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2013年の文芸誌上発表作ベスト5

2013年内の更新はこれが最後。今年文芸誌上に発表されて僕が読んだ作品のなかからベスト5を発表するというオナニーランキング。詳しい感想はそれぞれ既出ですので、気になる方は当該記事をご覧になってください。ワーストは発表しません。星ひとつはおしなべて「読んで損した」「腹たった」で僕には理解不能なものばかり。けれどその中には僕の読みが追いつかず理解できていないだけで、もっと読書経験値積めば読めるようになる作品も含まれているかもしれません。


1.吉村萬壱「ボラード病」『文學界』2014年1月号
映像化できない、小説で可能なことをやってのけた傑作。なにはともあれ今読んでほしい。そして10年後、20年後、100年先にだって読み返される価値ある作品です。偽善や欺瞞、安易な感傷を撥ねつけるこの書き手の厳しさ、正直さはこの作品に極まっています。日本語で読めるディストピアものの金字塔がここにうち建てられました。

2.木下古栗「新しい極刑」『すばる』2013年10月号
さまざまの外国語に訳しても全く違和感なく通用するはずの作品。人間やアート(芸術・技術)にまつわる紋切型が饒舌な語りのなかで意味を次々と新生させていきます。比喩ひとつとってもロボット工学や医学用語が読み手に違和感抱かせることなく作品に埋め込まれていて(たとえば「不気味の谷」)、作品の糧となった情報の量と質には敬意を表する以外ありません。この小説の誕生に立ち会えてよかった!

3.いとうせいこう「想像ラジオ」『文藝』2013年春号
読了後死んだ祖父の声が僕にははっきりと聞こえてきました。世間的な評価や文章表現がどうだろうと僕個人にとって忘れられない作品です。

4.荻世いをら「宦官への授業」『文學界』2013年12月号
この書き手の一つの到達点です。「ある」と「ない」の間を行きつ戻りつしながら進行するこの作品は紛れもないフィクションです。一方そうでありながら、たとえば歴史認識を巡って南京事件/大虐殺は「ある」「ない」とか、(いわゆる従軍)慰安婦は「ある」「ない」とかいったホットな話題ともリンクする、しかしそれらを直接は扱わない搦め手のアクチュアリティ(?)のある作品です。

5.鶴川健吉「すなまわり」『文學界』2013年6月号
同回の芥川賞候補作中ではこれが一番よかった。精巧なレンズで接写するかのような描写と五感に働きかけてくる表現はこの書き手の強い武器であることを証明しました。この観察眼を書き手本人にとって馴染みのうすい世界のことにも適用できればきっと本物です。


こんな感じです。未読の作品や苦手な書き手の作品は読む前から敬遠しているのでその中に傑作が埋もれている可能性もあります。だけど文芸誌だけを読む人というわけじゃないので手が回りません。

とりあえず一年をざっと振り返ってみると、当初思っていたよりは駄作が少なかった印象です。5作品読めば1作品は星4つ以上、つまり2割は読む価値があるということであって、これはなかなか。単行本買うより値段は安いし、であれば文芸誌のコストパフォーマンスはわりにいいとも思えます。全国の高校で芥川賞受賞作を購入するところだって少なくないとはずなので、そうであるなら売上向上と未来の読者に唾つけるつもりで学校図書館に営業かけるとかしてみるといいのかもしれません。が、とてもじゃないけどそんな人手も予算もなさそう(笑)。文芸誌受難の時代ですが各誌編集部頑張ってください。ときに悪口いいつつも、誠実な仕事にたいしては応援を惜しまないつもりです。

今年一年、僕の読書感想文につきあっていただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。皆様にとって来年がよき一年となりますように!!
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円城塔「これはペンです」

出典:『新潮』2011年1月号
評価:★★★★☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこう三作品目。これは再読になります。

そういえば数日前に急にこのブログにアクセスがふえてどうしたことかと原因を推測してみるに、第150回芥川賞の候補作が発表されたんですね。木下古栗「新しい極刑」は入れてほしかったですが、こればっかりは文藝春秋の興行に関わる人の見識にはかなわなかったようで仕方ない。あるいは覆面作家ゆえに候補に挙げられるのを辞退したか。この作家はもう、いったん外国で売れて逆輸入で日本に上陸、外圧によって日本の読者にその名を認知される的な方法でないと広く届かないのかなあ、なんて溜息ついたりもしています(笑)。諏訪哲史とは違った経路から峻険なマニエリスム文学の山にアタックしている現代文学サイボーグだと思ってるんですが……。うーん。

さて、今回の候補作(者)のなかではどの作品(人)が受賞するのか楽しみですね。僕は意欲的に書いている松波太郎応援です。岩城けいは小説として面白く読んだものの直木賞とか、新潮クレストブック的なテイストじゃなかろうか。まあこれも関係者の見識です、見識。

そして本作、円城塔の「これはペンです」。この作品の周辺から語れば、作中のDNAに関する記述について選考委員の村上龍からダメ出しがあって、他の選考委員のなかには丸をつけた人(池澤夏樹・小川洋子・島田雅彦)もいたようですが、結局受賞はしなかった作品です。村上龍本人による「DNAに関する記述が不正確だ」「通常の物語とは違う文学世界を作るときに、ディテールで間違うと決定的だと言った」発言はここで確認できます。

【村上龍RVR龍言飛語】vol.223 芥川賞、受賞作はなし (注意:音が出ます!)

後日談として、この発言にたいし円城塔とその周辺の人が、「どこが間違っているのか」について質問をしたという情報もネット上にはあるんですが、その一次情報ってどこにあるんでしょう?『文藝春秋』か『新潮』に公開質問みたいなかたちで載ってるのかもしれませんが、ざっと見てみた限りだと見当たりませんでした。

そんな作品ですが、僕は面白く読みました。ストレートに、素朴にこの小説をうけとるなら、ヘンテコな研究開発にいそしむ叔父から姪のもとに手紙でメッセージが届けられ、その内容や送られてくるものについて姪が読解していく物語、といえます。全篇が手紙というわけではないので書簡体小説のくくりには入らないかもしれませんが、現代の書簡体風小説とはいえるかもしれない。

ただ、上で要約するときに「ストレートに」とか「素直に」と書いたように、うがった読み方も許してくれる──むしろそういう読み方を誘っているように僕には読める──柔構造がこの作品のいたるところに仕掛けられていて、それがこの作品の魅力と懐の深さを示しています。たとえば一度も姿を現さない「叔父」は何者なのか、そもそも人間なのか。

叔父は文字だ。文字通り。(p.8)

とあり、むしろ姪が叔父の存在をこの作品の中で語り続ける限りにおいて存在を現すような、単なるひとりの人間ではない、「叔父」という言葉で名指されるなにものかに思えます。僕は、この小説は、姪と名乗る存在(こちらも人間にかぎりません)がひたすら書きあげた「これはペンです」プログラムであって、そのプログラムが読者の頭のなかでデコードされて初めて立ち現われて来る存在が「叔父」なのだと思えました。だからデコードの仕方によって、叔父は人間にも、紙の上の存在にも、ブルバキのような研究者集団にも、DNAのように集団の中で伝達されていく単なる情報断片にも姿を変えることができる。小説ではなく現実の世界でも、キヨシ・オカが数学者集団のペンネームとしてうけとられたという伝説もありますよね(笑)。

