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藤沢周「寿」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

いきおい名前の尻尾に「平(へい)」をつけたくなる藤沢周の、僕のなかでのベストはなんといっても「ブエノスアイレス午前零時」でそれ以外はどれも面白くなかったのでこれまであまり意識して読んでいませんでした。そして本作「寿」も、やっぱ面白くない。横浜の産業貿易センタービル二階にパスポートの切替申請にきた男が、証明写真に写った自分の顔に落胆し、そのまま中華街の人混みに歩いていくという話。文章は意図的に読みにくくしているのかささっと読める書き方ではないものの、これも僕には「超遅れてきた新感覚派」とでもいおうか、今更感がありました。語り手(書き手)はオシャレしているつもりなんだろうけれど、それ一昨年の冬のコレクションの服ですよとそっと耳打ちしたくなる二周遅れの文体。一般人の僕は平気で二年前の服を着ますけどプロの作家がこういうの書いてもなあと思うのです。うーん、僕が読めてないだけなんでしょうか(3回読み返しました)。

繁華街特有の人で混雑する雰囲気をこの文体でやってみたのかもしれないですね。ごったがえす歩行者天国に入っていくと自分の意志で歩くというより、周りの人の流れに乗って歩かされるあの感じ。文章の読みを歩行にたとえるなら、先に進みたいのに引っかかって引っかかって進めない、読みの歩みを遅延させる文章です。だけど面白くない(笑)。

 天津甘栗を焼く黒い小石の波が執拗にうねっているかと思うと、小さく薄い器に入れられた烏龍茶が盆にいくつものって、観光客の肘やダウンジャケットに触れて零れている。中華肉まんの奔放なほどの甘い湯気がこちらの顔を乱暴に撫で、チープな金と赤の提灯が乱れ揺れる。(p.151)

三国志新館、重慶茶樓、重慶飯店、華正樓……。ラードとニンニクのにおいがあふれ、大振りのシューマイ用の蒸籠が大笑いして湯気を吐く。(p.151)


中華街を歩くこの男はひたすら自分の周りを描写していきます。看板、露天、店の前の人たち、音、におい。様々なものがごった返しているのは分かるのだけど、適度にリーダブルなので、言葉をいろいろいじっているにしても物足りなさが残りました。かといってほとんどの人が読めないようなダダ詩みたいな仕方で中華街の描写をしてしまうとそれはそれで読者は文句言いそうだし(「もっとわかりやすくかけ!」)、バランスのとり方が難しいですね。さらにいえば書き手の側だけでなく読み手の読書量とか好みにもかなり左右されるところであるはずで、となればこの作品に描かれた中華街の混雑具合と相性ピッタリの、「情景がありありと目裏に浮かぶようだ!」といって楽しみながら読み進める人もいるはずです、とフォローしておきます。僕にはつまらんかった。

つまらなさの一因として、目に見えたものをそのまま並列して書くだけの個所がちょこちょこ出てきたこともあります。

大新園、三和楼、聚英、清風楼……。(p.152)

白い矩形の看板灯が並ぶ。縦だったり、横だったりして、高砂荘、暁荘、六国荘、桜会館……。(p.155)

大吉、琴、初音、スナックてっぺん、めぐみ、福娘、味自慢。日本酒の広告入り看板もある。(p.155)

本作を片手に横浜中華街を歩いていけば、書かれてある順に店の看板が目につくのかもしれません。一度も横浜中華街に行ったこともなくいく予定もない僕にとって、この羅列は単なる文字でしかなく、何のイメージも、感情も喚起させません。中華街大好きな人くらいじゃないかなあ、このくだり楽しいの。それにどうせ中華街を歩くにしても、無味乾燥な「寿」よりは、観光案内本を持っていったほうが何十倍も楽しいはずですし。いったい何がしたかったんでしょうね、とにかく僕は読めませんでした(笑)。

男は最後に大衆居酒屋に入り酒と肴をやりはじめます。本作で唯一よかったのは、男が温やっこを食べる場面。

電子レンジでチンして、かつおぶしだけのせた温やっこ。だが、七味唐辛子を振って、備え付けのプラスチックの箸で一口やったら、熱いッ、と思っているうちに喉を焼くように滑って、すきっ腹に沁みるような美味さだった。(p.156)

ここを読んだ僕の喉は、辛さと熱さと、温やっこのとろとろした感じを味わい、僕の胃にも熱い塊が落ちましたもん。けれどその次の熱燗を飲む場面になると週刊誌のグルメ評じみていて、温やっこのリアルさはすぐに吹き飛んでしまいました。

安酒には違いないが、熱燗も思った以上に親しみやすい味だった。カツンと尖って辛いのに、鼻に抜けると丸い甘味が漂って気持ちをなだめる。(p.156)

「外はカリカリなのに中はふわふわ」と同等のクリシェ感。残念でした。

結局、ちょっと変わった文体を除くと男が中華街を歩くだけの話、といって文体も別にたいしたことはない半端な作品でした。ここで、辺見庸の「アプザイレン」を読んだときに書いた「やっぱり芥川賞作家は偉大だなあ」は訂正されねばなりません。芥川賞作家とはいえさまざまだ!
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辺見庸「アプザイレン」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★★☆

石原対談もさることながら『文學界』3月号は執筆陣も豪華で、今月の文芸誌のうちからどれか一冊だけ買うとすれば本誌じゃないでしょうか。歴代芥川賞の受賞者たち(抜けている人もいます)が短編競作かエッセイを寄稿しており目次を眺めるだけで壮観。ひと月で全部読みきってしまうにはもったいないほど内容、量ともに充実の、少しづつ堪能したい保存版もしくは転売用の一冊に仕上がっています。

そんな中から、辺見庸の「アプザイレン」。星4つとしたけれど、5つでもいいかもしれない(あとで変更するかもしれません)。迷いました。アプザイレンとはロープと下降器をつかって岩場など高い場所から下降する技術で、原語はドイツ語のアプザイレン(Abseilen)、日本語訳では懸垂下降というのだそうです。SWATのような特殊火器で武装した戦術部隊がビルの屋上からロープで下降し、悪者たちの秘密会議室へ窓ガラス蹴破り突入するときの、あの滑降をイメージすれば、アプザイレンということばに全く馴染みない人でも、容易に「ああ、あれね」と想像つくと思います。もっとも本作は山の話でもなければ警察アクションでもなく、よくわからないところから語りおこされます。

 かれはふかい水のなかにいる心地がした。そうおもいたかっただけなのかもしれないが。からだがおもい。空気もすっきりと透明ではなく、かすみがかったようになっているのはなぜなのだろう。光の屈折率がちがうのか、ここは明るいのに、そこはかとなく昏い。それに、あるべき影がどうも見えない。ひとりびとりが、おどろくべきことには……といっても、ここではおどろくべきことなんかなにもないのだが……それぞれの影をひきずっていない。ひとじしんが影と化したようなのだ。うすく漉した餡の色の影に。ひとりびとりの本体が、すでに影にのまれたからだろうか。どうりで影は影をひきずっていない。いつからか難聴になったようだ。音が遠い。(p.88)

