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多和田葉子「飛魂」

出典:多和田葉子『飛魂』(講談社・講談社文芸文庫・2012年)
評価:★★★★★

飛魂 (講談社文芸文庫)飛魂 (講談社文芸文庫)
(2012/11/10)
多和田 葉子

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この前出版された講談社文芸文庫の『飛魂』から、表題作「飛魂」の感想を。ことばの世界で遊ぶとはこういうことなんだ、という気づきを促してくれる素晴らしい作品でした。この作品の工夫としていくつか指摘できます。一つは、作品の舞台を、現代日本じゃないどこか(中国の奥地を強く匂わせますが、作中では一言も中国とか、支那とか、チャイナとかいった国名・地名はでてきません)に定めていること。これによって、日常あたりまえにおこらないような出来事がおこっても、「この世界ならあり」と納得のいくものになっています。

ヘタな書き手だと、自分の好き勝手に作品世界を捏造するだけにとどまり(といっても小説を書くことじたいが捏造ですからそれはそれでいいのですが)、作者のナルシシズムがだだ漏れだったり、場当たり的な設定や固有名詞を連発して読者をいたずらにふりまわすだけだったり、いずれにしろ読むに耐えない作品になってしまうのがオチ。

一方、多和田葉子の「飛魂」では、できあいの言葉づかいを回避し、この世界特有の語彙(たとえば「幽密」)、動植物(たとえば「ハヤカ虫」)、現象(たとえば「枝叫び」)によって、作品独自の世界を丁寧に造形しています。語彙だけでなく、レトリックのうえでも

ある日、目を覚ますと、君の枕元には虎が一頭、立っているだろう。天の色は瑠璃、地の色は琥珀、この両者が争えば、言葉は気流に呑まれて百滑千擦し、獣も鳥も人も、寒熱喜憂の区別をつけることができなくなる。(p.8)

と、対句表現を用いており、この作品冒頭の文章で一気に作品世界に引き込まれてしまいます。ここだけ見ても、対句表現、「天」や「地」ということば、「百滑千擦」「寒熱喜憂」という四文字熟語から、日本語でこれを読んでいる僕たちは、ひとこともそう名指されていないにもかかわらず、中国を強く連想してしまいます。しかも、一度も読んだことのない熟語(「百滑千擦」「寒熱喜憂」)であっても日本語読者は難なく読めてしまいますし、その意味するところもすんなり了解できてしまいます。この驚きたるや、冒頭から僕はのけぞってしまいました。自分勝手な世界を書いちゃう初心者なら、書き手だけが分かっていて、読み手には全然伝わらない言葉をつかうか、読み手につたえるために、「これはこうですよ」なんてくどくど説明して物語が停滞しちゃうかのいずれかでしょう。それを単に単語をズバッとだしてきてしかも読者にきちんと伝わる(気にさせる)というのは、やはり表意文字である漢字が、意味を伝えるうえでは経済的なのかもしれません。その特性を利用しつくすこの工夫!説明しようとする僕のことばをさっさと置き去りにして、遙かとおくに行ってしまった多和田葉子。

見たことないことば使いということでいえば、沢山の比喩表現も、「飛魂」のなかに登場します。これもやっぱり、この世界をじっくり構築しているからこそ成立する比喩であって、同じ比喩を別の作品にその比喩の部分だけ取り入れても、表現は色あせてしまうと思います。

それは日差しが庭に置かれた古い鯉灯に反射して、まるで石の中から金色の鱗が生えてくるように見える朝だった(p.11)

上の一文に負荷されている情報量たるや相当なものですが、読む方としては驚くほどすんなり理解できてしまいます。一つ一つにこだわれば、「鯉灯」なんて誰も知らない造語でしょうし、「石の中から金色の鱗が生えてくる」なんてだれも見たことない事態です。いちいち引っかかれば「なんだこれ!意味分からない!」となってしまいそうなものの、一度も見たことないものや現象によって表現されるその様が、「朝」を形容する比喩としてズバっと成り立ってしまう。場当たり的でないのは、鯉と鱗で近接する語彙を、陽射し、反射、金色、さらにいえば鯉や鱗から連想される水の煌めきといった光のありようが、短い一文の中におかれ、お互いに響きあっているからかもしれません。大袈裟ではなしに、奇跡的なことばづかいにまたうちのめされました。ヘタな比喩表現と比べてみると分かりやすいかもしれません。

鳥のさえずりを耳にした瞬間から、僕の胸の奥に抑えようのない特別な気持ちが巣くってしまったからで、それは最初ハツカネズミに心臓の真ん中を咬みつかれ続けているような感覚だったんですけど、やがて凍み豆腐が冷水を吸ってふくらんでシトシトと低温の滴を垂らすみたいに感じられたその頃には僕は悲しみで胸が張り裂けるという言葉の意味がよくよくわかるようになり(いとうせいこう「想像ラジオ」『文藝』p.80)

多和田葉子の上であげた比喩表現とくらべて、言葉数が多いにもかかわらず、密度がぐっと薄まり、使われていることばの連関はバラバラです。

話をもどして「飛魂」についてもう少し。ここまでを踏まえると、現代のいま・ここから遠く離れた世界でふしぎなことがおこるおとぎ話的な世界と割りきってしまいそうになります。いわばマジックリアリズム作品を読むときのような感覚。けれども、こんな不思議なことば使いで作品世界が作られながら(リングイスティック・リアリズムという形容さえささげたくなります)、今ここで日本語でこの作品を読んでいる読者と地続きであることをつよく実感させもします。

