まで地理的にジャンプします。空間の移動だけではなく、世代を重ねた未来社会で、「大錬金」なるものをもくろむ人物の話も展開し、時間的にもジャンプします。この、ぽんぽん切り替わる視点をうまくコントロールして読ませる作品として成立しています。

話題や視点を転換するときにどううまく転換するかは書き手の腕の見せ所かとおもいます。本作の最初で、「金(きん)」から「金(かね)」へと言葉の意味をずらしつつ、同時に話題も転換するというのは日本語の表現として面白いものだと思いました。ヘタにやるとたんなるおやじギャグになりかねない危険もありそうですが、冒頭でいきなり壮大な話を持ってきているので、「何がはじまるんだろう」という期待感がまさり細かい突っ込みをいれるよりも先を読みたい気にさせられました。

純文学系の小説は新人賞作品も既成作家の作品も、なぜか日本あるいは日本っぽい場所を舞台にした話が多い気がします。エピソードも妊娠したとか、仕事がつらいとか、いつかどこかで読んだような話(笑)。書き手にとってはおそらく切実な問題なのかもしれませんが、書き手のことを個人的に知らない(し、特に知りたいとも思っていない)僕みたいな読者からすると、それを描く理由にいまいち説得されないこともしばしば。せっかくうそごととしての小説を書くのだから、せめてフィクションのなかでは日常的な縛りを取っ払えばいいのにと常々思っているなかで、「太陽」のような作品には期待が持てます。もっとも、日常的でない話であっても世界観の作りこみや書き方が甘ければ付き合ってられないですが。

話を戻して本作「太陽」について。とにかく次から次にほら話が出て来るので読んでいて飽きませんでした。

頭脳レベルを図る尺度の一つであるところのIQからすれば、今回の八人は一人を除いて、赤ちゃん工場の元工場主ドンゴ・ディオンムよりもかなり能力が低い。デンマークから参加したトマス・フランクリンのみIQ200を超えているが、残りは100~140で、並~上の下といったレベルである。もし、彼らがドンゴ・ディオンムと同様の育てられ方をしたならば、早々に今生から退場するか、生き残ってもドンゴ・ディオンムのような生活は望むべくもなかっただろう。そんな彼らが実態調査するのは「赤ちゃん工場」についてだ。(p.133、漢字は原文ママ)

「図る」ではなくて「測る」でしょうけど。「赤ちゃん工場」とは何かについて期待を引っ張られたうえに、その怪しげな話を語るなかで、さらに仮定法によって(「同様の育てられ方をしたならば」)語られている話の空間を可能性の空間にまでさらに広げる。こうしてどんどん話が広がって行きます。こんなふうなホラ話の膨らませ方、あるいは語り口に、しばしば乾いたユーモアを感じられました。たとえば次のような記述も。

彼は木の幹にぶつかる直前、自分がこの一瞬後に死ぬのだということを理解していた。死亡するまでのほんの一瞬の間に、これまでの彼の優秀な頭脳が編み出してきたあらゆる考えの内、もっとも価値のあるものを瞬時に再生し、あらゆる存在をひとしく愛し、全人類の幸福を祈りながら彼は即死した。それから四十五日間誰からも発見されず、偶然通りかかった「爪の先」の店主がずたぼろになったジープを恐る恐る覗きこんだ際に見つけたのは腐乱した死体であり、彼はそれがドンゴ・ディオンムであることに気がつきもしなかった。(p.140)


こうしてホラ話をつないで現代から未来、あるいは日本やフランス、アフリカをいったりきたりするめまぐるしさをうまくやってのけた本作はフィクションならではの面白さをあらためて味わわせてくれました。

と、作品の姿勢には満足だったんですが、若干気になるところを二点だけ。

まず一点目。中盤をすぎて通り魔が出てくるあたりからは、ホラ話というよりはやすっぽいテレビドラマを見ているようで興ざめでした。あるいは終盤にかかる176ページ目から、なんの伏線もなくいきなり人称が「俺」に変わってしまうのもその必然性が分かりませんでした。書き手都合のひとりよがりにつきあわせられるのはやはりうんざりです。全体を通してみると、前半から中盤にかけてはわくわくし通しで読み進めたんですが、後半になっていくにしたがって、冒頭しばらくから続いてきた書き手のテンションが保ち切れず、なにか既成のフィクション(小説にかぎらず映画とか)のありきたりな表現に寄りかかってしまったきらいがあります。

二点目。書いているときのテンションで突っ走った感があって、書かれた文章の細かいディティールにまで神経が生き届いていないところがありました。たとえば、上で引用したドンゴ・ディオンムの腐乱死体の話ですが、アフリカ中央部の野外に45日間も死体が放置されれば腐敗を通り越して白骨化しているはずです。あるいは、大学教授の春日について。二十年先に自身がリストラされる可能生を心配しており(p.131)、そこから逆算すると、現在三十代後半か四十代前半あたりで、財務状況のよいとされる大学で教授(准教授ではなく)になっているんですが、目立った業績もないこの人物がこの若さで教授というのは若干違和感を覚えました。にもかかわらず、さらにその人物が国連査察団のメンバーに選ばれるというのも、「なぜ?」が先に立ってしまいました。そもそも、大学教授という設定自体が有効だったかと考えてみると、首をひねってしまいます。ディティールということでいえば、日本語の使い方がヘンテコなところと、単に漢字間違いをしているところも。通り魔がナイフで切りつけてくる場面で、

が、ケーシャブ・ズビン・カリは華麗に身を交わしてその攻撃を避けた。(p.159、漢字は原文ママ)

「交わして」だとナイフを持った通り魔のカマを掘った(あるいはほられた)ことになってしまいますが、書き手の言いたかったのはそうじゃないでしょう、たぶん。こういった注意力不足からおこる細かなミスは、そのつど読み手のテンションと書き手への信頼を下げてしまいます。書き手もですが、新潮の編集と校閲も頑張ってください。本作「太陽」掲載ページの途中に、イアン・マキューアン『ソーラー』の広告をこっそり挿入する暇あるんだったら作品自体のチェックも気合いれてください(笑)。

と、読んでいて気になったことに注文つけてしまいましたが、全体としてみてみれば次回作にも期待したい大ボラ作品でした。受賞おめでとうございます。
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