スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

若合春侑『腦病院へまいゐります。』

出典:若合春侑『腦病院へまゐります。』(文藝春秋・文春文庫・2003年)
評価:★★★★★

1998年の『文學界』6月号が初出。時代は昭和一桁年代、カフェの女給がええとこの坊々に手篭にされ変態性交に溺れた記録であり、一通りの出来事の後とうとう「腦病院」へ送られることになった女が「おまへさま」に宛てて書き綴った狂気のラブレターです。僕は変態が好きです。

 おまへさま、まうやめませう、私達。
 私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。(p.9)

僕は変態が好きです。

一遍結婚してゐながら家内に留まるのが厭で厭で職業婦人になりたくつて、緣有つてお春婆樣にそろばん勘定の腕を見込まれ職業持った私の事をおまへさまは詳しく知らないから、結婚しそびれたかロクな男に遭ってない無學な上に育ちの惡い不幸な女だと決め込んで「可哀さうだ、貴女は可哀さうな女だ」と餘りにも同情する、私は本當の事を益々云ひづらくなり、だけども氣丈で不遜な誇りが同情されるのに腹立てて、私の事を胸の内から好きでもない癖に何でかうして座布團附き合はせて座つてゐるのかと情けない氣持ちになつたりして、なのに直感ひらめき、あア此の人とずうつと一緒に生きて行けたら佳いのになア、と密かに思へば座布團がずんずん寄って行き、嘘をついても座布團、體は正直で端から諦めざるを得ない出遭ひが恨めしく複雜感情抑へ切れずに泣いて仕舞つたんだ。「さうぢやないよ」隣の部屋に私の泣き喚きが聞こえまいかと、おまへさまは掌で嗚咽の私の口塞ぎ、さうして其の儘布團の上に倒れ成るやうに成つて仕舞つた。「中に出しても好いのよ」(pp.14-5)

僕は変態が好きです。

 おまへさまを忘れようと胸の奥から體の芯から緣を切らうと私は他の男と交はつた。「此れは凄い、あア好い具合だ、堪らない、此れぢやあ男が先に行くのも無理はない」私のをさう褒めた男が有つて拔き插しの途中にふつと緩めたらぴゅうつと鐵砲水一本噴き出した。びつくりして「なアに、今のは」と左耳に掛かつた水を拭いていたら「おまへの助平なまんかう水だ」と男は大笑ひした。(p.19)

僕は変態が好きです。

此の世にどうして藝術といふものが生まれたかは、生まれ持つて強く大きく過敏に感受する氣性の人が、湧き上がりトグロ卷く感情の種を自分の内側に閉ぢ込めて置けず宥め切れず體の外に出さずにはゐられないから、さういふ自分自身を救ひたくつて形有るものをこさへる、呻き乍、吠え乍、苦しみ乍、自分を救ふ代りに種を吐き出す、芽が出てすくすく育つて咲いた其のモノが藝術、命の宿る花を觀て嫌な氣分になる者はゐない、だから一度は造り手といふ誰か一人を救つたものは結果として、讀む者、觀る者、聽く者を救ふのだらうと私はナントナク思つたものだつた。(p.24)

僕は変態が好きです。

風呂場でおまへさまが私の體を大事に大事に洗つて呉れて目と目を合はせ、幸せと云ふのはこんな氣持ちかと確かめ合ふやうな、まるで風呂場に天使がたつた二人だけでゐるやうな、ぬくぬくした小天國の最中、片手を後にやつたおまへさまがひよいと寶物を差し出す仕草で掌に載せた、灰色と茶色とが混ざつた色の、硬そうで軟らかさうなほんはりと蒸氣のたつた二寸程の丸い棒狀の塊を、私はあんこ菓子でも戴くつもりになつて、戴きまアす、と笑つて會釋(えしゃく)しながら喰べちやつた。今朝かゆうべのおまへさまの獻立は何だらう、何を喰べたのかなア、コーヒーの香りが少しすると思つた。まうひとつ出した短めの塊は、湯で溶かしておまへさまが私の顔や體中に塗りたくつた。化粧乳液を染み込ませる丁寧さで全身に擦り込んだ。美容に佳い感じがして途轍もない臭ひとは裏腹に私は喜んで行儀宜しく簀の子に御座りしてゐた。飮み込み切れず口中に殘る甘くて美味しいはずのあんこ菓子は、苦くて臭くて奧齒にくつついて鼻の奥を刺激する後味の良くない菓子だつた。(pp.30-1)

僕は変態が好きです。

谷崎潤一郎はじめ変態文学の滋養を貪欲に咀嚼し消化吸収し残り滓を糞便として排出しまたそれを味わって飲み下しという地道な作業がこの作品の強度と狂気を下支えしています。おもむろにひり出された大便の蒸気に「ほんはり」というこれ以上ない的確な形容をしてみせ、それを涎でも垂らしながら早く食べたいと気ばかり焦る主観で「あんこ菓子」と捉える倒錯した目、挙句口の端についた食べ残しの糞をぺロリと舐め取るかのような茶目っ気を「喰べちやつた」とまぶして結ぶ描写と語りに、僕は谷崎潤一郎を見ます。この一節だけでも震撼しましたが、本作が読者を圧倒するのはこの狂気を持続させているところ。器用な書き手なら数百字程度であれば文体模写できる人もいるでしょうけれど、これを1990年代の末に100枚ほどの作品全体にわたって持続するには、書き手自身が狂いながら同時に透徹した理性を保たないと到底達成できない、それほどの難行に思われます。

先日読んだ今年度の文學界新人賞受賞作(奨励賞含めて三作ありますがあえてどの作品とはいいません)とこの1998年の受賞作とを引き比べてみたときにその埋めようのない質的な懸隔は明らかです。僕はどうしても前者の、たいしたこともない文学らしさをさらに劣化コピーさせたような書きちらしが、後者の、血と糞まみれの狂気果てに成った本当の小説と、文學界新人賞受賞作という同カテゴリのなかで扱われるのが我慢なりません。

(追記)パソコンのせいか僕があつかい慣れていないだけか、原文では旧字体になっているものでも引用部では旧字体に変換できないものが多々ありました(たとえば「情」)。著者にはこの点お詫びいたします。書き手の表現欲求と作品の強度に、並のパソコンのテクノロジーが置いていかれているのです。
スポンサーサイト

いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」

出典:『すばる』2013年12月号
評価:★★★☆☆

僕が中学生のときの国語の時間に「俳句を作ってみよう」という課題が出され、即座に習いたての俳句をもじって「ふでばこや ああふでばこや ふでばこや」とやったクラスメートがいたのを思い出しました。あまりのナンセンスに印象に残ってはいたのですが、この句じたいを冷静に眺めてみれば季語がないなどの約束事無視は瑣末なことにしろ、習いたての型に、おそらく俳句をひねっているとき机の上に置いてあったふでばこがたまたま目にはいってすぐさまそれに飛びついて出来た安易な作だと知れます。

『想像ラジオ』で毀誉褒貶あれど(多くは「誉」「褒」でした)広く読まれたいとうせいこうが、今回書いた「鼻に挟み撃ち」は、『想像ラジオ』を読んで感じた、広さ、具体的にいえば特定の地域や時代に縛られないようなスケールのでかさ、みたいなものが、ずいぶん小さく切りつめられてしまった印象を読後持ちました。本作からいとうせいこうの、後藤明生なりゴーゴリなりにたいする敬意や驚きはひしひしと伝わってくるし、僕なりにそれらの作家は読んできたつもり(後藤明生はリアルタイムで知ったわけでないのでずいぶん古本屋をまわって探しました、ゴーゴリの『鼻』は最近の光文社版では落語調に訳されていて新たな面白さを発見することができました)でもあるので、それら書き手の現代文学に与えている影響もわかっているつもりなんです。が、本作はいってみれば冒頭述べた中学生のクラスメートと同様の着想、いとうせいこうにとって(多大なる敬意を抱いているぶん)身近に感じられる『挟み撃ち』や『鼻』にとびついて小説を書き上げた安直さが根っこにあって、どうしても本作には「狭さ」ないしは「近視眼」的な印象が終始ぬぐいされませんでした。『想像ラジオ』を前に読んでいたぶん余計に。

