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羽田圭介「トーキョーの調教」

出典:『新潮』2013年9月号
評価:★★★☆☆

丁寧な作品でした。東京でテレビ局のアナウンス室に努めるアナウンサーの男性カトウが、自分の中のマゾ属性を開発していく話。この作品を「丁寧」と形容するのは半分褒めているんでもあり、半分ものたりなさも感じてもいるという、両義的な意味での「丁寧」です。

ほめているところからいうと、SMプレイの道具類やその道具をつかったらどんな身体的な感覚になるかよく調べられています。設定としてもテレビ局のアナウンサーという虚ろな仕事に文字通り奴隷のように従事する人間であれば、SMプレイを通じて自分が生きている実感、自分の体は自分のものだという実感を得たい衝動にかられるというのもちゃんと分かるようになっている。また作品の結構でいえば、カトウがたまたま頼んだ出張SMプレイの女王様が、表の世界ではカトウが講師をつとめるアナウンサー講座の生徒であったという奇蹟的な偶然、この作り物すぎる作為をとりあえずこの作品の設定なんだからと飲みこんで読み進めれば、全体の人物たちもじゅうぶんありそうなリアリティを備えています。だから作品全体としては、「作為的すぎる偶然」という一点を了解したうえでは隙のないちゃんとした作りです。

けれども、この「丁寧さ」は翻って、悪い意味での「教科書的」といいたくなる意外性のなさにも直結してしまっています。ここで書き手の言い分を勝手に代弁すれば「ディティールをちゃんと調べて小説の設計や設定もしっかり作っているのに、どこが悪いんだ!」ということばが返ってきそう。そしてこの反論は十分ごもっともでもあることは承知しています。その反論を分かったうえで、この小説は僕にはいまひとつノリきれなかった。

ノリきれなかった理由を考えてみるに、視点人物のカトウが、日々の仕事や私生活から疎外されていて、生の実感を感じられていないというところがまずあります。味気ない仕事、味気ない私生活。そしてどこか自分を俯瞰して、作中のことばでいえば「実況して」しまうような疎外感を、ずっと味わっている。SMプレイしているときに、仕事や私生活の平板さから解き放たれればまだいいのですが、プレイ中でさえ実況してしまう。実況そのものは十分面白かったのですが、視点人物が一貫して冷めているので読んでいる方としても単純に冷めてしまっていました。

「ホテルのカーペットに押しつけられた顔とは反対に、私の尻はマナ女王様の麗しきお顔に向かって突き出されています。頭に血が上りトランクスの生地越しではありますが尻の穴が無警戒に広げられるという心許なさ、これこそが隷属となることで得られる非日常性なのでしょうか。私は今まさに、性的に興奮しております」
(中略──引用者)
 調教された犬──局へ入社した一三年前、アナウンス技術を”調教”された。つい、職業病として身体に染み込んだ実況技能を用いてしまった。(p.68)

プレイの渦中で自分を客体化してしかも適切にすぎることばで実況し、直後もその瞬間を振り返って「実況技能を用いてしまった」と冷静さを上塗りするようにさらに解説を重ねる。顔は「合成顔(p.75)」といわれるような平均的な顔で、ことばも職業的調教によって自分らしいことばは徹底して奪われてしまっている。もちろん、そういう人物なのだから人物造形としてはこれで申し分なくって成功なんだけれど、じゃあこれを読んだ方は面白いかというと、うーんと首をひねってしまう。

徐々にプレイにも慣れていって、過激度も増していって最後のマナ女王様とのプレイでは、女王様に強制されてなぜ自分が乳首をつぶしてほしいかを実況させられたカトウは次のように訴えます。

「目の前にいる一人との関係性さえ構築できない人間は、社会や世界へ影響を及ぼすことなどできないからです。私がアナウンサーであるためには、愛子女王様たった一人と向き合うことに全力を注がねばならないのです。だから、潰してください。もう二度と同じ時間を共有できないかもしれないあなたと私のプレイのために、潰してください。乳首も惜しがるようでは、私は視聴者の皆様を裏切ることになってしまいます」(p.112)

ここまで、少しづつ段階を踏んでプレイの危険度を上げてきて、クライマックスにいたってもこうして自分の欲望を理路整然と説明してしまう。これではプレイの過激さとは裏腹に、カトウの語法は仕事や私生活における疎外された語法と全くかわりません。アナウンサーという言葉の人をつくっている語法を、過激なプレイをしても変えることができないわけだから、結局この最後のプレイにいたってさえカトウの芯の部分は同じままのように思えました。もちろん書き手としては、それまでプレイ中はマナ女王様、アナウンサースクールでは武内愛子と呼び分けられていた人物を、こうして「愛子女王様」とプレイ中に呼ばせることによって物語のクライマックスを演出していることは分かるのですが、これにしたって作り手の作為が見えすぎてしまっていかにも教科書的。悪いわけじゃ決してないんだけれど、意外性は全く感じませんでした。

「事実は小説より奇なり」ということでいえば、去年に河出書房新社から再訳が出たジャン=ジャック・ポーヴェール『サド侯爵の生涯』三巻本を読んで知ることのできた、通俗的なサド像とはことなるドナシヤン・ド・サドの一生のほうがよっぽど僕にとっては衝撃的でした。また、サディズムという思想にかんしていえば、合理を突き詰めた末にみえてくる反合理主義、いわば合理主義的反合理主義にこそ僕は圧倒的な魅力を感じます(そしてその思想を実現した小説を、サド侯爵の作品以外で、現代の書き手の作品で読みたいという個人的な希望もあります)。対してこの「トーキョーの調教」には、それらのいずれもが持っている魅力が全く感じられませんでした。

終始疎外された生を送るカトウによりそうかのような地の文も、かなり説明的で、しかもその説明の内容も別に今さら言われるまでもないもの(たとえばテレビ局で使われることばの言い換えや無害化)ばかりでこれも、僕には「いまさらそんなあたりまえのこといわれても」的な戸惑いしか残りませんでした。あたりまえのことを、教科書通りの小説の技法で、きっちりとまとめた小説ということで、悪い小説とは決して思いませんが、これをまた読みたいとか深く読みこみたいと思わせる魅力には乏しかったです。それとも、この小説全体を通して書き手の羽田圭介は、「現代はSMでさえ、人間を変えることはできない」というような逆説的な諦観を表現したかったんでしょうか。そうであるならばそのもくろみはそれなりに成功しているとは思いますが、しかし読んだ読者に衝撃をあたえるかどうかはまた別問題です。
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