一文目で「かれ」と呼ばれている存在の意識に、知らぬ間に語りが同調して、第二文、第三文目までにはすっかり一人称の語りに意識が浸透してしまいます。計算なくこんなことやられると技術未熟で一蹴されるはずですが、この、漢字をひらいてひらがなで綴られているビジュアルには、混沌のただなかに居るような、意識のはっきりしない「昏さ」あるいは「蒙さ」が胚胎しており、まだしばらく先が知りたい気にさせられます。意識が流動しているどころか人と影との境界も曖昧になって同化してさえいる。聴覚も聞こえているのか聞こえていないのかわからない、といってもちろん佐村河内氏など一切関係なく、人の意識や間隔が周囲に浸透、溶解していくような語りがまだしばらく続きます。昏い意識の底に流れ沈みこむようなことばに僕は松浦寿輝『吃水都市』を思いだしました。

以降も続くこの意識のはっきりしなさの裏には、ひとつに視覚(描写)の抑制=他の感覚(描写)の促進があります(とりわけ聴覚)。加えて、誰だかわからない語り手の記憶も前後します。そして過去を想起するなかでも唄の文句が出てくる。

あたまのなかをだな、唄でいっぱいにするんだよ。ほかのことをぜんぶしめだすのさ。くりかえしてうたっているとだな、終わってるんだ。CMソングなんか意外といい。どんなCMソングですか? あほ、じぶんでさがせ。せんぱい、おねがいです、ヒントだけでも。ふーむ、たとえばだな、カムカム・チンカム・チムカントム……。なんすか、それ? ミカン・チンカム・タケノカム・コメノモタセニャ・パタラケヌ……ってだな、五番まであたまのなかでうたう。すなおにな、なんでもおもいついたのを、すなおに、いっしょうけんめいうたうのさ。そのうちにな、みんな終わってる。(p.89)

時間を過去に飛ばしてさらにそのなかで先輩がわけのわからない唱歌の文句をリフレインする。読み手の意識も、ミニマルミュージックかお経でも聞いているように酩酊してきます。そして先輩がいうように唄をあたまのなかで歌っているうちに「何か」が終わっているのだと助言されている。しかし「何か」は語り手と先輩との間で了解されているだけで読み手には明かされません。

かれはおもった。「上」と「下」について。というか、上から落ちていくのと、下に落ちてくる、そのちがいについて。じつは、もうなんどか、くりかえし、かんがえはしたのである。〈落ちる身〉になっておもったのではない。そんな余裕など、すこしだけしか、いや、ほとんど、あるいはまったくなかった。それでよいのだ。じょうだんではない。〈落ちる身〉になってはいけない。ここの、それがぜったいのきまりだ。かれはもっぱら〈落ちる者を見る身〉になって、落下ということを、下からイメージしたのであった。(p.91、強調部は原文傍点)

「かれ」は上から何かが落ちてくるのを見る者であるようです。そして「ここ」では〈落ちる身〉にならないよう戒められてもいる。ここからまた、「かれ」の学生時代、ワンゲル部で経験した懸垂下降の体験が想起され、やがてまた「ここ」へと意識が戻ってくると、自分の身体器官が発生させるかすかな音までが感じられるようになります。ここでも極度に聴覚が敏感になっている。

このあたりから読み手もなんとなく感づいてきます。大臣がこの「落体」を視察しにやってきたときのエピソードが語られ、「落体」を執行した人々は大臣にたいして「まことに厳粛でした」「粛々ととりおこなわれました」とコメントする(p.95)というあたりでやっと、この作品で語られているのは絞首刑執行の状況、そして「かれ」とはその執行のボタンを押す刑吏のひとりなのだと知れます。

冒頭から視覚描写が抑え気味であったのも、「かれ」が見たくない情景が繰り広げられているからです。それに代わって耳は、重要な公務中であるため耳栓などするわけにもいかず、いやがおうにも音の侵入を許してしまう。これまでの語りは、目をそらそすと視覚のぶんの欠落を補うように聴覚が敏くなってしまうことの表現だったわけですね。自分の舌や腸が発生させるかすかな音まで聴取してしまう。自らの体内に耳を澄ますことはやがて自らの過去の体験へと横滑り、それでも結局、絞首刑を連想させるような、職場の先輩との会話や、学生時代の懸垂下降のエピソードが蘇ってきてしまう。読み手がこのことに気づいたところで、これまでのなにげなく語られていた細部を読み返してみれば、

ゆりかごのうえでゆれるビワの実(p.91)

ネクタイのむすびをいつものプレーンノットからダブルノットにかえて、きつく絞め(p.94)

物体の自由落下運動は、鉛直方向の下むき一定の重力加速度gで加速される、などと、お立ち台に立つだれがおもい、だれがそのような「落体の法則」をおのれの目でかくにんしようとするであろうか。(pp.94-5)

など、どれも絞首刑と響きあうものばかりで埋め尽くされていたことがあらためて了解されます。ビワの実は人体の頭部に変じ、ネクタイの結び目は受刑者の首に食い込み、「落下の法則」ではなく「落体の法則」とわざわざ表記される。これ以降最後にいたるまで、さらに絞首刑がさまざまな「落下」や「懸垂」にかかわることばやイメージと響きあって、読み手のイマジネーションを刺激してやみません。「落下」や「落体」も、この語りが続いている刑場から(読者の頭のなかで)しだいに遊離し、罪を犯して身を落とすことへもつながっていく。作品の最後の最後、刑が執行されこもりうたのなかで永遠の眠り=死が到来するまで、一句たりともゆるがせにできない散文詩、あるいは極上の短編小説でした。短編でこんな作品が書けるのだからやっぱり芥川賞作家は偉大だなあ。

石原慎太郎×中森明夫「芥川賞と私のパラドクシカルな関係」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

このブログでは小説しか扱ってこなかったんですが今回芥川賞・直木賞がともに第150回を迎えておめでたいということで例外的に対談をとりあげます。文芸誌の対談といっても、数十年前みたいに対談者たちが一触即発になったり、互いの立場をかたくなに譲らず侃侃諤々になったりするおもしろ対談は今やほとんど見かけません。変わって目に付く対談といえば、連載終了で新刊本を出した著者同士が気持ち悪い褒め合いをするとか、あるいは新たに受賞した書き手の人物紹介&オメデトウ対談みたいなものだったりで、ほとんど読むべき内容と価値がありません。そんななかで販促活動とは関係ない対談がこうして掲載されれば面白くなるに違いない。もっとも、中森×石原対談に僕が付け加えるところは特になく(対談そのものが十分面白い)、興味のある方はご覧になってみてくださいという紹介の意味合いで以下、取り上げるわけですが。