穏当な小説だと「叔父」なんていわずにもっと一般読者フレンドリーな比喩表現、あるいは固有名詞で、その変幻自在さを表現したのかもしれません。そこをあえて、この読者参加型の存在の呼称を「叔父」としたところに、読者の頭を混乱させる円城塔の目論見があった、そんな風に思います。

マッドサイエンティストの壮大な実験は最後に究極の破滅を迎える、は物語の定番です。本作の叔父は間違いなくマッドサイエンティストの部類に属する存在ですね。姪が叔父から手紙を必死で読んでそのメッセージをやっと解読したり、姪の母が叔父さんのことを理解できないように、叔父は人知を超えた存在です。だけど叔父からのメッセージを読み取ろうとする者にとっては確かな手触りで存在しはじめる。しかもとってもチャーミングな仕方で。

「親愛なる叔父さんへ
 人騒がせを有難う。でももう危ないことはやめて下さい。わたしがメッセージに気づかなければ、叔父さんはテロの容疑者として逮捕されていたはずだから。
 叔父さんの素人探偵としての見解は、現在FBIが調査中だそうです。メールにこんな突拍子もない単語を書かせるのはやめて。
 もう、本当に危ないからやめて下さい。フォート・デリックから流出した炭疽菌のDNAパターンの一部をスクラッチするなんてことは。炭疽菌のDNA単体が人間に感染したりしないことをわたしは知っているけれど、国家の安保に関わる人たちまでが、細かな生物学的知識を常識にしているとは考えないで。書かれるべき文字を知っているなら、誰でも文字を記すようにしてDNAを組み上げられると知っているとは思わないで。(後略──引用者)(pp.34-5)

「姪:君は一目で見抜いたろうから、まず検査の手間は省いておこう。この手紙のルミノール反応はプラスだ。わたしは自分の血でこの手紙を書いている。出血は少なくないものだったが、命に別状ないので安心してくれてよい。流れ出るままにしておくのも何やら勿体なかったのでこうして使っているだけだ。落石に巻き込まれてね。下敷きになりかけた。パワーショベルを使っていたんだ。岩を積むのに熱中してしまってね。文字をスプレーで書き殴った岩を積むのに。挙句、この体たらくだ。折角積んだ文字たちも崩れてしまって使い物になりはしない。文字通り、文字に潰されかけたよ。こうしてまた積み直しているわけだが、やはり片手で運転するのは辛いな。今回はここまで:叔父」(pp.36-7)


こうして叔父の実体は一度も登場しないまま、姪は成人します。

 成人したわたしはそろそろ、叔父との付き合いを減らす時期にきたのだと思う。わたしはそう遠くない未来のどこかで、わたしの中の女の子について記す道具を探し始めることになるはずだ。それはきっと、多分おそらく、いや一体、どんな形をしているだろうか、わたしは今それを考えている。
 それは叔父ではないはずだ。
 それはもう、こんな文字ではいられぬはずだ。
 たとえそれが、あなたの目には文字なのだとしか写らなくても。(p.49)

マッドサイエンティストのありきたりが「最後に失敗」だとすればこの小説はそのありきたりをうまく裏切っています。叔父さんのプロジェクトが姪に引き継がれることによって、失敗は先延べされる。

叔父さんから届いたメッセージは、「わたしの中の女の子について記す道具を探しはじめる」ことになった時点で、暗号→読解の煩雑な迂回路を経ることなく直接、姪の体内に流れる血となって姪に生きづき、姪を「叔父」の位置に据え付けます。それはさながら叔父が、病原菌やウイルス、あるいはDNAであったかのように。「叔父」というたった漢字二字のことばから、その慣習的な用法を離れてさまざまの意味を汲みつくせる適性がある読み手は読了後、きっと姪=叔父に感染(遺伝)していることに気づくはずです。

本作読了後、あなたの手はしっくりくるペンをさがしはじめましたか?

中山智幸「リボルバー8」

出典:『文學界』2011年10月号
評価:★★☆☆☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこう二作品目。

語り手が通勤用自転車を盗まれ腹立ち紛れに街中に止めてある自転車を破壊していたところ、JK(自転車共壊)という自転車破壊行為を行う集団のメンバーに勧誘されます。

「きょうかいの”きょう”は共同の”きょう”、”かい”は破壊の”かい”です。ぼくたちは地球環境の回復と人間力への回帰を目的を自転車と共に壊す一派です。ぼくが発起人であり、リーダーです。こっちがゴモク、あなたをお連れしたこいつがスポンジ。外の世界で関係をリセットするため、主にニックネームで呼びあっています」(p.57)

このリーダーを名乗る男性は三十四才だとあとで分かります。この中二病台詞、しょうもない組織、三十四にもなって何やってるんだと白けたのが第一印象。会の説明はこんな感じ。

破壊された自転車を見せつけるのが肝心だと我々は考えます。破壊された自転車の像を、心身の内側に移植してやるんです。(p.58)

この男は三十四才です。

ぼくたちはそれなりの装備をもって破壊に臨む。見るも無惨な形にまで自転車を変容させる。徹底的に損なわれた、取り返しのつかないことなのだと持ち主に見せつけ、自転車という言葉から連想される姿をまったく別物に置き換える。もう二度と自転車など買わないと、深く決意させなくてはいけません。そうすることで、怠惰な意識を更地に立たせるんです。まっさらなところから、なによりもまず自分自身でやっていくのだと、決意を促すんです。(p.58)

この男は三十四才です。

まだわかりませんか? 信念ですよ。安易に自転車を使う人間の目を覚まさせるんです。(p.59)

繰り返します。三十四才、男。

自転車のタイヤと同じで、世の人間は二分されます、ペダルからの力をダイレクトに受けて推進力となる後輪と、その力を借りてさも自分で動いていると思い込む前輪とに。自ら前進してると思っていても、前輪は動かされてるだけです。本当の運動は、意識の背後で行われている。

もうくりかえしますまい(笑)。後輪だってペダルを踏む足で動かされてるじゃないかとか、そもそもこの言葉を語っている人間が自転車の後輪側の人間だと自認しているとしても、後輪側の人間が自転車を破壊する集団の構成員であるとはまるで意味が分かりません。語り手をアジトに招き入れ、ツラを見せ、どういう信念をもって、どんな手段で自転車を破壊するのかペラペラとしゃべったあとでなんと

 するとリーダーは態度を硬化させて告げた。
「あなたを迎え入れるわけにはいきません」(p.61)

これはひどい(笑)。このリーダー(34)は、わけのわからない自己流哲学をひとしきり披露して語り手を帰します。逮捕されるリスクがぐんと上がるわけですがその可能性にすら思いいたらない男(34)がリーダーの集団。馬鹿なの?こんなわけのわからない団体も、描き方によってはナンセンスな面白さがでたり不穏な不気味さがあったりするんでしょうが、このリーダーやメンバーが会の詳細について語れば語るほど「しょうもな」という印象が強まって行きました。しかも語り手は入会しない。

で、自転車を失った語り手は通勤ルートに徒歩を加えて健康体になります。奥さんも料理に気合をいれるようになり夫婦仲も円満でめでたしめでたし……ではなくて、語り手の心の隅にずっとJKの存在が引っかかり続けます。そしてある日、空気入れを購入し、街中の自転車に空気を入れて回る。この行動の必然性がまったくわかりません。そして最後、夫婦喧嘩をした後の午前二時、ひとり起き出した妻は自転車をハンマーで殴る音が「かん。/かん。/かん。(p.88)」と響きます。二時、ハンマー、自転車を殴る女、という道具立ては丑の刻参りのつもりなんでしょうけれどもう無理やりすぎてついていけませんでした。

終始そんなわけないだろの連続で、ついていけなかった作品でした。ライトノベル風味ならこの程度のリアリティでも問題ないとは思うんですが。掲載紙まちがえてませんか?