 ある早朝のことです、皆さん。
 わたしはじわじわと夢からあとじさり、波打ち際にずるずる引きずられるクラゲのように時に転がったりもしながら、素早い干潮の具合もあって気づけばついに戻りようのない現実に上陸していたのでした。
 あ、坊や、わたしはずいぶん文学的な言い方をしてしまいましたね。お母さんに手を引かれて信号待ちをしていらっしゃるけれども、おじさんはつまり起きた、と言ったのです。目をパチパチッと覚ました。えー、坊やはさっさと行ってしまいました。(p.14)

作品冒頭です。辻立ちして通行人に一方的に語っている人がいる。一方、次のは『挟み撃ち』冒頭です。

 ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。(p.7『挟み撃ち』(講談社・講談社文芸文庫・1998年))

後藤明生が1973年に、ぬけぬけと「ある日のことである」から作品を語りはじめたことに意味があるのであって、いまさら「ある朝のことです」とやられてもなんのおかしみもありません。普通です、普通。いとうせいこうの工夫があるとすれば、そのあと続けて「皆さん」と呼びかけているところ。後藤明生の『挟み撃ち』が一人の自意識が空転に空転をかさねて物語化しようとする自分の記憶をたえず打ち壊し続ける不毛な一人芝居だとすれば、いとうせいこうの「鼻に挟み撃ち」は、一人ではなくつねに「誰か」にむかって語りかける体裁をとる、舞台俳優やタレントとして見られる仕事を生業にするいとうせいこう的変奏といえるでしょう。だけれどそれが徹底していない。作品途中でずばずば視点が切り替わるし、終盤にさしかかればこれまたマスコミの好きしそうなネタが「鼻」というメタファーで語られる。

 ある政治家はAと言っているが、実はBを意図してはいないか、と危うさを嗅ぎつける。さらに疑えばCの匂いも奥にくすぶっているのではないか、と敏感に匂いを判断する。それが鼻というものの役割ですよ、皆さん。
 ところが誰も彼も鼻が利かなくなってきたのではないですか。だから政治家も官僚もマスメディアも評論家も飲み屋のオヤジもAから匂わせているわけにはいかない。はっきりCと言わなければ、いやそれどころか超C、激しくC、ウルトラCにしないと伝わらない。話題にならない。これではきな臭いどころではありません。はっきり火薬。もろに山火事。憶測とか忖度とか屈折を通じて慎重に議論を深めていく「嗅ぎあい社会」は、もはやここにはない!(p.39)


いろいろ書きたいことや試したい技術があってそれを詰め込んでみたらこの作品ができあがった感じです。読んでいて後藤明生やゴーゴリ、また「鼻」のすごさなんかも、いまさら言われてもなあというものばかりで、僕はこの作品の語り手にとってはあまりいい聞き手ではなかったのだろうとおもいます。後藤明生やゴーゴリを知らない人こそ、いとうせいこうのこの作品を読むことでこれらの作家のすごさを知って、直接先行テクストを手にとってみる、そういう一群の古典作品の世界にむけた一種の踏み台的作品として、よき案内役として本作があるのならそれはそれで大いに意味があろうと思います。無理に分かりづらい文章を書かない、どちらかといえば平易な表現で作品を書くところもそういう読者の嗜好にはあっているかもしれない。

けれど僕は、「ほらー、どうだ、おれのツレってこんな面白いんだぜ、こんなすげえんだぜ」というツレ自慢をされても、聞いているほうの僕もその「ツレ」たちのすごさを熟知しているんであってそういうのを聞きたかったのではなく、その「ツレ」たちから聞き取った声をじゅうぶん骨肉化したうえでの、もはやツレたちの声ともいとうせいこう本人の声とも判別のつかないところまで昇華されたスケールの大きな声を(僕が勝手に)期待していたのでした。その意味では期待したものは得られず残念。結局この作品は誰にむけて語られていたのでしょうか。文学部の一回生向けかしらん。

松波太郎「イベリア半島に生息する生物」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★★☆☆

 母親の体内にいたときのことはさすがにまったくおぼえていないのですが、ほら、今おなかのあかちゃんが蹴ったとは言うのに、叩いた、突いた、パンチした、とは言わないことまで最近の自分は遡って考えるようになっており、何かを蹴りたい本能がヒトの体内のどこかには先天的に埋め込んであり、ときどき意識の間隙をついて姿を現すのだと思います。(p.224)

作品冒頭で、動物としての人間の根幹に「蹴る」動作をもってきて、以下はヒトがいかにしてその身体の感覚に目覚めるかという話が展開していきます。比喩的に「身体の声に耳を澄ます」と言ったり、あるいは「身体を酷使する」とか「身体をいたわる」とか日常的にいったりもする僕たちですが、あらためて考えてみるとそういう言い方のうらには身体をなにか受動的な存在としてとらえている意識優位かつ身体劣位の認識が横たわっていることがわかります。

本作では身体が意識から働きかけられる受動的な存在にとどまらず、自分で積極的に動いていく能動的な存在として描かれます。紋切り型として身体と意識を二分割しておいて、作品はじめは意識中心のストーリー運びだったのが、話が進んでいくにしたがって身体が意識のくびきから自らを解き放ちはじめ、暴走するという作りになっている。しかも暴走する身体側からの声が全くないところが読んでいて非常に不気味でした。意識のほうとしては身体がなにを「考えているのか」を忖度するというかたちで、どこまでいっても身体を他者としてしかとらえられない、そしてそこで意識がとらえている気になっている対象も所詮は意識が想像した身体にすぎません。身体の「真の声」を聞き取ることができません。暴走する身体にたいして、意識が発する「おまえは何を考えているのか?」という問いかけの間抜けさは、あらためて考えてみると意識の思い上がりから生まれる問いかけですね。

こういう風な話の骨格だけみてみると哲学的な方向にも進みそうですが、そこは松波太郎。独自の、ゆるい文体で読ませてくれます。サッカー留学でポルトガルに近い町でトレーニングしている語り手が、日本語を封印されて当地で身体をうごかすことで、言葉と動作との一対一対応が組み替えられるところなんか面白かったです。

基本動作の”トラップ”(来たボールを止めること)。”ドリブル”(ボールを前に蹴りすすめること)。”パス”(ボールを味方にわたすこと)のそれぞれの範囲がちがうような、これまで日本で長年教えこまれてきた用語の一つ一つがとり去られる印象も同時におぼえます。(p.236)

サッカー留学する前の日本にいたころは、いわば言葉の鋳型によって身体の動きを過剰に限定してきたわけですね。母国語とは違った言葉が使われる土地に、身ひとつで飛びこんで今まで使っていた鋳型が通用しなくなることで、身体は自分を型にはめていた枠からはみ出して新たな動きを獲得する。このへん言語哲学的にみても面白いんじゃないかな。

ここまでであれば、異国の地に留学しサッカーをプレイするなかで、新しい体の動かし方を手に入れた人間の話にすぎません。一種の穏当な成長譚、常識の枠内の話。しかし本作はそこにとどまりません。サッカーの練習中に、

 ……しょうがないな
 とわざわざ心の中でつぶやき、自陣に引き返そうとします。
 ……ん?
 頭では引き返そうと思っているのに、足が言うことをききません。
 ……いッ
 相手ゴールに向かって走りつづけ、ゴールポストの鉄柱にぶつかる寸前で、急に右に曲がりました。
 ……おいッ
 そのままフィールドを仕切る石灰の白い線もこえ、金網に一度体当たりでぶつかってから右側の扉を見つけて狡猾にノブをひねり、フィールドの外にでていったのです。(p.237)

と、身体が暴走しはじめます。文字通りサッカーフィールドから飛び出すだけでなく、それまで自分が生きてきた枠から飛び出して、外部の新しい世界へ出ていくという比喩にもなっています。このあとの、全く耳を貸さず暴走する身体に、意識が絶えず呼びかける場面なんかは、この作家らしい落語的なすっとぼけたリアリズム調で読んでいてにやにやしっぱなしでした。

ラストまで、どうアクセルを踏んでいくのかその描写はもう本作を読んで楽しんでいただくしかありません。ここでないものねだりをするなら、もしこの身体の暴走が、東京や大都市のど真ん中で起こってしまったらどうなったろうと、そのへんを描いてくれればまた違った作品になったかもなと思いました。本作では身体が自然のなかへ回帰するという、全体を通してみると分かりやすい図式にはまっています。もし身体が自らを解き放っても、そこで自らを取り囲む環境がたくさんの人工物と意識に支配された人間たちばかりの環境であったなら、どんな事態に陥っただろうかと思うのです。結局、人ごみをふりきり東京湾に出て行って、海の水面を超スピードで走って渡り、アフリカ目指すとかになるのかな(笑)。

