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小説を書く人へ

社畜の宿命で僕はこの4月から激務の部署に移ります。異動にともなうもろもろの雑事におされてブログを続ける時間がとれそうにありません。小説を読む時間は無理してでも取ろうとは思うのですが、今までのように、文芸誌に掲載されているうちの、屑みたいな習作を我慢して最後まで読み通す(そしてその腹いせに罵倒のことばをここにかきつける)なんてこともできそうにありません。反対に、発表されたらすぐ忘れ去られてしまうかもしれない、けれどこの傑作の感想だけは書いておかねばと思わせてくれる小説の感想を残す時間もなさそうです。まして休日に図書館に通うなんてしばらくできそうにありません。

どうせなら社史編集室とか、9時5時勤務で日がな地下室にこもって会社あての封筒を開封する業務(本当にあるのかどうかしらないけど)でもさせてもらえれば悠悠自適に小説を読めるのかもしれないけれどそれはまだまだ僕の年齢では許してくれそうにもない仕事です。体が動くうちは会社のために働くよ!

という事情ですので更新は今後ありません。あるとしてもいつになるかわかりません。ということで最後に、小説を読む人から書く人(あるいは書こうと思っている人)へのメッセージです。


小説を書く人へ。

小説を読む人はたくさんいて、本も一人の人間の限られた一生では読みつくせないほどたくさん出版されています。読む人は貴重な時間のなかで、そのいくらかを小説を読む時間にあてています。限られた時間のなかで、まだ読んだことのない「新しい」小説に出会えることを夢見て小説を読み続けています。砂漠のなかで砂金粒を探すよりは確率が高いかもしれないけれど、それでも僕は文芸誌のみに限っても年100作品以上を読み続けてきてそういう「新しい」と思える作品に出会えたのは、2、3作品にすぎません。文芸誌以外を読んでいる比重のほうが高いもののそれをいれても10作品にいくかどうかです。

小説を書く人へ。

あなたの書く作品は「新しい」小説でしょうか。すでに誰かが書いている作品の、たんなる真似っこになっていませんか?何度もいうけれど、世の中は本であふれかえっています。読む人には選択肢が無限にあります。その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品を開きたいと読者の指にうったえる作品をあなたは書いていますか? その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品の一行を読みたいと読者の眼にうったえる作品をあなたは書いていますか? その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品を暗唱したいと読者の喉にうったえる作品をあなたは書いていますか?その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品の存在を他の読む人にも伝えたいとうったえる作品をあなたは書いていますか?

小説を書く人へ。

あなたの作品のライバルは、『ユリシーズ』であり、『失われた時をもとめて』であり、『ロリータ』であり、『響きと怒り』であり『百年の孤独』であり『カラマーゾフの兄弟』であり『モービ・ディック』であり──ほかにも数え切れぬほどのライバルたちがひしめいています。彼らがすでにどっかり自分の椅子に腰をおろしています。あなはたそのうちの、誰かの椅子に座ろうとしていませんか? 僕が読みたい「新しい」小説は、そういった既存の作家たちが必死に作り上げてきた椅子を、ずるがしこく掠め取ろうとするような小説もどきではありません。そうではなくて、不恰好でもいいから、無様でもいいから、どんなみてくれでもかまわないから、まだ誰も坐ったことない椅子を必死に作り上げようとしている、小説です。『百年の孤独』を水っぽく薄めた小説もどきを読むなら、読む人は『百年の孤独』を再読します。再読すれば読む人にはもうあなたの小説を読む時間も意味もありません。読む人が求めているのは、これまであまた書き継がれてきた小説のなかにあっても、他の作品をもって代えがたい、あなたの作品にだけしか占められない席を確保した(確保しようとあがいている)小説です。既存の作品の粗悪な模造品を読む余裕はありません。

小説を書く人へ。

あなたの作品のライバルは、小説に限りません。読む人には小説を読む以外にも、詩、歴史書、ルポルタージュ、統計資料、その他さまざまの読むべきもの、さらにさらにテレビ番組、映画、音楽、旅、外食、テレビゲーム、インターネット、囲碁将棋、アウトドア、スポーツ、もう無数のライバルがいます。それらのどれに読む人が余暇を充てるかは自由です。あなたの作品は、見たい映画を後回しにしてでも読ませる力をもっていますか? あなたの作品は、行きたいコンサートを我慢してまで読ませる力をもっていますか? くどいほど言うけれど読む人の時間は限られています、その限られた時間のやりくりのなかであなたの作品を手に取るのです。

