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波多野陸「鶏が鳴く」

出典:『群像』2013年6月号
評価:★★☆☆☆

書き手は小説を書き始めてまだ間もない方でしょうか。紋切型、無意味な修辞表現を連発するかとおもったら、一方で若者言葉や雑な表現をふいに書きつけてしまう。一読して「まだ書き慣れていないんだな」と思わせる不安定さでした。すくなくともこの作品そのものがこれまで書かれてきたあまたの小説とくらべて優れているかというと、僕は疑問符を付けざるを得ません。この作品が評価されたのは、何人かの選考委員が書いているように、この作品の「熱」とでもいうべき、「なんだかまだはっきりわかんないけど可能性を感じる」といった直観がすぐれていたのかもしれません。

若い人にありがちな自意識へのこだわりを、高校生の二人の対話を通じて描いた作品です。他人から見れば取るに足りないものでも、本人から見れば重大事に見えてしまう、それが自意識のやっかいさで、そのやっかいなところを「自意識」にこだわらない人間にも説得的に描けたかどうかがこの作品の力を示す試金石になりそうです。が、僕にはあまりというかほとんど響いてきませんでした。

僕には響いてこなかった理由一つ目。トラブルを抱えた家族のなかで自身も引きこもりになった健吾が神までもちだしてああだこうだと言っていますが、「そんな家のゴタゴタに囚われてしまうんなら家から出て働けよ」というツッコミに、この作品では答えられないから。二人に一人は高校卒業したら大学・短大に進学する現在でも、逆にいえば進学しない人は半数「も」いるわけで、かつそのうちかなりの部分は正規・非正規とわず働くわけだから、煩わしい家族から距離をとるために健吾が家を出て就職するという選択肢は充分現実的におもえます。かつ経済的な自立があれば精神も安定する→自意識にこだわるのが馬鹿馬鹿しくなるとも思いますが。毎日働いているおっさんたちが、「ジイシキガー、ジイシキガー」と悩んでいるようには思えません。自意識にこだわるというのは結局は時間とかお金の心配を猶予された身分の贅沢な悩みであるわけで、「親の金でジャンプ買いに行く暇があるなら働け」という現実的解決法を与えてくれるツッコミにはこの作品はまるで答えられません。

僕には響いてこなかった理由二つ目。とはいえ、自意識へのこだわりは文学にとって重要なテーマなものの、あまりにベタに書きすぎてしまっているから。二人の対話を通じて自意識をめぐる問答が繰り広げられますが、ほとんど変わらないレベルの二人の会話なので、出口が見えない、堂々巡り、似たもの同士のやりとりはさながら独り相撲にしか思えません。新しいステップへの糸口をつかむことができず同じようなところをぐるぐる回っている感じ。たとえば、同じ自意識を扱った作品として、偶然にも同じく群像新人賞を受賞した阿部和重の『アメリカの夜』(原題:「生ける屍」)があります。『アメリカの夜』では、自意識にこだわる若者集団のなかでもとりわけ自意識の強い芸術家志望の若者たちをあつかいながら、そのなかでもさらに人一倍自分で自分をもてあます唯生を主人公に設定していました。この唯生が、自分のなかで対話する装置としてもう一人の自分を生みだし、自意識のありかたそのものについて醒めた批評と対話を繰り返します。自分一人の対話にもかかわらず考えがどんどん進展していくのはもちろん、書き手の批評が冴えているからですし、一人がうだうだ考えるのではなくて先行する小説との対話、対決をもふまえながら、唯生の狂った考えを鍛え上げていくわけですから小説読みにとってこれが面白くないわけありません。その狂いの度合いは増幅されて、読者を新たな眺めへと拉致し去ります。新しい場所にでていくような、目の前が開ける感覚、ドライブ感が説得的に描かれていました。この作品にはそれがありません。「実はこうだった」「本当はこう思っていた」と新情報が小出し小出しにされ、そこに作者都合の作為が見え透いてしまいました。

僕には響いてこなかった理由三つ目。表現の稚拙さ。作品世界を構築する言葉ではなく、書き手の慣れ親しんだ言葉使いがそのままだだ漏れになっているような箇所が散見されました。

この侵入計画が元から計画という大仰なものではなく、ある意味賭けという意識が自分のなかにあった(p.18)