広小路尚祈「じい」

出典:『群像』2013年12月号
評価:★★★☆☆

二世帯住宅で嫁の両親と同居する若夫婦とその息子の物語。共働きのため日中の息子の世話は義父・義母に任せっきりになっており、それどころか幼稚園の送り迎えや毎週若夫婦だけで外食する間の子どもの面倒まで義理の両親にまかせている。その事実に語り手の智明はこのままで本当にいいのかと悩んでいますが、妻の春奈は頓着するどころかむしろ

「ちょっとなあ、って思うことはあるけど、お父さんたちの協力がなければ今みたいな生活は維持できないしね。結構気に入ってるの、今みたいな感じ。仕事も続けられるし、毎週デートだって出来る。俊哉は可愛いし、わたし何も諦めてない。やりたいことが全部出来てる」(p.206)

と、すこぶる充実している様子。しかし語り手は息子の育て方にもやもやを抱えたまま悩み続ける、というパパものです。

書き手の広小路尚祈は育児や家事に悩む父親と彼を取りまく家族の在り方について関心があるんでしょうね、他の作品でも主夫モノを読みました。広くくくってしまえば「普通の人の家庭生活」で生じた悩み、疑問をこのんでとりあげているといえるんでしょう、そしてその需要(=読みたいと思う潜在的な層)はきっと少なくないはずですが、こういう物語をいちばん必要としている人たちの手元にこの作品がちゃんと届くかというと、なかなか難しいところがあるかもしれません。偏見まみれでいえば、そういう種類の人たちって本読む暇も習慣もあまりなさそうだし、あったとしてもみんなが読んでるから読むハリーポッターやベストセラー作家の作品でおおむね満足、他の本に手を伸ばす余裕ができるころにはそれより優先してやらないといけない日常の仕事や家事育児が待ってるんじゃないか(笑)。コンスタントに文芸誌に発表していて応援したくもある書き手ながら、この作品を待っている層に届くにはきっと広小路尚祈芥川賞受賞くらいまでいかないと難しいんでしょうね。がんばってほしいです、ほんとに。

さて本作の話。よくよく考えてみれば、共働きで子供も作ってとなると、家事や育児の部分をお金で補うか、人手で補うかしないと一般家庭ではなかなか立ち行かないはずです。補えなければ家事や育児の手を抜くか。理想をいえばあれもこれもなんだけれど、きっとほとんどの家庭はどこかで誰かが割を食ったりなにかを我慢したりしているはずです。そういう一般的な基準からすれば、智明カップルは親族の援助も十分えられてすこぶる充実している……はずなんですが、しかし智明自身は座りの悪い(まさに結末がそういう締め方です)思いのまま息子とともにこれからの人生を歩んでゆくことになる。

定式化すれば、「親である」と「親をする」の間でバランスがとれず悩んでいる。つまり俊哉にとって確かに生物学的には「親である」んだれども、いっぽう親としてなすべきと世間一般で考えられている義務を十分果たしているかというとそうではない、親族の厚意にあまえて任せっきりにしてしまっている。智明は自分自身で設けているハードルをクリアしていないと自己査定しているわけで、十分親を「していない」んですね。対極にある存在として、生物学的には「親ではない」けれども、身の回りの世話から病気になったときの看病まで過保護なほど孫につきっきりの祖父は「親をしている」。これでは当然、俊哉は生物学的には智明の「子である」けれども、日常生活でのふるまいは祖父の「子をする」ことになる。社会構築主義的に見れば、ジェンダーについて「ジェンダーする」といわれていた事態と相似の出来事が家族内でも起こっているんですね。

息子俊哉を義父母にまかせて外食しているときに電話が入り、俊哉がひきつけを起こしたときの夫婦の会話。

「大丈夫だって。お父さんが病院へ連れて行ってくれるから」
「でもさ一応」
「なんで? 病院へ行けばお医者さんがちゃんと処置してくれるんだから」
「おれたちは親だよ? 本当はおれたちが病院へ連れて行くべきじゃないの?」
「誰が行ったって病院は病院じゃん。親が手当てするわけじゃないんだから。それに今帰ったって酔っ払っているから運転できないし、どうせお父さんの車に乗せて行ってもらうか、タクシー呼ぶかのどっちかでしょ。だったら今すぐお父さんに連れて行ってもらったほうがいいよ」(p.184)

と、息子の緊急事態に駆けつけるべきと考える夫にたいして、「合理的」に反駁する妻。このあと二人でバーに出かけます(笑)。息子そっちのけでも「親である」事実にかわりありません。しかし「親をしていない」。夫ほど「親をしていない」ことに妻の春奈は悩んでいません、それどころかうまくいっているとすら思っている。

「愛情を持たないといけない」とか「子供の面倒は親がみるべきだ」というのは個別の家庭の細かい事情を顧みない、何の役にも立たない説教、それどころか「愛情を注ぎたくても注げない」とか「ちゃんと面倒を見ているつもりなのに自分では足りない」と自分を責めてしまうような親にとっては有害な規範でもあるので軽々にそれを口にはできませんが、終始語り手もふくめこの大人たちには俊哉自身の声が不在です。家族の間で子育てや躾の方針について対話はほとんど持たれず、特に大問題もおこっていないので、結果としてそれぞれが自分の都合の良いように振舞い、現状是認のまま時間が流れていく。俊哉のパーソナリティに怪しい兆候(他の園児のおもちゃを取り上げる、我慢がまったくできない)が見られても、俊哉のことにあれこれ気をもむ智明は具体的な対策をとろうとはしません。書き手がどれほど意識しているのかわからないですが、こういう肝心なところを視界の外に押し出してしれっとスルーしてしまう人間をこそアンコンシャスヒポクリットと呼びたくなりますね。

なにか大問題が起こりそうなところで起こってはおらず、コップの水が表面張力によってぎりぎりこぼれずにすんでいる状態がこの家族のありようです。何かあるときっと水があふれて、一度溢れてしまった水はもうコップには戻らない。この小説の文章は非常にシンプルでテンポもいいのでサクサク読めてしまえるし、なにより語り手の育児の悩みにもきっと共感できるところが多いのでついつい読む方は騙されてしまうかもしれませんが、この語り手には自身自分で気づいていない「狂い」があります。それはこの作品で当然もっと語られていいはずのことが「語られていない」、その欠如によって明らかになるわけですが、それはまさに息子俊哉自身のこと。俊哉自身がどう思っているのかとか、俊哉とどういう会話、やりとりをしたのかというのがほとんど記されず、かわりに居酒屋の看板によって食事のうまいまずいがどうとかがうんざりするくらい語られます。また、じっさい目の前で息子と祖父が他の子供とその親と問題を起こしかけているときでさえ、実父である語り手は、実況中継するかのように傍観している。

何人かの子どもが集まって来て、同じように二人(俊哉と祖父──引用者注)の周りをぐるぐる回り出したのである。もちろん俊哉の尻や脚には定期的にパンチがお見舞いされている。「いやだ、いやだ」と泣き叫ぶ俊哉。さすがに堪りかねたのか義父は俊哉を床に下ろし、最初に俊哉に攻撃を仕掛けた子どもを捕まえ、その頭を締めつけながら「こいつの親は誰だ!」と大きな声で叫び、周囲を睨み回した。(p.201)

いや、語り手よ、悠長に実況するのではなしにすぐ割って入って混乱を収めろよと突っ込みたくなります。けれどもしばらく二人はそのままに語り手は脇で傍観している。「あってしかるべきことがない」とか「やってしかるべきことをやらない」ままに現状をなんとなく流してしまうのがこの人の特徴であって、息子の育て方についてもうだうだ悩んでいる割には、一向に現状を変えようと自分から動きだすことはない。むしろ悩むポーズをとることによって、自分自身が十分父親としてふるまえていないことにたいして自己免罪し、現状にすすんで安住しているとすらしていると解釈できます。

