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吉田篤弘「梯子の上から世界は何度だって生まれ変わる」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

 まずいコーヒーの話なら、いくらでも話していられる。おれのこれまでのところの人生は、あらかたまずいコーヒーと共にあった。おれは基本的に不運なんだと思う。じつにおかしな奴らばかりと出逢ってきた。(p.102)

のっけからハードボイルド!

おれは常に街なかに居ないと落ち着かない。街にはノイズがある。雑音がなければ街じゃない。おれは要するに雑音を愛している。
 もともと、おれは雑音ならぬ雑文を書いていた。ノイズのような文章だ。世間ではコラムと呼ばれていたが、おれは一般的なコラムの様式から外れて、自由に書いた。自動販売機のまずいコーヒーを片手に、月に二十本は書いた。(p.103)

イッツ・ハードボイルド!冒頭の1、2ページを読んだ時点で、カーヴァー(村上春樹経由の)とかチャンドラー(村上春樹経由の)を連想しました。「雑音がなければ街じゃない」からはそのままデューク・エリントンの「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing)」の響きをききとれますし、これも翻って村上春樹の「意味がなければスイングしない」に繋がっていきますね。そういえばまずいコーヒーというのも伝統的なジャズ喫茶名物でした。

このコラムで生計を立てていた男は、自分に投資して「電球交換士」となります。

ただひとりきりの〈電球交換事務局〉を立ち上げ、ただひとりの事務員、だたひとりの作業員として、世界中の──ただし街なかの──この切れて使えなくなった電球を交換してまわる。(p.104)

この、電球が切れれば切れたままにしておけないので誰かが、とりたてて人に知られることがなくとも交換してまわる必要があるという、あたりまえといえばあたりまえといえる作業も、『ダンス・ダンス・ダンス』の「雪かき」の変奏ですね。

こうして村上春樹の痕跡ばかりを読み取っていてもしょうがないんですが、全体としては、大人の童話(エロい意味ではなく)的な印象を持ちました。夜、美術館で電球交換をしていたときに、一人の女と出会います。ここから展開するファンタジーのような流れ、彼女の口から「絵」が出され、その中に閉じ込められたというのは「みんなのうた」のメトロポリタン・ミュージアムですかね。超なつかしー!

 あらわれたのは彼女のかたくとざした口と、その唇のはしからこぼれ出た何やら尻尾のようなもの。その尻尾は何色ともいえず、あらゆる色が水たまりに落ちたガソリンのように流動していた。わずかに発光しているようにも見える。(中略──引用者)
 が、引きずり出されているものの正体が分からなかった。最初はそれこそ手品でも披露しているのかと思ったが、しだいに姿をあらわし始めたそれは、空気に触れるそばから膨らみ出した。みるみる膨張が著しくなって、やがて、とんでもないものが引きずりだされていることに気づいた。
 絵だった。
 より正確に云えば「風景」で、あとになって彼女が使った言葉に倣えば「見知らぬ風景」だった。(pp.107-8)

本作の全体のなかでなにか大事件が起こるわけではないですが、描写のひとつひとつにはどこかざわざわしたノイズ、ここちよい雑音がふくまれていて、それらがゆるやかにつながって一杯のコーヒーを飲んでほっとするような読後感をのこしてくれます。腹いっぱい食べたー!というんではないけれども、ああ美味しかった、という感じの素敵な短編でした。本作は、下北沢のセレクト系書店を徘徊するサブカル女子(マッシュルームボブ、赤のセルフレーム伊達眼鏡)が涎を垂らしてむさぼり読む一作です!

てことで最後のリンクはメトロポリタン・ミュージアムのジャズアレンジ曲を。スイング、スイングです!

【メトロポリタン美術館】(注意:音が出ます!)

作詞作曲は大貫妙子なんですねえ。当時はそんなこと関係なしにテレビで聞いてたなあ。
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中原清一郎「カノン」

出典:『文藝』2014年春号
評価:★★☆☆☆

変身をテーマにした文学作品は枚挙にいとまなく、変身の原理についても時代時代で神様の仕業、魔法、幻想、夢、錬金術、変態性欲、抑圧されたもう一人の自己、理由のない不条理まで様々です。変身の原理に近未来的なテクノロジーをもってくれば攻殻機動隊のようなサイバーパンクができあがる。本作はこうした古今様々繰り返されてきた王道といっていいテーマを、「海馬の移植」という医療技術の進歩で説明します。もっとも、本作の主眼は医療技術そのものの探求によりもむしろ、海馬移植に伴う当事者の葛藤、周辺の人間関係の変容、移植後の自己の在り処などにあります。社会の倫理ともぶつかるテーマだけあって650枚という長編作品です。

題辞にある「海馬」は本作の扉を開く鍵ことばです。

海馬【かいば】③(hippocampus)脳の内部にある古い大脳皮質(古皮質)の部分。その形が、ギリシア神話の神ポセイドンが乗る海の怪獣、海馬(ヒポカンポス)の下半身に似ているのでこの名がある。情動の発現およびそれに伴う行動、さらに短期記憶に関係し、種々の感覚入力に応じて時間空間情報を認知し、一種の統合作用を行う。アンモン角。海馬体。(「広辞苑」)(p.76、括弧内はすべて原文)

海馬の提供者と被提供者が本作の主人公。いわばダブルキャストで、作品タイトルにもあるように一種のカノン、別々の声部が追いかけっこするようにして一つの音楽的調和を生み出していく手法によって二人が一人の人間として「カノン」という小説を紡いでいきます。

全体の感想を先に書いておけば、序盤は丁寧で期待度が高まったんですが中盤から後半は安易な方向に流れてしまって残念でした。もっとも、読者の関心によっては序盤よりも中盤後半のほうが楽しめる人もきっとおおいはず。いずれにしろ序盤と中終盤でのテイストにズレがあるように思いました。

序盤は当事者や家族のたち思いをそれぞれ丁寧に掬い取るように描いており、また移植に伴う法律や専門家たちの議論も門外漢である読者にも分かりやすく書かれていました。それらを踏まえたうえで移植後の頭と体とを「渚」の比喩で説明する部分は読者の感覚的な理解も促してくれる出色の個所です。以下は海馬提供者の寒河江北斗という男性(58歳)と、提供者被提供者間のやりとりをとりもつコーディネーター黒沢との、移植前の会話です。

「心って、いまの科学では、脳にあることが分かったんじゃないのですか?」
 ようやく疑問形でそう寒河江が黒沢にいうと、黒沢は小首をかしげた。
「そうでしょうか。心って、渚みたいなものではないでしょうか」
「渚?」
 寒河江は思わずそう聞き返した。
「そう、渚です。一方には頭があり、他方には体がある。海と陸のように、そのふたりが出会う波打ち際です。ふだん私たちは、頭が身体を支配していると思い込んでいる。でもそれは、長い時間をかけて、頭と体が馴染むようにしてきたからだと思うんです。もし脳が、別の体と結びついたら、そんな穏やかな静けさは続きません。海は怒り、大きな津波になって岸辺に押し寄せるかもしれません。そうすれば、波打ち際の静けさは打ち破られ、心はかき乱されることでしょう。でも、もしそこでじっと耐えれば、きっとまた渚に穏やかな平和が訪れる日が、いつか、やってくるんだと思うんです。そのとき、新しい陸と新しい海は、またひとつの静かな凪の風景になるような気がするんです」(p.85)

