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KSイワキ「さようなら、オレンジ」

出典:『太宰治賞2013』(筑摩書房)
評価:★★★★☆

2013年の太宰賞受賞作の評判がよいようなのでつられて読みました。単行本化するにあたって著者名はKSイワキから、岩城けいに改名されています。名前の由来や執筆背景についてはご本人のインタビューがありますので興味あるかたはそちらもご覧いただければ。

 リンク→ 太宰治賞を受賞 KSイワキさん(42)「ビックリ、私、専業主婦ですから」(MSN産経ニュース)

アフリカから難民としてオーストラリアにやってきたサリマという文盲の女性が、シングルマザーとして仕事と子育てをこなし、さらに英語習得を通じて自分を語ることばを獲得していく物語です。今の日本の状況と照らし合わせてみると、日本の識字率は極めて高いので、一見この話はピンボケでは?と思いそうですが全くそんなことはない。ちょっと想像力を働かせてみましょう。大正生まれくらいの人なら文字の読み書きに不自由する人はいました。戦後でも在日朝鮮人第一世代の人たちや、あるいは現在でもブラジルなどからやってきた出稼ぎ外国人労働者が、自身の日本語運用能力の低さに由来する苦労を体験しているはずです。もう少し想像をひろげてみれば、日本のような識字率の高さを誇る国のほうが世界のなかでは特殊です。こうして日本語で小説を当たり前に読める──もっとも本当に「読めている」かどうかは僕自身もふくめて疑ってかからねばなりませんが──僕たちの、壁一枚、あるいは国境ひとつ、あるいは時間の数十年をへだてたお隣には、文字から疎外されて暮らす人々というのは数多いはずです。だから文盲の女性サリマのことばを習得するプロセスは今、読まれなければならない。

もう一つふたつ個人的な話を付け加えます。外国語学習をするときに、とくに「聴く・話す」で自分の存在が揺らいだり、不安になったりする経験はなかったでしょうか? 僕の出身大学のある講義で、外国人の先生がやってきて、「さあ、語彙を習得するにはゲームが一番だ」といってパズルゲームみたいなのを毎回やらされたときには小学生あつかいされたような気になりました。不満を述べようにも、外国語によってだと直接的な言い方しか思いつくことができません。とうのたたない表現や、穏便ないいまわしでもって先生に不満を伝えるような微妙なニュアンスをことばにできず歯嚙みした思い出があります(ことばのあつかいにおいてはたしかに小学生レベルと変わらなかったでしょうね)。それに今だって、仕事をするなかで、「こんなの誰が読むんだろう?」と思う書類を義務で書かされることがままあります。これらの背景が僕にはあるので、サリマの体験する「ことばから疎外される」状態は、決して他人事ではありませんでした。大仰な言い方をすれば、言葉と存在の乖離とでもいえるでしょうか。

そうなもんで、僕はサリマのパートを読むのも楽しかったんですが、むしろもう一つの手紙のパートのほうにより感情移入しながら「そうだよな、そうだよな」とうなずきつつ読むことになりました。手紙のパートとは、サリマの話と交互に語られるアジア人女性サユリの手になる手紙の文章からなる部分です。サユリは、サリマとは違い母国語で学士論文を書いたくらい母国語に通じてはいます。けれども外国語のなかに放りこまれると、たちまち母国語なんて何の効果ももたなくなり、とたんに無力になってしまう。サユリが生活を続けるためにアルバイト探しする場面。

「生鮮食品加工のパートタイマー経験不問」の求人をみるなり、ほとんど衝動的にカウンターへ走り寄って、あの仕事に興味があると店員さんに伝えていました。その店員さんが私の言葉遣いとアクセントを耳にして、いやな笑い方をしたのを私は見逃しませんでした。(p.62)

と、ことばによる差別に直面しています。もっとも、これはサユリ視点からの語りなので「いやな笑い方」の原因は本当にサユリのことばづかいによるものなのかは不明ですが(うがった読み方をすれば、ことばの問題で頭をいっぱいにした彼女が因果関係を取り違えたかもしれません)、ともかくもそう語られている。

ちなみに、サユリの夫はチョムスキーを研究対象にしているようです。チョムスキーの根底にある「人間みな平等」みたいな思想を夫が机上で学ぶのにくらべて、妻は日常生活のなかでことばの不平等を肌で感じているところがなんとも皮肉でした。僕の実感としては圧倒的にサユリ寄りなんだなあ。オーストラリアのスーパーのレジで働いている人なんて、オーストラリアで暮らす人のなかでは決してことばの運用能力は高くないでしょうし、さらにいえばオーストラリア英語じたいが英語圏のなかでは「田舎者」みたいに見られているでしょう。こうしてことばの、本来ことばそのものからは導き出されるはずのない階層構造が、人びとの暮らしのなかで実際に運用されるなかで、区別や差別を何重にも生み出すことになります。

だけど翻って、ことば遣いが拙いことがいつも「悪い」のか。「そうはならない」という見方を取りこんでいるところが、この小説に膨らみを持たせています。母国語の運用能力に長けた女性サユリの手紙パートと、母国語がなんなのかもわからないままただ生きるためにことばを習得するサリマのパートとが、互いに呼応しあって、「ことばを習得するとは何なのか」という根本的な問いが深められていきます。次の引用は、サリマが「私の故郷」というテーマで、習いたての英語をつかって、アフリカでの体験を書きつづった場面。

「私の故郷」というテーマにもかかわらず、サリマには故郷とか国の意識がなかった。ただ彼女に起こったことだけを、サリマは書いた。「弟たちを外であそばせて自分もいっしょにあそび」「かけっこも、うたもうたった」。そこにうれしい、かなしい、さびしい、たのしい、といった心の動きを表す言葉は一語たりともなかった。(中略──引用者)話の締めくくりは、これがまた飾り気がまったくなくいきなり終わるのだが、ぶつりぶつりと、それこそ大きな肉の塊を並べ立てたようなごつごつした文章なのに、響くものがある。(p.66)

と、まさに受肉したことばでもって、サリマの存在から肉を切り出すかのような作文がかかれます(全文は作品で)。複雑な言い回しなどひとつもない。難しい語彙も全くない。けれど、語り手(あるいは書き手)の肉に食い入るようなことばは、どんな拙いことばであっても、どれだけ文法的に「間違い」であっても、というよりそうであるからこそ読み手を魅了することがあります。サリマが獲得したばかりのことばで自分のことを語ったくだりは、まさにそんな幸福なことばとなりえたのでしょうね。

こうした作品の内容だけでなく、作品全体の構成も最後までよんで楽しめるものでした。なぜ手紙パートとサリマパートに分かれていたのかが一気に解決されるところまでくると、「なるほど」と納得させられる爽快感を得られました。人間とことばとの関係をテーマに据えながら、その大きなテーマに押しつぶされることなく一篇の小説=フィクションとして書き上げられた「さようなら、オレンジ」は、たしかに僕が今年度読んだ日本語の小説のなかでも上位にくる作品でした。
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