広小路尚祈がどれほどこの語り手の在り方の「狂い」を意識してこの作品を書き上げたのかよくわかりません──たとえば作品の仕掛けとしてやっていることを読者に分かりやすく示すなら語り手の「狂い」を指摘したり弾劾したりする人物を出せばいいわけです──が、表面的には育児に悩む父親ものとして、深読みすれば無意識の偽善者ものとして、二重底になって読めるようになっているので一篇の小説作品としてじゅうぶんたのしめました。この作品に心からキュンとくる層の手元にこの作品が届く日が一日でも早く来てほしいです。

(追記)そうか、タイトルが「じいじ」でも「じじい」でもなく「じい」なのは、大人たちが息子(孫)にたいして自分の好き勝手を押しつけて満足をえているという意味で「自慰」に繋がるのか!と妄想がひらめきました。それなら子どもの名前も俊哉じゃなくて、オカズのアナグラム、和雄(カズオ)ぐらいがよかったな。下品すぎるか(笑)

ケン・カルファス/都甲幸治訳「Pu239」

出典:『すばる』2013年12月号
評価:★★★☆☆

だれかが単純なミスを冒した。この設備の青写真によれば起こりえないはずのミスだ。(p.216)

大事故は人為ミスが引き金になるのは定番ですね。のっけから事故が起こったのは、ソ連の核処理施設。そこで技術者として働くティモフェイという人物が主人公で大量被曝して余命わずかになったことから、施設のプルトニウムを盗み出して裏社会の筋に横流ししようと画策する短編です。一介の技術者に兵器転用も可能といわれる物騒な物質が盗み出せるのかと考えだすと怪しいところがありますが、「崩壊後のソ連が舞台」ということでなんとなく納得させられてしまう(笑)。混乱は政体レベルだけでなく、人間をとりまく生活環境レベルにまでも及んでいます。リスク満載。

 それに、プルトニウムだけではない。まるで暖かい風呂水のように彼を取り巻いている空気中の物質をティモフェイは敏感に感じていた。知覚はできないが有害で、原子より小さな物質、群がる顕微鏡的な大きさの物質、長い名前を持つ化学物質。農薬や溶けた電池の残り、鉛入りのガス、ダイオキシン、硝酸塩、廃棄された有毒金属、処理していない下水で発生する致死的なウィルス性の生物に彼の体は浸されていた──偉大なるソヴィエト産業帝国が生んだ、発癌性のそして様々に有毒なぬかるみのすべてだ。ソヴィエト的人間(ホモ・ソヴィエティクス)らしく傷ついた染色体や金属の蓄積した組織、ぼろぼろの骨、破れた細胞膜、酸素不足の血液のごたまぜとしてティモフェイは人生を終えようとしていた。(p.230)

いやー、散々です。人体に有害な物質の羅列は、これだけずらずら書かれると、なんだか笑えてきます。それでもお前生きてるのかよ!というツッコミを入れました。これは今日本で安穏と暮らす僕みたいな人間にとっては対岸の火事だけれど、高度成長期の日本の都市部だとか、現代の北京なんかは近いところがあるはず。大学の研究室でもかつては毒物・劇物管理がかなりずさんで、排水溝や側溝に水銀をそのまま垂れ流していたという話をじかに見た人かが語っていたのを思い出しました。こういう「人間の経済活動が人体に有害な物質を生産し人体を冒す」というテーマに真正面から組みあえば『苦界浄土』みたいな重厚な小説ができあがるんでしょうけど、本作はシリアスな側面は後景に退き、僕のように対岸の火事を遠くに眺めるようなスタイルで書き手のケン・カルファスも書いている気がします。あくまで「お話」という枠組みのなかで読んで楽しい作品を志向している。

話の筋はものすごく単純で、この危なっかしい物質が誰の手にどうやって渡るのか、が見せ所。こういう場合、正直に相手を信じたほうが負けるパターンですよね。結局、持ち出されたプルトニウムは、マフィアの男によって強奪されます。が、このマフィアはプルトニウムがどれだけ危険な物質か知識がほとんどなく扱いがかなりぞんざい。「知らない」ことが死に直結する場面がかなり笑えました。

 彼はそれを金の横に置き、引っ張って蓋を開けた。銀色っぽい灰色をした、こんなふうなものは今まで見たことがなかった。彼は指を唾で濡らし、容器の中に突っ込み、少し表面に指紋が付く分だけ取った。ブツはチョークみたいな味がした。
「これ何だって言ってた?」
「プルトニウムだ。ボリビア産だって」

「これはひどいwwww」と思わず読みながら爆笑しましたが、僕のプルトニウムに関する知識も似たりよったりなものなので、舐めるまではしないものの、指を突っ込むぐらいは普通にしそうです。バケツでウランの世界が現実にありましたし、きっとこの先もこんな間抜けな事案は世界のどこかで発生することでしょう。このシーンのあとコカインのように鼻からプルトニウムを吸引して、原子の炸裂するさまがマフィアの頭のなかで展開します。ここは必読、ぜひ本文を読んでみてください。

コミカルななかにも現実と地続きの視点があって、分量のわりにおなかいっぱいになった短編でした。鼻からプルトニウムはなかなかない発想だなあ(笑)。

(追記)やっぱりいるんだなあ。メキシコで放射性物質「コバルト60」強奪した男二人被曝。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2073211.html

黒川創「深草稲荷御前町」

出典:『新潮』2013年12月号
評価:★★★☆☆

新聞でもネット上でも日本と韓国の関係、とりわけ歴史認識の違いについては毎日目にします……ですが、僕はそれほど関心がないトピックなので、こと歴史については専門家の方たちで実証的に論証できるところは論証して、証拠がでてこないところは「証拠ありません」でいいんじゃないかと、完全な傍観者スタンスです。なので、この小説を読んで最近話題になっていた通名について知れただけでも読んだ価値はありました。ただ一篇のストーリーをもった小説として面白かったかというとさほどでもなく、小説よりむしろ教育映画、あるいは小学校のときに体育館で鑑賞した人権意識啓発映画(部落差別もの)を見終わったような読後感をもちました。「おっしゃる通りなんだけど『差別はいけないことだ』って、いわれるまでもなくあたりまえじゃね?」

喫茶店のマスターをしている在日三世の語り手トオルが、現在と過去を生き来しながら自分のルーツと半生を振り返る話です。過去を振り返る際に、自分の出自にまつわる葛藤や苦難が語られます。ただし、苦しい辛い思いでばかりではなくて時折コミカルなエピソードも入ってくる。

 岩本とは、お互い、長い学ランに、タックが三つ入っただぶだぶの学生ズボン同士で、すぐに「イワ」「トオル」と呼び合う仲になった。
 隣のクラスの新島健太は、長髪で、自分から見て、よくわからない風体だった。不良なのか、ずぼらなだけなのかも、わからない。
 とりあえず、
「メンチ切りに行こう」
 ということになり、昼休み、隣の教室の入り口に立って、弁当を開きかけている新島健太を二人で睨みつけていた。(p.17)

井筒監督の映画みたいですよね、これ(笑)。「とりあえずメンチ切りに行く」という発想が直情的な不良文化をうまく伝えて笑えました。

あとは通名について。

 西山徹。それが、彼の名前である。階下の小さな玄関口の表札には、
《西山徹・由紀子・悠太・梨花》
 と書いている。
 だが、当時の彼は韓国籍で、ふだんは使うことがなかったが、「金」という本名もあった。つまり、「西山」という日ごろ使っている名字は、いわゆる通名なのだった。
 日本人の坂田由紀子と、韓国人の「西山」という金徹が結婚しても互いの氏(姓)は変わらない。国籍も。坂田由紀子は「坂田由紀子」のままで、金徹も法的には「金徹」のままである。生まれてきた子供たちは、日本と韓国の二重国籍になり、二二歳に達するまでにどちらかの国籍を選ぶ。いまのところ、日本国籍を持つ者としての彼らの名前は法的には「坂田悠太」「坂田梨花」である。
 とはいえ、ふだんの暮らしでは、徹が使ってきた通名にもとづき、
《西山徹・由紀子・悠太・梨花》
 なのだ。
 それなのに、役所などからの郵便物は、この母子に対して、戸籍通りに「坂田由紀子」「坂田悠太」「坂田梨花」宛てで送ってくる。トオルには、届け出ている通名にもとづき「西山徹」宛てで送られてくるにもかかわらず。(p.31)