吉村萬壱「ボラード病」

出典:『文學界』2014年1月号
評価:★★★★★

感想を書いていくブログという体裁上、ネタばれ気にせずかいています。本作を未読の方はぜひ本作を読んでから以下を読んでいただけたらと思います。読者を圧倒する問題作です。

この作品を読んだなら、作品の背景に以下のような事情を「当然のように」想定してしまう人が多いはずです。現実の原発事故、故郷から避難して生活している人たちのこと、そして「ただちに影響はない」にしろその後この作品で描かれたような「影響」がでてくるのかどうかという微妙な問題。現実の、生身の、2013年12月時点の日本で生活するなかでこの作品を読む自分という存在が、どうしても作品評価にかかわってこざるを得ない。

今さっき上で不用意に「原発事故」とか「故郷から避難」とか「ただちに影響はない」とかいったおなじみのことばを書きつけてしまいました。しかし作中では、3月11日の地震と津波をきっかけにして起こった原発事故後の話だとは書かれていません。放射性物質、放射能、ストロンチウム、トリチウム、セシウムなどということばもいっさい出てきません。「海塚」という町を舞台にした話ですので日本のどこかという見当はつくものの、B県というのは現実のどの県に対応するのかは手掛かりがありません。さらに作中の手がかりから作品世界の時間を考えていけば、むしろ現実の日本と作品世界との食い違いさえ明らかになります。

30歳の語り手「恭子」が小学校五年生のころ(ということは10か11歳)のころ海塚で過ごした日々を綴る手記、というのが本作の体裁。そのなかで105円を廉価ショップの支払いで差し出す場面があります。「円」という通貨単位からも日本ということがわかり、消費税5%の時代です。避難者が「長い避難生活から戻った(p.37)」のがちょうど8年前とありますから、これは現実の日本とは明らかに時系列が食い違う。原発の町から避難している人たちが戻れるようになるころには現実の日本であればおそらく消費税は8%以上でしょうから。いやそもそも避難生活を余儀なくされた原因が「原発事故」のせいだとは一言も言及がありません(大事なので何度もいいます)。ですのでこの作品の記述に忠実に従うなら、あくまで現実の日本とは関係のない、一編の小説=フィクションの話です。

本作をナウシカの世界観を借りて語るなら、「人間の親から王蟲の子供が生まれた。その子供の認識の仕方は「美しいのは人間の世界であって、王蟲の世界ではない」という認識を持っている。そのために、王蟲の世界で暮らす子供は病者の烙印を押される。小学5年生の途中で隔離病棟にうつされ30歳になるまでそこに閉じ込められ続けた子供は、自分の認識のどこが(王蟲的世界観からみて)間違っているかを書かされ続けている。しかし自分のもともとの認識を自己批判しきれず手記は挫折する」という風になるでしょうか。入り組んでいてややこしいですが丁寧に読めばこうなる。ナウシカを知らない人は王蟲を「化け物」にでも読み変えてください。

だからこの作品には、対立する世界観を持つ二つの人間像が出ています。海塚以前の人間、もう一方は海塚以後の人間(比喩的にいえば王蟲あるいは化け物)。前者が「正しい」「善い」「美しい」と認識するものが、後者の目にはそっくりそのまま顛倒されて映る。そしてこの作品の語り手恭子は、後者の外貌でありながら、価値観や認識の仕方は前者のものを持ち続けている。しかし隔離されている状況から脱出するためになんとか自分の認識の仕方を抑圧して、後者の認識=世界観を肯定するような手記を書こうと努力している。この「よじれ」を一篇の小説として破綻なく結実させた本作には震撼しました。

自分の認識を抑圧して、自分にとっては正しくない世界観を、さも正しい世界観であるように偽装して記述する「私」こと恭子の困難を以下の文章で味わってみてください。

母の入院中に、私は野間さんの家で三度、夕食を食べさせて貰っていました。野菜炒めや、しゃぶしゃぶや餃子やサラダ、そして何よりほかほかのご飯とお漬物など、どれも美味しくてほっぺたが落ちそうでした。食べるということは、子供の心にとても大きな作用を及ぼすものだと思います。母が退院してから、母の出す「安全な」食べ物を少しも美味しいと思えなくなっていたのです。安全と言っても、結局カップラーメンや輸入缶詰など、健康に良くないものばかりでした。(p.67)


「私」の母親は、海塚以後の世界観に染まらぬよう細心の注意を払って娘を守っていました。しかし入院して娘と離れてしまうと、海塚以後の世界観をもった野間さん一家が娘をとりこんでしまう。野間さんの食卓で供された野菜や肉や米はどれも地物だと推定されます。つまり何らかの汚染を被っている、それを「美味しい」とか「ほっぺたが落ちそう」と記述するわけです。

海塚の海産物はどれも美味しく安全であるということは、どんな場合にも態度で示される必要がありました。それが海塚市民の結び合いの実践というものでした。(p.59)

海産物もそう。町ぐるみで海塚産の食べ物を「安全だ」とアピールしないといけない。ということは当然、そのアピールが必要とされる事情が海塚の食品にはあるということです。また、ここで使われている「結び合い」ということばの威力。「絆」とか「つながり」ということばには、その絆の共有する価値観には反対を許さないといった、嫌らしい同調圧力があります。恭子はここでもこの「結び合い」の精神を肯定的なものとして書こうとしつつ、しかし言葉の裏にはそんなもの欺瞞だ、虚偽だという意識が伏在している。

海塚の町ぐるみで、「海塚以後の価値観こそ正しい」とする一種の思想教育ないしは洗脳が実践されています。そのイデオロギー装置となるのはやはり学校であって、小学校でも合唱やスローガンの唱和を通じて、海塚以後の価値観が注入され続ける。恭子の、海塚以後の価値観に染まらない考え方をこっそり尊重してくれていた藤村先生が担任を外されると、クラスのスローガンも書き換えられます。

まるで藤村先生の影を払拭するかのように、「五年二組の十の決まり」の「七 自分の感覚を大切にしよう」を「七 自主性をそん重しよう」に書き換えさせたりもしました。(p.45)

都合よくスローガンを書きかえるなんてオーウェル『動物農場』の世界です。そしてこの手記では、恭子の同級生たちの外貌の「異様さ」はほとんどそのままは記述されませんが──恭子の目に映ったままを写実的に記述してしまえば隔離病棟から出られない──、おそらくは人間の外貌というより「動物」ないしは「化け物」のそれのようになっていることを読み手が推測してみれば、『動物農場』が先行テクストとしてだけでなくメタファーとしても機能します。

こうして隔離病棟でひたすら海塚以後の世界観を肯定するよう自分を矯正する恭子は、やはり最後の最後、自分の認識の仕方のほうに立ち戻ります。自分を隔離した「人間」たちに罵倒を浴びせる。

こんな顔でも、あなた方には美人に見えているんでしょう? だったら抱いてみろよ臆病者。(p.79)