小説を書く人へ。

たくさんのライバルで満たされた小説宇宙に、どんなライバルたちで犇いているのか知らず丸腰で飛び込んでいくのは自殺行為です。自分が死んでいることもしらずに小説もどきを書き続けるあなたに言ってやりたい、「おまえはもう死んでいる」。あなたがしたり顔で到達した惑星にはすでに、100年前に到達した書く人の旗が立っています。もし苦労して到達した世界が既知の惑星だったならそんなやりきれないことはないでしょう。ライバルたちを知ってください。どんな星が、どれくらいの輝度で、どのあたりに輝いているのかを知るために、日々、自分の天体地図を更新していってください。更新されない地図にたよって小説宇宙を泳ぐ「ベテラン」作家たちの宇宙船はもう燃料不足状態です。そんなものお手本にする価値はありません。お手軽にツアー旅行できる距離の星へ宇宙船を定期運航する仕事は、他の作家に任せてあげてください。あなたにしか到達できない星を目指すには、小説宇宙の詳細で最新の航海図が必要なはずです。どうか航海図を圧倒的な勢いで更新し続けてください。

小説を書く人へ。

どうか、新しい小説を書いてください。あなたの、渾身の力をこめた新しい小説を待っている読む人は絶対にいます。発表してすぐはいないかもしれません。けれどあなたの小説が真に新しいならば、5年後10年後20年後もしかすると100年後の読者に確実に届くはずです。あるいは日本語以外のことばのなかであなたの作品を待ち続けている読む人もきっといます。だから、どうか、既存の作品や時代に媚を売ってすり寄るのではなくて、あなたの身辺雑記でもなくて、あなたの社会生活の単なる不満や性欲のはけ口でもなくて、あなた以外の誰もまだ到達したことのない世界を、ぜひあなたのことばで読む人に見せつけてください。僕はもう、文芸誌のすべての作品に目配りする余裕はありませんが、それでも小説は読み続けます。文芸誌の目次に数少ないながら忘れ得ぬ書き手の名前を見つければ無条件でレジに走ります。新規に刊行される作品に読むべきものがなければ既刊の忘れ得ぬ小説のページを時間の許す限り何度でも繰ります。いつまでも、読む人たちは新しい小説の登場を待っています。


小説を読む人より。
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黒井千次「紙の家」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

コルタサルの短編に、着られそうでなかなか着られないセーターにひたすら悪戦苦闘するだけの傑作があります。そこでは何が起こっているのでもなく、ただただ「セーターを着ようとする(でも着られない)」の実況中継がくりひろげられるのみ。徹底的にナンセンスながらそのナンセンスが文章で過剰に堆積していきやがて飽和点を超えると癖になる笑いに結晶化します。読み始めは「なんぞこれ、意味ないじゃん」と思って油断しているんですが、読んでいるうちに作品のリズムにうまく読み手がはめられて癖になる感覚といえばいいでしょうか。もちろん僕はスペイン語は全く読めないので木村榮一先生の名訳によって楽しんだわけですが。

黒井千次による本作「紙の家」も、テイストは全く違うものながら、何か大きな事件が起こっているわけでもなくただ「彼」と呼ばれる男が、これまで出会ってきた人の名前を書きつけたリスト片手にぼんやり考え事をするだけの作品で、ナンセンスという意味では通底するところがあります。

作品内容と密接に結び付く文体の特徴として、茫洋さがあげられます。名前とその名前の横に記してあるワード(書きつけた時点ではその人物を思い出すための符丁として機能していたかもしれぬもののもはやそのことばが何を表しているのかすらわからない)を「彼」が目にしても、「誰だったか」「どんな人だったか」を全員が全員はっきりとは思い出せない。しかも「彼」は手帳のページをひたすら繰っているだけなのでアクションらしいアクションもありません。短編の目的地も明確にはされない。