各所で語られているように芥川賞はもとから世間一般の耳目を集めるような賞ではなくて、石原慎太郎「太陽の季節」の受賞を境目にマスコミに注目されるような賞となった歴史があります。また石原慎太郎自身が長きにわたり芥川賞の選考委員(ちなみに銓衡の字をやめたのはいつごろからでしょうか、2014年3月号『文學界』紙面でも「選考」になってるのでこれは文藝春秋公認の表記なんでしょうね)を務めていたこともあってその周辺のこぼれ話が満載。もっとも芥川賞ウォッチャーのような人や文学史に詳しい人にとっては当たり前の話ばかりなのかもしれません。とはいえ文学賞にほぼ興味のない、かつ半可通の僕にとってはわりに面白い対談でした。

以下、面白かったところ、なるほどなあと感心したところを抜書きしておきます。

石原 (前略──引用者)ただ、僕がしみじみ思うのはね、日本の社会ってのは、著名な政治家がいい小説を書くことを許さないね。そういう点で非常に不寛容というか、料簡の狭い社会だと思いますね。僕は本名で政治家をやってるし、小説を書くときにペンネームで出るつもりもなかった。けれど、ある時非常に密度の濃い作品集を出したんだが、たまたま金丸問題があって、同じ自民党ということでまったく一顧も与えられなかった。一行も書評が出なかったな。世の中ってこういうものだなと思ったね。(pp.408-9)

たしかに作家でかつ政治家という人は石原慎太郎くらいしかぱっと思いつきません。新書類なら幹事長、大臣クラス以上の経験者の名前で出ているものがあるにせよ、それらはゴーストライターが代筆してるんでしょうしね。ただ石原慎太郎のいうように日本の社会が不寛容だから政治家は小説を書かないというよりは、政治家になりたがる、かつなれるポジションにいる人はそもそも小説を書こうなんて思わない気がします(笑)。小説を書く政治家が出てくれば出版不況も少しは……いや、あんまかわらないか。

中森 石原さんは芥川賞を取って有名になったと思われていますが、それまではすごく地味な賞だったそうですね。
石原 それはとても面白い関係で、パラドクシカルなものでね。つまり、それまで文学、小説ってのは、非社会的な人間の手立てでしかなかった。象徴的なのは『人間失格』の太宰治で、物書きはそういう偏見で見られていたと思うんです。芥川賞ってのにどれだけの権威があったのか知らないけど、とにかく「太陽の季節」が取ったってことで、小説そのものが社会的にクオリファイされたんですね。不遜な言い方をすると、俺のおかげで芥川賞は有名になったんだ(笑)。(p.410)

パラドクシカル(笑)。クオリファイ(笑)。

石原 (前略──引用者)青春のピュリティだけが浮き上がってきたんだな。(p.410)

ピュリティ(笑)。いや、英語にいちいち反応しているときりがないのですが、面白いものは面白い。対談のタイトルに「パラドクシカル」の一節を引いているように編集部もたぶん慎太郎いじりしたくてしょうがないのだろうと推測します。にしても石原慎太郎の話の中にちょいちょい英語が混じってくるのは何なんでしょうね。旧制高校生へのリスペクトがあるならドイツ語になるんだろうけれどそれともまた違う感じ。

また、三島由紀夫について。

石原 最後のほうはちょっとあの人おかしかったけど、最初の対談は、出来が悪いゼミナリステンに教授が付き合ってくれているようなものでした。こっちのほうは、なんかちょっと忌々しいぐらい幼稚なんだ。
 ただ、三島さんが、一九六〇年に筑摩書房から出た僕の選集に書いてくれた評論は、すごくいいんです。そこで三島さんは、石原が初めて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた、と言っているの。戦前はその知的なるものを侮蔑したのは軍人だったけれども、初めて作家が既存の文壇にその侮蔑を突きつけ、文学に知性の内乱が起こった、と。あの人は僕が政治家になるのを、その時すでに予感していたんじゃないかなって気がするんです。このまえ、久しぶりにあれを自分の書庫で読み返したら、なんかとても懐かしくて、嬉しくて、涙が出たな。この人、本当に俺のことわかってくれていたんだなあと思えて。(p.412)

三島の解釈も分かりやすいといえばわかりやすい、分かりやすすぎるのでもうちょっとうがった見方をしてみると、石原慎太郎が侮蔑を示したのは「知的なもの」そのものではなくて、「知的なものに対する憧れ」ではなかったか。

芥川賞選考会について。

中森 侃々諤々やるんですか、選考会は。
石原 やりますね。まあ、飯食って、酒飲みながらやるんだけどもね。僕は、候補者たちに陪席させて、俺たちの議論を聞かせたらどうだって言ったことがあるけど、そうはいかないっていうんですよ。そのほうが彼らのためになると思うけどね。(p.414)

いやー、これをぜひ実現したあと退任していただきたかった。「そうはいかない」と反対した小心者は誰でしょうか。もしニコニコ生放送で実況中継されるならブラウザの覗き窓から俗物根性に輝く眼で窃視したいもんですが、そうなんでもかんでも公開してしまうと失われてしまうものもあるはずなので、間をとってせめて候補者さんたちの陪席は実現してほしかったよ、慎太郎!

皇室について。

石原 いや、皇室にはあまり興味ないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。「わがひのもとは」って歌うの。みんなちょっと、振り返るんだけどね。(p.417)

ネトウヨ発狂wwwww、はしないとしてもこれは意外でした。橋本大阪市長とは意見一致してなさげな感じですね。まあ大阪のことには興味ないのでどうでもいいですが。僕の中の週刊誌的な興味が刺激された発言でした。

墓碑銘について。

中森 僕は解説に、「石原愼太郎の墓碑銘」というタイトルをつけました。村上春樹さんは、自分の墓碑銘は「ランナー」にしてほしいと書かれています。「作家(そしてランナー)/少なくとも最後まで歩かなかった」って。石原さんなら、何と書かれますか。
石原 「ユリシーズ」。
中森 わあ、かっこいいですね。ところで、村上春樹なんて読まれますか。(p.419)

このくだりが僕にとって一番印象深いやりとりです。村上春樹の、もう村上春樹的としか言えない墓碑銘の紹介の後、石原慎太郎が自らの墓碑銘にこともあろうに「ユリシーズ」と言い放ち、それを受けて中森明夫は「わあ、かっこいいですね(棒)。ところで、」と速攻で話題を転換するという(笑)。ぜんぜんかっこいいっておもってないだろ、中森明夫(笑)!

僕にとって面白かったところ、感心したところを抜き出してきましたがもちろんこれはごく一部です。100人読めば100通りに石原慎太郎と芥川賞の歴史が読み取れることだと思います。人間、石原慎太郎、81歳。やんちゃなオデュッセウスとして、湘南の海をスタートし創作活動と政治活動で日本列島全体どころか、その端っこの尖閣諸島までを巻き込んで最後は再び湘南の海に帰還する……かどうかは知りませんがとにかく、生涯かけて壮大な冒険叙事詩をみごと完結させてほしいと思います。

(追記)政治家かつ小説家として、野坂昭如先生がいたじゃないですか!!!

