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山下澄人「砂漠ダンス」

出典:『文藝』2013年夏号
評価:★★★★☆

最近になって人称をいじる小説が増えてきたのでしょうか。昔からあるといえばそうなんですが(たとえば横光利一「純粋小説論」の四人称)、ここ数年の文芸誌に掲載された書き手の、二人称小説だとか、主語を省略する小説だとかがぽつぽつ書かれているような気がします。「砂漠ダンス」も、そんなことばの可能性を広げる小説です。この小説では「わたし」がさまざまな人や動物に、憑依というか変身していく話です。この作品での語り手の「わたし」というのは、ひとりの人間であると同時に、人間をこえた語りの場といえます。語りの場で、さまざまな時間と場所が結びつき、切り離されます。物語の本質ですね。

はじめ、「わたし」が砂漠に行こうと思いたつところから話がはじまります。そこから、コヨーテになったり、見覚えのない男になったり、もともとの「わたし」が日常すれ違っている人間になったりします。さまざまな人間(や動物)に移り変わるものの、語り手の「わたし」のアイデンティティは保持されていますね。自分が何に憑依だか変身だかしているのかをはっきりと意識している「わたし」、しかしその憑依されているほうは「わたし」の自由になるとはかぎりません。このへんが特に面白かったです。以下の引用は、ある男にとりついた「わたし」。

「……はどこですか」
 といった。男には[……]のところが聞き取れなかった。わたしには聞き取れた。女は[区役所]といった。(p.173、括弧内原文)

男の後ろはわたしがいつも座るテーブルであり、この時間帯はわたしがあらわれるならあらわれる時間帯だ。わたしは後ろが見てみたかった。しかし男に振り返る気配はない。男は後ろに誰かがいるという事すら認識していないようだ。(p.174)


語っている「わたし」と語られている「わたし」の分離。これはなつかしのウィトゲンシュタインでしょうか。フレーゲだったでしょうか(うろ覚え)。こうして「わたし」が様々なものにずれ込みながら、砂漠にいったはずが、物語は円環を描くようにしてもとの「わたし」のそばまでもどってきます。最初のほうで、事故をにおわすような記述もあって、実はそれ以降、死んだ「わたし」が走馬灯を見ているとか、脱魂してさまざまのものにとりついているとかも読みの可能性として残されます。このへん、映画の『マルホランドドライブ』を思いだしました。

「大丈夫!!」
 ノグチが叫んだ。ノグチは膝まで湖の中に入り、肩で息をしていた。そのときわたしは空に赤い星が横切っていくのが見えた。それはものすごいスピードで、何よりも速く見えた。事実それのスピードは時速にすると時速六万四千キロ、音速の五十倍で、岩と氷のかたまりで、人間の知らない場所から飛んで来た。それはその後、ここをかすめて、またどこか人間の知らないところへ飛んで行く。どこまで飛んでどうなるのかは誰も知らないし、知るとか知らないとかの向こうへ消えていく。(p.183-4)

この一節にはポエジーを感じられて、特に気に入った部分。

彗星がさっと飛んでいく描写を、詳しい速度(人間の認識)で描写しながら、その飛び去っていく先は人間の認識を超えていってしまう。「知るとか知らないとかの向こうへ消えていく」。何度も口にしたいですね!語りえぬものについては沈黙しなければならない、の変奏かと思いました。

とても面白く読んだ作品でした。ほかにも、主語と述部をつなぐ「は」と「が」の違いとか、モノの空間的配置に執着する描写(上下左右)とか、競馬好きのタカハシさんとか、この作品をおもしろく読み説けそうなキーがいくつもあります。あえて注文つけるとすると、せっかく「わたし」が奔放にいろんなものにとりつくのだから、もっとあり得ない時間や場所に存在するものにとりついても面白かったのかもしれません。ただそうなってしまうと、事故死したはずの人間がみている夢の線では読みとけなくなりそう。やっぱりこれでいいです!浅はかでした、すみません!
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