「波打ち際」なんてワードは松浦寿輝を歓喜させることでしょう。とここは松浦氏は関係ないのでおいておくとして、この渚のイメージがありありと読者の頭のなかに刻み込まれるだけではなく、手術前のこの会話がこれからはじまる物語の予告になっているんですね。移植後きっと波打ち際は荒れるだろう、その荒れを乗り切った後に静かな「凪」がやってくるだろうという。

一方、海馬提供を受ける女性のほうは氷坂歌音(32歳)という女性編集者です。こちらは寒河江北斗とは逆に、身体は健康ながら海馬が病に侵され記憶力が日に日に弱くなっていく。夫と五歳になる一人息子がおり、残される家族、とくにまだ幼い息子のために移植を決意したというのがいきさつです。

僕が本作に納得いかない、かつ前半後半のチグハグさを生み出しているのは多分ここに一つの原因があるのではないかと思いました。誰しも死ぬのは怖いことだし残された家族のことを心配する気持ちがあるのも分かります。ですが、体の自由が利かなくなった寒河江が海馬提供するというのは臓器移植の延長上に理解できるとしても、歌音はなぜ大掛かりな手術(日本で二例目)を決意したのかが分かりません。いや、上のように一応の説明はあるものの、手術後海馬の被提供者がどうなるかといえば本作によれば大部分が提供者側=寒河江の記憶や人格が歌音の身体を間借りしている状況となるようです。手術後ことばや振る舞いの適応訓練を受けるとはいえ中身はおっさん。そうなってまで歌音は何を残そうとしたのでしょうか、何度考えても分かりません。次の引用部は、移植を終えた歌音(中身は寒河江)が夫拓郎と息子達也の暮らす家に帰ってくるところ。

 だが、その日歌音が帰ってくることになって拓郎は、俄かに胸騒ぎがした。歌音の容姿はそのままだ。しかし新しい歌音のなかに潜み、その記憶を司っているのは、自分の両親に近しい歳の男性なのだ。(p.141)

と夫は不安を抱いています。この不安を裏書きするようにこの後つづく中盤からは、作品のトーンが転調してコメディタッチになります。あるときは初老男性の育児奮闘記であったり、またあるときは初老男性がやり手女性編集者になりすましてファッション誌の営業を担当するキャリアウーマン細腕繁盛記であったり。初老の男性が働き盛りの女性として暮らしていくうえで直面するギャップに、笑いや社会批評めいたものがあるもののとりたてて目新しくはありません。それに、かなり既存の表現に寄りかかっていて通俗すぎるところが、序盤の丁寧で真剣なトーンとくらべると興ざめでした。

たとえば職場で、寒河江の頃の営業知識とコネをつかって業績をあげる歌音に職場の同僚たちが嫉妬する場面。歌音を敵視する同僚女性三人組がワインバーで謀議を重ねるなかで

「そういう訳なのよ。でも、むかつくわ。あの人、優等生ぶっちゃって」(p.167)

なんていうセリフも飛び出します。なんとなく『ガラスの仮面』の北島マヤを妬む劇団員たちの姿を想像しました。僕は『ガラスの仮面』は大好きですし、こういうベタ表現も好物なんですが、序盤のテイストとはどうしてもちぐはぐで馴染みませんでした。ちょっと贅沢をしたくてカウンターのお店で懐石料理を食べていたら、途中で唐突にマクドナルドのハンバーガー出された、みたいな感じでしょうか。マックのハンバーガーも「あー、ジャンクフード食べたい!!」となった時にたまに食べるからうまいわけで、タイミングというものがあろうかと思います。懐石料理のなかにハンバーガーを紛れ込ませるのも現実の懐石料理ではなく小説という創作料理なら「あり」ですが、その力技を成功させるには料理人の高度な詐欺的技量が要求されるはずです。本作はその点、どうしてもちぐはぐ。このあと歌音を陥れるためにライバルの同僚がなりすましの偽メールを取引先に送って職場を混乱に陥れます。すぐにばれそうなお粗末な悪事、のみならず職を失い損害賠償請求されるリスクさえある悪事を働く感覚が僕にはちょっと信じられません。作品にひと騒動おこすためだけに作られた人物、その安易な書かれ方が浮いています。

こんなふうに歌音(中身は寒河江)のまわりで起こるトラブルは絶えません。しかし事態がおおごとになりかけると、「都合よく」歌音の人格が歌音の身体を乗っ取り、事態を収拾します。ここも、ありきたりすぎる表現ですし作品内での整合性も取れていません。ちっぽけな存在に堕したデウス・エクス・マキナのようです。

いや、ピンチにならないときも歌音が都合よく出てくる。次の場面は、歌音(中身は寒河江)が風呂の脱衣所で女性になった自分の身体を眺めている場面。

歌音が自分の肉体をじっくり眺めるのは、はじめてだった。なだらかな肩から、次第に両方の乳房が丸く盛り上がって弾力のある均整な山となり、その頂点で乳首が、つんと上を向いている。乳輪はまだピンク色をして、艶やかだ。出産して腰は少し丸みを帯びてはいるが、くびれはまだ、しっかり締まっている。歌音は次第に視線を下におろし、きれいな三角に広がる秘所を見つめた。そのときだった。
「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」
 北斗の意識は、確かにその声を聴いた。狼狽したまなざしで思わず周りを見回したが、脱衣所にいるのは歌音だけだった。(p.143)

「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」なんて三十二歳の女性のことばというより、しなをつくったオカマの言いぐさにしか読めませんが(笑)、とにかく歌音がたびたび出てくるのにはご都合主義以外のことばはありません。ちなみに題辞には海馬は「短期」記憶を司る部位というんですから、寒河江の海馬は、脳の別の部位に保存された歌音の身体を見慣れたものとして判断はしなかったのでしょうか。そのあたりの、短期記憶、長期記憶、言語野やしぐさの記憶が、移植後どう連結されて、どこで葛藤を起こしているのかも、本作では曖昧になっていると思いました。この曖昧さをうまくカバーするというか誤魔化すのが「渚」の比喩だったと僕は思うのですが、現実の世界で歌音(中身は寒河江)が動き始めるとどうしても細かい部分で齟齬がでてしまっています。

結局、本作には、序盤に期待が持てたものの、中盤終盤がテレビドラマか古い漫画の表現に寄りかかってしまったような印象をうけました。中終盤のテイストもそれはそれとして独立しているなら通俗的面白さはあるのですが、僕のように細かいことが気になってしまうような読み手にはちょっとアラが目立ち過ぎました。細部が気にならないとか、齟齬があっても飲み込んで小説の流れに身を寄せることのできる読者はきっと本作を楽しめることでしょう。

木下古栗「天使たちの野合」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

第150回芥川賞は小山田浩子に決まりましたね。ニコニコ動画での電話インタビュー、受け答えのひとつひとつに一生懸命丁寧に答えてらっしゃったのが好印象でした。赤ちゃんもすくすく育って欲しいですね!まかてもタオルコもおめでとう!