それは、「虎の道」を極めようとする梨水という女の子と亀鏡という女師匠との師弟関係を軸にしているから。師弟関係に、たとえ同性であろうとその根底にはエロティックなものが存在せざるをえないという洞察がそこここで光っており、実際、誰かを心から尊敬するとか本気で憧れるとかしたことのある人なら、身に覚えのあるような人間関係が、今・こことはずいぶん隔たっているはずのこの作品世界で展開されていることをずいぶんと身にひきつけて考えてしまうのではないかと思います。

上で、この作品を、リングイスティック・リアリズムとでも呼びたいといいましたが、たとえばことばそのものに注目する文学作品であれば、「不思議の国のアリス」にしろ、ベケットの一連の作品にしろ、ハイモダニズムのような作品にしろ、決して珍しくありません。しかし僕の読んできた限りでいえば、それらはどれも実験のための実験という色合いが濃く、読む途中に投げだしたくなる、通読するにも我慢が必要、また、読んでもすぐ忘れてしまう、再び読みたくない、そんな作品ばかりです。それにたいして「飛魂」は、ことばの世界で遊びながら、それが実験のための実験のようなつまらないやせ我慢主義に陥ることなく、「こんな作品読んだことない!」という驚きとともに読者をその独特なことばづかいで一行一行、一語一語でうちのめし、しかも二度読み三度読みしたくなる、ちゃんと小説として成立している稀有な作品です。自分の頭の中の日本語の使い方が、いかに「普通の」使い方でがんじがらめになっているかを気づかせ、どろどろに溶かしてくれる、エロい作品でした。

多和田葉子がノーベル賞をとるまえに、絶版になっているもの、単行本未収録のものを集めて、今のうちに出しておいてほしいものだと思います。がんばれ、講談社。
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コメント

Secret

No title

こんにちは。たびたび見ています。というのもそれほど小説を読んでいるわけではない私の肌に合いそうな小説を、こちらのサイト頼りに探させてもらってるからです。

そのような私と波長が合った、というよりも未知の世界へと連れ出し、小説の面白さを教えてくれたのが多和田洋子さんの小説でした。学校の教科書にある小説でも、あるいはベストセラーになっている話題の小説とはまったく違う感覚でした。

ブログの記事に書かれているように、読んでいてもつっかかることなく文意を感じ取ることができ、読者を優しく次のページへとするする導いて行ってしまう。しかし実はよくみると、特に『飛魂』では顕著ですが、文ごとに表されている内容と技法の密度が異常に濃いのです。ここが多和田洋子さんの小説の不思議なところなんだと思います。つまり文一つ一つは独特の感性と言語表現が駆使されて難しいのだけど、文いくつかの塊をまとめた段落となってしまえば何のことはなく感覚的読めてしまい、しかも数ページにわたって文章が続けば読者の読む方向をクイッと曲げてしまうという(たとえば近作の『雲をつかむ話』は読者の予想をクルクル変えてしまう小説でした)。また、『言葉と歩く日記』のような、「わたし」を媒介にしてエッセイと小説の中間体ともいえる文体を作るのが非常に上手で、現実と虚構の中間を自由に行ったり来たりするのも得意な方ですね。とにかく人に説明しにくい作家だと感じます。


文学に詳しい人でないと多和田洋子という名前はわかってくれないし(笑)、かと言ってどのような小説を書くのかと問われても私のコトバではなかなか簡潔に説明できないし・・・。で、なにか小説をひとつ貸しても相手の感想が「???」で終わってしまうことも多く、身近な人に魅力を伝えるのが難しい、と苦労しています。まあこれは身の上話なので無視していただければ。

ブログ記事の「大袈裟ではなしに、奇跡的なことばづかいにまたうちのめされました。ヘタな比喩表現と比べてみると分かりやすいかもしれません。」とその下にある、レトリック過多で読者の頭にごつごつした岩をぶつけてくる読みにくい文章の例には大変納得いきました。腑に落ちました。そこで、感想をかねてコメントを書かせていただいた次第です。

No title

上のコメントに追記です。もう少し書くつもりだったので。

「文ごとに表されている内容と技法の密度が異常に濃い」と私は書いたのですが、これはもうすこし言い方を変えると「言葉から発せられる情報やイメージが濃いので、読者は歩いたり立ち止まったりしながら、音に出したり、辞書を使ってみたり、情景のみならず言葉自体から漂ってくるイメージを頭に浮かべなければ読まないと置いていかれてしまう文章」という意味です。しかしそれでいて、上記で述べた文章が塊になった段落を読めばなんとなくスルスルと意味をつかめてしまうのが不思議な感じなのです。本当に読めているのかどうかは怪しいところなのですけれども。

Re: No title

コメントありがとうございます。

多和田葉子さんの作品がお好きなんですね。コメントからひしひし伝わってきました。『言葉と歩く日記』は未読なので近いうちに本屋さんで手に入れて読むことにします。

さて、多和田さんの作品を説明しづらいとのことですがこれには同意です。詩を読みつけている人であれば多和田さんを知らずとも比較的すんなり多和田作品を読めそうな気はします。逆にストーリー重視というか、お話が一直線に結末に向かって進んでいく小説を求める人には読むのがちょっと苦痛かもしれませんね。名無しさんも書かれているように、多和田さんの作品は行きつ戻りつしつつ細部を味わって読まないと面白くないだろうなと思います。詩に近しい密度のことばで綴られた作品を読むには、ダンスとしての詩に度々足をとめて見惚れる必要があるんでしょうね。詩に「説明」を施すことは詩を味わうこととは全く別もの(ときには逆効果になることも)なので、多和田さんの作品を知らない人にすすめるには、内容よりも読み方、「とにかくゆっくりじっくり味わいながら読んで」くらいしかしようがない気もします。それで合わない人は、まあ合わないんでしょう(笑)。多和田葉子作品を楽しめないなんて人生損しているとしか思えませんが、損したくらいでは死にはしませんしね。
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読む人

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