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中原昌也「司馬遼太郎に似た人 知的生き方教室 その十三」

出典:『文學界』2013年10月号
評価:★★★☆☆

お笑いの手法に「権威の失墜」があります。読んで字のごとく権威を失墜させることで笑い飛ばす、古くは風刺寓話から現代の漫才やコントにまで連綿と続く手法です。たとえば皇族や貴族、たとえば政治家、たとえば富裕者、たとえば社長や上司、たとえば大御所芸能人。それぞれがまとう権威の裏づけは血であったり社会的評判や身分であったりさまざまですが、とにかく人々からふだん「えらい」とされているものの権威を失墜させるわけですね。「えらい」は「遠い」ですから、その距離を縮めて卑近な例にあてはめたり、あまりにも日常的なあるあるのなかに落としこんだり、そうやって寓話や演劇のなかで「近い」ものへと変身させて笑いとばすことが権威の失墜につながるわけです。今回、中原昌也が笑いとばすのは「司馬遼太郎」。

いやもうタイトルがあまりに直接的で読む前から吹き出してしまったんですが、中身もそれに劣らず笑えました。司馬遼太郎を笑うために選ばれた舞台はファミリーレストラン。ファミレスでのコントが延々展開されます。具体的には、司馬遼太郎に似た人の噂をかねてから聞いていたらファミレスで発見して、そこからその男性に「あなたは司馬遼太郎に違いない」「いいえ、違います」というやりとりをしつこいくらい繰り返すという仕立てで、いわば司馬遼太郎をネタにどれだけボケられるかを試す作品。

語り手は「司馬遼太郎を限りなくリスペクトしている」とことばを変えネタを変え執拗に繰り返すのだけれど、そのどれもが「おまえ絶対司馬遼太郎を馬鹿にしてるだろ(笑)」と言いたくなるメッセージの書き方です。メッセージの内容と差し出し方との乖離をうまく笑いにつなげられているんですね。褒め殺し、というやつでしょうか。

中でも、とりわけ司馬遼太郎などを読むと、常に背中を押されて「私もこういう感じの文章を書けるよう精進しなければ」という気分になる。というか、一生かかってでも会得しなければならないという使命感のみに、私の文芸の魂は常に突き動かされている。(p.147)

典型的な誇張法ですね。「使命感のみ」という極端な限定、「文芸の魂」という大仰な比喩。そして司馬遼太郎の文章を見習いたいと言っている当のことばが「こういう感じの文章」という、司馬遼太郎がおよそつかわなさそうなぼんやりした言い方(笑)。メッセージとメタメッセージの乖離です。

司馬遼太郎が亡くなったのが一九九六年の二月。人気番組『マネーの虎』の放送開始が二〇〇一年十月。司馬遼太郎があと五年長く生きていれば……と悔やまれてならない。(p.148)

司馬遼太郎がもう少し長生きしていれば、『マネーの虎』のような作品を書いたにちがいないという仮定のもと、悔やむ語り手。「お前、どこが司馬遼太郎を尊敬してるんだよ!」と思わず突っ込んでしまいますが、しかし司馬遼太郎がもう少し長く生きていて『マネーの虎』のような作品を書かないとは断言できません(確率はかぎりなくゼロに近いといえど)。無意味な仮定です。

司馬遼太郎という人物が存在したおかげで、私たちはこうして平和な国に住んでいられるのだ。それには一生頭が上がらない……寧ろ、現代に生きる我々の方が、司馬遼太郎という人物に依って創造された世界に生きている、と言っても過言ではないだろう。(p.148)

創造主の地位にまで祭り上げられた司馬遼太郎。司馬史観といえば「明治の人間は偉かった、大正以降は軟弱になって堕落しつづけている(だから現代の人間は明治の偉人の生き方を学ぶべきだ)」と僕は理解しているんですが、その見方にしたがえば現代人が享受する平和は決してほめられたものではないはず。やっぱり「お前司馬遼太郎馬鹿にしてるだろ(笑)」と言いたくなります。しかし、この荒唐無稽な想像も、この通りの可能性はほとんどないだろうと分かっていつつも論駁できません。無意味な想像です。

それほどまでに司馬遼太郎に傾倒する人間であるから、とにかく憤りと呼ぶに相応しい感情がこみ上げ、天をあおいで気絶しそうな勢いであった。(p.149)

仰々しい表現。司馬遼太郎の歴史小説の、見せ場にならこういう表現も出てきそうなきもします。

と、こうとりだして来ると、この語り手の語る司馬遼太郎像がことごとくヘンテコなことには誰でも気がつくことだろうと思います。そしてそこが笑いどころ。しかし、ちょっと考えてみると、誰かに猛烈に傾倒するというのはこういう誤読が、その誤読をしている当人にとってこのうえない真実味を伴って達成されてしまう経験ではないでしょうか。当人と直接あったこともないのに、「この人は絶対こうだ!」と読者に思いこませてしまうなにかが、魅力的な作家にはあるのかもしれません(この人、のところにそれぞれあなたの好きな作家や、作家でなくとも尊敬する人物、スポーツ選手、歴史上の人物を当てはめてみてください)。こうなると、中原昌也はべつにこんなこと考えず勢いで書いているだけなんだろうとは十分承知しつつも一方で、他人の批判なんてものともしない壮大な「誤読」から傑作が生まれる可能性だってありそうだし僕はそういう本もぜひ読んでみたいです(99%以上は読めたものじゃないでしょうけど(笑))。

文藝春秋発行の『文學界』で司馬遼太郎を馬鹿にするというのは、いかに司馬遼太郎が偉い作家とはいえ物故作家だからできることなんだろうなとなんとなく思いました。たとえば『群像』で大江健三郎をネタに中原昌也はこういう作品を書けるんでしょうか。彼なら書けるか(笑)。ほんと場当たり的に自由に書いている印象の中原昌也。他の作家たちとも別に仲良くしたいわけでもなさそうだし、いっそこういう風に、他の同時代の作家や有名人を適当に茶化すような「作家モノ(有名人モノ)」で短編連作してくれれば面白くなりそうな気もしました。

(追記)この作品の素材は司馬遼太郎ですが、文体やユーモアは土屋賢二のエッセイそのものですね。
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