さて平常運転で本作の感想を。群像2月号は岸本佐知子からのお題「愛」に応えて作家たちが短編を発表する特集「変愛小説集」。有名作家から若手までとりどりの書き手が書いています。お題「愛」に忠実に男女愛を書いたものもありますが、本作「天使たちの野合」は読んでもわかりやすく「愛」というメッセージが読み取れるようにはなってませんでした。いつものように下ネタ満載(若干ライト目)なのでそれが「愛」ということだったでしょうか(笑)。

冒頭はこんな感じ。

 日中であること以外、何時頃なのか判然としない時の流れが滞ったような薄曇りの空の下、自動ドアから出てきた山中誠一はポケットから携帯を取り出して、その時刻表示を確かめた。(p.79)

初読では、普通の天気の描写、なんてことない作品の導入に見えたんですが、書き写しながら気づきました、あらためて読み直せばこの「時間のわからなさ」「薄曇り」という、「これ」とはっきり特定できない「無」みたいなものがこの作品のテイストを予告する下地としてちゃんと書かれてあったんですね。中盤のかなり長い会話のやり取りも、地の文を「無」しにして会話だけでつないでいく、その無重力感、「いつ・どこ・だれ」の発言かはっきり明示され「ない」ですし、終盤の頭爆発シーンでは「無」のエッセンスが凝縮され描写のなかにさまざま鏤められています(後述)。中盤の会話から幾つか引用します。

「ペルシャって今どこだっけ? トルコ?」
「いや、イランだろ、確か」
「そうだった? でもトルコも絨毯が有名じゃなかった?」
「トルコは風呂だろ」(p.81)

自由恋愛という建前のまかりとおる風俗ですね。一般の二十代前半以下にはもう死語じゃないだろうかトルコ風呂。

続いて、待ち合わせ場所になかなか来ない人物について、先に着いて待つ二人があれこれ推測する会話。

「それか仕事の電話でもしてるんじゃない? ほらあそこ、店内通話禁止って張り紙してあるから。急な見積もり対応でそのままその辺のコーヒーショップでひと仕事とか」
「ああ、それでついでに、そこらで女でも引っ掛けて身障者用トイレに連れ込んでオ○ンコしてるのかもな。米山って十代の最も道を外れてた頃はずっとそんな感じの放蕩ぶりだったって、前に人づてに聞いたことがあってさ」
「へえ」
「何だよ、じっと見て」
「いや、日常会話でオ○ンコなんて言う奴いるんだって、俺の中の常識が震撼してさ」(p.82、伏字はいずれも原文ママ)

こうしてときにお得意の下ネタを交えつつ話は終盤に。ここに来るまで待ち合わせている人物は来ず、ということは普通に考えれば終盤に待ち合わせの人物が来てひと騒動……と常識的には先を予想してしまうのですが、そこはこの書き手、読者をうまく裏切ります。

終盤急展開過ぎて、並みの書き手であればその前後で木に竹を接いだような一貫性の欠如、すなわち欠点として指摘されそうなところを木下古栗は難なくクリアします。その理由として一つは有無を言わせぬ圧倒的な描写、もう一つは作品冒頭から通奏低音として響いていた「無」の爆発。待ち合わせに来るべき人が来ないまま──考えてみればこれも「本来いるべき人物がいない」で「無」に繋がりますね──、待っていた高橋らの頭が爆発します。その描写を読んでみましょう。

 高橋の頭が、思い切り息を吹き込まれた飴細工の風船のように急激に膨らみ始めた。黄味を帯びた皮膚が、乳白色に剝かれた白眼が、断末魔の叫びのごとく大きく開かれた薄紅色の口とその奥でもつれた舌が、すべて半透明に薄まりながら伸びていき、みるまに世界一大きなカボチャを超えるほどに膨れ上がって、表面積が桁外れに広がって頭髪の一本一本もまばらになった頭頂部から破裂して、真空のような無音が弾けた。その無音の膨張と入れ代わりにどこかに一瞬で吸い込まれてしまったのか、内部は完全に空っぽで、一切の骨肉や脳髄の飛散も見られず、伸びきって大破した飴細工のような、あるいは特殊なガラス細工のような淡い色味の半透明の、高橋の頭の抜け殻が、頭頂部から凄まじく放射状に裂け、外側に反り返って大きな花弁さながらに垂れている。それらの花弁は冷えて固まった質感で、縁の部分は激しく千切られたように刺々しく、曲面は不均一に歪み波打ちながらも、ぎらついた艶かしい光沢を鈍く放っている。薄暗く黒ずみ始めた曇り空の不穏な色合いが、その半透明の花弁に映り込んでなお霞んで見える。
 分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。(p.89)

いやー、もう圧倒的です。淡かったり色が無かったりする「無」に関連する色味がこの短い一節の間に無理なく嵌め込まれ(「黄味を帯びた」「乳白色」「白眼」「薄紅色」「半透明」「淡い色味」「霞んで」)、あるいは「無」に関連する事物が比喩も交えて取り入れられ(「風船」=中身は空間、「カボチャ」=頭部のたとえですから当然ジャックオランタンに連想、「真空のような無音」、「無音の膨張」、「空っぽ」、「抜け殻」)て、大破した飴細工あるいはガラス細工の破片の光沢へとつながります。

頭部が無音の膨張、そして爆発というわけのわからない事態、無音の余韻のなか頭部から反り垂れる謎の花弁。それらを強引に納得させてしまう決め台詞、「分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。」には、それまでのストーリー展開から論理的に考えても、日常的思考を働かせてみても全く理解不能な事態に有無をいわさず「分かった気にさせてしまう」暴力的説得力があります。この一文を読んだ直後読み手はきっと、「分かんねーよ!」と反語的ツッコミを叫びながら、しかし一方では芯から同意していることでしょう。

この作家の力作「新しい極刑」が芥川賞の候補にすらのぼらなかったときに、翻訳小説として海外で読まれその外圧によって日本の読者に知らしめるしか方途がないと愚痴りましたけれど、この短編だって文章がべらぼうにうまくなったフィリップ・K・ディックが書いているような感じもありますよね。円城塔の「Self―Reference ENGINE」がフィリップ・K・ディック賞にノミネートされた現在、それなら木下古栗の作品だって候補、受賞作になったってぜんぜん違和感ないクオリティーがあると僕は断言します。SF系の出版社さんあるいはどこかの出版社さん、本当に、本当に、翻訳検討してみてください、マジで。