かなり説明的な文章ですが、読者は通名がなんなのかについてそれほど知識のない人(僕ふくめ)も多いと察せられるので仕方ないんでしょうね。

いったんは妻側の親族の反対を押し切って結婚した二人でしたが、戸籍上の名前をめぐるいさかいから離婚してしまいます。このエピソードを、「在日朝鮮人であることによって家族が引き裂かれた悲劇」と捉えることも間違いではないにしろ、その悲劇性の強調だけが強いトーンで語られてしまうと、他の側面を見えなくすることもあるのかもしれません。他の側面というのは、たとえば無知な僕だからこそパッと思いつくんですが、「じゃあ他の外国人と同じように、本名で活動したらいいじゃないか」というもの。通名なんてややこしいものなくせば、名前からくるいさかいは自然消滅するんじゃないでしょうか。その根っこの部分に、日韓双方の国からみた歴史の違いとか、被害者感情までが絡んでくるので、ややこしくなってしまうんでしょうけれど。名前をめぐるいざこざに限らず、在日朝鮮人だから不利益を受けたのか、たんなるパーソナリティのせいで問題がおこったのか、あるいは国籍なんかはかんけいない生活環境に起因するごたごたなのかを、いちどゆっくり解きほぐしてみないことには、ずっとこのままなんだろうなあ、これ。

全体を通して、確かに出自からくる不利な扱いは無視できないとしても、在日朝鮮人の人びとの暮らしは、けっこう日本人の暮らし、戦後の下層階級というか庶民階級と似通った暮らしでもあったんだなと思いました。在日朝鮮人についてはとかく差別(あるいはそれを反転させた「特権」)の文脈で、つまりいずれのベクトルにしろ「日本人とは質的に異なるんだ」という語られ方のなかで描かれるイメージがありましたが、これを読むとそうでもないんだなとも思えました。もっとも、この小説で扱われているのは京都のとある在日朝鮮人三世の人生であって、さまざまな地域、経済状況で暮らしてきた人々がいるはずなので一般化は慎まねばなりません。結局、より細かく相違と一致について見ていきたいなら、オーラルヒストリーをふくめた広い歴史研究を参照しなければならないんでしょうけれど。ただ、いまの僕のように、在日朝鮮人についてあまり深い知識を持たない人間にとっては、その現代史の一端を知れてよかったです。

大竹昭子「宙吊り」

出典:『新潮』2013年12月号
評価:★★☆☆☆

こういう毒にも薬にもならない作品は読んだだけで損した気分になりますね。べつにたいしたことが書いてあるわけじゃない、そういう作品でも文章が面白いとか、構成に工夫があるとか、僕にとってなんらかの読みどころがあれば「読んだ甲斐あったな」とお金の元がとれた気にもなれますが、こういうただ書いてみましたよ的書きちらしには反応のしようがありません。

本作は、写真家の女性が日本での仕事スケジュールをうまく調整をして、空きのできた数日間、ロンドンとパリへと出かけて行くというお話。作品タイトル「宙吊り」をサスペンスと解釈するなら、未決定状態のなかでなにかソワソワドキドキする落ち着かない演出があってもいいはずです。が別にそんなこともなく、ただ主人公が街をふらふら歩いたり、迷ったり、そのときどきに思いついたことをああかしらこうかしらとこねくり回したり。

予想が当たることを期待しつつも、それとは逆のことに肩入れする気持ちが浸透圧のように上昇して両者がせめぎあい、感情を宙吊りにするあいだがもっともスリリングで、結果がわかればもとの場所にすとんと着地する。(p.106)

作品のタイトルが文中にみられるとおり、「宙吊り」についてメタ的に言及した箇所です。素直にここをうけとれば、作品のなかで読者に、「この先こうなるに違いない」という期待をさせるような記述があって、読んでいくとその期待をうまく裏切る記述が出てくる……はずなんですが、別にそんなしかけにもなっていない(笑)。少なくとも僕は、作中に何度も登場する「宙吊り」のことばとはうらはらに、この作品のどこにも宙吊り感は感じられませんでしたし、ましてやスリリングなんて微塵も思いませんでした。

みんな背中を折って前屈みになり、ぼんやりと宙を見つめている様子が共通している。まだ見るものが残っているので帰る気にはなれないが、かといって立ち上がる元気もない。宙ぶらりんのまま、この気持ちを変化させてくれるものが、どこかから現れるのを待っている……。(p.111)

フォトギャラリーでわくわくする作品にもであえず、途中休憩している人たち。彼らも別にスリリングになっているわけじゃないですよね? うーん、結局なんだったんだろうこの作品。タイトルを僕みたいに深読みして、といって深読みというほど深読みではないですが、宙吊り=サスペンスと安易に解釈する読者の期待を逆手にとって、肩透かしを食わせて、「宙吊りっていうタイトルはそのままの意味だ。これを読んだ人はずっと期待の成就を先延べされて、最後にたどり着いてもカタルシスはえられないのだ」という書き手の目論見があったのかもしれません。そうであるならば成功なんでしょうけど、ただ書き手のこういう目論見が仮にあったとしてかつ成功したとして、残された読者はポカーンとなっちゃうだけじゃなかろうか。「最後まで読んでもなんにもなかったじゃん!」

まあ、こういう作品ももちろんあってもいいと思いますが、二度と読みたいとは思わないです。ばかばかしいつきあってらんない。

ちなみに、作品の本筋とは全く関係ありませんが、主人公がイギリスの地下鉄を利用する場面で警告アナウンスを耳にします。

「mind your step(足元注意)」というアナウンスも、「watch your step」という米語に慣れていた耳には”目よりも心を使いなさい”という警告に聞こえた。(p.105)

とあります。イギリス英語、アメリカ英語の区別以前にmindが分かってない(笑)。日本語の英語学習者がよく誤解しているmindですが、これは「心」なんていうあいまいなものとはほとんど関係なくて、知性をつかさどる「頭」とか「思考」と縁が深いことばです。感情なんかと結び付けられがちな「心」とは正反対の機能ですよ。ためしにmindで画像検索してみてください、脳の画像がたくさんでてきます。mind とかmentalと関係のある身体の部位を指さしてくださいとたずねて、胸とか心臓のあたりを指さすのは日本人だけじゃないでしょうか。正解はもちろん頭です。したがってこの引用部はアメリカ英語でもなくイギリス英語でもなく受験英語、それも頓珍漢な理解にもとづいた受験英語です。いったいいつ頃どこで生まれたんでしょうね、この日本的誤解は。

前田隆壱「アフリカ鯰」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★☆☆☆

読んでいる最中も読んだ後も特に引っかかりを残すようなところがなくスルッと読めてしまいました。それは僕のいままで培ってきた経験(読書もふくむ)とここで語られていることにあまり接点がなく、終始すれ違いつづけていたからなんだろうと思います。アフリカがどうした、鯰漁がどうした、コインを投げて決める人生がどうした、すべて他人事。もちろん小説で読む世界や登場人物なんてほぼ全部が他人事なんだけれども、にもかかわらずどこか自分と似ている部分だとか、自分が気づかなかったものを気づかせてくれるだとか、なんらかのかたちでその架空の世界や人物が僕のなかにひっかかりを残してくれるというのが読書の醍醐味。のはずなのだけれど、この作品は僕にはなんともとらえどころがありませんでした。

お話としては、日本でオンラインゲームのベンチャー企業を友人の岡とともに立ち上げた「私」が、人生の分岐点でメキシコ硬貨を投げてその裏表で進んでいく道を決めるという生き方で、アフリカへたどり着く。岡とともに一軒の空き家を借り、そこで岡は地元の少女と鯰漁に打ち込む、「私」は現地のなにもない退屈な生活に憂いてホテル暮らしに入り白人女性とホテルのカジノで詐欺を働く、というもの。文章が特別うまいわけでもへたなわけでもなく(「併し」と漢字で書くのには辟易しましたが)、ストーリーがわけのわからなすぎるものでもなく、わかりすぎるものでもなく。なんといったらいいのか本当に僕にひっかかるものがなさすぎて終始、へーそんなもんか程度でした。今後似たようなテイストで書き続けていけばきっと広く読まれそうにも思うんですが、はたしてこんなふうな作品で、読者のなかになにか深く残るものがあるのか。人物も実際ここで出てきた人たちは十分現実にもいそうな反面、どこかフィクションすぎるというか書き割りじみてもいるというか、可もなく不可もなく(笑)。

