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福永信「三姉妹」

出典:『群像』2012年7月号~10月号
評価:★★★★☆

小説らしくない小説を意欲的に発表している現代作家として、青木淳悟や福永信の名前があげられます。書き手たちにしてみれば「これこそ小説なのだ」といわれるのでしょうが、彼らの書くものを読んだ人の多くは「うん、小説ですね」と素直にうなずけはしないはず。そうするより先に「何だこりゃ?」と自分の前提、小説観を逆に照らし返されて混乱し、「ま、まあ、こういう作風もありだよね。これも小説」と分かった風を装って戸惑いまじりに自分を納得させるというプロセスをたどるんじゃないでしょうか。そうならないなら「こんなの小説じゃない!」といって読むのを途中で投げ出してしまうか。僕自身は正直にいえばこの二種類の読者の間を、青木作品なり福永作品なりを読むたび一作ごとに行ったり来たりしています。けれど不満は別にありません。少なくともありきたりの駄作で満足してしまわない挑戦的な姿勢は買っているつもりです。僕の読解能力が追いつけないときがあるだけです(笑)。

さて、今回の「三姉妹」は単行本化するにあたって「戯曲+ノベライズ」という別々の形式にわけて一冊の本に収められたようですね。僕の手元にあるのは「三姉妹」の初出となった雑誌版。これら四冊から想像してみるに、雑誌版で四回に分けて四兄弟が語るパートと同時並行的に作中ページに挿入された(のちに作品自体を侵食することになる)「今号のあらすじ」というパートが、ぞれぞれ「戯曲」と「ノベライズ」という風に分けられたのでしょう(間違っていたらごめんなさい)。連載作品は連載終了してからまとめて読むようにしているのでうかつでしたが、これは連載と同時によんでいくのが正解でしたね。

つい昨日感想を書いた船越素子「ひべるにあの巣籠り」のところで「僕は戯曲が読めない読めない」と書いたものの、これは読めました。雑誌版だと、この作品のどこにも(あるいは目次にも)、この作品のジャンルを「小説」とか「戯曲」とかジャンル分けする言葉がないんですね。ということは、意識してこの作品をいずれともつかない、いずれともとれる形式として発表しているのだということが分かります。よくよく読んでみれば、作品の初めに

 第一幕 タバコと貝について

 時──二〇一二年七月

 所──高台

長男 心を鬼にしていうが……どうかその手にもっているものを投げすててくれ。どうか、そのポケットに入っているものをいますぐ出しなされ。かくさないでいいから、おこらないから、どうか、その背中にまわした手を、前へ出してください。どこにもつながっていないのだからね、ほんとうは。どこにも、だれにも……
 だれにも伝わっていないのだからね、そんなものを、駆使したところで、なんにも。すべて独り合点なのだから……
 だから、なげすててくれ、どうか、そんなものと、そんな一人芝居からは。高価なものだからといって、ためらわないでくれ。いかにそれが人を蝕むものであるか、よく理解し、そんなものとはおさらばしてくれ。あらたな……
 あらたな出発をする気持ちで、これから再生するんだと、そういうこころがまえで、がんばろうじゃないか。みんなで、手をつないで、前を向いて、ひとりじゃないということを、確認して……(p.18)

とあって、「第一幕」のことばから分かる通り、戯曲形式に読めます。あるいは小説中劇か。もっとも、僕が読み進めていたときの意識は戯曲というよりは、フォクーナーのような、現実世界ではありえないような息の長い一人がたりが延々とつづく、どちらかというと小説形式のモードでした。

さて、この「長男」という語り手が「○○してくれ。○○しないでくれ。」とひたすら懇請する形式で語りかけてきます。こんな連発で懇請する語りって珍しいですね。小説ではなく詩集で、焼き捨てられてしまって僕の手元にはすでにありませんが、オノヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』がたしか、「○○しなさい」という命令形だけからなる作品だったかと記憶しています。で話を「三姉妹」にもどして、この「○○してくれ」が延々つづく語りに辛抱強くつきあってみても、いったい何が起こっているのか、どんな人物が何について語りかけているのか一向見えてきません。これだけだと脱落する読者続出必至です。が、雑誌版だと同時に「今号のあらすじ」というかたちで、この語りがなされている背景、コンテクストが語られます。こんな感じ。

今号のあらすじ
 コミュニケーションの利便性を高度に追求した結果、人々は人間性を完全に喪失していた。二〇一二年七月、そのことを憂う口下手な四兄弟が立ち上がった。長兄は、多機能携帯電話を廃棄し、貝がらを耳にあてるよう訴える。そうすることで、人は心を鎮めることができるという。しかも、本来は聞きとれぬはずの声と交信することまで可能になり、それによって豊かな人間性を回復することができるというのだ。ただ、残念なことに、大人は貝がらを耳に当てる機会がめったにない。他方、子供は積極的に貝がらを手にし、それをごく自然に耳にあてる。(p.19)