エトガル・ケレット/母袋夏生訳「創作」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★★☆☆

エトガル・ケレットは本作と併載されている訳者解説によれば、1967年テルアビブ生まれの超短編作家で、小説のほかに絵本、映像、コミック原作も手掛けている方だそうです。

大御所のアモス・オズやD・グロスマン、ホロコースト作家のアッペルフェルドは別格として、いまいちばん、世界で売れっ子のイスラエル作家である。(p.114)

とのこと。いろいろ例外を設けたうえで無理くり「いちばん」売れっ子の座に座らされた感のある紹介文(笑)。最近ユダヤ人作家や旧約聖書に関心を持ちはじめていたところだったので僕個人にとってタイムリーな作品ではありました。個人的な事情を抜きにしても本作の掲載はタイムリーというか、半ば宣伝を兼ねてというところもあるんでしょうけれど、エトガル・ケレットは東京国際文芸フェスティバル2014のゲストとしても出演予定の作家さんでもあります。リンクは以下。

【東京国際文芸フェスティバル】

2月28日からはじまるフェスには、エトガル・ケレットのほかにも、ジュノ・ディアスや西加奈子といった話題の作家も来る予定のようですね。詳細はサイトか直接事務局にお問い合わせを。

さて、本作はこんな風に

 マヤが書いた最初の物語は、人間が増殖を分裂でおこなう世界の話だった。そこでは、だれでも好きなときに分裂できて、元の年齢の半分になる。(p.108)

と不思議な世界の窓が開きます。といってもこの、人間が分裂増殖する世界の話がこれから語られる作品世界の中心になるのではなくって、ちゃんと「マヤが書いた最初の物語は」と導入部にあるように、この話は、「創作」という超短編のなかに挿入された作中作として紹介されているんですね。読者は作中作の嵌め込み窓から外に広がる非リアリズムの世界を覗き込むにとどめおかれます。

ちなみに何の説明もなく超短編、超短編いっていますがこれはエトガル・ケレットが使っていることばから忠実に訳したことばなんでしょうか、訳者解説にも

作品の短さに言及したインタビューでは、「超短編は詩に似た翻訳困難さを秘めている。ことば一つ、言いまわし一つがいろんな意味を持ったり、複雑に絡み合ったり、矛盾し合うこともある」と語っている。(p.114)

とあります。短編より短い作品は僕たちの手持ちのことばだと、掌編、あるいはショートショートといったりしていますがそれともまた違うニュアンスを出したいのかもしれません。ショートショートというと星新一のような、きれいな構造を持った物語が平易なことばで綴られてストンと落ちがつく小説を想定してしまいますが、超短編と自称する本作「創作」は、そういう一つの、いかにもまとまりのいい作品というよりは、分量的にはたしかに短いのだけれどそこから作品外にはみ出ようとする余韻のある作品となっています。この辺のところをさして「詩に似た」といっているのかもしれませんね。

短い分量ながら、作品の中には冒頭で紹介した作中作含めて、計四作の作中作がはめこまれています。二人の夫婦、マヤとアヴィアドがそれぞれ創作教室で書いた小説の断片が、二人の夫婦関係を暗示するつくりになっています。もっとも作中作の内容が二人の関係をそのままのかたちで反映しているかどうかは曖昧にされてはいますが。

妻のマヤは創作教室の上級クラスで作品を3つかき上げ、編集者にも紹介されるほどの評価を得ています(この編集者への紹介というのも、マヤの作品そのものの評価なのか、それとも講師の男性とマヤとの間になにか取引があってそうなったのかはぼかされています)。彼女の書いた作品は冒頭の人が分裂する話のほかに、愛している者の姿しか見えない世界の話、猫を産み落とした妊婦の話、など。読みもののアイディアとして成立してそうですが、どことなくマヤの身辺雑記を単に物語に変換したようで、安直さがあるなあと僕は思いました。だからこそ、編集者への紹介も、作品内容以外の事情があったのではと勘繰ってしまったわけです。

作品の出来でいえばむしろ、それまで小説じみたものなど書いたことなかった夫のアヴィアドが自動筆記で書いた、魔女によって人間にかえられた魚がビジネスで成功する話、のほうがよほど魅力的に思えました。

そして、ずいぶん年老いたある日、不動産ビジネスで上手に手に入れた、海沿いに建つ巨大なビル群の窓の一つから海をちらと見た。海を見て、不意に、自分が魚だったことを思い出した。世界の株式市場を動かす子会社をいくつも持つ資産家、だが、未だなお魚だった。塩辛い海の味を、何年も味わっていない魚。(p.110)

ビジネスで成功している魚、異界からやってきた存在(たいてい水の関係ある世界です)が現世で巨万の富を築きまた元の世界へと帰っていく、民話的な根っこを持っている話であると同時に、たとえば現代の作品でもラファティの「浜辺にて」なんかに通じる現代性を併せ持つ作品だと思えました。

分量的にはすぐ読めちゃいますが、読後、どうやっても全体像が完成しないパズルをああでもないこうでもないと組み合わせようと試行錯誤する楽しみを余韻としてのこしてくれる、膨らみのある超短編作品でした。

(追記)英語圏でいうFlash Fictionに相当する用語として、ここでは超短編ということばが使われているんですね。「創作」の原文はヘブライ語だそうなので、ヘブライ語ではまた別な言い方がなされているのかもしれません。僕らのサブカル大辞典ことウィキペディアにも【Flash Fiction】の項目立てはありますが用語としては掌編小説はじめ他の様々な呼び名とも重複していてどれくらい定着しているのかよく分かりません。見開きページに収まるお話がFlash Fictionに相当するようで、これは商業媒体や企業パンフレット、広告なんかにうってつけの形式に思えます。お金の集まる場所で隆盛する小説形式だ、と言い切ってしまうと極端でしょうか。

(追記)ケレットがワルシャワにオープンした細長い家を取材した動画があったのでご紹介。ご本人も登場して自分のルーツにも少し触れています。旧ユダヤ人ゲットーのあった場所にオープンしたことからもわかるようにユダヤ性を意識している作家なのですね。【世界で最も細い家? ワルシャワに登場】(注意:音が出ます!)

(追記)ケレット原作のショートフィルム。公開は2013年サンダンスフィルムフェスティバルの場で。シャレオツ!…な雰囲気はあるけれどコマーシャルフィルムかポップミュージックのPVじみていて映像作品としてはとりたてて何も感じませんでした(笑)。【WHAT DO WE HAVE IN OUR POCKETS?】(注意:音が出ます!)