細部の描写には、クラシックな書き方が今よむとかえって新鮮に感じられるところが多かったです。

 空の色を映し、深い蒼色だった湖面が瞬く間にその色を変えた。
 世界は灰色だけとなり、雨雲はどっしりと眼前に横たわり、耳に届く容赦ない雨音が鼓膜を痺れさせた。樋もない屋根から滝のように落ちる雨は、地面でさらに炸裂し、庭先でにわかな川筋までつくり上げた。(p.37)

最も美しかったのは、アフリカの太陽が雲から顔を覗かせた直後のわずか数秒間だった。その短い間だけ雲が金色に輝き、さざ波も立っていない平坦な湖面にその色が映り込み、さらにはそこから跳ね返った光がこの町全体を包み込んだ。こじんまりとした日本では絶対にみられない生まれてこの方見たことのない光景で煌きだった。あれを目にしたとき全身に鳥肌が立ち、両目から涙までこぼれた。地の果てだからアフリカに住んでみたかった。岡がそう言った意味が分かった気がした。(p.43)

と全身で感動にうちふるえつつも、「私」は岡ほど現地に溶け込む生活はしないんですけどね(笑)。

書き写しながら今気づいたんですが、これは舞台や登場人物はたしかにアフリカにまつわるもろもろなんだけれど、そのアフリカ的スケールと、この文章とが釣り合っていないところに、いまいち僕がこの作品に熱くなれない理由があるのかもしれません。ほんと今気づいた。たとえば上の引用で、「こじんまりとした日本では絶対にみられない」光景を前に「全身に鳥肌」を立てて感動している「私」の感慨が語られていますが、この程度の描き方だと、たとえば日本にいながら雨あがりの一瞬に空を見あげて感動する場面とそう変りない程度の感動しか伝わってこない。

小説はたいてい二冊三冊を並行して読んでいるんですが、いまちょうど三島由紀夫の読み直しをしているタイミングと重なったため余計そう感じられたのかもしれません。適当にぱっと開いたところから抜き出してみると

 掻き立てた凝乳のように沖に凝る積雲の、深い襞の奥にまで沈痛な光が当たってゐる。その光りが、影を含んだ部分を掘り出して、それをいやが上にも屈強に見せてゐる。しかし雲の谷間の、光がものうく澱んでゐる部分には、ここの時間よりもはるかにのろい別な時間がまどろんでゐるやうに見える。そして猛々しい雲の片頬が光りに染められてゐる部分には、逆に、ずっと迅速な、悲劇的な時間が経過してゐるやうに見える。そのいづれもが、絶対に無人の境なのだ。だから、まどろみも、悲劇も、そこではまったく同質の戯れなのだ。
 目を凝らしてゐれば少しも形をかへず、つかのま他(よそ)へ目を移してゐれば、もう形が変わってゐる。雄々しい雲の鬣(たてがみ)が、いつのまにか寝乱れ髪のやうに乱れてゐる。見つめてゐるあひだは、放心したやうに、乱れたまま少しも動かない。(「春の雪」『決定版三島由紀夫全集13』p.227)

どうですか、このゴテゴテ感! 「春の雪」の中盤を過ぎたあたりの個所で、ここを執筆中三島はすでに死ぬ決意をしていたかどうかは謎ですが、しかし一読しただけで気合い入りまくりなのが分かる。何が描写されているかといえば、「空を見上げたら光を透かした雲が形を変えていた」だけのことです(笑)。しかしこうゴテゴテ書くともうなんだか有無を言わせぬ迫力というか、たんなる雲の描写の向こうに彼岸の世界を見て取ることも可能であるし、自然現象に反映された心理の襞もとらえられそうだし、なんなら書き手の決意だって妄想できるかもしれません。まあいずれにしろ少なくとも、「アフリカ鯰」のなかで「こじんまりとした日本では絶対にみられない」光景なんていわれていた湖畔の雨あがりよりは、日本の海辺で単に雲がもくもく形を変えているなんでもない様子を気合入れて描いたほうに、僕はよほど震撼します。結局この違いは、「どう見るか(どう描くか)」が小説にとって重要なんであって、そこを「何を見るか(何を描くか)」が重要だと錯誤している書き手の勘違いに起因しているといえるでしょう。

誤解なきようにいっておけば、文章の良しあしは文脈によりけりなので一概に前田隆壱の文章がいいかとか三島の文章がいいかと部分だけ抜き出して比較するのはナンセンスです。ここで問題にしたかったのはあくまで描かれる対象とその描き方の組み合わせについて。結局「アフリカ鯰」全体からはなんだか「どや、アフリカってすごいやろ」とアフリカ帰りの男にアフリカ自慢をされているだけのようで、これはアメリカ帰りの経済学者が日本の経済政策を馬鹿にするのと同じような精神構造に基づいている、一種の俗物根性ないしはルサンチマンのあらわれじゃないか。「そんなこといったってあんたも日本人じゃん、いっしょじゃん、同類じゃん」ていう。というわけで結論。アフリカに行こうが、宇宙に行こうが、描き方が普通すぎると読む方はさほど心動かされない。

守島邦明「息子の逸楽」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★☆☆☆☆

『文學界』同号の「鳥の眼・虫の眼」では悪文の効用について云々しています。そして第117回文學界新人賞受賞作のこの作品。悪文に次ぐ悪文で僕にはついていけませんでした。選考委員のひとり松浦理英子はこう選評を書いています。

母子癒着と介護というシリアスな題材に挑んでいる。若い人がうっかり書いてしまいがちな粉飾された言い回しも目について、初めのうちは「文学にかぶれた人が文学のイメージをなぞって書いたまがいものかも知れない」と疑ったが、読み進むにつれ、文学には溺れてもシリアスな題材には決して溺れまいという、小説を書く者としてまっとうな意思が感じられて来て、見方を改めた。

選評前半部には完全に同意なんですが、後半部の「読み進むにつれて」以下は僕はまったくそう思えません。題材というか話を構成する柱として、狂った母親と介助する息子のペアが出てきますが、それとどうかかわってくるのかわからない執拗な食べ物の描写があったり、突然ことばづかいが崩れたり。結果全体がとっ散らかりっぱなしで、一篇の小説を作るというよりも、ことばを小説風にいろいろ書いてみることに書き手一人が耽溺している風にしか受け取れませんでした。ぶつぶつ文句をいうばかりでも仕方ないので目につくところを引用します。

バスの中でも手を離さず、また言葉を掛け合うこともないこの異様な親子は、歩きだしてしまうと言い難い迫力で何者の目線も打ち消すが、当の息子は他でもない自分の内側の視線に焼かれる思いだった。スマートフォンの電源が勝手に起動し、その三百人の目線がシャツの内ポケットから皮膚を走り、やがて母の手を砂糖に群れる黒蟻のように覆ってしまう気がした。(p.73)

SNS上で息子がフォローしている人たち三百人のつぶやきが目線となって母の手を砂糖に群れる黒蟻のように覆ってしまう、というのが何を言いたいのかさっぱりわかりません。ネット上の書きこみをあえて「目線」と視覚的に形容しておきながら別の場所では

SNSで、果たして誰の声を聞いているのか確信が持てない。お気に入りのユーザーも居ないうちに、誰かが引き継いできた見知らぬ誰かの声を伝に、次々とその誰かの発言を耳に入れるようにしていった。フォローを返してくれるのはごく希で、自分の声を聞こうとしているのは百人にも及ばない。(p.75)

と「目線」なんていっちゃったことはすっかりなかったことになっている。あるいは食事介護をする場面。

呆けている母に、無理やり朝食を与えねばならないのは苦痛だった。歯の力が弱いくせに、堅く焼いたクロックムッシュ以外は嫌がり、絶対に口にしない。(pp.80-1)

とあるのにそれより前のページでは

洋が料理番だった。粗末なスープや簡単なサラダを作り、銀の匙で口元にまで持っていってやった。(p.74)

とクロックムッシュ以外もちゃっかり口にしています。ところで口元「にまで」とはどういうことでしょう? こういってしまうと、口元にもっていかなくてもいいものをあえて口元に持っていったという強調の意味にとれてしまいます。普通に「口元まで」じゃだめでしょうか。