坂口恭平「蠅」

出典:『新潮』2014年2月号
評価:★★★★☆

芸が細かいというか、細部の表現や仕掛けを楽しめる作品でした。短編の分量でこれだけいろいろやろうとするととっ散らかってしまいかねないところを、うまくまとめていると思います。気に入ったフレーズをいくつか。

ベルリンに今も燻っている火の欠片が鼠のように喉に入り込んできた。(p.144)

脱走を目論む囚人は、監獄の緻密に計算された細部を次第に知っていくにつれ、脱走を諦め、ついには外の世界があるという事実すらを頭の中から除去してしまう。(p.146)

太陽が無人の監視塔に見える。周囲をちらりと眺めると、多くの囚人がまるで観光客のように何気なく歩いている。(p.147)

太陽を監視塔に見立てる表現の一連の文がかもすイロニーにはしびれました。なるほどこういう書き方があるんだなあ、と。第二文を常識的に「多くの観光客がまるで囚人のように何気なく歩いている」とやってしまっては台無しですよね。

ドイツのベルリンをふらふら歩く「僕」の見たり聞いたりしたものが、僕のレンズを通して、つまり上のようなピリッとしている表現で、描かれます。また折に触れ読者を安心させない書き方も僕好みでした。次の引用は、躁鬱病の「僕」が現地で出会った女の子との会話の中でその彼氏も躁鬱病だとわかって、彼氏にどう対したらいいかアドヴァイスを与える会話。

「あなたがしたいと思ったときに、何の前触れもなくスカートの中に手を入れてもいいし、後ろから突然襲ってもいいから。疲れているから今日は無理、とか言わないから、好きなときにセックスを好きなだけしようって、言ってくれ」
「それはあなたのお願いなの?」
「いや、そうではない。これはポルノ小説ではなく、医学書だよ」
「でも、それって結局、紙にぶつけてはいるけど、出会ったばかりの女の人に性的な感情を喚起させるために「セックス」や「舐める」や「看護婦」などの言葉を、書き、話すことで、目の前のマリアを口説いているだけなんじゃないの」
「舐めるとは言ってない」
 血流の具合によって微妙に揺れ始めてきた目の前の画像のズレを調整した。(p.153)

メタな書き方で意図的に眩暈を起こさせる方法は、キマらないとダサさだけが残って無残です。方法のための方法、書き手がそう書きたい、ってだけのやつで筒井康隆がその典型例です。その点本作では、いずれもうまく作品にはまっていました。語り手が躁鬱病という設定によって、こういうメタな見方語り方をしてもわざとらしくないようになっていますよね。小説には原初的にメタへの意識がそなわっているはずで、それをあえてメタのためのメタという風に書いてしまってはダサい、芋臭いとしか感じられませんが、本作では内容と形式がうまくはまっていて作品としてきちんと成立しています。

ほかにもいろいろ仕掛けがあって最後の一行まで読者を飽きさせないサービス精神旺盛な短編作品でした。こういう短編は楽しいですね。

安藤モモ子「カウンターイルミネーション」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★☆☆☆☆

三島由紀夫が深沢七郎の文章に衝撃をうけたように僕はいまこの作品の登場に驚きを隠せません、というと僕を畏れ多くも三島にたとえてしまっているのでそう言い切るのははばかられますが、それに近い感慨というのはあって、この、文学史や小説の歴史を全無視したような作品はしかし、この方向での過剰さを100倍ぐらいに鍛えると、かえってすごい作品になるのかもしれない、そんな夢想を僕は持ちました。

小説を自覚的に書こうとするような人は、ある種の「ありきたり」にたいして、生理的な嫌悪を示すはずで、その嫌悪感が創作のエネルギーとなって、これまで書かれてきた作品群から僅かでも自作の身を引き離そうとするその引き離しによって生まれた旧作との距離が、「新しさ」として小説の領土を耕してきました。僕にとっての暗黙の前提として、そういう固定観念が根深くあります。だからこの、「自分の作品でどんな未開地を開拓しえたのか」という意識、批評といってもいいかもしれませんが、その自覚抜きに現状に安住し現況におもねるような小説にはおしなべて疑似小説とか小説もどきのことばを投げつけて呪い殺してやろうとしているわけですが、そこで本作のような作品を前にすると、戸惑ってしまう。どこに戸惑うのか。

生き物達が集まるのは、彼らが水を慕ってその土地に棲み付き、それは土地のエネルギーが高いことを示していた。(p.92)

という文にみられる主語と述語のよじれではありません。こんなもの編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。

男性器と女性器を併せ持つ両性具有の生き物(p.95)

という重言でもありませんこれも編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。。作中随所にあらわれるこういう些末なミスではなくて、本作全体に描かれる紋切型のオンパレードそれじたいに戸惑うのです。冒頭から

水面に墨を垂らしたように渦巻く雲が割れ、そこから射す陽の光が巨大なカーテンを作り出している。その合間を何艘もの船がゆっくりと進んでいた。(p.92)

なにか時代錯誤の壮大な物語の幕開けです。しかしこれは短編。短編でやってはならないというつもりは全くないですが、壮大な出だしに「この先この話はまとまるのか?」という不安が高まります。読んでいくと、未開の地に向かう探検者の語りであることがわかります。

私の生まれた家畜の国とは違って異次元の世界のように、この地では太古の生命体と新しき生命体が奇妙に入り交り生息している。あたり一面気ままに飛びかい、地に這いつくばる昆虫たちのほとんどが、採集された事のなきものであり、ここは私が初の目撃者となるであろう不可解な生物達で満ちあふれていた。(p.92)

ことばの大仰さ。生物の「奇妙さ」や「不可解さ」は読者には一向伝わりません。昆虫「たち」と生物「達」でかき分けているのも意味が分かりません。それを脇に置いても、ひっかかりまくるこの大仰なことばづかい。「新しき」生命体。「採集された事のなき」もの。コント「暇を持て余した神々の遊び」を髣髴とさせます。

そして太古の生活そのままの未開の村へとたどり着きます。

 私を受け入れた村人達の生活は、神秘と驚異に溢れていた。私たちの文明とは全く無関係に進化し続けてきた彼らの生き様は、超越している。自然の摂理と調和して生きる人々と過ごしていると、魔法でも使えるような錯覚に陥った。彼らは人類の起源であるとされるアダムとイヴや、神が人の形をしているという説を、陳腐で傲慢な主観的概念に過ぎないものだと私に教えた。神は理論の上に存在し得ない。その事実を母国の家畜人間達が知った時、彼らの世界は崩壊し、秩序を失い、聖職者たちは死すらいとわないだろう。真実を目の前にしたとき、人は理性を失い発狂する。ここは、家畜国家の発狂材料で出来ていた。人間の価値は一体何処にあるのだろう。(p.95)

人間「達」と聖職者「たち」の分かち書きにはもう何もいいません。知った「時」と、した「とき」の違いも同様です。

アメリカ文学史のなかでその最初の最初に出てくる旅行記ものを髣髴とさせます。スペインからやってきた探検家、イギリスからやってきた植民者、聖職者が、未開の地「アメリカ」で原住民たちの姿を観察し、または伝え聞き、それに報告者の脚色をまぶして語り下ろされたファンタジー旅行記。本作は、たぶん書き手は意識してはいないでしょうけれどそのパロディー以上ものにはなりえていません。それにしても上の引用部の語り手は「家畜の国」からやってきたにもかかわらず発狂しないのでしょうか?