内村薫風「パレード」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

『新潮』3月号は人造人間エヴァンゲリオンの初号機みたいな配色。それにあわせてというわけではないでしょうが、本作は、使徒…ならぬ国籍不明の兵士が日本に侵入して人を殺しまくるというヴァイオレンス作品です。純文学雑誌掲載作ならではの特徴といえばいいのか、さまざまな人物が死の直前に見聞したものをすべて「私」の視点から語っているというしかけがあります。「私」が殺され、その次にまた「私」が生きた人物としてしれっと出てくる。そこで読み手ははじめ若干の戸惑いを覚えるものの、「私」が死ぬたびに新たに登場する「私」は別人(あるいは別の意識を持った主体)なのだ、とからくりを理解してしまえば特に引っかかりを覚えるようなものではありません。

 故障ではなかった。テレビのチャンネルを変えたのは、二十三時になる少し前だ。広島カープの延長戦の結果を知るために、プロ野球ニュースを眺めていたところ、画面上部にニュース速報が表示された。解説者のコメントを耳で受け止めながら、私はスマートフォンに届いたばかりのメール、浮気相手の樹里が書いた、
──わたしの誕生日は一緒に過ごせる?
 の鬱陶しい念押しを読んでいたため、文字スーパーに視線を戻した時には文末の、
──警告を無視し、領土に侵入した。
 の文字を捕えるのがやっとだった。(p.88)

と、作品の入り口で読者も非常事態に突入したことが知らされます。その後、この浮気をしている男性の自宅に謎の兵士が侵入し、男性は射殺されます。

 その三時間後の県庁、一階エントランスに、私はいない。自宅に入り込んできた、迷彩服の兵士三人に自動小銃を連射され、その場で死亡したからだ。県庁のエントランスにいるのは、公立高校サッカー部に所属する高二の、私だ。(p.89)

最初の躓きの石があるとすればここですね。「私はいない」のところで、あれ?と思って、これは射殺された「私」が死後、その生前をふり返って語っているのかととりあえず納得する。そしてその次に「公立高校サッカー部に所属する高二の、「私」が出てきて、読み手は混乱します。

高二のときの私も、県庁で射殺される。(p.90)

ここにきて了解できるのは、「私」というのはそれぞれ別の人物(あるいは意識)なんだということ。高二のときに射殺されてしまった「私」がその後妻をめとって浮気するなんて時間の順序としておかしいですもんね。そしてこの仕掛けをひとたび納得してしまうと作品はとたんに退屈になります。この、「私」という同じ呼び名の器にさまざまな人(あるいは意識)を注ぎ込む方法をひたすらこなしていくことだけがこの作品の課題になったかのようで、話は進展していきません。同じところをぐるぐる回り続けて実に退屈です。

イデオロギー的に偏向したおもしろ資料は論外にしろ、実際の戦争体験の手記や記録映像はいまやいたるところでふれることができます。戦争を直接は経験せずとも、それらを見れば一発で「戦争は怖い」「殺されるのはいやだ」という感慨がわく。ヴァーチャルな体験ではあっても、皮膚が焼けただれてケロイドになっている人間、医者や看護婦が足りずに蠅のたかるまま放置される傷むき出しの少年少女の写真や映像からは思わず目をそむけてしまうものがあります。資料のある限り以下無限ループ。本作「パレード」の退屈さとは対極の、読み手の芯にがつんと響いてくる痛みが、実際の資料にはあります。

 タックルした二人の男は、見るからに堅気の男ではない。
(中略──引用者)
 戦争反対を叫ぶ、青白い男を殴りつけ、気絶させた上で服を脱がし、憲法九条改正を訴える青白い男をサンドバッグ代わりにした。人種差別のヘイトスピーチを行う集団に割って入り、片端から殴りつけ、それを動画に撮る通行人を殴りつけ、アフリカの子供たちにワクチンをあげようと寄付を集める者も殴りつけ、そこで転がった寄付金を拾う通行人を殴りつけた。拳の皮は破れては固まった。(p.99) 

ギャグで書いているならいいんです、この件に代表されるなんの痛みもない暴力場面もすんなりと納得できます。けれどギャグではない証拠に全く面白くない。痛くも痒くもない。読み手は殴られる側の痛みを全く感じることなくただ文字として「殴られた」のオンパレードを目にし、かといって殴る側の拳の皮が「破れては固まった」といわれてはいるけれどそれが何百回何千回繰り返されようと寸毫の痛痒を感じることもない。書かれてあるだけの退屈なト書きが、別々の「私」の死を終点にリピート再生される。単なる文字として「死」「殺」を目にするだけでなんも面白くありません。

一篇の小説としてなにか方法的に試してみたいことがあったのかもしれませんが人称を「私」に統一して語る手法自体さして目新しくもないし、といってそこで反復される死は全然読み手(少なくとも僕)には迫ってくるものはない。方法だけが突出した作品は安っぽいどころか、人の死を、こんなふうにテレビで放映してもまったく問題ないような無害化された日曜洋画劇場みたいなやり方で書いてしまえる鈍感さに、僕は呆れすら覚えました。全国のシネコンで上映される、そのくせ翌日にはほとんど誰の記憶にも残らないアクション映画の脚本でも書けばきっと需要あると思いますよ。

中上紀「赤いサリー」

出典:『すばる』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

国際結婚もの、と本作をひとことでまとめてしまうのは僕の語彙貧困と読み取り能力のなさを証しているとしても、それ以上の感想をこの作品に抱けなかったことは事実です。ネパール人男性と結婚した日本人女性が子供をもうけて日本で暮らすなか、子育てや家のことに非協力的な夫に不満たらふく。その一方義弟(ネパール人)にむしろ恋愛感情のようなものを抱きネパールの地で、日本での鬱々とした日常から解き放たれて一人の女に戻る瞬間を味わうというようなお話です。夫に不満を抱いている女性が読むと「そうそうこれこれ!」って我が意を得たりの共感を味わえる作品なんでしょうか。僕には別に意外性もなにもなく「まあ語り手がそういうんだからこんなもんだろうな」くらいにしか感じませんでした。

語り手の女性がネパール文化や当地のひとたちと接して味わう感情には、ネパールトリビアを知る楽しみはありました。読み手の僕としては、情報番組で外国の人の暮らしに「へえー」と感心するような感じです。別に小説として読まなくてもいいような情報。

 ネパールでは祝い事の際に縁起の良い金の装飾品を身に着けると聞いていたので、日本から十八金の繊細な鎖のハートのペンダントを持参していた。しかしそれは赤のサリーには合わないとあっさり却下された。代わりにバウズーが戸棚の引き出しから出してきたのは、毒々しいほどの黄金色に輝く太いチェーンのダイヤネックレスと、同じく毒々しい黄金色を土台にしたダイアピアスのセットだった。あまりの派手さに面喰っていると、金も宝石も偽物だから遠慮するなと言う。(p.71)

ふーん(笑)。ほかにもネパールの政情の不安定さなんかも紹介されておりこれもお昼の情報番組的なものにとどまっていて特に好奇心を刺激されるものでもありません。大使館情報とウィキペディアと当地を旅行した人のブログを見れば事足りるようなものであって、別に小説じゃなくてもかまいません。

本作のタイトルにある「赤いサリー」というのはサリーという女性名のことではなくて、民族衣装のあの布のことです。義弟の結婚式に列席するときに女性衆が身に着ける布の色は赤と決まっているとのこと。子育てやつれして気ぶっせいな日本の日常を灰色とするなら、つかの間ネパールに行って親族のハレの日を象徴するのがこの赤です。語り手の女性が赤いサリーを身に纏った自分の姿を後日、映像で見てみると、

 一瞬、誰だか判別できなかった。化粧をした女がそこには居た。ネパールの正装をし、結婚式のための装飾が施された玄関に立っている。紛れもない自分であるが、同時に知らない女であった。女は愁いを帯びた遠い目をし、その日の主役がまるで自分であるかのように赤いサリーを纏っている。(p.65)