こういう矛盾した表現や常識的に考えてそれはないだろうという設定が随所に出てきます。もしこれが一人称語りならば、認知の狂った人物あるいは狂人の語りとしてうけとる余地もなくはありませんが、本作は三人称小説です。書き手である守島邦明の言語感覚が腐っているとしかおもえない。地の文を語る語り手が狂ってしまってはどうしようもありません。こうして、書き手への信用が読み進むごとに下がって行くと読む文読む文にいちいち躓きを覚えてしまいます。もう間違い探し状態。

むこうは一瞥さえせず、ぞっとした冷たささえを感じさせられた。(p.73)

サ行の音が重なりすぎて突っかかってしまいまず音がダメです。とても読めない。「を」もいらない。あえて受け身にする必要もない。

母は実の息子以外から触れられることも拒んだ。

この前後を読んでも、触れられること以外に何を拒んだのか記述はありません。よって「も」は不適切。

チャーグ博士とシュトラウス博士という笑ってしまいそうなほど語呂の良い名前(p.76)

特に語呂がいいわけではない普通の名前です。笑ってしまいそうなほどといわれても書き手一人が面白がっているだけであって、全く、全然、ちっとも笑えません。細かいおかしな表現は他にいくらでも見つけられます。

こういう自意識過剰というか、書くこと自体が楽しい時期というのは若い書き手にはよくあるはずで、そういう時期に書かれたものははあくまで抽斗の中にそっとしまっておくべき若書きの文章です。自分で書いていろいろ試してみて、「これはわたし独自の表現だ」と得意になっていたところで百年前の小説をよんですでに同じような表現形式がなされていたことを知る、そして自分の無知を知る。そういうもんです。たんなる世間知らずのチラ裏です、チラ裏。よってこの作品で連発されるおかしな日本語は、他人の目に触れさせてはならない、時間を隔てて振り返ってみれば黒歴史ともなるような文章です。書き手としてこういう時期を通っておくことは必要かもしれませんけれどもとうてい他人に読ませられる文章じゃない。

こんな作品を読んで「○をつけた」なんていう選考委員の言語感覚を僕は信用できなくなりました。吉田修一によれば「逸材」とまで言われるこの書き手を、僕は今後読みたいとは思いませんが、これだけ貶した行きがかり上、授賞後第一作まではちゃんと目を通そうと思います。逸材とは他の人より抜きんでている才能を持っている人のことを言います。書き手一人が自分の才能に満足してしまうだけではなくて、僕のような馬鹿な一般読者にも分らせ、満足させてやれるくらいのしたたかさで書かれた次回作をぜひお願いします。しっかしこりゃ二度と読みたくないなあー(笑)

荻世いをら「宦官への授業」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★★★☆

正の数があれば負の数がある。実数があれば虚数がある。何事にも反対あるいは裏がある。本作を読みおわって抱いた感想はこれでした。一種の論理操作のように、Aを描いてから¬Aを描く、その執拗な反復で物語を動かしていく作品。読み終って圧倒されたので星5つでもよかったんですが、若干引っかかってしまったところもあって4つに。でも限りなく星5つに近いです。

本作は、都内の私大に通う学部生の天生目誠(あまなめまこと)が、死期の近い資産家で「幸福」と名のる老人に世界史の家庭教師として雇われる話を縦軸に、老人を取りまく人々から語られる老人像を横軸に話が展開していきます。老人と青年、なんだか通俗的な「いい話」に収れんしそうな予定調和感満々の設定ですがこの荻世いをらという書き手は常にありきたりを裏切って彼独特の世界を見せてくれます。実際、視点人物の誠にそくしてこの作品の開始早々

(誠は──引用者)言うまでもなくアルバイトを幾つか掛け持ちしており、やがてそれらは一つの仕事に収斂することになる──不幸にもその仕事とは、他人の陰茎探しのことで、つまりこの小説は陰茎をめぐる冒険譚である。(p.158)

いや、僕が下ネタ大好きだという好みは置くにしても、作品序盤で「失われた陰茎を求めて」とぶちあげられては食いつかざるをえません。タイトルにある宦官という単語が示唆するとおり、「あるはずの陰茎がない」話なわけです。この嘘のような話が、ときに前衛詩のような光る表現をまじえて書きつづられていく。一風変わった文章表現が小説に出てくる場合、作品全体にしっくりはまっていれば大成功です(単文では面白い文句であっても全体と響きあわなければちぐはぐな印象だけが際立ってしまう)。本作は、「宦官」とか「失われた陰茎」とかにわかには信じ難いモチーフを語るにはうってつけのシュールレアリスティックな表現満載。また表現の一つひとつが肉体的な感覚と結びついていて、言葉だけでうきたっていないところに書き手のセンスを感じました。たとえば誠が点字の読解を練習する場面

五時間近く指でなぞり続けた結果、誠は朦朧とする。横になったはいいが、眼を閉じると指を動かさずとも指から生じたイメージが勝手に動き出しはじめるのである。指から勝手に言葉が生えてくる、意味が生えてくる、その、感覚について彼はあまりにも無防備であった。指紋が目まぐるしく字に変わっていくのだ。指に言葉の繁殖する感じが脳の芯に直結する感じ、本来そこは繋がるはずないのに無理に繋げられ否応なく駆動する感じ、そのくすぐったさ、もどかしさ、その引き攣り、強引さが知恵熱を発生させないわけはない。次から次へと言葉が入れ換わる。(p.172)

指で文字を読むというのはこういう感覚なのか、こんな世界が指先から広がるのかと、目の前が開ける思いでした。指で文字が読めるようになると

誠は川端の点字版『雪国』を読みはじめる。幾度も読んだものだが、今度は違う。荒れ狂う孤独の吹雪を指先の暗闇で感知するのだ。(p.174)

僕は『雪国』を最後に読んでからもう何年も経っているので断定できませんが、『雪国』という作品のなかに荒れ狂う吹雪はでてこなかったような気がします。しかし「指で」読めば、眼で字面を追うよりも、描かれた情景の冷たさや風圧が倍化されるのかもしれません。

また作品の大きな柱として、Aと¬Aの共在がさまざまの形で変奏されます。本作の虚空の中心ともいうべき切り取られた陰茎にしても単なるそれではなく、

すると彼女は観念したように、幸福にはまだ陰茎が残っていると打ち明けるのだ。それが自分の予想していた通りのものだったことに誠はほくそ笑む。だが実際はそう甘くはなく、本当のところはむしろ彼の予想の反対、想像の斜め上のさらに上を行くものであった。つまり恐ろしいことに、陰茎が残っているのは幸福の脳の中だけ、幻肢痛という形で残っているのだと聞かされるのである。(p.197)

と、「あるはずの陰茎がない」はずの陰茎が(脳内に)ある、という裏返ってまた裏返るという状態で表現される(笑)。作品の細部においても例えば

二人はマクドナルドに入り、長い無言の会話の後、解散する。(p.208)

左から聞こえるはずのものが右から聞こえる。(その反対はない。)(p.212、カッコ内は原文)

などをはじめとして様々に、Aと¬Aあるいは対称性への配慮が徹底されています。そもそも漫然と読むだけだと意識しないかもしれませんが、本作の文体における文末表現は、単純否定や二重否定、あるいは緩叙法が頻出しています。作品のテーマが文体と呼応している見事なつくり。一方を肯定すると他方が否定され、一方を否定すると他方が肯定されるという趣向は最後の最後まで徹底しています。

 驚くべきことに、文字通り目に見える形で存在していた証拠が、そうは見えなくなった途端、その代わりとでも言わんばかりに幸福がこれまで語ってきた彼自身に纏わる物語が、見る見るその実在を現し始めるのだった。当然の流れとしてそれを皮切りに誠の中のあらゆるものが裏返ることになる。つまり陰茎が裏返り、性が裏返り、言葉が裏返るのだ。凸面から凹面へ。あるいはその逆のことが彼の中で起こりつつある。幸福の歴史が実体化し、さっきまで陰茎だったものが幻想と化している。点字に圧迫された指先のへこみが反転して突起し、さっき読んだはずの言葉が指先から生えてくるのである。(p.220)