この後も、未開の土地の習俗(人身供犠)や姦通など、小説にかぎらず神話の時代から語られてきたおなじみの主題がただ垂れ流されます。未開の土地を探索する本作の内容とは全く逆に、その形式からは書き手の、手あかにまみれた主題への無自覚な寄りかかりしか感じられません。

本作の味わいは、小説にかぎらず広い意味での物語の前史を全く無視して、ものものしい語りでしれっと語っていく書き手の厚顔無恥さ図太さにあります。僕をいらだたせてやまないこの図太さはしかし、この短編の分量では中途半端。もっと、この方向を突き詰めて、紋切型を過剰なまでに上塗りすることで、結果として奇跡的な批評を獲得してしまう方向は「あり」です。無知から生まれるラッキーパンチ的批評は生まれる確率が限りなく0に近いとしても、もし生まれてしまえばそれは、中途半端で小賢しい「手堅い」批評を一掃してしまう可能性はきっとある。深沢七郎の文章に意識の人三島が感じたのはこういうことではなかったかと思いを馳せました。

(追記)安藤モモ子って、奥田瑛二と安藤和津の子供で、安藤サクラのお姉さんなんですね。今調べて知りました。

深堀骨「逆毛のトメ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

 陋巷の天才人形師で天才家具職人で天才発明王だったゼペット爺さん(日本人)は天才呑んだくれでもあったが、天才故にその腕のよさを過信するキライがあり、それに呑んだくれ特有のアルコホリックな誇大妄想も手伝って、美しい人形や素晴らしい家具に加え、それに倍する数多の理解不能な道具や器械やら装置やらを拵えてきた。(p.68、括弧内は原文)

いきなり無手勝流の無茶苦茶な出だしで噴き出しました。細かいことをいえば、「陋巷」いうなら「指物師」くらいつかえよとか、「理解不能な」と説明ことばで言い切るのではなくてどのように理解不能なのか描写してよと突っ込みたくもなったんですが、そういう些末な茶々を入れるのが馬鹿馬鹿しくなる勢いで話が進みます(笑)。根っこにあるのはゼペットという人名からピノキオ物語、あるいはもっとひろくとって人形制作寓話なんでしょうね。

無茶なことばづかいもそれだけだとへたくそな小説にありがちな出来そこないです。この作品にはそのことばづかいに見合っためちゃくちゃなアイディアがある。次の引用は、ゼペット爺さん(日本人)が人形作りの仕上げにかかる場面です。

(前略──引用者)完成というところで、「足りない」と思った、何かが足りない、物足りない。だから足りない「物」を付け足した。せっかく着せたドレスをまた脱がすと、乳房どころか乳首すらない幼児体型の軀から生えた二本の短くふっくらした脚の間に、そこだけは矢鱈と精巧なヴァギナを拵えてしまったのだ。正に天才か狂人の神業である。(p.69)

中学生並みの馬鹿馬鹿しい発想力です(褒めことば)。と、並みの書き手だとここで満足してしまうのかもしれません。この深堀骨のすごいところは、さらに先を用意しているところ。

膣内には、人形の背丈よりやや短い程には長い螺旋状の鋭い鉄の針を仕込んだ。そして愛らしい顔と首にも要らぬ小細工を施した。碧い目と金髪の可愛い和製仏蘭西人形の筈が、首を回すと、人形浄瑠璃のガブみたように邪鬼の形相に転じ、同時に膣から螺旋状の針が飛び出す、素敵なからくり仕掛けなのだった。(p.69)

僕はここに、現代によみがえった山田風太郎先生を見ました。忍法羅生門でしたか、たしかくノ一が色仕掛けで敵の男忍者にわざと挿入を許しておいて、そこで相手が油断したところを見計らって子宮の中に潜んでいた赤子が男根を掴んで逃がさないというやつ(うろ覚え)。山風忍法にも勝るとも劣らないくだらなくも読者を驚かす発想が本作では人形からくりに具現しています。

性器やその周囲など普段目に触れない部分にとんでもない仕掛けを組み込むとそれだけでなにか面白いと思ってしまうのは僕だけでしょうか。身体部位の工夫でありながら映像作品では倫理的に表現に制約がかかりそうなので、小説のほうがかえって奔放な奇想天外な表現が可能でしょうね。映像じゃないぶんグロテスクすぎることもないし。

さて、螺旋状の隠し針を内蔵して生を受けた人形は「逆毛のトメ」と名付けられワインのコルク抜きとして活用されます。が、本人(?)はその役割には全く不満な様子。

トメは初めて気づいた、「私は踊りたいんだ」ということに。私は人形でもないし、況してや栓抜きでもない。踊ったことはないけれど、「私は踊り子なんだ」と胸を張りたい。「だって気分はもう踊り子なんだもん!」、そう叫びたかった。(p.74)

ここで僕は爆笑……、いや、図書館で読んでたので爆発させるわけにはいかず、笑いの不発弾を喉に孕んだまま飲み下しました。一見すると、女の子が自分の夢に目覚めてその実現に向けて決意する場面。しかしそれは迂闊な読みです。この引用部分をちゃんと、書いてある通りに読めば──書き手は計算してやってるのか無茶苦茶書いたらこうなったのか文字テクストだけでは判別つきませんが──、逆毛のトメは決意を言葉にしていなければ、胸を張ってもいないし、踊りもしてない、叫んでもいないんですよね(笑)。そう「したい」だけでアクションは一切ありません。第三者から見れば人形が、まあ座っているか転がっているかだけで何の動きもない静止画みたいな場面です。しかし逆毛のトメ視点で語られているこの場面を読んでいる読者は、たしかに彼女の感動を共有している。だけど外目には動きがない(笑)。軽く読み流してはもったいないところでした。

この後も、もう無手勝流の語りが怒涛のように話を転がしていきますがそれは実際に読んでいただくのが一番です。

……勃ちひろし……(p.76)

これが個人的にはツボでした。すべてはとてもじゃないけれど紹介できませんので興味持たれた方はぜひご一読を!短編という分量にちょうどいい作品でした。しりあがり寿先生による漫画化希望。