正直、この「今号のあらすじ」がなければ僕は読むのを途中でやめていたでしょう。「今号」のあらすじで語られる内容で安心を手に入れるととたんにつかみどころのなかった長男による懇請が読めるようになります。そうか、この言い淀みや中断の多い語り口は「口下手」ゆえなのかとか、「投げすててくれ」と指示されているのは「多機能型携帯電話」なのか、とか。

あとを読んでいけば分かりますが、四兄弟のとくに長兄と次兄が中心となって、多機能型携帯電話と貝がらとを人々に交換させる話になっています。ちょっとしたSFっぽい筋立てになっていますが、SFというよりは一つの風刺寓話として読めますね。多機能型携帯電話でアプリにつかり自らを機械の末端化してしまう人間像があり、もう一方は貝殻に耳をすましそこに聞えないはずの音を聞き取ろうとする人間像がある。この二つの人間像に象徴される存在をもうすこしいいかえると、前者を「安心」に馴れきった受動的人間。後者を「不安」に耐えられる能動的人間。あるいは、レクトゥールとリズール。

実際、僕はこの小説の出だしからつづく、長男によるどこに向かっているのか見当もつかない懇請に「不安」になって、とてもこの作品を読み通せない、と雑誌を投げ出しかけたのでした。けれどもそんな僕に餌を与えるかのようにして、「あらすじ」があたえられ、そしてこの「あらすじ」によって読みを一定の水路に方向づけられた。そうされることによって、「いろいろ解釈したり想像したりして作品を楽しむ読者の自由」とひきかえに、「読み方を教えられて得られる安心」という禁断の麻薬にありついたわけです。家畜根性まるだしの、自ら進んで奴隷となる読者こそこの僕。自由からの逃走(リースマン)です。このあたりが冒頭述べた、自分の小説観を照らし出す作品という所以ですね。

さて、もう少しこの「三姉妹」全体のことを。結局この作品を強引に内容と形式に分けるとすると(そんなことはできないという原則論は百も承知ですが)、連載が一回目、二回目、三回目、四回目と進むにしたがって、兄弟の語りパートと、あらすじパートとの分量が逆転していきます。初めはその量からいえば、語りパートが主だったはずが、最終回にはあらすじパートが作品全体をのみこんでしまう。これについて風刺寓話風に僕なりに読み解いてみましょう。

近代小説の母胎は戯曲です。小説の世紀にはいって多数の小説を生むフランスにかぎってみても、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』を例外的に早い事例とみれば、戯曲の傑作が生まれる時期のほうが小説のそれより先んじています。戯曲の隆盛から小説の世紀をへて現代へ。受容者も、王侯貴族から、新興中産階級(ブルジョワ)、インテリ、マス・インテリ、大衆へとどんどん広がって現代へ。

ということはこの「三姉妹」という戯曲とも小説ともつかない連載作品は、このひとつの作品のなかで、教養のある少数の選良が楽しむ戯曲・小説の時代から、ことばはきたないですが、アホでも読める大衆小説の時代へ、という数世紀を、圧縮して表現してみせた作品ともとれます。そして同時代作品としてこの本を手に取る読者の多く──「多く」というのはあくまで僕の想像でしかないですが──は、「あらすじ」のパートを与えられてやっと「安心」を得て満足し、カタルシスを味わう読者です。わざわざ貝殻を手にとって、そこに聞えないはずの潮騒をあえて聴き取ろうという苦労もせず、のうのうとあらかじめ用意された世界観を受容するだけで満足する読者(僕も含め)がここでは風刺されています。

こう単線的な歴史と重ね合わせてこの作品を語ってきましたが、しかしこの作品にはもうひとひねりあります。連載第四回目の「あらすじ」パートが全体をのみこんでから、それまで語ってきた内容が繰り返されるくだりがある。これも歴史とあわせて読んでみれば、「歴史は繰り返される」というおなじみの箴言に帰着しそうです。ということは、現在の読書界を覆う停滞した雰囲気(そこでは「面白い作品を!分かりやすいストーリーを!」の大合唱です)を払う/祓う時代が、またやってくるという希望が語られているのかもしれません。その希望を語るパートが「あらすじパート」だというのがなんとも皮肉です。そしてそんな時代の到来には僕自身、極めて懐疑的ですが。

自分の理解力を棚に上げて「何だか分らないけどこの作品好き!」みたいに言っちゃえる能天気な自己愛まみれの感想を臆面もなく吐きだす読者(「この作品が好き」ではなくて「この作品が好き、だといっている自分が好き」)を別にすれば、僕たちは福永信の「三姉妹」という挑発的な作品を前にして、どのように受容するのがよいのでしょうか? 僕たちの耳は、貝がらから潮騒を聴きとれるでしょうか?

(追記)自由からの逃走は、リースマンでなくてE.フロムでした。読み返すたびに恥ずかしさを思い出して自分への戒めとするため本文中にそのまま残しておくことにいたします。

(追記)「貝殻に耳を澄ませる」という表現をとりいれた詩や小説は数多くあるかと思いますが一例として西脇順三郎訳のコクトーの詩から。「オレの耳は一つの貝殻である/海の残響を愛す」
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