スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

中原昌也「あらゆる場所に花束が……」

出典:『あらゆる場所に花束が……』(新潮社・新潮文庫・2005年)
評価:★★★☆☆

中原昌也を読み終わるなり、「こういう風に書いてもいいんだ!」とか、あるいはおこがましくも「これなら俺の方がもっとうまく書ける!」といった妄想を抱いた小説家見習いが結局は書けずじまいで死屍累々になったんじゃないかなと想像します。真似できそうと思わせるところがありながら実際にやってみるとたぶんできないですね、これ。

そんな中原昌也の三島賞受賞作です。読んでまず爆笑したのはネガティブなモチーフや言葉が、それはもう全ての文にわたって散りばめられているということ。

 引き裂かれたノートの他には、子供が作ったような三流美術品ばかりが捨てられていたので、壊れた家電を直して使うような人にも全く興味の湧かないただのゴミの山だ。おまけに腐臭の付いた埃が周囲に漂っていた。
 三流美術品は全部紙製。金紙銀紙を多用している点がより安っぽさを助長している。
 しかも、それらの作品が表現しているのは子供らしい無邪気さではなく、寧ろ疲労感や倦怠感といった類のものだ。見た目からして清潔さが欠如しているし……。
 そもそもノートは三流美術品群の仲間だろうか? 互いにゴミの山の中で調和を成しているせいで、同一人物によって一緒に捨てられたかのように見えた。(p.81)

ぱっと開いた一断片を引いてもこれだけネガティブワードが散りばめられます。「引き裂かれた」「三流美術品」「捨て」「壊れた」「興味の湧かない」「ゴミ」「腐臭」「埃」「安っぽさ」「疲労感」「倦怠感」「清潔さが欠如」。中原による文庫版あとがき読むと、ひどい精神状態のなかでこれを書いた、全然いい思い出ない、ということなのでそういう精神状態が少なからず反映したんだろうなと思います。ただしその「ひどさ」というのは、ただ単に一般的な意味での病的なものではなくて、もうすこし特殊な、「書くこと」に対する嫌悪感なのだそうで。

自己表現などという身勝手なものが、人が期待するほど、そんなに有り難いものなんかであるはずがない。しかも有り難いものでなければならない義務だってない。様々な感情が人の顔の種類と同じく微妙な差異で存在しているように、多様な表現が存在して然るべきなのだ。それを許さず安易な感情移入や安手の感情移入とやらだけが小説だの文学だの物語だのといって罷り通る世の中には、心から吐き気がする。怒りを覚える。(中略―引用者)幻想に取り憑かれ安定したと思い込まされている人々の人生に横槍を入れ、出来る限りイラつかせる。僕にもし、作家として信じるに足る誠実な仕事があるのならそれをやるしかないと思っている。(「文庫版あとがき」p.168)

こういう自覚がある限り、この作家は信用に足ります。そしてこの自分の、それでも(生活のために、あるいは横槍を入れるために)書かざるをえない状況にたいしても相変わらずどうしようもなさを抱えたまま書き続ける苦行!あとがきに記されたこの苛立ちがこの作品の端から端までにいきわたってのネガティブワード満載だったわけですね。中原「的」なものに感化されたと妄想して死屍累々になっちゃった亡者たちには、こういうやり場のない苛立ちの感性が決定的に欠如しているんじゃないかなと推測します。

中原昌也作品にたいして、「読めない」とか「こんなの小説じゃない!」なんていう人には、少なからず中原が吐き気を覚える「文学」なるものにたいして無自覚の信仰を告白しているんじゃないかと思います。そして同時にそういう人は、文庫の解説で渡辺直己がこの作品を伝統的な小説作品群の文脈のなかに位置づけてくれていますが、そういう伝統と歴史を忘却しているというかもともと知らない、無知をも告白しているのに他なりません。
スポンサーサイト

コメント

Secret

プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。