上の部分を書き写しながら改めて気づいたんですが、語り手は、子育ての苦役にたえる自分が日常生活から疎外されている=脇役であると感じているんですね。だからサリーを纏った自分の姿のなかに充実を、ひとりの主役として別人になった存在を見いだしている。語り手にとって主役になるということは、夫の所有物になってこき使われる妻あるいは母としての存在とは真逆の、一人の「女」になること、性的に特定の男性には結びつけられていない状態の、何かをその先に選び取れる可能性に開かれた一個の女性となることに他なりません。これも、まああるあるなんだよなあ。

ネパールの美容室で髪を整えてもらっているときはこんな感じ。

それでも、美容室へ行って良かったと、思う。なぜなら、髪を洗ってもらっている時、誰のことも、何事も考えず、しみついた汚れや、傷ついた外側の部分をこそぎ落として、まっさらな存在になりたい、それだけを思うことができた。(p.90)

リゾート地のエステでリフレッシュ!というのと同じです。日本で夫との仲が悪いまま夫婦生活をしている人にとって、美容室で何も考えないで綺麗になれることが快につながるのはよく分かるものの、これも当たり前のあるあるですよね。

作品のクライマックスでは、国籍や言葉に関係なく披露宴の場でサリーの赤はじめ様々の色がまじりあう祝祭的なシーンが描かれます。これも教科書通りすぎます。宴の場というのはそういう場だろう、日常の規範が緩んで、集った人々がみんなでわっと盛り上がって親族や共同体の絆を確認しあう場、そしてさまざまの社会圏が交錯する場だろう、と。あたりまえのことを当たり前に書いていて何が面白いのか僕には理解不能でした。

こんないかにも作り物つくりものしたクライマックスよりも、この作品中唯一僕がいいなあと思えたのは次の場面。夫のネパールの実家(義理の兄弟夫婦もくらしている)に滞在している語り手が、夜更けになって帰宅する場面です。

家に帰ると家族のほとんどは就寝していた。寝室に行く前、マスター・ベッドルームのほうにちらと目をやる。固く閉じられたドアの向こうから、押し殺した男女の声が漏れ聞こえてこないかと耳を澄ませた。(p.91)

このくだりにだけ、僕は「リアル!!」とびっくりマークふたつ付きの書き込みをしています。他はどれもありきたりすぎて退屈な作品でした。

中原文夫「安川さんの教室」

出典:『すばる』2014年2月号
評価:★★★☆☆

書き手のことを全く知らなかったので『すばる』同号の著者一覧をみてみると、1949年生とあります。おじいさ……と口をすべらすと人によっては怒られそうなので年配の方、といいかえておきますが文芸誌に掲載される作家でいえば年齢が上なのは確か。Wikipedia情報だと、文藝春秋に勤務していた経験もあり現在は早稲田の非常勤講師という経歴の書き手です。そして本作を読むと確かにこれくらいの年にならないと書けないような、おじいさ……年配の方の生活がかもすリアリティがあって、読み手も若い人よりは、書き手に年齢が近い人のほうがよりいっそう本作を楽しめるのではないかと思いました。のっけからドッキリさせられます。

 私が安川さんの異変に気づいたのは、昼過ぎに自宅のはす向かいにある彼女の家に行き、小さな門の前に立った時だった。記名欄に「中西」と自署した回覧板を小脇にはさんでインターホンを押したが応答はなく、その時、門扉の柵を通して仰向けに横たわる安川さんのスカートが見えたのだ。(p.154)

近所に住む安川さんという初老の女性が倒れていたのを、「私」が玄関先にて発見するシーンです。僕なんかはまだ自分事としては心配してないのだけれど、「私」や安川さんに年齢の近い方が読むと、いつ自分が安川さんと同じ目にあうかわからないスリルがあるんじゃないでしょうか。という僕も別住まいの祖父が倒れたときがこんな感じだったので当時のことが思い出されドキドキしました。

このあと安川さんは「私」と通りかかった稲葉さんという近所の人とに救急車を呼ばれて病院へ。冒頭のシーンから読者は、安川さんの昏倒の原因を脳卒中とか心筋梗塞とかと勘違いしたままでサスペンス状態におかれますが、検査の結果は睡眠薬の誤飲でした。安川さんに身内は息子が一人いるもののこれがどうしようもないドラ息子で、

頭を金髪に染めた一八〇センチを優に超える長身で、紫色をした花柄のシャツとデニムのズボンを着けている。高校中退後、工務店や不動産屋などの勤めを転々として来たが、二十代半ばの今は無職で親掛りの身。盛り場での暴力沙汰は珍しくないし、この町内でも何かと揉め事を起こして、そのたびに安川さんが謝りにまわる始末だった。(p.157)

という、おしゃれになった西村賢太みたいなやつです。

安川さんは、病院で処置を終えて帰宅した後も、日ごろ安川さんが講師となって近所の主婦連に政治経済を教えている「安川さんの教室」に無理をおして立とうとします。そこで「私」はこのドラ息子・恭太に、

「今日の授業はやめたほうがいいって、あなたからお母さんに言ってあげたらどうですか。集まってる人たちには私から話しておきますから」と言ったら、恭太は「ヘッヘッ、フヘヘッ」と奇妙な笑い声を漏らし(p.157)

と助言を聞き入れません。この笑い声は、ほんとうにこいつどうしようもない奴なんだなあと思わせる秀逸な笑い声ですね。ヘッヘッ、フヘヘッ(笑)。

で、恭太が近所の美容院「プリティフラワー」でいいふらした家庭内の事情が町内に広まっています。それによればに安川さんの父は荒物屋の商売が立ち行かず借金を残してトラブルに巻き込まれ殺害され、安川さんの母は安川さんが高2のときに兄妹をのこして出奔そのまま行方知れず、兄は安川さんが大学を出て教職に就いた年に駅のホームから転落して死亡、安川さんの前夫は愛人をつくって離婚と散々な人生ですが、

そうした境遇にありながら、安川さんは愚痴ひとつこぼさず、いつも笑顔を絶やさない。(p.159)

と、「私」は尊敬のまなざしで安川さんを見ています。と同時にこれほどの不幸な目にあいながらそれを気にする様子を見せない安川さんに対し、「鈍感なのかも」とか「頭の働きが少し弱い」だけかもしれないとも思いなし、その人間像は「私」のなかで謎を孕んだままです。そんななか、安川さんの教室に石黒さんというこれまた不幸に見舞われた人が乗り込んできて人目気にせずひとしきり自分の不幸自慢をしますが、安川さんはそれを無視して淡々と授業を続けます。で、後日、「私」と安川さんは会話を交わします。

「きのうもまた睡眠薬をたくさん飲むところだったんですよ」
「そりゃ大変だ。いつかみたいにサプリメントと間違えたんですか」
「ええまあ」
「でも今度はよく気づかれましたね」(p.163)