恭子を抱けないところに、隔離した「人間」たち側の欺瞞を見て取ることができます。

一貫して認識の顛倒が隠されている本作の記述は、「美しい」といった瞬間そのことばの価値がひっくりかえる、「正しい」といった瞬間そのことばの価値がひっくりかえるという経験が続き、読みの中で自分の価値観が一つ一つ掛け替えられていくのを実感できました。ひとつの世界を通じてモノの見方をがらりと転換させるのは力のある作品の証拠です。

何度もいいますが本作は原発事故や放射性物質の影響を描いた作品とは断定できません。むしろそう「誤読」してしまわぬよう齟齬を周到に用意している(タイトルからして「ボラード病」です。一種の奇病ものといってもいい)。2013年の現在、迂闊な読みによって「誤読」のみに収斂してしまえばきっと、本作は感情的な反発を招くか黙殺されてしまうかの、いずれにしろ不幸な受け取り方をされてしまいかねません。本作の真価が定まるのは、人々が現実の出来事をある程度冷静に見られるようになる時間か距離をおいてからでないと難しいかもしれません。

けれど2013年の現実の強い磁場にからめとられている自分を自覚しつつ読み手が真摯にこの作品に書かれてあることと向き合ったとき、本作は時事性を備えると同時に普遍的な読み方への扉も開いてくれるとわかるはずです。価値観とは何なのかをテーマにした呪われた芸術家ものとして、あるいは思想教育を描いたディストピアものとして。SF的設定で差別問題をあつかった作品として。どういう読み方にせよ、つまらない「誤読」のみで本作を曲解し、貶めることには慎重でなければなりません。同じ文章でも、本作の書かれつつあるフレームを知る前と知った後とでは、その記述のもつ意味合いがガラッと変わって読めてしまいますんで、絶対に、二度読み推奨。

(追記)本作にはぜひ何かの文学賞をとってもらって問題提起の種になってほしいです。が、「誤読」の危険度が高いと、どれだけ本作に力があろうと文学賞みたいなイベントとは縁遠くなってしまうのかなあ。出版社が及び腰になってしまうというか、リスク回避したいというか。「誤読」しかしない人からクレームくるとめんどくさそうですしね(笑)。要らぬお世話とは自覚しつつ、吉村萬壱本人が呪われた芸術家みたいになってしまわないよう願っています。賞をとろうがそうでなかろうが、本作は間違いなく傑作です!

筒井康隆「ペニスに命中」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

多作で人気あるわりに筒井康隆を僕がいまひとつ好きになれないのはなんでなのか。長年の疑問ですがこれを読んでも「やっぱ合わない」と再確認しつつ、なぜそうなのかわかりません(笑)。スラップスティックがこの作家の持ち味の一つなのは確かながらそれがことごとく僕にはスベッてるようにしか思えない。

つまらないんですよね。なんといえばいいのか、「めちゃくちゃなことを書く」ことと読者の頭のなかで実際に「めちゃくちゃなことがおこる」のとは別モノのはずです。たとえばここでブログを書いている僕が「生身の僕は実はアメリカ人女性(57)なんです」といったところで、それに論駁する証拠はないにもかかわらず、信用する人なんてほとんどいないはずです。それを筒井康隆は、書かれたことがそのまま読者のあたまのなかで現実に展開するというような、楽観的といえばいいのか能天気といえばいいのか、書き手本位の態度が根底にある気がします。書かれたことにリアリティを付与するのは文字(たまに図像)のみでなりたつ小説の腕の見せ所、のはずがリアリティ付与の仕方がとんでもなく雑──「僕はアメリカ人女性(57)です」と言い切るだけに終始し、それに纏わる様々な情報によって読者を説得するあるいは騙すことを放棄しているような書き方──で、とても僕の頭の中を沸騰させるような内容にはなってないことがほとんどです。「三字熟語の奇」ぐらい割り切って書いてくれればそれなりに楽しめもするんですが……。

前置きが長くなりましたが本作「ペニスに命中」。

 食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。(p.20)

俗っぽいですよねえ。

語り手の「わし」が息子に渡すはずの200万円を手にとって街に出、講演に乱入したり拳銃をぶっ放したりします。僕にはやっぱりそう書いてあるだけで、その出来事の一つひとつがリアリティを持ちません。読みを撹乱する仕掛けはいろいろあります。「わし」が客引きのお姉ちゃんに連れられバーに入っていって

「暴力バーかそうでないかはあと二ページ読めばわかる」(p.27)

とあり律儀に二ページ後、

「気が違っているのではない。強盗だ。早く警察に電話せんか。いったい何度言えばわかる。この聞き分けのない練羊羹めが。よし」わしはいきなり拳銃を発射した。(p.29)

と自分が暴れて「暴力バー」です、というオチ。それに「この聞き分けのない練羊羹めが」ですよ。「この○○めが」ってなんの躊躇いもなく書いてしまえるセンスに悪い意味で脱帽です。「聞き分けのない練羊羹」という表現もどうかとおもいます。

あるいは

「それならわしがこの汚らわしい売春婦を成敗する。毒蜘蛛を腹に飼いびちょびちょの開口部からムジナが顔を出しているような女をなぜ逮捕せんか。だから警察はデンドロカカリヤだと言うんだ」(p.30)

騒ぎをおこした「わし」が暴力バーから出てきて、同伴している女性を警察に逮捕させようと口にしたセリフです。「女」にかかる形容はおもしろくもない無意味な言葉をただ羅列しただけにしか過ぎないです。「デンドロカカリヤ」もただここで言葉として出て来ているだけでなんの意味も感情も喚起しません。「デンドロカカリヤ」や「ユープケッチャ」のような安部公房の短編あるいは細部の表現にみられるような、詩性とメタファーの独特な融合もまったくありません。できあいの言葉をただ組み合わせただけの安易さ。

全編この調子です。既視(読)感のある描写や言葉の羅列は読みすすめるごとに徒労感が増すばかりで、読み終っても99パーセントは楽しめませんでした。唯一クスッときたところを引用するなら

わしは庫内の奥の方を眺めまわしながら笠智衆の声色で言った。「実は君の座っているところに三十年前、わしも座っておってね」(p.34)

ぐらい。これは唯一、笠智衆の声で脳内再生された=リアリティのあった箇所。

視点の取り方と語りのミスマッチもあります。

 逃げる途中、死後硬直のまま歩いてくる婆さんと衝突した。死後硬直の婆さんが大声で悲鳴をあげたため、わしはさらに逃げた。(p.26)

視点人物は「わし」、その「わし」の一人称語り小説なので、婆さんが死後硬直しているかどうかは認識しえないはずです。にもかかわらずそうだという。書き手の意識と語り手の意識とがごっちゃになっている。語り手がいったことを読者がまるまる信じきるわけではないと再三いってきたとおりここもその例にもれません。「死後硬直している老婆」が「歩く」とか「大声を出す」という撞着語法的効果を狙ったのかもしれませんが大失敗です。木下古栗が「新しい極刑」で表現した「歩く屍」たちの圧倒的な迫力とレトリカルな技量の高さとくらべれば、こちらは無残な失敗例です。全体に雑すぎるし工夫もありきたりだし、総じて小説好きな中学生がお遊びで書いたスラップスティックものと大差ない作品です。

墨谷渉「今宵ダンスとともに」

出典:『群像』2011年11月号
評価:★★☆☆☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこうと2011年の『群像』から。以下の作品紹介は『群像』サイトより。

住設機器メーカーに勤める庄司くんは、工場の製造ラインのことばかり考えている。交際している中野理美さんとの結婚を考えていたが、彼女はマサという男と密会しているらしい。庄司くんはどうしても中野さんの自分に対する「本当の評価」が知りたくなり、ある行動に出るのだが――。フェティシズムや暴力、快楽を書き続けてきた墨谷渉の新境地!