(追記)深堀骨作品は早川から短編集が出ているようですがamazonでは手に入らないんですね。キンドルでいいから読めるようにならないものでしょうか。短編集『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)』の内容紹介しているブログがありました。「バフ熱」、読みたいので『ミステリマガジン』だか『SFマガジン』だかのバックナンバーあたってみることにします。

ウィリアム・ギャディス/木原善彦訳「シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五‐八七号」

出典:『すばる』2014年2月号
評価:★★★☆☆

一般人にとって読みづらい二大文章は法律関係の文書と、(二流以下の)学者による学術論文です[要出典]。その文書の性質上、分かりやすさを犠牲にしてでも、論理関係の正確さや明晰さが優先されるからで(もちろんいずれも満たされればいうことないのですが)、こと判決文の場合なら、ことばが多義的にならないよう配慮するとか、条件文を使って誤解なきように記述するなど、独自の技術によって書かれています。読む側もその道の専門家独自の読み方を身につけているので問題なく読めるようになっている。レントゲン写真を前にして素人だとどれが単なる影でどれが腫瘍か判別できなくてもトレーニングを受けた医者なら一発で怪しい部分を見分けられる、というのに近いかもしれません。

小説のことばにとってそういったことばは通例、悪文として退けられるわけですが、本作「シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五‐八七号」はその、小説のことばの慣習を逆手に取った、法律文書(判決文)のパロディによって成った作品です。タイトルからして、分かりやすさよりも、どの訴訟を扱ったものかを明確にすることが優先されてますよね。この小説のタイトルをとってつけたような小説的にするのなら「サイクロン7」とか「サイクロン7訴訟」とかになるのかもしれませんが、そうしてしまえば面白さ9割引きです。よってタイトルは本文となる判決文もどきとセットでなくてはならない。

判決
クリース判事

 事実関係について争いはない。九月三十日朝、村内を駆け回っていたスポットなる犬がノーフォーク&ピー・ディー鉄道停車場に隣接する広場の中央に位置するサイクロン7(セブン)なる鋼鉄製巨大彫刻の下に入り込み、出られなくなった。(p.164、括弧内は原文ルビ)

犬を助けるために彫刻の一部を地元自治体の決定で取り壊そうとしたところ、メディアで騒ぎを知った彫刻作者の芸術家が差し止めを求めて訴えに出、その可否をめぐって原告被告の間でやり取りがあったその一連のいきさつを、判決文が語るというのがこの小説の全体像。

いかにもありそうな諍いを、小説のことばをいったん棚上げして法律のことばというフィルターを通すことによって現実がいかにも滑稽に見えてきます。主張を正当化するためにもってくる根拠もばかばかしければ、事件をかたる真面目くさったことばづかいもばかばかしい。たとえば彫刻にはまり込んで抜け出せなくなったスポットという犬について

また本件に関連して、サイクロン7は、地元共同体の多くの年少者らにとってはもともと装飾的「ジャングル・ジム」であったものの、サイクロン7を見たスポットがクライミング能力を試されていると感じたとは、スポット自身の証言がない限り、考えられない。(p.168)

と生真面目に書かれ、スポットがわざと彫刻に入り込んだことは当事者の証言がないので否定される(笑)

また、こういうメタフィクションらしさが前面にでた作風であるだけに、自己言及的な個所も笑えます。サイクロン7の芸術的価値について様々な批評家らのことばがその根拠になるかどうかについて

批評家らは、傾斜度、接平面度、加速度、強度、エネルギーなどの抽象的言辞を弄して原告の彫刻作品を推薦しているが、これらの抽象的言辞はそれに対応する言語と言語との自己言及的対立のみに寄与するものであり、結果として言語そのものを理論に還元することにより、言語を単なる玩具にしてしまうがゆえに、本法廷はこの証拠を取るに足りないものとみなす。(pp.169-70)

と、芸術批評のことばには死亡宣告が下されます。まあこのことばを判決文体で語っているこの作品じたいが小説として発表されているわけで、分かってやってる自爆になっちゃいましたが。

地元住民の証言もあります。

「ここは静かな町だったんだ。例の外国人がここにやって来て、あの(冒涜語)な(卑語)をおっ建てるまでは。あれ以来、(冒涜語)な屑連中が集まってくるし、よその州の車まで見かけるようになっちまった。」(p.170)

実にばかばかしい(笑)。

いかなる文体を採用すれば小説の領土は広がるか。これは永遠のテーマです。神話や民話を先祖にもち書簡や自伝、宮廷ゴシップのかたちで近代小説が生まれ、以降、文体・語りともにじつにさまざまな形式が試みられてきました。純文学畑でいえば丸谷才一の仕事を、それに限らなければSFの諸作品が思い当ります。法律文書をこうして生き生きと語る成功例がすでにあるのであれば、なにかまだ書かれずに残っている領域のことばもありそうな気がしますね。僕ごときではぱっと思いつけませんけど。

津村記久子「地獄」

出典:『文學界』2014年2月号
評価:★★☆☆☆

地獄もの、異界ものは文学にかぎらず古く、古くから様々に表象されてきたモチーフで、作家たちの創作意欲を刺激するところがあるのかもしれません。本作はこれら膨大な地獄表象の集積をまえに何か新しいものを付け加えているか。僕には特に見つけられませんでした。全体的に食いたりなかったです。

私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は三十四歳の時が一番業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。(p.11)

人が生きている間、業の深さが各年齢に区切られて測定されているんですかね。幼くして死んだ人とか業の深さはどれくらいなのか。どういう基準で業の深い浅いを測定するのか、そういう細かいところが僕なんかは気になってしまいます。たとえば妻に暴力振るって離婚した人の、そのあと元妻が幸せな再婚をして幸福な一生を終えたとすると、その男の業は深いのか浅いのか。蜘蛛を踏んで殺してしまった男は、その後もしその蜘蛛が生きていたら捕食したかもしれない蝶の命を救ったことにもなるわけで、その場合その男の業は深いのか浅いのか。僕なんかはこんな風にうだうだ考えてしまって、因果論や認識論に踏み込んでいく角度から現世の世界観を相対化できて面白そうな気もするんだけど、語り手にそのあたりへの関心はありません(笑)。

もう一点。語り手は温泉旅行からバスで帰る途中事故にあって地獄に来ます。その死ぬ間際の身の回りの情景、脇に置いておいたおせんべいの缶は「五十四枚入り」だったとかそれは「とても重かった」とかディティールが記憶として鮮明にのこっているのなら、「いくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない」こともないんじゃないですかね。杜撰さを感じました。

地獄を語る語彙に、現代的なビジネスシーンで使われるような言葉をもってきているところにギャップがあってそれなりに笑えはしましたが、この方法自体は使い古されてきたやりかたです。時事ネタを取り入れる大ネタの「地獄八景亡者戯」には「冥土教育委員会」とか三途の川の渡し船を「チャリティーシップ」とか火傷塚婆を「ぼったくりバーのクラブ火傷塚のママ」といったり。桂米朝がこの演目を復活させてから多数の演者が多様な時事ネタを取り入れています。