作品冒頭で安川さんが昏倒したのと同じことがまた起こったらしい。しかし「私」は、なぜこの安川さんという女性が同じ間違いを犯したのかに思いをいたすことなく、結果として何事もなかったことに胸をなでおろしているだけ。作品中盤で息子の恭太によって暴露される安川さんの過去を、もしも地の文で書き手とほとんどかさなる誰かわからない語り手が嬉々として綴って(語って)いたなら、僕は「そんな悪趣味な……」と作品外の判断基準を持ち込んでいるのを十分自覚しつつも読むのをやめてしまったはずです。しかしこれはあくまで作品内の「私」が他人の不幸ごとあるいはゴシップを喜んでいる傍観者的な態度だと受け取れば、安川さんが最後になぜ命にかかわるような過ちを繰り返してしまったのか納得いくはずですね。最後の最後まで安川さんの内面にふれることなくブラックボックスのまま綴ってきたことによって、語り手の、善意の隣人に居直ることの悪質さが浮き彫りになっています。全体に、NHKあたりのテレビドラマのようなレディメイド感はありますがこれはこれで面白くよめました。

(追記)文藝春秋出身で芥川賞候補になったというのはなんだか笑えますがその候補作は「不幸の探求」というタイトル。もともと人の不幸について関心のある書き手のようですね。「不幸の探求」は作品社の本に収められているようです。作品社HPのリンクはこちら。作品紹介文で、表題作ではなく「表題策」という表記になっています。

星野智幸「クエルボ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

クエルボという変わったタイトル。僕にとっては体操競技の跳馬の技名がまず思い浮かんだんですがそれとは関係なく(笑)、本作の「クエルボ」はテキーラの名前Jose Cuervoから採られています。そしてクエルボはスペイン語で「カラス」、テキーラのホセ・クエルボにもカラスの図像が入った紋章が描きつけられています。今は仕事を引退している初老の「私」が、学生時代に愛飲したテキーラからとった愛称でもって妻から「クエルボ」と呼ばれているというのがお話の枠ぐみ。

タイトルに冠されているクエルボ=カラスが本作にとって重要なモチーフになっています。普段生活している常識でカラスといえば、迷惑な鳥、不吉な鳥、意外と賢い鳥ほどの印象しかないですが、本作ででてくるカラスにはそういう日常的な理解を超えたもっと古い無意識にアクセスするような神的な不気味さが感じられました。もうちょっと文学的な文脈でカラスについて頭をひねってみると、お伊勢さんの八咫烏や、北米インディアンの神話でトリックスターとして出てくる大烏、あるいはもっと時代がくだってエドガー・アラン・ポウの詩The Raven、そしてカラスではないのだけれどどこかカラスを思わせるマラマッドの小説The Jewbird。こう考えてくると鳥の中でもカラスというのはとりわけ創作をする人たちの間では特別な位置を占める鳥なのかもしれません。

馴染みのカラスが、自分の縄張りにいる人間の行動を把握したくなって追跡しているのだ、と想像してみる。私は自由意志でここに暮らしているように思っていたけれど、じつはこの縄張りの主であるカラスの支配下にあり、カラスのおかげで平穏な生活が送れているだけなのだ。それでカラスは今日、みかじめ料の取り立てに現れた。(p.126)

語り手の「私」の中で、カラスが特別な意味をもった鳥として描かれています。語り手クエルボにとってのこの特別さを読者が共有できるかここがポイントで、僕は最後の一ページ、「私」の身体と知覚が知らぬ間に人間としての「クエルボ」からカラスとしての「クエルボ」へと変容あるいは人間であると同時にカラスでもある存在へと変容している描写で、うまく説得されてしまいました。

語り手クエルボの周りではなにか言い知れぬ不全感が漂っています。それは小説の冒頭、公園を散歩中の犬が飼い主の不手際によって排便の中断を余儀なくされる場面(糞切りが悪い)とか、元職場の同僚から「秘密保護法」施行反対の署名を求められたものの、賛成にしろ反対にしろその法律に対する旗幟を鮮明にできないでいる中途半端感とかにあらわれている。はっきりすっきりすればいいのだけれどそうならず、頭の中も身体ももやもやうだうだしたまま。

カラスに餌をやろうとしても妻からは反対される始末で家の中にも身の置き所がありません。

「洗濯物とかに糞されたらどうするの。私が洗濯物しているときとかに寄ってこられたらたまらないし。本当にやるなら、洗濯もこれからはクエルボがしてよね」(p.127)

こんなこともあり、自分にとってなんだか割り切れない世の中に対して語り手クエルボはうだうだ考えを巡らせます。

何が世の中の役に立つかなんて、わかるわけないじゃないか。自分が善だと思っていることは、じつは多くの人の迷惑でしかないかもしれない。逆に、無意味だと思われた行いが密かに誰かのためになっていたりする。例えば、もし人類の繁栄の後にカラスの繁栄の時代が到来するとしたら、私の行為は未来のためになっているかもしれない。(p.129)

このクエルボの超人類的な考え方には一応の筋は通っていて話として僕も納得できます。と同時にこの主張を認めてしまうと、真逆も成立してしまうわけで結局彼の不全感はのこったままなんでしょうけど(笑)。

人が限られた生を生きる限り、そのなかで政治的主張だけでなく日常的な些細な行いにいたるまで、何らかの立場を(無理にでも)選び取らないといけないのはもうしょうがないと僕には思えますが、クエルボはそこでこんな風にうだうだと考えてしまうんですね。クエルボははっきりと自覚してないだろうけど、僕なんかにしてみれば未決断のままこんな風に考えられる時間的経済的余裕があるっていいなあと少しうらやましい気もします。

そして話は最後の場面、不全感を抱えたままのクエルボが自分の頭のなかだけでなくその身体までもを、実際にか想像のなかだけでかははっきりしませんが、とにかく語りの中で「クエルボ」へと変容させます。次はその変身のシーン、人目につかない屋外にて。

 自分の説得を裏切って、私はその場で尻をむき出しにすると、リースの上にしゃがんだ姿勢でふんばった!
 出た。明らかに肛門とは違う通路から、小さなものが三つ、転がり出た。全身の力を使い果たし、脚がぷるぷると痙攣している。ズボンを上げながら、転がり出たものを見る。
 緑がかったウズラの卵だった。いや、私が産んだのだから、ウズラの卵ではなく、私の卵だ。クエルボの卵だ。新しい未来の誕生だ。私とカラスとの。(p.133)

産まれた卵は吉兆を告げているのでしょうか。「新しい未来」という言葉になんとなくポジティブな響きを感じ取ってしまいそうですがそこでもう少し踏みとどまって考えてみるに、その新しさは誰(何)にとっての新しさか、クエルボにとってポジティブなものは人間たちにとってもポジティブなものになるのか、まさにクエルボが日常の糞づまり状態のなかでうだうだと悩んできた問題が、卵の形をとって読者の目前に転がり出ました。もしクエルボが人間社会「外」の存在となってしまうならこの「新しい未来」を内に秘めた卵はたちまち人間社会の平穏を爆砕する爆弾となるやもしれない。産卵のすがすがしさのなかに一抹の不穏さも胚胎させた、いい短編でした。