読み終えて自分であらすじまとめをしようとしていたのですがうまくまとまりませんでした。上の内容紹介だとじつにうまくまとまっていますね(笑)

人間をとらえる観点はさまざまあります。ある人Aとある人Bとがいれば、その人がどういう役割を期待されているかによって(たとえば将来の配偶者、工場の現場主任、浮気相手など)さまざまの観点から比較されることになります。Aさんの学歴はどうで、収入はどうで、見た目はどうで、性格はどうで、それにたいしてBさんは……、比較すればAさんの勝ち、という感じ。これはあたりまえといえばあたりまえですね。今の社会では社会生活をおくる以上特定の観点=指標から評価されるのはさけられず、人間存在がさまざまの指標に還元されてしまって、その見方を推し進めるともうその指標「だけ」の存在として自分自身をとらえてしまうような認識の顛倒が起こってしまいがちです。そういうニヒリズムにたいし自分の身を実験台にした男のお話として読みました。

「評価」に漠然とした疑問を抱く本作の主人公庄司くんの行動がなかなかスリリングであり、ばかばかしくもあります。

それに、もうすぐボーナスです。ボーナス額は、基本給ベースに査定期間の評価によっても左右されます。仕入れ個数、金額、コストダウン率、不良発生率ppm、勤務態度、上司コメントなど。仕事面だけでもこれだけの細かい基準に基づいてある程度理論的に評価されるのに、と庄司君は思います。男性としての評価はさっぱりはっきりしない。思いつくまま、庄司くんはその場合の項目を書きだしてみます。顔、体型、身長、収入、将来性、性格、優しさ、会話力、センス、学歴、IQ、資格、免許、技術、健康状態、体力、生殖能力、運動神経、包容力、顔……は、正直負けているかもしれない、しかしもちろん人によってタイプというものがある。体型も、標準だが男は細身、そこにも好き嫌いは入る、また筋肉質かどうかは確かめていないし。身長は負けている、しかしほぼ標準内ではある、収入はわからない、将来性は負けてはないかな、いいお勝負じゃないか。性格、優しさはわからないがやや自信がないかも……しかしいくらこんなことを考えていても埒が明かない、と庄司くんは思いました。心の部分やタイプ、好き嫌いは数値化できないし感覚的なものが入ると判断が難しい。しかし、それでもできる限り把握しなければならない、と庄司くんは思いなおします。(pp.177-8)

書きだすだけでもうんざりするくらいありますね。

評価にオブセスされている庄司くんは、恋人の浮気相手と同じ車を買って、恋人の前に現れ、恋人に捨てられることになります。この点を庄司くんの立場からいえば、恋人はさまざまな指標を比較考量のうえで浮気相手を選んだのを確認したことになります。ここに至るまでの庄司くんの身振りからは、人をなんらかの指標によって評価することに、疑問とかすかな反感があるように思えます。庄司くんが抱くような感慨をだれしも多かれ少なかれもっていることと思います。だからいってみればこれはまあ、いまさら小説で読まされるまでもない当たり前のことなんですよね。

ここを深く掘り下げるのであれば、庄司くんと逆の立場の人=評価する側の人を、丹念に描くべきではなかったか。100人だか1000人だかを評価する人事の人の立場からの見え方や、中野さんが庄司くんに物足りなさを感じるようになったいきさつなど。基本的には庄司くん視点なので、評価で成り立つ世の中にたいする「もやもや」を抱えたまま、読者もそのもやもやが一向に解決しない(笑)。小説として目のつけどころはキャッチーなんですが、主人公の知性と認識の限界がそのまま小説の限界になってしまってますね。また、庄司くんが終始抱く「ライン」へのこだわりはこじつけ以上のものを感じませんでしたし、作品タイトルは作品の細部の小ネタを説明するためだけにつかってしまうのはもったいないです。

物語ラストで、恋人に捨てられそれまでの仕事を投げ捨てて、下請け工場のラインの仕事につくというのも安直に感じました。その仕事もやはり評価はついてまわるものでしょうしね。完全に評価から逃れるのなら、もう他人との関係を断絶して行方不明になって自給自足するしかないんじゃないでしょうか(ホームレスだって古参と新入りとの序列がありますしね)。

最後にフォローしておけば細部での面白さは多々ありました。

ワタリガニのクリームスパゲティを食べる中野さんを、庄司くんは観察します。今庄司くんとワタリガニを交互に見ている中野さんの目には、昨夜マサ(浮気相手)の顔や身体が映っていて、器用にワタリガニを剝く指は男の身体を触り、その身を食べる口はどうしていたのか。(p.190、カッコ内は引用者注)

作品のクライマックスともいうべき、庄司くんと中野さんと浮気相手とが同席する合コンのシーンも緊張感がありました。ですので個々の場面では面白く読んだところもあったものの、全体としてみてみれば、けっこう当たり前のことばかり、深さがたりない、オチが安直などで、いまいちという評価に落ち着きました。社会主義思想家の本や、労働社会学、組織社会学系の論文、あるいは労働者のルポルタージュ、インタビュー、しんぶん赤旗などを読むほうが僕にはよほどスリリングです。

戌井昭人「どろにやいと」

出典:『群像』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

『群像』の表紙もお正月モード、白地に梅の紅白に金文字を散らして、じつにお目出度い装いです。1月号の文芸誌のなかではこれがいちばん目に楽しいですね。文芸誌をジャケ買いする人っているのか謎ですが、無愛想な表紙よりはこういうポップなほうがとっつきやすいことは確かです。

取り上げるのは戌井昭人の「どろにやいと」。前に「すっぽん心中」を読んで、駄目な邦画を文字で読まされている以上の感想を持てずに評価を星ひとつにした記憶があります。ほかに戌井昭人の作品でいうとやはり芥川賞候補になった「まずいスープ」。こちらは肩の力の抜けた人間関係と描かれていた家族との取りあわせが心地よかった印象が残っています。そして本作「どろにやいと」を読了後抱いた感想はといえば、毒の抜けた『高野聖』。

「天祐子霊草麻王」という名のお灸を自家調合して全国を売り歩いた父親の家業を継いだ息子が、これまたお灸を行商して回る、という話。山の中にわけいって酒を飲んで酩酊したり、妖しい雑草を食べかけて命を落とす危険に身をさらしたりと、読み進んでいくにつれ、読者も本作の語り手とともに人外境に踏み込んでいくような作りです。「人外境」といったのには理由があって、昆虫や獣など、人間以外の生きものについての言及が文字テクスト上にちりばめられています。

ホットパンツからのぞいた太もも、その下の右ふくらはぎには、赤子の手のひらくらいの大きさの蜘蛛の刺青がありました。(p.70、強調部は引用者、以下同)

のような冷たい足になって首を締め付け(p.71)

ニヤリとして、ネズミの糞みたいな黒い種を(p.71)

「泊まっていってもいいんだぞ、捕まえたからよ、食ってくか?」(p.75)

ラクダシャツ(p.76)

「山道結構きついですからね、気をつけてくださいよ。イノシシとかが出ますから」(p.80)

ひからびたトカゲの死骸

ほかにも絵馬にはめ込まれた閻魔大王や鬼やをずらずらと羅列する箇所もある。自覚的にひとつの意匠として人間以外の生きものを取り入れるのは、山奥での出来事という作品のロケーションともあいまっておもしろくなりそうな芽はあるんですが、それがことごとく引用のための引用で終っています。動物や想像上の生きものを作品のなかに引用することに精いっぱいになってしまっていて(あるいはとりどり引用すればそれでよしという基準が書き手側にあって)、それが引用することでいったいどういう効果を上げているのかまで、十分考え尽くされていません。

たとえば上の引用箇所で、おどろおどろしさを出すのなら、「ネズミ」ではなく「鼠」、「ラクダ」ではなく「駱駝」、「イノシシ」ではなく「猪」、「トカゲ」ではなく「蜥蜴」でしょう。片仮名書きしてしまうことで読み手に与える視覚的な効果、重々しさが減殺されてしまっています。付け加えるなら、同じ人の発言で「イノシシとか熊が」と、いっぽうはカタカナ、いっぽうは漢字で書いてしまっているのはもう、戌井昭人の文字表記にたいする無自覚さ露呈しているというほかありません。甘いぞ、ドモン!

