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波多野陸「アフター・ジャスティフィケイション・オブ・ライフ」

出典:『群像』2013年10月号
評価:★★★★☆

語りのドライヴ感に緩急をつけて、この愛すべき「クソ野郎」の一人語りが、ぐんぐん読ませるものになっています。新人賞受賞作の生真面目さが先生に読まれることを意識して自分の調べたことをまとめた学生のレポートみたいなものだったのにたいして、この作品には語り手の「声」がいやおうなしに満ち満ちています。そしてその「声」に極端なかたちで体現されている叫びみたいなものは、就職活動という通過儀礼を経験した学生のなかには、おそらく共感できる人は多いはずです。

次の引用は、就職活動中の学生鷹三(たかみ)が耳にさしたイヤフォンから流れてくる音楽に反応する場面。

(前略──引用者)「ロッキーのテーマ」ことgonna fly nowだ。映画『ロッキー』を観たことがある人間なら、どんなに落ち込んでいようとも、どんな性質を持っていようとも、聴けば必ずトレーニングシーンを思い出してテンションが上がってしまう曲。この名曲がもしかしたら歴史上初めてその効用を発揮できていないのかもしれない。gonna fly nowは聴く者を、つまり今で言えば俺のことを陽気な気分にさせようと必死だ。だけど俺は、人類史上初のgonna fly nowに打ち勝った人間として鬱々とし続けている。するとgonna fly nowは、いや、もういいや、めんどくせぇ、ロッキーのテーマって呼ぼうっと、gonna fly nowって頭に思い浮かべると、日本語の中でそこだけ浮いて、しかも脳内音声でネイティブっぽい発音する始末だからなあ、で、どこまで考えたんだっけ?ていうか、考える意味あんのかよこんなことに、って、こういうふうに考え出したところで、今日の俺は考えるのをやめることが出来ないんだろうなぁ、そうかぁ、今日はそういう日かよ、いやだろうなぁ、もう、考えんのやめたいんだけどなぁ、って、またこれじゃループじゃん、もういいや、諦めようっと、さっきの続き続きっと、そまずは片づけないとね、えーと、どこまでいったんだっけ?(p.42)

この一人称語りの軽さ、リズミカルさ、脱線してメタになっていくところなんかは初期の町田康ばりに読んでいて楽しい。そこから、急に視点が切り替えられて三人称になると妙にかしこまった「である」調になったり、説明口調になったり、この転調していく文章は読んでいて心地よいものでした。面接(の妄想)中にいきなり過去の回想になだれ込むところなんて語りの層がかさなっていることを自己言及してしまいます。

ちょっと思いこみが激しすぎるのかもしれません、論理的ではないかもしれません。まあ、それもいいでしょう。要は、村上春樹だったら、私(という一人称を使う私を許してくださいね、何せ今、別のレイヤーでは面接中なものですから)だって名前を知ってるぐらいの超売れっ子ですよね?(p.55)

回想のなかで「スローターハウス5」を原書で読んでいる女の子に話しかけながら、しかし回想のなかであることを自覚しつつ、そのまま話を進めていく。「別のレイヤーで面接中なものですから」の変態的なことばには震撼しました。

こんなふうに幾層にもおりたたまれた時間がノリノリの語りのなかで垂れ流されていきます(褒め言葉)。この時間感覚や、上の女の子とのエピソードや、頻出するSo it goesの台詞にみてとれるとおり、『スローターハウス5』をこの作品の背景に想定することは読者のだれしもやることだろうとおもいます。いまどき『スローターハウス5』を持ち出すセンスは僕としては買いですね。携帯音楽プレイヤーのシャッフル機能のような語りと相同です。

しかし、この作品の語り口の「若さ」や「青さ」について考えてみれば、僕は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や、モブ・ノリオの『介護入門』の響きを聴きとってしまいました。前者は大人社会の胡散臭さや欺瞞に対して、後者は親族らの厚顔無恥や世間の老人介護にたいする考えにたいして、その独特の語り口で、あるいは「声」で、するどく切りこんで行きました。そして、いずれもその語りを発動させるイノセンスや、純粋さゆえに若い読者たちの共感を勝ち取った傑作。

本作の鷹三の語りの根っこにも、この「純粋さ」があります。そして、『キャッチャー』や『介護』同様その純粋さは分別ある大人からしてみれば、「世間知らず」や「幼稚さ」ともみなされかねない、紙一重あるいは表裏一体になったものです。21世紀の現在、その純粋さを維持するためには、『スローターハウス5』のビリーが戦線離脱したのよりも手前の、就職戦線にすら参加しない徴兵忌避(面接をばっくれる)になってしまうんですね。見方を変えればただの社会不適合者ですが(笑)、しかしその社会不適合者が語る語りには、就職活動や大人になることにたいしてついてまわる欺瞞やしょうがなさにたいするいらだちが満ちています。しかも、自分の純粋さは、その欺瞞等などをで撃つ方向にばかり向かわず、同じ衝撃でベクトルの向きを反転させて、「ちゃんと適応できない」自分にたいする自己批判へも向かいます。「世間の常識や分別のある大人たちのいうことは分かる、分るんだがそれに自分は適応できない(し、したくない)」という歯がゆさ。そしてその自分を傷つける衝撃がきわまったとき、思考は鬱状態にむかい、ひきこもりを志向するようになる。

あー、ちくしょう、ひきこもってりゃこんなことなかったのに、ちくしょう、ちくしょう、またひきこもりてぇ、ひきこもりてぇ、くそぉ、くそぉ。あぁ、そうさ、俺は普通になりたいっていつまでもほざいてる、人間の中で最も弱くて情けなくて能力のない人種なんだ! あぁ、大学とか下手に行くんじゃなかったよ、こんな「プライドだけは持ってます」みたいなクソ人間が生まれちまったんだからな! 生活能力のない、就活さえまともに出来ない木偶の坊がここに誕生しましたよ! ちくしょう、意味のないことしちまったなぁ! 意味はねえんだよ、知識とか教養なんて、生きていくためには結局邪魔なだけなんだ、意味のない妄想繰り広げたり、ひたすら自分の惨めさを覆い隠すために使ったり、現実を変えられそうにない理想論を抱いたりして、あー、全部無駄じゃねえか!(p.74)

「ふつうの人間」がなまじ教養をつけたためにその教養に邪魔され通しで八方ふさがりになっている。旧制高校的な身分文化としての教養主義が死滅した21世紀の現在となっては、大衆化した大学の大学生たちにとって教養とはたんにじゃまくさいもの、あるいは将来学者や作家をめざしている打算を隠しながら身につけるべきダサいものになってしまったのかもしれません。この苛立ちをこの軽く青臭い、そしてちょっとバカっぽい(笑)ことばづかいできちんと書けるのは、やはり書き手の波多野陸の今の年齢とその技量があってこそ。小賢しい学生レポートのような小説ではなしに、こういう生の声(や偽装された生の声)を響かせる小説をストレートに書けるんなら、それをどんどん書いてくれるとうれしいなと一読者としては思いました。
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