村田沙耶香「トリプル」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

注意:以下にはあからさまに性的な表現があります。苦手あるいは不快を感じる方はここで読むのをストップしてね。


作品冒頭恋人とので待ち合わせ場所に赴くため化粧をしている高校生の「私」に母親がこんな言葉をかけます。

「デートって……それはいいけれど。ちゃんとカップルでデートするんでしょうね?」
 私はグロスを指で伸ばしながら笑った。
「当たり前じゃない」
「そうよね、真弓ちゃんに限ってそんなこと……でもほら、今、流行っているっていうじゃない」(p.40)

と母親は何かを心配している様子。この「今、流行っているっていうじゃない」という言い方はうまいですね。流行っているものをわざと省いて、読者に「何が流行ってるの?」と疑問を抱かせ作品世界に引き込む言い方になっています。と同時に、母親の心理的な規制によってはっきりそれとは口にしづらいような何物か、後ろ暗い物が話題になっているとも分かるようになっている。

ここで母親が心配しているのは、「トリプル」と呼ばれる男女間の人間関係。これは僕たちが暮らす今の日本では異性間(たまに同性間)の関係、二人一組でカップルと呼ばれるような、まあいってみれば「ふつうの」関係ではなく、もう一人加わって三人組の、といってもトリプル関係が出来上がるのは二人組に一人が声をかけて合意したところではじめて成立する関係だから、一足す二の末に生まれる三人一組の関係のことを指しています。これまた僕たちの手持ちの言葉でいえば3Pといってしまいたくなりますが、それとも大いにずれていてこの作品独自の人間関係となっています。ちなみにテクストの表記にしたがって以降も「トリプル」という言葉を踏襲しますが、二人一組=カップルにたいして三人一組を示す言葉は、トライアッドTriadです。ダブルに対する言葉がトリプルですね。

どの辺が独特かというと特に身体が接触する場面です。

三人でキスをするのは、大人が思うよりずっと簡単だ。百二十度ずつ角度を分け合って顔を近づけると、驚くくらいしっくりと三つの唇が合わさる。(p.45)

なにか幾何学的な美しさがありますね。僕がイメージしたのはトリプルの三人がキスし合うために顔を近づけていく動きを、俯瞰のカメラで真上から映している映像でした。一対一でキスしてを三回繰り返すのではなくて一度にキスしてしまうんですね。また、キスがこんな感じなのでその先のセックスもトリプル独特の様式をとります。それは三人のうち一人を「マウス」として指名し、「マウス」になった一人が体中の穴という穴をほかのふたりに愛撫され、舌や指を挿入されるというもの。

マウス役の子だけが服を脱いで、他の二人は着衣のままだ。そして、マウス役の子は、体中の穴で、他の二人のありとあらゆるものを受けとめる「口」になる。(p.48)

性差を超えたエロティックなものに一貫して関心のある書き手らしい表現です。もっともこの「穴があったら何か入れたい」という欲望は、実際に肛門性交、口腔性交、異物挿入、耳の中に舌を入れたり、口の中に指を突っ込んだりと性交時にさまざまな形で行われる行為のみならず、もっとマイルドな形式でいえば、教科書の数字の「0」とか「6」とか「8」の空白を鉛筆で塗りつぶしたり、幼児が塗り絵を楽しんだりといった日常的にみられるごくあたりまえのふるまいにも具現していますね。

作中ではこのトリプルの性交は非常に穏やかなものとして、マウス役の者にとってはさながら羊水の中で眠る胎児の快感を味わうものとして描かれています。この点も僕らがお手軽にみられるネット動画の無修正3Pものとはだいぶ異なっている作品世界独自の設定です。かける時間もものすごく長く「5時間(p.50)」で、マウス役も男の場合にはかなりマイルドに射精する(笑)。次の引用は、圭太というスポーツマンタイプの男子がマウス役です。

圭太の穴の中に私たちの体液が流れ込んでいく。「うっ」という声がして、いつの間にか勃起していた圭太のペニスからトロトロと白い液体が流れ出た。(p.49)

30歳過ぎているならまだしも高校生男子なら「トロトロ」はないはずだと現実なら言いたいところですが、この「トロトロ」の射精もふくめて、トリプルの性交の穏やかさが作品内の設定として表現されているんでしょうね。僕自身は3Pには全く興味ないしもちろん経験もないですが、もしもそんな気持ちいいもんが現実にあるんだったらぜひ挑戦してみたくなりますね。お相手はアマちゃんと檀蜜さんあたりで5時間コースで。

閑話休題。このトリプルの関係は若い世代に流行しているものであって、先行世代、作中でいえば「私」の母親世代にはかなり強い抵抗感があるようです。上で描かれているようにトリプルは、3Pのようなもの、あるいは体の欲望を単に満たすためだけのものとはずいぶん異なる付き合い方なのですが、先行世代はどうしても「淫らな」関係としてトリプルを頭っから否定してかかる。年齢が高くなるほど性的な関係について保守的な態度をとるというのは僕たちの生活している世界でも同じですね。この、娘がトリプルとして男二人と付き合っていることを知った母は言葉を尽くして罵倒します。

「この淫乱女! あれほど言ったのに、よりにもよって男の子二人となんて! 汚らわしい!」(p.51)

娘に「淫乱女!」はないだろうと思いますが、母親はこの後も取り乱しきって娘に「純情ぶるんじゃないわよ!」「こんな売女に育つなら、生むんじゃなかった!」「この男狂い!」「色情狂!」と、罵倒の機関銃を掃射します(笑)。この部分を、書いている方は結構楽しくご機嫌で書いたんじゃないかなと推測します。僕には、もちろんこれはこれで面白さはあるものの、悪乗りのほうが勝っていて白けも同時に感じました。白けないようにするためにはもうちょっと長い作品で母親の人間もじっくり描いてこの豹変ぶりに説得力を持たせることが必要だったかもしれません。このままだと単なる性的に保守的な役割を割り振られた母親という名前の木偶人形です。人形の後ろで操り糸を一人楽しげに操作している人形遣いの、本人はばれてないと思い込んでいるらしい姿が観客には丸見えだったという感じ。それに、これらは母親が娘を叱る言葉というより、浮気した女にたいして甲斐性のない男が腹立ち紛れに投げつける言葉ではないか。『痴人の愛』のジョージをなんとなく思い出しました。

というわけで全編、性に関する言葉に満ち溢れている短編でした。それも、今ではネットさえあればだれでもアクセスできる扇情的なものとは違った、もうすこし深い部分から捉えようとする性的フィクションです。トリプルという着想も、僕たちの暮らす世界でいえば性的マイノリティーのそれに近いものとして類推できるし、一定の性交……、成功を収めていると思います。本作で新しい三人の性的な関係を描いた村田沙耶香。次回作では新しい親子姦あたりでしょうか(妄想)。ぜひとも、AVや同人雑誌で既に表現されてしまっているありふれた性的表象を圧倒してほしいと、いまから期待せずにはいられません。
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