甘さついでにもう一点。作品冒頭で語り手が自己紹介するくだりがあります。

 わたしは、お灸を売りながら各地を歩きまわっている行商人です。お灸は「天祐子霊草麻王」という名称で、父が開発しました。もぐさの葉を主に、ニンニク、ショウガ、木の根っこ、菊の葉を調合して作っています。(p.56)

「ニンニク」「ショウガ」のカタカナ表記はもうおいておくとして、その次の「木の根っこ」。これは列挙された四つの材料のなかで、一つだけ上位カテゴリに属するものでやはり浮いてしまっています。たんなる木の根っこではなくて、「何の」木の根っこか書くべき。また、あいまいに木の根っこといってしまっては、父から伝えられたレシピでお灸を調合・販売しているこの語り手の存在にうさんくさい目をむけてしまいます。このへんも書き手の甘さを感じました。

作中ではどぶろくで酔っぱらうくだりもあって──ちなみにこのどぶろくを「ミツゾウ」とカタカナ表記しているのには唸らされました、聞き手にとってなじみのない単語はカタカナの違和感がぴったりですし、なんてったってカタカナ表記することで「ゾウ=象」がはめ込まれているのですから──『まずいスープ』中で古今亭志ん生にふれていたように、このくだりも桂枝雀の「猪の酒」を連想させるところが、この書き手と落語的世界との相性の良さを感じさせます。ただこの個所も思わせぶりなだけで描写じたいの魅力もとぼしい。描写というよりはト書きでした。おもしろさの片鱗はありながらそれを生かしきれぬまま不発というか中途半端というか力不足というか神経がいきわたってないというか。

堅苦しさや真面目さ一辺倒の人間像にたいしてどうにかして別の人間像を描こうとしている意志は感じられるものの、それが小説を書くとなったとたん、書くことにいっぱいいっぱいで、書かれたあとの文章がどういう効果を出せているかにまでは頭が回っていない印象でした。たとえば脱力感満載の人間を描いても読後に十分な引っかかりをのこしてくれる松波太郎のような書き手と比べるなら、戌井昭人を読む価値はありません(戌井作品を読むなら既読の松波作品を二読三読するほうが得るものがあります)。『高野聖』や落語のような先行作品の消化も中途半端です。

(追記)『高野聖』オリジナルは、同宿の僧が寝物語に語る妖怪話というフレームだけでもおどろおどろしい。さらに動物や虫類、物の怪をちりばめたテクストも本作のように毒抜きではありません。参考までにいくつか引用しておきます。引用元は青空文庫。

ああさっきのお百姓がものの間違でも故道(ふるみち)には蛇がこうといってくれたら、地獄(じごく)へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。

「蛇」のそばに、「地獄」や「南無阿弥陀仏」が配置されています。

大蛇(おろち)の蜿(うね)るような坂

「大蛇」のそばに配置されるべきは「うねる」ではなく「蜿る」です。

見ると海鼠(なまこ)を裂さいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷(すべ)って指の尖さきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂懸(たれか)かっているのは同形(おなじかたち)をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
 呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは蛭(ひる)じゃよ。

ここまで圧倒的だと解説するだけ野暮ですね。この引用箇所を含む蛭のくだりは『高野聖』のなかでも僕が一番好きなところです。

本谷有希子「トモ子のバウムクーヘン」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

「悲劇は立場をかえてみると喜劇だ」のように、立場を変えてみるとものの見方がガラッと変わることは誰しも経験したことあるだろうと思います。「立場を変える」を「視点を切り替える」と読み変えてみればこれはまさに小説の得意分野であって、これを利用しない手はありません。

本谷有希子の本作もそういう趣向で、外から見れば「バウムクーヘン作りにいそしむ主婦が途中ソファーで休憩をとってまた再開した」というだけの話を、主婦トモ子によりそう視点からみてみると実は……というつくりになっている。読者はもちろんトモ子なんて人とはこの作品ではじめて出会うわけですから、読者視点はあくまで「外から視点」。トモ子のことを他人事と考える読者の視点を、どうやればうまくトモ子の視点に同調させられるか、トモ子のあじわう恐怖をどうやれば読者にもあじわわせられるか、が本作の成功のカギをにぎっているはず。

結果からいってしまえば僕にはトモ子の視点に最後まで同調できず、身の回りにおこるたんなる日常の出来事にいちいち裏の意味を読み取ろうとするこじつけ気味のトモ子の思考にイライラしっぱなしでした。トモ子が大げさに妄想するたび「そんなのただの思いすごしじゃん」と鼻白むばかり。作品冒頭はこんな感じ。

コンロの火を弱火にしていると、トモ子には、この世界が途中で消されてしまうクイズ番組だということが、突然理解できた。(p.146)

合理的に考えるなら、「この世界はクイズ番組だ」と積極的に肯定できる証拠が出てきた時点でそうだと同意すればいいだけで、読者にはその証拠は何も与えられていません。よって物語冒頭でのトモ子の確信する世界観と読者の世界観とはかけ離れている。このままではあくまでトモ子のひとり合点なので、他人が抱く「そんなのただの思いすごしじゃん」という軽いあしらいを、どうねじふせて説得するかが書き手の技量に掛かっています。けれど書き手のほうで読者を説得する気ははなからないのか、ずっとこの妄想が垂れ流されるだけ。トモ子の妄想は読み手(すくなくとも僕)の認識と最後まで架橋されず、最後まで他人事あるいは対岸の火事にとどまったままでした。

ソファーのそばに飼い猫のウーライがやってきて

「何が目的?」トモ子はソファに寝そべったまま口にしていた。「ウーライを操ってるやつ、何が目的なの?」(p.148)

これもトモ子本人には飼い猫ウーライが何かに操られていると確信させる何かがあるはずなんでしょうが、その「何か」は読者に示されずじまい。したがって、ここでも読者はトモ子の一人芝居を白けて見せられているだけ。

今になって気になっただけかもしれないが、水滴は拍子抜けするくらい単調なリズムを作り続けていた。ボタ、ボタ、ボタ、ボタ。(p.149)

水滴が落ちるくらいどこのうちでもあるでしょう。トモ子が感じているはずの恐怖を読者は全く共有できませんし、極めつけは、「ボタ、ボタ、ボタ、ボタ」なんて間の抜けた擬音をつかっちゃうとこれはもう漫画です……といった瞬間漫画に失礼だと思いなおしましたので、さらにいいなおして、これはできの悪い漫画あるいは小学生の作文レベルの表現。

