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新庄耕「オッケ、グッジョブ」

出典:『すばる』2013年9月号
評価:★★☆☆☆

新入社員にたいする自己啓発系研修合宿の話です。今話題になっている離職率の高さやブラック企業といったホットなワードともつながるので、素材はいいし、いかにも今風なのも掲載紙のテイストに合っている。ただしこれを小説として読むとなると出来はいまいちでした。小説として書いているということは、裏からいえば、評論でもないし、報告書でもないし、学術論文でもないし、チラシのうらのメモでもない、ということです。これを小説で読む意義は僕にとってほとんどありませんでした。ブラック企業の実態調査報告や統計資料、あるいは新書の類を読んだほうがはるかに面白いに決まっています。

本作の主人公は木島オサムという新入社員で、平凡な人です。大学では、

貴重な四年間を居酒屋のアルバイトと学校の往復に費やし、その間わずかに差し込まれた音楽や映画の知識、体験を拠り所としていたに過ぎなかった。(p.29)

高校三年への進級にともない、仲のよい友人にならって大学進学を目指した。学校の成績は平均よりいくらか下で、もともと勉強が得意な方ではなかった。(p.35)

リア充度を十段階評価であらわすと、オサムのそれは3か4ぐらいでしょうか。いかにもパッとしない人。ただ、そういうどこにでもいそうな平凡な人間が主人公だからこそ、今社会問題として語られている就職関連の話題を展開するうえでは、広くうけいれられそうな人物であるともいえます。この、平凡な人間が自己啓発系研修セミナーでさまざまな体験をするものの、その体験を、ごく普通に、ありきたりに描写するだけです。これなら実際に仕事を辞めた人が語った体験記や、綿密な取材に基づいて報告されるルポルタージュを読んだ方が面白いわけで、いわばここで描かれている新人研修の様子は、生々しい現実を薄めて小説っぽい雛型に流しこんだだけのこしらえものにすぎません。書き手の新庄耕は、他のジャンルの読み物とくらべて、この小説のどこが見せ場だと思っているんでしょうか? 僕の読解力では読み取れない。

もっとも、冒頭でいったように素材の選択は「今風」であること以上に、発展のし甲斐はあるものだと思います。日本の小説の中で、重要なものにもかかわらず真っ正面から扱われる頻度がそれほど高くない素材として、宗教があると思います。人類が存在してから連綿と続いてきた営みのはずですが、出版界の事情か、多くの書き手が好まないのか、日本の小説のなかでは不思議と扱いが小さい。その宗教と、「オッケ、グッジョブ」の素材である新人研修とは、多くの共通項を持っています。たとえば、通過儀礼、内部集団の結束とその内部で流通する価値観の共有など。この作品も、そこに気づいてはいるのですが、深く掘り下げることはしません。宗教的な組織のしくみを比喩的に、あるいは批評的に展開するだけでもずいぶん面白くなった気がします。

トレーナーの高崎さんは、

「これから皆さんに挨拶をしていただきます。この挨拶をどれだけ本気でやったかを各チームで競っていただきます。挨拶は頭の良さも体力も関係なく、各自の本気度が顕著にあらわれます」(p.35)

といって、新入社員たちに大声で挨拶することを強要しています。ここでのポイントは、「本気度」ということばによって、主観でしかないものをあたかも測定可能な客観的指標として偽装しているレトリックがあり、かつその測定を声を出している当人にやらせている。見えない基準を内面化させて自己管理できる身体を養成するテクノロジーです。こうして従順な身体、従順な精神が形作られていく。この高崎トレーナーの目は、そしてその背後にある会社的価値観の強制は、一種のパノプティコンとして、新入社員一人一人の身体と思考を末端にいたるまで囲繞し、矯正するわけですね。声音や声量をコントロールする権限は、ほんらい極めて個人的なもののはずですが、ここでは一人一人の声が奪われ管理され、最終的には自分自身で本気度を測ることで自己管理することまでが目指されています。

新人研修に限らず、外の世界とある程度隔たった組織や集団内部では、こういうテクノロジーが、隠れたメッセージとしてすりこまれていきます。「隠れた」というのは、表向きではないという意味。伝達される際には、表向きのメッセージの裏側にひそかにくっついて、こっそりと伝達されてしまうメッセージです。この挨拶の例でいえば、表のメッセージが「本気で声を出せ」であり、裏の(メッセージ)が「従順な身体と思考を自己管理できるようになれ」。かつて学校や精神病院を対象におこなわれた研究で使われたヒドゥン・カリキュラムという概念は、現代では職場の新人研修に応用してみれば面白いものかもしれません。

書き手もそのことにはほんのり気づいていて(だからこそ藤井さんという反発する身体が作中に登場する)、いくつかの宗教めいた研修に対する距離をとった記述もみられたものの、とても表面的で、さらっと触れるだけ。作品後半のウォークラリーでは、オサムはまんまと鋳型にはまっていってしまいます。森を走って抜けた先に広がった海を目におさめて、

オサムは、自身の心の変化に戸惑いを覚えた。いつの間にか、突き放して見ていた研修との隔たりが失われ、肯定することを厭わない心境になっている。(p.59)

ここで用いられているテクノロジーも一種の近代的な身体を養成する詐術です。オサムは、「心」が変化し、あらたな「心境」になっていると勘違いしていますが、これは四十キロ近くも歩かされてへとへとになり、かつ身体を動かすことで高揚感もえられたという、あくまで「身体の」変化を、心ないしは頭の変化として取り違えてしまっているわけですね。断食とか、滝行とか、あるいはラジオ体操でもかまいませんがそれと相同なテクノロジーが作用しています。

といろいろ書いてきていいたかったのは、新人研修をそれそのものとして描くだけでは、ルポルタージュや実体験の告白録には及ばない、新人研修という素材を通してその向こうに見える、例えば宗教であるとか、近代的身体養成のテクノロジーであるとか、なんにしろもう少し抽象的あるいは普遍的な概念と照らし合わせられるようなパースペクティブを、この小説に与えられはしなかっただろうか、ということです。五年後、十年後も読まれる作品を残す気概がこの小説には全く感じられません。
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