スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」

出典:『新潮』2013年11月号
評価:★★★★☆


ぱっと紙面をひらいてまずビジュアルに気を使っていることがわかります。ひらがなの多さ、改行の少なさに呑みこまれて、文字を読む前からもう作品世界にぐいと引きこまれる。また書きだしも語り手が何について語っているのかよくわからないんですね。いきなりなぞなぞをかまして読者の頭に「?」を叩きこみ、思考を活性化させて物語をはじめる。小説を書くことに意識的な書き手でないとこうはできません。その書き出しはこんな感じ。

 フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415。四十代まで430、野菜ブーツはいつでも500。512は雨のお墓で、夕方、女子がいつもたまっている大猫ベンチは607。(p.8)

名詞と数字が一対一対応でならべられていて、「なんだこれ?」となります。すぐ次の段落で

話しかけられると数がわからなくなってしまうから、ぼくはいつもうつむいて、できるだけ誰とも目をあわさないように、すれちがうときはきゅっと息をとめたまま、白い線のうえを歩いてゆく。ときどきひび割れてときどきとぎれる線のうえを、規則正しく、かくじつに、ぼくはスニーカーの靴底をぴったりつけてリズムをふんで歩いてゆく。(p.8)

とあって、なぞの数字はどうやら、どこかから出発して「フロリダ」(というお店?)や「丁寧」(というキャッチコピーが出ているポスター?)などに到達するまでの歩数であることが推測できます。

換喩の連発をこうみごとにやってのけた例をぼくは知りません。換喩とは…と、ためしにwikiをみてみると

修辞学の修辞技法の一つで、概念の隣接性あるいは近接性に基づいて、語句の意味を拡張して用いる、比喩の一種である。また、そうして用いられる語句そのものをもいう。メトニミー(英: metonymy)とも呼ばれる

とあって、なんのことやらその続きの説明をよんでみてもわかりません(笑)。僕なりに「換喩とは」をざっくり言い換えておけば、「あだ名つけ」です。

さて。この「ミス・アイスサンドイッチ」という作品は、タイトルをふくめて換喩=あだ名つけ、から成り立つ小説です。あだ名は、そのあだ名が何を示しているのかを知っている集団のなかではじめて機能します。たとえば、日本語を知らない人間にとって、「永田町」や「丸の内」は単なる地名でしかありません。「矢来町」も部外者にとっては単なる地名ですが、出版業界をしる人は新潮社のことを、落語が好きな人は古今亭志ん朝のことを思い浮かべるはずです。

で、大人の世界で流通することばでもいろいろ探してみれば、そうと意識しないほど擦り切れてしまった、いわば死んだ換喩はたくさんあるんですが、やはり「あだ名」となじみ深いのは子供の世界です。まだ、世間一般の常識や慣習を知らない子供は、「あだ名つけ」によって、自分のまわりの世界を固定していきます。死んだ換喩や死んだ隠喩にとりかこまれる前の、世界の生々しい感じとじかに対面しているのが子供の世界といえばいいでしょうか。子供の視点から語られる物語だからこそ、大人ならただの「白線」としか認識しないものを(というより白線という存在すら日常生活では無視するはず)、その「ひび割れ」や「とぎれ」にまで気がついていちいち描写しないではいられない。子供の目線に読者は同調させられます。

そして、世間一般の常識からすれば「整形手術に失敗した可哀想な女性」がミス・アイスサンドイッチなわけですが、語り手の男の子(小四)の目にはそんな風にはうつりません。

 ミス・アイスサンドイッチっていうのは、もちろんぼくがつけた名前で、それはミス・アイスサンドイッチをみた瞬間にぱっと決まった。ミス・アイスサンドイッチのまぶたはいつもおんなじ水色がべったりとぬられていて、それは去年の夏からずっと家の冷蔵庫に入っていて誰も食べなかったかちかちのアイスキャンディーの色にそっくりで、それで毎日あそこでサンドイッチを売っているからで、でも、ミス・アイスサンドイッチはそれだけじゃなくて下を向くとそのふたつの水色のうえにマジックで描いたみたいな、まるで目をつむってからもうひとつ目を描こうとして途中でやめにしたみたいなくっきりした黒い線が入ってる、すごいまぶたの持ち主だ。そしてふつうに前をむくとそれがぐんと中にのみこまれて、目がすごくすごく大きくなるのだ。(p.9)

となります。ここには一片の同情も、禁忌に触れた感覚もなく、ただただその他人とは違った顔のつくりに見惚れている様子があるのみです。何かに魅了されるという経験は、他人には通用しない自分だけにわかるレンズでその何かを見る経験に他なりません(恋は盲目)。そのレンズのことを、あだ名といいかえれば、ミス・アイスサンドイッチというあだ名でこの女性をとらえるものの見方に読者は同調させられてしまうんですね。以降、同じ視点で、同じレンズをかけて見えてくる世界を楽しむことになります。堅苦しい常識や「良識」にしばられない、自由な子供の目。それは、写実主義に否を唱えた、印象派の画家たちともどこかで通底するものでしょう。「俺にはこう見えるんだ、その印象こそを大事にしたいんだ!」

「よし、換喩をつかって小説を一篇書いてみよう」としたってこうはいきません。方法のための方法が前面に出た作品は、作者の押し付けがましい自意識を露呈するだけで、作為だらけの安っぽい作品にしかなりえません。世界の生々しさにじかに触れる目を持つ子供、そしてその子供の視点から語られる物語を描いたら、結果としてこうなったというのがこの「ミス・アイスサンドイッチ」の真相でしょう(とひとり合点)。本物の書き手とは、こういう達成をやすやすと──本当はすごく苦労、努力しているのかもしれませんが、読者には舞台裏を気取られないように──やってのけるんだなあと恐れ入った作品でした。
スポンサーサイト

コメント

Secret

プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。