「なんだかわからないけれど、このままだと何かとてつもなく大変なことが起こりそう」という妄想に取りつかれる状況を、たとえば精神病理学──僕はオカルト科学読み物として興味深く読むわけですが──のなかには「アンテ・フェストゥム(祭りの前状態)」と名付ける人もいて、それに関するドキュメント、著作もままあります。少なくともこれらのドキュメントは、精神分裂病(呼び変えられる前の報告なのでこのことばで呼びます)と診断された患者らの実体験にもとづいた報告であって、それを読む僕はその世界観は共有できないけれどもしかしその患者本人にとっては本当らしく感じられる真実味を想像的に追体験します。結局、これら症例報告にあって、短編小説「トモ子のバウムクーヘン」にないのは、世界の崩壊の予兆を体験している人間が、その予兆を真実そうだと感じているかどうかという真実味にあるんじゃないでしょうか。もちろんトモ子というのはフィクションのなかの存在ですからより正確にいいなおすなら、書き手である本谷有希子が、トモ子が感じているとされる「なにかがおかしい」という恐怖を本当に信じてあげられていないのではないか、どこかで本谷本人が「結局作りごとでしょ」と一線を引いてしまっているのではないかと思うのです。一線を引いていても、書かれてあることをさも本当のことのように読者に信じ込ませてしまえるのならそれも歓迎なんですが、この作品の文章にはそういう技量も見つけられません。

堀江敏幸「その姿の消し方」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★★★☆

『新潮』で堀江敏幸が書いている詩人アンドレ・ルーシェもの(正確にいうとルーシェを追う「私」が語り手の小説)は断続的な短編連載ながらまいど楽しみにしている読み物のひとつ。清流のような文体とでもいいのか、文章の流れに身を任せて読み進めていって終わるころにはすっきりしている自分に気づく、読む過程そのものが楽しい作品です。

「残された資料の少ない物故詩人の作品と生涯を追う」という物語の主軸が、テレビ的な人物ドキュメンタリーとは全く違う小説的なことばづかいで展開されます。語り手の日々であう人たちや見聞する事物の世界と、言葉の世界とを行ったり来たりする筆遣いの自由さに魅了されっぱなしです。具体的な世界と抽象的あるいは記号的世界を無理なく行き来する書き方は堀江敏幸独特のものですね。

モグラのように生きるという言い回しは珍しくないけれど、出不精のモグラとはまことに重言的で興趣に富むと感心して先を進めると、どうも意味が通らない。そこでひとしきり雑談をしたあとその本の該当箇所を指さして見せると、モグラじゃないわよこれは、あなたの読み間違い! と彼女は大笑いした。なにをどう思いこんでいたのか私は「部隊(トループ)」と「モグラ(トープ)」を読み違えていたのである。塹壕を掘り、そこに砲弾が落ちてといった物語のなかで、モグラを使う慣用句がしっくりくる節々があったのだ。(p.142、カッコ内は原文ルビ)

外国語の読み間違いが文章に思わぬ意味を生み出す瞬間。堀江敏幸かその知人かで実際にあった話を下敷きにしているとしか思えない面白い読み間違いです。そしてモグラネタがじつはここ一つだけではなくてこの短い作品のなかで折にふれて顔を出す。

液晶画面で出来映えを確認すると、狭い高架下の喫茶店のいちばん奥の穴倉にもぐり込んで身を寄せ合い、笑みを浮かべた二匹の中年モグラが写っていた。もぐり込むという言葉には、モグラの音がくぐもりがちに響いている。(p.143)

モグラの顔の出し方も全く不自然にはなっていない。「詩」がひとつの重要なモチーフとなっている作品なので、一つのワード(今回はモグラ)の周りを自由連想のようにつないでいかれてもそれほど唐突感はありません。むしろこの論理が飛躍しつつも音やイメージではしっかりと繋がっているところは、小説というより詩を読んでいるような感覚にさえなります。堀江敏行のこの巧みな語りまわしは、ルーシェもの連作で極まった観がありますね。そしてモグラネタはとうぜん在りし日のルーシェの姿へと繋がっていく。

村はずれの戸建てに籠って会計検査の仕事をこなしつつ、レジスタンスではモグラもどきの活動をしていたルーシェの姿を、私はいつまで追いかけるつもりなのだろう(p.144)

この作品を読む場所は、すしづめの通勤電車とかゴミゴミした大学図書館ではなしに、ひとのまばらな公園とか緑のある屋外が最適でしょう。最終的に何枚ぐらいの作品になるのかわかりませんが、ずっと読んでいたい気もするし、一方では単行本になったものをまとめて、早いうちに再読したいという気もします。

西村賢太「貫多、激怒す──または「或る中年男の独り言」」

出典:『すばる』2014年1月号
評価:★★★☆☆

1月号ということで発売されるのは12月ながら冊子のゴージャスな金色の装いとともに新春作家顔出し掌編特集といったところでしょうか。目次をざっとながめてみて、もうこの「貫多激怒す」の文字が目に飛び込んできたとき即座に「これは卑怯(笑)!」と声上げてわらってしまいました。文字を読んだ瞬間、彼の、ふてぶてしい悪人面が抑えきれぬ怒りに奥歯喰いしめ紅潮して顫えているさまが脳裏を直撃しました。Youtubeで西村賢太がキレる寸前で怒りを抑えているテレビ番組の映像がアップされていたのをいつか見たことあったのでよけいに鮮明な映像として。とるものとりあえず読んでみました。

西村賢太のもとに、深夜の特番出演の依頼がきて、出演者があるお題にもとづきVTRを作るというお仕事の話が前半展開されます。お題は「土下座」と「東京」。掌編小説とあってあらすじ書きのようなもんですがここで紹介してしまうと全部書きかねず、そうなっては書き手に申し訳ないのできになるかたはぜひご一読を。

後半はそのVTR作成と小説の制作とを比較してみるという西村賢太の私小説論。

 これらはいずれも、筋を作っているときは楽しかった。平生は、自らの身辺に材をとったものしか手がけぬ故に、まったくの空想話を考えるのは妙に新鮮でもあった。(中略──引用者)
 が、さてしかし──そのどれもが、小説としては成立し得ないのである。少なくとも私は、この類をバラエティー番組の用途に供することはできても、自分の小説として仕上げようと云う気には、到底なれない。
 やはり、虚しいのである。観念だけでものを述べたり、登場人物をかように都合よく動かす話は、どうで次第につまらない気持ちになってしまうのだ。(p.135)

と、結ばれます。僕は観念だけでつくられたように見える話も大好きな口なのでここの小説観には全面賛成はしないんですが、しかし西村賢太はこういうことを言える資格が十分あるし、彼の作品も彼自身を実験材料にして得た経験がそのままの日常体験駄々漏れではなく、読まれることを意識した小説作品として昇華されていますもんね、。さりげなくこれはすごいことだと思います、彼の小説はいつ読んでも同じようなことが書いてあるにもかかわらず、いつ読んでも新鮮だし、いつ読んでも一定以上の面白さが保証されている!

