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諏訪哲史「「遠い場所」の詩」

出典:『群像』2013年8月号
評価:★★★★☆

8月号の群像は作家の個人詩集特集。詩を読みこんでいる作家の小説には、ことばの選び方、音の配列にうならされることがよくあります。

 詩というと僕はこれまでリルケやツェラン、吉岡実や西脇順三郎ばかりを取り上げてきた。幼年期の憧れだった宮澤賢治はさらに頻繁に。ゆえに今回は彼ら以外の詩人から選んでみた。
 二十代、僕はずっと詩を書いていた。詩を書く以前、内外の多くの詩を読んだ。しかし、いい詩を読むたび、これは限りなく小説に近いと思い、逆にいい小説を読めば、それは限りなく詩に近しいと思った。至高の詩と至高の小説は、僕にとって同じ場所に棲んでいた。そこはいわば「詩性(ポエジー)」の神殿だ。詩性は、極小の文字列のうちに無限の空間と奥行きを包含させ、また極小の音列のうちに無極の時間と音楽性を孕ませる何物かである。意味の遠い異質感と、音の遠い異物感とが、至高の詩、至高の小説から、瀑布の如く読者に氾濫する。
 意味と音の双方において同時に涯なる遠さに至ったのは宮澤賢治だ。彼の詩とは小説であり、彼の小説(童話)とは詩に他ならない。(p.107)

僕個人は、詩を読むセンスがないので、こうして作家たちが自分のお気に入りの詩を各々の設定したテーマで紹介してくれる特集はうれしい限り。知らない詩人と出会うことができるのも、こういう目利きの人がいてくれればこそです。諏訪哲史の選んだラインナップは、佐々木幹郎「シャクナゲ・ホテル」、萩原朔太郎「荒寥地方」、粕谷栄市「啓示」、柳田國男「遠野物語第百六段」、安西冬衛「海」(漢字が出ない!)、入澤康夫「「木の船」のための素描」。どれも読めば遠くに連れ去ってくれる詩たちでしたが、初めて読んだ入澤康夫の詩が特に面白かったです。入澤康夫の詩集か作品掲載誌かを手に入れて少し読んでみようと興味がわきました。

諏訪哲史のいう「小説は詩で、詩は小説だ」は持論かと思いますし、たしかに彼の作品には詩(や詩性)が横溢していて、読むたびにうちのめされます。今回の特集をきっかけにして、久々に、『アサッテの人』を開いてみてまたうちのめされました。

[巻末付録]…大便箋より…
◎右半分の文章

『…荒縄に似た、ぼくの、ほそながい、影。
 平らな、白壁、目の、まえの、剥がれかけた、表面、もろい、縁を、伸びた、右の、手の、その、影の、へしまげられた、指が、かりかり、かりかりと、しきりに、掻く、掻いている。
 指だけが、掻く。 影は、指いがいの、影は、動かない、止まっている。
 ひじの、かたの、こしの、その他、関節の、まるで、さびついた、圧倒的な、凝固。かちんと。
 ともかく、「さびついた」は、ひどく、難しい。
 浮沼の、団地の、一室の、平らな、白壁にうつる、荒縄に似た、ほそながい、影、ぼくの、影、かりかりの、指。その、指の、へしまげられて、しきりに、かりかりの。
 ふつふつと、やがて、大胆に、呪文じみた、言葉、口の、端の、泡、いとも、楽しげに、はじまるよ、軽やかな、つぶやきが。

ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。…へえー、だって。
ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。…へえー、だって。

 まったく、莫迦げた、ハハハハ、これは、また、どうしたことだ。 この、莫迦げた、埒もない、フレーズだけが、ともかくも、延々、いつ止むとも、知れず。
 こんな、気の狂った、ほらまた、ポンパッカと、たのむから、止めさせてくれ。止めさせてくれ、その、深刻そうな、顔を。 その、敬愛らしい、つぶやきを。つまり。 そう、つまり、何だ、これは? いや、ポンパッカ、という。
 なにが、「へえー、」? なにが、「だって。」だ? ずるして、ぴょんと飛ぶ。』

(諏訪哲史『アサッテの人』(講談社・2007年)pp.184-6、強調部原文)

アサッテの世界に失踪したおじさんの残したとされる文章が、小説「アサッテの人」巻末に掲載されています。雑誌掲載の初出時に比べると、この部分は、ことばの流れを寸断するように、読点(「、」)を挿入したり、文と文のあいだに空白スペースをいれたりと、若干の修正があります。修正後のほうが断然いい。この、便箋にのこされた文章は、はたして詩でしょうか、小説でしょうか、どちらでもない落書きでしょうか。なんなんでしょうか。この作品の語り手の、「◎右半分の文章」という注解によってこの文字列がフレームにはめられていなければ、そういう分類はできないし、意味もないことだとわかります。

無茶苦茶に書かれているように見えて、ちゃんと計算がいきわたっている。たとえば「馬鹿」ではなく「莫迦」という漢字の選択は、この文章をのこしたおじさん(そして宮澤賢治に憧れる諏訪哲史)にしかありえないチョイスです。今回再読してみて、「右の、手の、その、影の、」のところなんかに僕は北園克衛の詩を思い出したりしました。ほかにも、僕の知らない小説や詩の滋養が、隅々にいきわたっていると思しき精巧な作品。散文として読むと、ほとんど意味をなさないこの文字列の、それでも読み進むにつれて自分の中にいわくいいがたい何ものかを感じられるとするならば、それが諏訪哲史のいう「詩性(ポエジー)」なんでしょうね。いやー、何度読んでもしびれるなあ。 ずるして、ぴょんと飛ぶ。
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