「ある意味」というのは意味を曖昧にする話し言葉として若者のあいだで使われることばです。とくに、直接的ないい方をさけて婉曲な伝え方をしたいときや、含みをもたせたいときに、「ある意味○○」といういい方をする。つまり聞き手との距離を慮るときに使われる表現です。小説の地の文で「ある意味」を使っちゃうと、単に意味が曖昧になってしまうだけ書き手の考えが突き詰められてないとしか受け取れません。どういう意味でなのかを具体的に説明なり描写なりするのが書き手の責任です。

引きこもりみたいになったことがある種の優越感を俺に与えてくれた(p.30)

伸太は、混乱の真っただ中にいることから生れるある種の興奮から醒めつつあった(p.66)

書き手の使い慣れた言葉がそのまま出てきているようで、言葉のコントロールという点では不満が残りました。

と、その一方では、へんに文学的に気負ったようなところが空々しい。全体として文体のトーンが統一しきれていないように思いました。特に冒頭、健吾を待ち伏せする伸太がずぶ濡れなわけですがあれは何なのでしょうか。描写のための描写、小説ハウツーもののいいかたを借りるなら、「水にかんするモチーフを散りばめた冒頭のかまし」とでもいうのかもしれませんが、水にぬれて気持ち悪い感覚になっている設定がその後全く生きて来ません。描写のための描写こそ、書き手の自意識がだだ洩れているダサい表現に他なりません。

僕には響いてこなかった理由四つ目。作品の最後が致命的な失敗です。

 こんな気分になったのは久しぶりだと感じた。素直に泣いてしまいたいと思った。(p.77)

最後の最後まで読んできて僕には二人の対話がとくに新しい見方を与えてはくれなかったし、むしろ「働け」というツッコミが終始頭を去りませんでしたが、百歩譲ってここは「すごい対話が行われたのだ」としましょう。そういう設定だから。で、そういう壮絶な夜を健吾と過ごして「体中の細胞が祈りの声を上げ」「互いに共鳴し合い、祝福の歌に包まれているかのよう」な気分になった伸太が、その細胞の「大合唱が起こす振動に打ちのめされ、倒れそう」になりながら、「その振動が涙腺を直撃」して、熱くなった目頭から溢れる涙をこらえているにもかかわらず、上で引用した表現で作品を閉じてしまいます。こんな大仰な表現を連発して、「とにかく伸太にとっては衝撃的な体験だったのだ」とこれでもかこれでもかと描写しておきながら、その気分は「久しぶり」なのです。「初めて」とか「これまで体験したことのない」のではなく、「久しぶり」なのです。おもわず「前にもあったのかよ!!!」と最後の最後でずっこけました。

新人賞作品はどの文芸誌でも毎回楽しみにしていて、じっくり読ませてもらっています。同じ六月号の『文學界』では新人賞がありませんでした。これには楽しみにしている読者としてはがっかりしたものの、同時に、非常に勇気ある決断だとも思いました。一本の作品を選び出すのに物凄く労力がかかっていることは外目にもよく分かるのですが、駄作を無理やりほめあげて受賞させるくらいなら、「なし」にしたほうが良かろうなという気がします。駄作を受賞させても、その作品を選んだ選考委員の見る目の無さが露呈したり、掲載媒体の威信が落ちるだけじゃないでしょうか。いくら客に提供するのに労力がかかったといっても不味い料理を出されては、誰も得しません。「不味い料理がでたのもたまたまだったんじゃないかな」と、店に期待して再訪した客がやっぱり不味い料理を出されてしまっては、もう二度と店に寄りつかなくなるはずです。そして僕にとっての『群像』は、ありきたりの料理を自信満々に出す店になりつつあります。ここでしか食べられない味、素材の料理を期待して店を訪れたら、ファミレスでも食べられるものを、「素晴らしい料理です」といって出されてしまう。ここ数年で、この雑誌のテイストが大幅に変質してしまったのは残念でなりません。僕の舌が劣化した可能性もありますが(笑)。こんな店、二度と来るか!という言葉が喉まで出かかっています。
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コメント

Secret

群像、村上龍レベルの新人出してほしいです。
今回の鶏は残念でした。
全然推敲されていませんでした。
受賞はなしでよかったはずです。

No title

今回の結果に関してはまったく僕もそう思いました。同誌7月号の「侃侃諤諤」では、今回の新人賞応募作について「つかえねー」とか「面白くねー」とかいっていますがそれなら尚更「なし」にすればよかったんじゃないかと思います(笑)

ただ波多野さんのデビュー作での拙い部分は、今後ご本人の研鑽や技術的なチェックによって、いいところを生かせるような作品になっていく可能性はありますよね。受賞後第一作に期待しています。
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