タイトルにあるような貫多の激怒エピソードはこの掌編中になく、てわけでこのタイトルを内容を反映したものにするならば、「或る中年男の小説論」みたいななんの面白みのないものになるんでしょう。だけど彼の美学からすれば掌編小説の分際で「論」なんて大層なことばを使うことにアレルギーがありそうですし、そもそも「なんとか論」みたいなかしこまった体裁のテキストは全部クソくらえな考えっぽい気もするんで、むしろ内容と一致せずとも、そのタイトルだけで読者の目を引きつけ、出落ちであっても一度はきちっと笑わせることができたわけだから、このタイトル「が」いいはずです。タイトルの副題、「独り言」の部分には他人の同意なんてどうでもかまわない俺はこう考えるんだというふてぶてしいまでの自信を感じましたし、もちろん彼の仕事が「独り言」というつつましい枠にはとどまらない、私小説書きたちならきっと賛同するはずだろう魅力をそなえていることも分かります。それを「独り言」といってしまえるのが西村賢太の粋なところなんだなあ。これぞプロの物書きの仕事ですね。おみそれしました。

稲葉真弓「ふくろうたち」

出典:『群像』2013年12月号
評価:★☆☆☆☆

『群像』12月号の特集は目次によれば

アンソロジー ホームズ、ポアロ、マーロウ、半七……エトセトラ。名探偵への超・偏愛(オマージュ)小説集(目次ページより、カッコ内は原文ルビ)

ということで、探偵小説のオマージュ短編特集。表紙も鍵穴から部屋の中をのぞいた風になっています。

9月号からは『群像』は図書館で読むようになったのでとくに雑誌の方向性については何もいいません(笑)。自分の身銭を切ればこそ屑みたいな作品やしょうもない特集が掲載されれば腹も立とうもの、「どうか昔の群像カムバック!」と絶叫していたものですが、今や税金で購入されたおこぼれにあずかって読ませていただくようになっていますから『群像』についてはどうでもよくなりました。編集している人、書いている人が楽しければいいんじゃないかな。

で、いつも読んでいる人のは後廻しにして今日は初めて読んだ人の作品、稲葉真弓の「ふくろうたち」です。探偵小説や推理小説はもう小学校のときに一通り読んで以来、腰を入れて読んでいないのでこの作品がどんな先行作品への「超・偏愛(オマージュ)」なのかわかりません。なので他の小説との影響関係うんぬんは僕には読み取れないまま一つのたんなる短編として読み進めました。

ふつう探偵小説というと、なにか事件がおこって、探偵がその事件の真相を暴くものでしょう。合理的な推論に重点をおくならば推理小説とよばれるでしょうし、探偵の活劇が見せ場ならハードボイルドになろうし。図式化すれば、「謎の提示」→「解決にいたるプロセス」→「解決」が作品の骨になるはずで、僕もその図式を念頭に本作を読んでいったんですが、本作はこういう図式のつくりにはなっておらず戸惑いばかりがのこりました。

謎はあります。サーフショップを経営する男のもとに、「誰かが家の中を覗いているようだから犯人を突き止めてほしい」と三十代後半の女性から依頼がある。その謎の探求もあります。そこで相談をうけたその男の友人である渡という男が夜な夜な依頼主のやもめ女性の家をとりまく森に潜んで監視するというもの。ここでは、「覗きをしている者がいるのかいないのか、いるとすればどんな人間あるいは動物、超自然的な存在なのか」という問いが謎として提出されている。この謎になんらかの解決が与えられるのかと思って読んでいったんですが全く収穫がありませんでした。というより謎の答えに迫るどころか遠ざかるようにして、サーフショップ経営の男と渡とのなれそめが語られたり、サーフショップの経営状況が説明されたり、渡の家庭の状況や依頼主の女と懇意になる妄想が展開されたりします(笑)。余計な情報満載です。それでもその余計な文章自体が詩的であったりうまい描写で書かれてあれば興味を惹かれたかもしれませんが、その文章もあまりうまくありません。余計な情報の後に余計な情報が積み重なって読み進む歩をすすめるたびに足をとられるばかりでした。

例えば次の文章は、渡視点でサーフショップ経営の男である寛志について描写した箇所。

年中ハワイアン音楽の流れる店内には原色があふれ、ここだけは冬でも夏のにおいや気配が流れている。それは寛志自身の肉体からもかもしだされていた。肌は太陽の光を吸って褐色に光り、引き締った身体全体が動物的な強靭さとなめらかさを誇っている。まるで夏そのものが目の前に立っているようだった。いまにも沈没しそうな海べりの町。そこに寛志が新しい事業をたちあげようとしている噂も聞いた。(p.23)

寛志の外貌は謎の解決には全く関係ありません。夏っぽさも関係なければ新しい事業も関係ない。引き締った肉体が動物的な筋力を発揮することもない。探偵小説ってこういう関係ない要素をなるべくそぎ落としてシンプルにストーリー展開し、そのスピード感で読者の興味をひきつけるジャンルだと思うんですがべつにそんなことに頓着してないこの書き手の悠長さ、呑気さが純文学ならではのおっとりしたところを証していて笑えます。男(渡)が同年代の男(寛志)の体をこれだけ丁寧に、あたかも視線で舐めるように描写するのは、視線の主=渡がゲイなんじゃないかとも深読みしてもみましたが、もちろん渡の性癖がどうだろうと謎の解決には一切関係ありません。それにしても「夏そのものが目の前にた立っているようだ」って(笑)。そんな風に友人を見る目って普通の人にはない感覚です。

あるいは時間の展開のさせ方も徹底して吞気です。

それが四日前の会話(寛志から監視の依頼をうけた会話──引用者注)だった。翌日の夜、教わった場所に行ってみた。(p.24)

暇な渡なんだから、依頼をうけたらその日に行動するのが当たり前に思えるし話の展開もそのほうがスピーディーです。翌日出かけるなんて悠長すぎる。翌日の夜になるまでに謎の解決にとってヒントになるような出来事が起こるわけでもありません。一日がかりで何か特別な準備をするわけでもなし。いたってスピード感がない探偵小説。

監視を続ける渡は日々収穫なく、そして小説はあいかわらず謎の解決には全く関係ない描写と説明で貴重な誌面を浪費したあげく作品のほぼ終盤に近づいてやっと、ここにきてやっと、森に潜む渡の近くで何者かの気配がします。小枝を踏むピキッという音だけでなく、タバコのにおいまでただよってきて、何かがきっといると読者が息をのんだところで

彼は目を閉じる。(p.32)

渡よ、それはないだろう。結局、音とにおいの主の正体に目を閉じた渡のせいで、謎は解決されずじまい。読者は置き去りのうちに作品は終わります(笑)。読者の僕も、アチャーと目を閉じ、そして本をそっと閉じました。編集者がこれでOKを出したのだし、執筆者もこれが商業誌媒体で発表するに足るとの判断で脱稿したはずだから、これはこれでこういう感覚も世の中にあるんでしょう。作り手たちが楽しければいいんだと思います。僕にはどこが読みどころかわからない、想像を絶するセンスでこの世に生まれた、脱線続きで失速してゆく、できの悪い習作探偵小説にしか思えませんが。この作品から探偵小説への偏愛を読み取れる読者はどれくらいいるのでしょうか。

(追記)先行作品がなにかわかると実はものすごく楽しめるという仕掛けになってるんですかね。もしそうなら僕がこの作品の読者としてふさわしくないだけであって、探偵小説好きの読み手にとっては元の作品の痕跡を絵解きみたいにしてそこここに発見し、その偏愛が味えるすばらしい作品になっているのかもしれませんね。フォローをいま書きながらも「ほんとかよ」と内心の突っ込みが途切れませんが(笑)
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