 どれほど長い間自分がそのルーズリーフ形式のノートを使っているかをあらためて考えることはなかったが、ページの中にはペンで横線がしっかり引かれて抹消された一行もあり、反対に薄い鉛筆の字で欄外に遠慮がちに書き加えられている一行もあり、そこに収められている内容にはかなり流動的な気配のあるのが感じられる。(p.19)

内容というよりはそのメッセージ内容がほとんどないものを、そのメッセージがどういう状況で発信されているか(上の例でいえばリストアップされた人の名前の書かれ方)、メッセージの文脈にフォーカスして叙述が進みます。「彼」の想起する力も、パソコンがデータベース検索で探索ワードにバシっといきつくようなものではなく、いかにも思い出したくても思い出せない霞がかった曖昧さ、手探り感満載のもの。なので、読み手によっては「だからなんなんだ」といいたくなるかもしれません。

けれども、なんといえばいいか「だからなんなんだ」という問い自体がこの作品の前では無効になってしまうんですね。堂々と「なんでもないんだ」と言い返されているような気にさせられる、無意味の壁のまえにただ佇んでいるような感覚にさせられる。もちろんその意味のなさに堪えられない読み手はページを閉じて壁の前から早々に立ち去ることも禁じられてはいません。僕はこの意味のなさ、コルタサルに比べれば笑いやユーモアや風刺めいたものもないのだけれど、漠然とした「彼」の記憶の道行を、「彼」とともに一歩先も見えない、どこに向かっているとも分からない足取りで進んでいくのは苦痛ではありませんでした。漠然としたものを漠然としたまま読ませるというのはこれはこれで書き手の力量の賜物だとおもいます。上の引用部にしても「流動的」とか「気配」とかさらに「感じられる」ということばによって、茫洋さに拍車がかけられている。「抹消線」も引かれているし、書き込みは「薄い」字で「遠慮がち」というのも、とらえどころのなさを演出しています。

茫洋さを味わう別の例。

 ここでも、記されている相手が誰であったかを確かめるための注記というより、何かの理由で印象に残っている当人の名前を確認するための手がかりとなる注が括弧にくくられて示されているらしかった。したがってこれは、単に他人の姓名とか住所とか電話番号とかを記載して貯蔵し、必要に応じて引き出すためのノートではなく、過ぎた時の中を影の如く揺れて動いている人物の名前や住所を確認するためのノートと考えられた。(p.21)

デジタルな知識ではなく、アナログな記憶。それは上の、若干文学くささも感じられる修辞のことばでいえば「影」のようなものとして、人の頭の片隅や、指先の触感にそれと名指せないまま宿り続けるものかもしれません。

やがて彼の指が開いたのはいわば任意のページであり、自分がなぜそこをめくり当てたのかは彼自身にもわからない。他と違うところがなにかあるわけではなく、開かれた左右両面にそれぞれ十名ほどの名前がおとなしく並んでいる。そして気が付くと、なぜか注記のあるのは左ページのみであり、反対の右側にはただ名前と住所と電話番号が収められているだけだ。試みに上から辿ってみる右側の名前はどれもそれなりに記憶の針にかかるものばかりであり、二つの名前が鉛筆で薄く消されているのは、移った住所がわからなくなったか、それを追う気持ちを失ったかであろう。(p.23)

明確な目的意識なく指先の感覚に導かれて任意に開いたページの先で、記憶の定かでない人の名前と出会う。それは現在の「彼」がかすかに想起できるものもあれば、そうでないものもある。現在思い出せないだけでなく、過去のある地点においてすでに、その「名前」をもつ人にたどり着く道筋は失われている。

忙しい人は本作を読んでも腹が立つだけかもしれません(あるいは途中で読むのをやめてしまうか)、そしてどういう反応であろうと読者に禁じられている読みはありません。しかし、ビジネス書や自己啓発本ではなく、あえて小説を、それも貴重な余暇のいくぶんかの時間を割いて手に取っているのなら、別にお話らしいお話がなかろうと文字を読むことだけにつきあってみる、そういうぜいたくな時間を味わい尽くしたいものだと、僕は本作を読んであらためて思いました。

(追記)コルタサルのセーターの話は岩波文庫『遊戯の終わり』に「誰も悪くはない」というタイトルで収録されています。訳は木村榮一。どの短編も面白いので短編好きの方にはぜひご一読をおすすめします。
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