地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手いっぱい(p.11)

たとえるなら、日々の試練プログラムが定時までの仕事とすると、西園寺さん(地獄の鬼のこと──引用者注)の話を聞くのはサービス残業である(p.19)

毎日、おしゃべりに関するスタッツを出されるのだが、会話ポゼッション率が鬼である西園寺さんの方が高いというのはいかがなものかと注意を受けた(p.20)

という風で、使われている言葉ほどに、この語り方には目新しさはないんだなあ。

地獄でうける「試練プログラム」も、此岸世界にいる僕らでも受けられるようなぬるい責め苦で、その脱力アイディア(たとえば、母親が13歳の時に書いた長編小説を読まされる)自体には軽い笑いはあったものの、この発想も飲み会の雑談程度のアイディアといってしまいたいくらい安易というかくだらない。このくだらなさに笑いながら付き合える読者はきっとこの作品を楽しめるはずです。僕にはもっと他に読むべきものがあります。

平野啓一郎「透明な迷路」

出典:『新潮』2014年2月号
評価:★★★☆☆

新潮社の推す書き手のなかで、僕が面白いとちっとも思わない三大書き手は、古川日出男、佐藤友哉、平野啓一郎。純文学雑誌に作品の掲載される書き手でいえばこの三人は他よりもきっと売上は悪くないはずなのでそれぞれにフィットする層がいるのだろうと推測します。前二者は読んでくそ面白くないと絶叫すること再三再四だったので僕にとっては今や題名だけのライターと化しています。けれど平野敬一郎だけは作品の背後にインスピレーションを受けた小説、映画、芸術作品や、素材となった資料の痕跡が感じられるので、作品に取り組むその真摯な姿勢から「今までは面白くなかったけど、今回はもしかすると面白いかもしれない」という期待を捨てきれず、なんだかんだで読んではいます。読んではいるのだけど読後はきまって「うーんいまいち」とか「うーん普通」という感想に着地します。このソリの合わなさをもやもやしつつ考えてみても一向に納得のいく説明はつきません(笑)。

今回読んだ「透明な迷宮」も、とりたてて悪いとは思わないものの、目次の煽り文句「著者最高傑作短篇」というほどのものかなあと疑問は残ります。ちなみに雑誌新潮のツイッターでは「著者最高傑短篇」という脱字で告知されています。ケツ短編!

作品の構成は短編として面白く読めました。双子ネタも手垢にまみれているとはいえ素直な驚きがありました。けれど不満を覚えたところも少なからずあります。まず作品冒頭

 その天井の高い、黒一色の部屋で、彼らは全員、全裸で蹲っていた。男女六人ずつ計十二人がいて、日本人は岡田とミサだった。(p.8)

と特異な状況が読者の目に飛び込んできて一気に作品に引き込まれます。

部屋の壁は、薄いレザーのような光沢の黒に覆われている。やはりネオ・バロック調の白い大きな鏡があり(中略──引用者)一枚だけ、部屋の中央に濃紺の絨毯が敷かれているが、誰も近づこうとはしなかった。(p.8)

と部屋の内装の説明が続きます。ここで僕は「?」となりました。第一文目で「黒一色」といっておきながら、調度の色は「白」だったり「濃紺」だったりして、黒以外も使われています。ここまで読んできても同じ状況を説明しているはずなのですが、記述が矛盾していてよくわかりません。意図的だとすれば、同じ部屋に見せかけられた、その実よく似た別々の部屋(もしくは同一の部屋でも時間を隔てた部屋)かもしれない、と思って警戒してそのあとを読んでいきました。結局同じ部屋なんですよね、これ。書き手が迂闊なだけです。作品の初めくらいは気を使ってほしいものです。

また作中で使われる単語は「そこまで細かい情報必要か?」と思わせる記述で読み進めるときのノイズになっています。この作品は三人称岡田視点であるので、語り手が全面に突出してしまうととたんに語り手とほぼ重なるかたちで平野啓一郎が読者の脳裏をよぎります。いちいち引っかかる。たとえば、

取引先で教えてもらった、レヒネル・エデンによる独特のアール・ヌーヴォー様式が美しい郵便貯金局(p.9)

ハンガリー語は、インド・ヨーロッパ語族ではなく、ウラル語族のフィン・ウゴル語派に属しているらしいが(p.10)

EUのシェンゲン協定加盟国には、「最初の入域の日から6か月のうち最大3か月の間」しか滞在できないという決まりがあり(p.11)

という感じ。読み手の共通理解としてレヒネル・エデンやフィン・ウゴル語派やシェンゲン協定が当たり前だとはちょっと思えません。平野啓一郎が、これらの単語を読んだだけで「ああ、あれね」と了解できるようなレベルの読み手に向けてこの作品を書いているのならそれはそれで構わないと思います。これらの単語がどんなもの、人、事柄を意味しているのかイメージできない層は確実に作品世界から疎外されていくはずです。

一回ごとに、BGMが指定された。シュールホフやウルマンの弦楽四重奏曲、それに、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》を岡田は覚えていた。タキシードの男がショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲第十一番のスケルツォを指定した時だけは、なぜか見物人全員が吹き出して、しばらくハンガリー語で何かを議論していた。(p.14)

メシアンやショスタコはまだしも、読者の頭の中でシュールホフやウルマンは鳴ったでしょうか?いや、これもシュールホフやウルマンの弦楽四重奏と聞いて「ああ、あれね」と分かる読者に向けて書いているのなら問題ないです。

ちなみにウルマンの弦楽四重奏三番はこんな感じ。好きな曲です。
Eufonia String Quartet - Viktor Ullmann - Quartet No. 3】(注意:音が出ます!)

これらの引用部をはじめ、本作でつかわれていることばは全体的に小説のことばというより、単なる情報断片のコラージュあるいは説明になっている部分が多かったように思います。手元に辞書とインターネットにつながったパソコンがあれば楽しめる小説でした。平野啓一郎は小説というよりは、評論とか作品解説とか書評のほうが向いている気がするのは僕だけでしょうか。

(追記)突然降ってわいたように納得できたのは、この作品の読者として想定されているのは、2014年時点の今この作品を文芸誌上で読む日本語母語読者ではなくて、それよりも後々もし「透明な迷宮」が外国語に訳されることがあるとすれば、その時点でこの本をヨーロッパ諸語で読むことになる、ヨーロッパ在住のまだ見ぬヨーロッパ諸母語読者だということ。そう考えると僕にはトリビアに思えた部分のいちいちも断然「アリ」だと腑に落ちました。小説界のグローバル人材平野啓一郎!

