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日和聡子「かげろう草紙」

出典:『群像』2013年11月号
評価:★★★★☆

 虚屋敷漏(あきやしきもる)こと深谷弥惣介(みたにやそうすけ)は、日暮れ前から境内の一隅にて茣蓙を敷き、その上へ風呂敷に包んで持参したる自家製の草双紙を幾冊も並べ置き、所狭しと詰んで詰んで軒を連ねたる夜店の前をだりだり冷やかして歩く参詣人に、誰彼の別なく出来合の売り文句および口上を述べ立てて、「これこれ」「さあさあ」なぞ繰り返し呼びかけるも、これに答うる者さらになくて、店先にて足をゆるめてはやがて通り過ぎてゆくだけの客ばかりを幾らかは得た。(p.66、丸括弧内は原文ルビ)

冒頭からなにやら古めかしいことばづかいで作品世界が立ち現われる、日和聡子の「かげろう草紙」。深谷弥という草双紙作家が自分の書いた作品を手ずから店頭販売している場面が話の幕開けです。この出だしの部分だけだと「なんだか古めかしいな」とか「読むのめんどくさいな」といっていきなり読むのを止めてしてしまう読者もいるかもしれません。逆に「なにこれ、見慣れない。楽しい」と興味をひかれる読み手であればむしろ歓迎するのでしょうし、書き出しだけで損をしてる部分と得をしてる部分があるなあと思いながら読み進めました。もっとも、この作品に限っていえば多少見慣れない体裁であってもすこしつきあっていけばきっとこの作品世界に魅了されているはずです。読んで損はない。

詩を書く日和聡子だけあってことばの使い方、はたらきに自覚的なのが読んでいけば分かります。てっきり作品舞台を近世ものとしてうけとっていると裏をかかれる。次の引用は、深谷弥の店にやってきた客が、店頭の本をすべて買い取ると申し出、「三両はらう」と言った場面。

「あッ、その──、果たして両、両でもその、いいのかしらん? エー、一両……、はすなわち何圓? それをすばやく圓に換算すると──」(p.70)

とあって、両と円が同時期に使われている。ということは明治維新直後の状況なのか? と読み方を修正するもすぐにこの見方も変更を余儀なくされる。次は、深谷弥がお面屋さんに出向いた場面。

商品棚には藁や竹でこさえた笊のようなものに穴をあけただけに見えるプレーンなものから、木や土や石膏や紙や網や藁などさまざまな材料からできた多様な形状と表情と装飾を持つ御面の数数が陳列されていた。(p.74)

棚の端の方には、《SALE》と書かれた赤紙が貼られていた。(p.75)

おもわず《SALE》で吹きだしました(笑)。「プレーン」にしろ《SALE》にしろ、100年200年前の世界に、ふと現代的なことばが挿入されるとそのミスマッチが思わぬ効果を生み出すことがありますね。高橋源一郎『日本文学盛衰史』のなかに、横瀬夜雨(明治生まれの詩人です)がナイキのロゴ入りの車椅子にのって近所を爆走したという偽史エピソードがふと僕の頭をよぎりました。この作品も、ことばにまとわりつく時代性を意図的にハイブリッドすることによって、この作品のなかでだけ実現するリアリズムを成立させています。日和聡子空間とでもいえばいいんでしょうか。こういう意図を読み手が(勝手に)了解すれば、

「身体の大きな、御背の高い、墨と青の隅取りの入った白塗りの御面をかむっておられた、こちらの御店の御主人さんのことですよ。」
「あ? いや、ご主人、つうか、店主? つったら、自分ですが。」(p.76)

という軽い調子も難なく読める。これも引っかかりある人はやっぱりあるんでしょうけど、この書き手の創造する独自の空間を、一種の漫画のようにして読んでいくモードでよめば全然抵抗なく読めます。漫画原作になっていたっておかしくないですよ、これ。

しかし単に漫画原作になるだけでは小説として立つ瀬がありません。そこには漫画にかぎらず映画にしろ音楽にしろ他の表現媒体ではあらわせない(あらわしにくい)小説の特性がないといけない。本作では中盤あたりから、「書くこと」あるいは「語ること」についての哲学的なアイディアが展開されます。もっとも、肩肘張った議論やお説教臭い自説開陳であればその部分だけが作品から浮きあがって失敗作になってしまったかもしれません。しかし本作はそんな危惧とは無縁の、あくまでこの作品の面白おかしさを保ったままでのアイディア披露となっている。作品の舞台や登場人物の設定、アクションとうまく噛み合っているアイディアなのでそれが説得力を持っています。

深谷弥の草双紙が、文字通りに食べられている光景を前に、深谷弥はこんなことを思い出します。

「自分にとって、書を読む、とは、それは書を食らう、ということにほかなりませんですね。」と誰かが誰かの質問に答えてそう述べていたのを何かの記事で読んだ気がする(p.77)

食べているのはお面職人で彼が好む紙とは

紙は文字が書かれたものしか、召しあがりません。白紙だと味が足らないのでしょうか。

と、脇から注釈されています。たしかに僕たちはことばのうえで、じっくり本を読むことを、「味読」といったり、深い内容の本を「味わい深い」と褒めたり、下手な表現を「まずい」と形容したり、作品を作るまえの資料を「素材」と言い表わしたりします。ものを書くこと(読むこと)と、料理(食事)は相性のいい関係にあります。概念メタファー風に、WRITING IS COOKINGといってみたくもなります。

あるいは草双紙に代金として支払われた三両は、実は葉っぱであったことが判明すると、

「この葉っぱの裏に、こうして引っ掻いて金額を書き込む。それがその金額の価値を持つ。いわば小切手ですよ」
(中略──引用者)
「そんな馬鹿な話があるでしょうか。私は騙されているような気がしますが。」

というやりとりが繰り広げられます。古典的な仕方でつくられた贋金だったわけですが、この考え方も贋金を手掛かりとして「フィクションとは何なのか」に繋がって行きます。紙に書かれたインクのしみでしかない文字がつらなって、読み手に解釈されていくことで一つの世界が立ちあがる。それはいわば贋金をつかまされているようなものでありつつも、読み手はその贋金を喜んで摑みにいく。精巧に作られた贋金であればあるほど読み手は喜ぶ、そういう傾向がフィクションにはあります。フィクションとしての小説なんかよりもさらに強い形で、今を生きる人々の多くが信じているものが「貨幣」ですよね(紙や金属、あるいは電子上のデータにしかすぎない数字を、あたかも価値があるもののようにみなしてコミュニケーションが成り立っている奇跡を想起しましょう!)。こうかんがえてくると、貨幣と読書の関係にも重ねあわせて語ってみることで面白い鉱脈が見つかるかもしれません。

本作では、こうした言語表現の不思議さやフィクションの成り立ちについての洞察が、作品世界(参詣人でごった返す夜店、草双紙作家、御面作家、贋金)とうまくとけあって独自の表現たりえています。ひとつのまとまった洞察を、読者を圧倒するクオリティで提出するには分量的には苦しいものがありますが、日和聡子にはぜひこのクオリティで、書き手本人がへとへとになるまでさらに深く深く鉱脈を掘り進んでいって欲しいです。そうやって書かれた中・長編の登場を待ってます。ともあれ本作も、笑えて考えさせられるお見事な短編でした。ごちそうさま。
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