これだけ書き手の意識が高く、かつテーマも文章も申し分ないんですが最後に引っかかったところを。過剰に文学くさいところ、そういう要素を僕は「お文学」と呼んでいるんですが、本作のなかにお文学的表現が散見されてもったいなく感じました。一箇所だけ例にとれば

言い古された表現だがつまりそれは、手術台の上でのミシンとこうもり傘そのものの出会いで、(p.221)

とあって、純文学雑誌を手にとるニッチな読み手ならこの比喩がロートレアモンの言葉だともちろん十分承知しているはずで、こういう作風の作品のなかにこの表現がでてきても書き手が分かってやっていることだと忖度できるはずです。が、「言い古された表現だが」という言葉には、書き手の衒いにたいする照れ、あるいは言い訳を読み取ってしまいました。そんな前置きするならいっそのこと書かない方がましです。それに、これだけの素晴らしい文章を緊張を保ったまま書きつづることのできる力の持ち主なので、こんな借り物の表現をここで照れながら引用するのならば、それよりもこの表現をうまくもじるとか、全く新しい表現に挑戦してみても十分勝算はあるはずだと僕は信じます。

日和聡子「かげろう草紙」

出典:『群像』2013年11月号
評価:★★★★☆

 虚屋敷漏(あきやしきもる)こと深谷弥惣介(みたにやそうすけ)は、日暮れ前から境内の一隅にて茣蓙を敷き、その上へ風呂敷に包んで持参したる自家製の草双紙を幾冊も並べ置き、所狭しと詰んで詰んで軒を連ねたる夜店の前をだりだり冷やかして歩く参詣人に、誰彼の別なく出来合の売り文句および口上を述べ立てて、「これこれ」「さあさあ」なぞ繰り返し呼びかけるも、これに答うる者さらになくて、店先にて足をゆるめてはやがて通り過ぎてゆくだけの客ばかりを幾らかは得た。(p.66、丸括弧内は原文ルビ)

冒頭からなにやら古めかしいことばづかいで作品世界が立ち現われる、日和聡子の「かげろう草紙」。深谷弥という草双紙作家が自分の書いた作品を手ずから店頭販売している場面が話の幕開けです。この出だしの部分だけだと「なんだか古めかしいな」とか「読むのめんどくさいな」といっていきなり読むのを止めてしてしまう読者もいるかもしれません。逆に「なにこれ、見慣れない。楽しい」と興味をひかれる読み手であればむしろ歓迎するのでしょうし、書き出しだけで損をしてる部分と得をしてる部分があるなあと思いながら読み進めました。もっとも、この作品に限っていえば多少見慣れない体裁であってもすこしつきあっていけばきっとこの作品世界に魅了されているはずです。読んで損はない。

詩を書く日和聡子だけあってことばの使い方、はたらきに自覚的なのが読んでいけば分かります。てっきり作品舞台を近世ものとしてうけとっていると裏をかかれる。次の引用は、深谷弥の店にやってきた客が、店頭の本をすべて買い取ると申し出、「三両はらう」と言った場面。

「あッ、その──、果たして両、両でもその、いいのかしらん? エー、一両……、はすなわち何圓? それをすばやく圓に換算すると──」(p.70)

とあって、両と円が同時期に使われている。ということは明治維新直後の状況なのか? と読み方を修正するもすぐにこの見方も変更を余儀なくされる。次は、深谷弥がお面屋さんに出向いた場面。

商品棚には藁や竹でこさえた笊のようなものに穴をあけただけに見えるプレーンなものから、木や土や石膏や紙や網や藁などさまざまな材料からできた多様な形状と表情と装飾を持つ御面の数数が陳列されていた。(p.74)

棚の端の方には、《SALE》と書かれた赤紙が貼られていた。(p.75)

おもわず《SALE》で吹きだしました(笑)。「プレーン」にしろ《SALE》にしろ、100年200年前の世界に、ふと現代的なことばが挿入されるとそのミスマッチが思わぬ効果を生み出すことがありますね。高橋源一郎『日本文学盛衰史』のなかに、横瀬夜雨(明治生まれの詩人です)がナイキのロゴ入りの車椅子にのって近所を爆走したという偽史エピソードがふと僕の頭をよぎりました。この作品も、ことばにまとわりつく時代性を意図的にハイブリッドすることによって、この作品のなかでだけ実現するリアリズムを成立させています。日和聡子空間とでもいえばいいんでしょうか。こういう意図を読み手が(勝手に)了解すれば、

「身体の大きな、御背の高い、墨と青の隅取りの入った白塗りの御面をかむっておられた、こちらの御店の御主人さんのことですよ。」
「あ? いや、ご主人、つうか、店主? つったら、自分ですが。」(p.76)

という軽い調子も難なく読める。これも引っかかりある人はやっぱりあるんでしょうけど、この書き手の創造する独自の空間を、一種の漫画のようにして読んでいくモードでよめば全然抵抗なく読めます。漫画原作になっていたっておかしくないですよ、これ。

しかし単に漫画原作になるだけでは小説として立つ瀬がありません。そこには漫画にかぎらず映画にしろ音楽にしろ他の表現媒体ではあらわせない(あらわしにくい)小説の特性がないといけない。本作では中盤あたりから、「書くこと」あるいは「語ること」についての哲学的なアイディアが展開されます。もっとも、肩肘張った議論やお説教臭い自説開陳であればその部分だけが作品から浮きあがって失敗作になってしまったかもしれません。しかし本作はそんな危惧とは無縁の、あくまでこの作品の面白おかしさを保ったままでのアイディア披露となっている。作品の舞台や登場人物の設定、アクションとうまく噛み合っているアイディアなのでそれが説得力を持っています。

深谷弥の草双紙が、文字通りに食べられている光景を前に、深谷弥はこんなことを思い出します。

「自分にとって、書を読む、とは、それは書を食らう、ということにほかなりませんですね。」と誰かが誰かの質問に答えてそう述べていたのを何かの記事で読んだ気がする(p.77)

食べているのはお面職人で彼が好む紙とは

紙は文字が書かれたものしか、召しあがりません。白紙だと味が足らないのでしょうか。

と、脇から注釈されています。たしかに僕たちはことばのうえで、じっくり本を読むことを、「味読」といったり、深い内容の本を「味わい深い」と褒めたり、下手な表現を「まずい」と形容したり、作品を作るまえの資料を「素材」と言い表わしたりします。ものを書くこと(読むこと)と、料理(食事)は相性のいい関係にあります。概念メタファー風に、WRITING IS COOKINGといってみたくもなります。

あるいは草双紙に代金として支払われた三両は、実は葉っぱであったことが判明すると、

「この葉っぱの裏に、こうして引っ掻いて金額を書き込む。それがその金額の価値を持つ。いわば小切手ですよ」
(中略──引用者)
「そんな馬鹿な話があるでしょうか。私は騙されているような気がしますが。」

というやりとりが繰り広げられます。古典的な仕方でつくられた贋金だったわけですが、この考え方も贋金を手掛かりとして「フィクションとは何なのか」に繋がって行きます。紙に書かれたインクのしみでしかない文字がつらなって、読み手に解釈されていくことで一つの世界が立ちあがる。それはいわば贋金をつかまされているようなものでありつつも、読み手はその贋金を喜んで摑みにいく。精巧に作られた贋金であればあるほど読み手は喜ぶ、そういう傾向がフィクションにはあります。フィクションとしての小説なんかよりもさらに強い形で、今を生きる人々の多くが信じているものが「貨幣」ですよね(紙や金属、あるいは電子上のデータにしかすぎない数字を、あたかも価値があるもののようにみなしてコミュニケーションが成り立っている奇跡を想起しましょう!)。こうかんがえてくると、貨幣と読書の関係にも重ねあわせて語ってみることで面白い鉱脈が見つかるかもしれません。

本作では、こうした言語表現の不思議さやフィクションの成り立ちについての洞察が、作品世界(参詣人でごった返す夜店、草双紙作家、御面作家、贋金)とうまくとけあって独自の表現たりえています。ひとつのまとまった洞察を、読者を圧倒するクオリティで提出するには分量的には苦しいものがありますが、日和聡子にはぜひこのクオリティで、書き手本人がへとへとになるまでさらに深く深く鉱脈を掘り進んでいって欲しいです。そうやって書かれた中・長編の登場を待ってます。ともあれ本作も、笑えて考えさせられるお見事な短編でした。ごちそうさま。
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。