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滝口悠生「かまち」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★★★☆☆

小説の方法論、とくに視点について関心のあるこの書き手の短編。初の短編でしょうか。今までの作品だと、小説の方法にたいする批評がしたいだけで、語る内容なんて特になくてもいいんだろうな、という感じをうけていました。なので、デビュー作「楽器」にしろデビュー後第一作「わたしの小春日和」にしろ、読後の印象ののこらなさは圧倒的。読むそばから消えていくような小説もあってかまわないものの、読み手としては正直食い足りないし、書き手の自己満足にすぎないと思わないでもありませんでした。方法のための方法ほど小説をやせ細らせるものはない。

そして、全二作と本短編の違いをあげるとすれば、視点に対する批評をもちつつ、それが語りの内容とそれなりに合致しているところ(それゆえ、読後いろいろ印象にのこるところ)、です。伊澤さんというアマチュア女性落語家の話のマクラかと思いきや、伊澤さんが語りかける猫の視点に語りがよりそい、それらの視点を想像でおぎないつつ語っているのは伊澤さんの向かいに住んでいる八巻さんという男性であるというつくり。これら語りの層が重複しながら、出来事の断片が過去にいきつもどりつして読み手をいい意味で翻弄してくれます。

「猫」という動物は、小説の語りについて語るうえでの古典的参照項だし、それをアマチュア女性落語家という落語家の語りにオーバーラップさせつつ(いわずもがな、漱石と三代目小さん)、もう一人の語り手八巻さんは語りの終盤で熊田さんという近隣住民のかたわれを得て、「熊さん八っつあん」としてニコイチになる。この短編そのものが落語みたいな作ったような話でうまいオチだと思いました。

思い返せば、伝統的に「よい」とされる純文学小説は、作為を感じさせないもの、できるだけ読み手に「自然さ」を感じさせるよう作られたものだったはずです。その伝統的な価値観にてらせば、上のような「いかにも」「わざとらしい」「つくったような」「お話」の小説は、及第点をもらえなかったでしょう。それを特にここ五から十年くらいでデビューした作家たちでしょうか(うすらぼんやり)、作為を作為としてうけとめながら小説の領土をひろげてくれている気がします。それはそういう作家をうけいれるような土壌が純文学にうまれたのか、そうした作家たちが鋭意開拓していってるのか、鶏と卵の話になっちゃいますが、ともかく、わざとらしさをそのまま受け止めて書く一群の作家の系譜のなかに、この「かまち」をひっさげて滝口悠生が登録されたことを僕は喜びたいと思います。

以下は、この作品の出だし。

 白黒模様の猫は道路からの階段を一段、二段と上がり、門扉の下十センチほどの隙間をくぐって玄関に入っていった。玄関の戸は開けっ放しになっていた。上がりかまちに紫色の大きな座布団を敷いて、ピンクの着物を着た伊澤さんが今日も座っていた。
 よう八っつぁん。
 なんだい熊さんかい。
 熊さんじゃないよ、あたしゃ猫さんだよ。(p.135)

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