小説を読む人のための100冊(2014年版)

リスト作成にはリスト漏れがつきもので、欠落を見つけるたびにリスト更新する弥縫策によってなんとかリストをその時点その時点で「まし」な状態にとどめておくことが作り手のせめてもの良心なのかもしれません。というわけで、2013年初めに記事にした「小説を読む人のための100冊」リストは、作成後しばらくは入れ忘れや、同一作家の作品でもよりいい作品が見つかった際にはその都度書き直し修正をしていたんですが、次第にめんどくさくなり(笑)、いっそ2014年の時点で一気に更新するのがよかろうと一人合点、よって今回の記事を書いているという運びになります。

リスト入り基準は2013年のときと同じです。

  ・比較的手に入りやすいもの
  ・現代の読者にとって読む意義のあるもの
  ・読んで触発されるもの
  ・読んで楽しいもの
  ・再読したくなるもの
  ・これから深く本を読んでみようかなと思っている人にむけたもの

という感じ。2013年版のリストに、入れ忘れたものや、2013年中に読んで面白さを(再)発見したものなどを加えて新たに100冊リストを作成したのが2014年版。14年版になるにあたって脱落したものは、新規リスト入りした作品に劣るというわけでは必ずしもなく、なんとなくです(笑)。2015年版がもし仮にあるならカムバックする作品もきっとある。また単著のタイトルであるかどうかは無視して作品名はすべて二重鍵括弧(『』)でくくってあります。


◆除外
・石坂洋次郎『青い山脈』
・武田泰淳『ひかりごけ』
・中上健次『枯木灘』
・中原昌也『あらゆる場所に花束が……』
・百田尚樹『永遠の0』
・松浦寿輝『不可能』
・吉屋信子『花物語』
・トルストイ『アンナ・カレーニナ』
・ロンゴス『ダフニスとクロエー』

◆追加
・荻世いをら『宦官への授業』:感想は過去記事参照
・鶴川健吉『すなまわり』 :過去記事参照
・花田清輝『群猿図』 :戦国時代と学生運動の時代とを「猿」で重ねるレトリックは絶品です。「群猿図」単独なら岩波文庫の『日本近代短篇小説選昭和篇3』、「群猿図」含む連載全部の『鳥獣戯話』なら講談社文芸文庫版で。
・北条民雄『いのちの初夜』 :リストに私小説らしい作品を忘れていたのでこの作品を。
・山田風太郎『太陽黒点』 :山風先生ファンとしては痛恨のリスト入れ忘れ。忍者もの以外ならまずこれ。
・エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』:へっぽこ英雄が活躍する(しない)神話。岩波文庫版なら多和田葉子の解説つき。
・クッツェー『鉄の時代』 :2013年に読みました。初期作品は理に落ちる感じがしていまいち好きじゃなかったのですがこの作品には知的なポエジーがあふれていて忘れられない一冊になりました。
・ラブレー『ガルガンチュア』:入れ忘れ。大きいのはいいことだ!
・ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』 :入れ忘れ。古いものこそ新しい!サルバドール・プラセンシア『紙の民』とはたしてどちらが新しい小説でしょうか。

◆更新
・木下古栗『新しい極刑』 :過去記事参照
・吉村萬壱『ボラード病』:過去記事参照
・フランツ・カフカ『断食芸人』:文学史的には『変身』や『審判』『城』なのだけれど今読み返すならこれ。アメトークは関係なし。
・フローベール『ボヴァリー夫人』:僕は断然『感情教育』のほうを面白く読みますが2014年は『ボヴァリー夫人』の年ですね。
・リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』:将棋において現役A級棋士がコンピュータに敗北した2013年。日本屈指の詰将棋作家の訳で「小説の文章を作成する人工知能」開発のフィクションを読むのはタイムリーです。星新一賞を人工知能が獲得する日も遠くないかもしれません。


というわけで2014年版の100冊リストです。ご笑覧ください。

芦原すなお『青春デンデケデケデケ』
阿部和重『シンセミア』
安部公房『他人の顔』
池澤夏樹『静かな大地』
石川淳『紫苑物語』
いとうせいこう『想像ラジオ』
泉鏡花『高野聖』
絲山秋子『妻の超然』
井上ひさし『吉里吉里人』
今村夏子『こちらあみ子』
岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』
江戸川乱歩『盲獣』
円地文子『女坂』
円城塔『松ノ枝の記』
大江健三郎『万延元年のフットボール』
大岡昇平『野火』
岡本かの子『老妓抄』
荻世いをら『宦官への授業』
織田作之助『夫婦善哉』
開高健『日本三文オペラ』
梶井基次郎『檸檬』
金井美恵子『柔らかい土をふんで、』
川上未映子『ヘヴン』
川端康成『眠れる美女』
木下古栗『新しい極刑』
桐野夏生『残虐記』
小島信夫『抱擁家族』
後藤明生『挟み撃ち』
小松左京『日本沈没』
司馬遼太郎『燃えよ剣』
島尾敏雄『魚雷艇学生』
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』
諏訪哲史『アサッテの人』
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
太宰治『斜陽』
谷崎潤一郎『細雪』
多和田葉子『飛魂』
鶴川健吉『すなまわり』
中島敦『文字禍』
夏目漱石『吾輩は猫である』
野上弥生子『秀吉と利休』
野坂昭如『エロ事師たち』
花田清輝『群猿図』
林芙美子『放浪記』
深沢七郎『楢山節考』
二葉亭四迷『平凡』
北条民雄『いのちの初夜』
舞城王太郎『煙か土か食いもの』
町田康『くっすん大黒』
丸岡大介『カメレオン狂のための戦争学習帳』
丸谷才一『輝く日の宮』
三島由紀夫『豊饒の海』
水村美苗『本格小説』
宮部みゆき『模倣犯』
村上春樹『ノルウェイの森』
村上龍『限りなく透明に近いブルー』
モブ・ノリオ『介護入門』
森鴎外『牛鍋』
森見登美彦『太陽の塔』
安岡章太郎『海辺の光景』
山田風太郎『太陽黒点』
吉村萬壱『ボラード病』

アゴタ・クリストフ『悪童日記』
インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』
エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』
エミリ・ブロンテ『嵐が丘』
カート・ヴォネガット『スローターハウス5』
ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』
ゴーゴリ『鼻』
サルバドール・プラセンシア『紙の民』
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
ジュール・ヴェルヌ『海底二万マイル』
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』
ジョン・アップダイク『クーデタ』
ジョン・マクスウェル・クッツェー『鉄の時代』
スタンダール『赤と黒』
セルバンテス『ドンキホーテ』
ドストエフスキー『罪と罰』
トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』
トマス・マン『魔の山』
トルーマン・カポーティ『冷血』
ハーマン・メルヴィル『白鯨』
フランツ・カフカ『断食芸人』
フランシス・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
ホメロス『オデュッセイア』(松平千秋の訳で)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』
マーク・トゥエイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
ミシェル・ビュトール『心変わり』
ラブレー『ガルガンチュア』
リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』


2014年もよろしくお願いいたします。皆様にとって忘れられぬ作品に巡りあえる一年でありますように!
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

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