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荻世いをら「宦官への授業」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★★★☆

正の数があれば負の数がある。実数があれば虚数がある。何事にも反対あるいは裏がある。本作を読みおわって抱いた感想はこれでした。一種の論理操作のように、Aを描いてから¬Aを描く、その執拗な反復で物語を動かしていく作品。読み終って圧倒されたので星5つでもよかったんですが、若干引っかかってしまったところもあって4つに。でも限りなく星5つに近いです。

本作は、都内の私大に通う学部生の天生目誠(あまなめまこと)が、死期の近い資産家で「幸福」と名のる老人に世界史の家庭教師として雇われる話を縦軸に、老人を取りまく人々から語られる老人像を横軸に話が展開していきます。老人と青年、なんだか通俗的な「いい話」に収れんしそうな予定調和感満々の設定ですがこの荻世いをらという書き手は常にありきたりを裏切って彼独特の世界を見せてくれます。実際、視点人物の誠にそくしてこの作品の開始早々

(誠は──引用者)言うまでもなくアルバイトを幾つか掛け持ちしており、やがてそれらは一つの仕事に収斂することになる──不幸にもその仕事とは、他人の陰茎探しのことで、つまりこの小説は陰茎をめぐる冒険譚である。(p.158)

いや、僕が下ネタ大好きだという好みは置くにしても、作品序盤で「失われた陰茎を求めて」とぶちあげられては食いつかざるをえません。タイトルにある宦官という単語が示唆するとおり、「あるはずの陰茎がない」話なわけです。この嘘のような話が、ときに前衛詩のような光る表現をまじえて書きつづられていく。一風変わった文章表現が小説に出てくる場合、作品全体にしっくりはまっていれば大成功です(単文では面白い文句であっても全体と響きあわなければちぐはぐな印象だけが際立ってしまう)。本作は、「宦官」とか「失われた陰茎」とかにわかには信じ難いモチーフを語るにはうってつけのシュールレアリスティックな表現満載。また表現の一つひとつが肉体的な感覚と結びついていて、言葉だけでうきたっていないところに書き手のセンスを感じました。たとえば誠が点字の読解を練習する場面

五時間近く指でなぞり続けた結果、誠は朦朧とする。横になったはいいが、眼を閉じると指を動かさずとも指から生じたイメージが勝手に動き出しはじめるのである。指から勝手に言葉が生えてくる、意味が生えてくる、その、感覚について彼はあまりにも無防備であった。指紋が目まぐるしく字に変わっていくのだ。指に言葉の繁殖する感じが脳の芯に直結する感じ、本来そこは繋がるはずないのに無理に繋げられ否応なく駆動する感じ、そのくすぐったさ、もどかしさ、その引き攣り、強引さが知恵熱を発生させないわけはない。次から次へと言葉が入れ換わる。(p.172)

指で文字を読むというのはこういう感覚なのか、こんな世界が指先から広がるのかと、目の前が開ける思いでした。指で文字が読めるようになると

誠は川端の点字版『雪国』を読みはじめる。幾度も読んだものだが、今度は違う。荒れ狂う孤独の吹雪を指先の暗闇で感知するのだ。(p.174)

僕は『雪国』を最後に読んでからもう何年も経っているので断定できませんが、『雪国』という作品のなかに荒れ狂う吹雪はでてこなかったような気がします。しかし「指で」読めば、眼で字面を追うよりも、描かれた情景の冷たさや風圧が倍化されるのかもしれません。

また作品の大きな柱として、Aと¬Aの共在がさまざまの形で変奏されます。本作の虚空の中心ともいうべき切り取られた陰茎にしても単なるそれではなく、

すると彼女は観念したように、幸福にはまだ陰茎が残っていると打ち明けるのだ。それが自分の予想していた通りのものだったことに誠はほくそ笑む。だが実際はそう甘くはなく、本当のところはむしろ彼の予想の反対、想像の斜め上のさらに上を行くものであった。つまり恐ろしいことに、陰茎が残っているのは幸福の脳の中だけ、幻肢痛という形で残っているのだと聞かされるのである。(p.197)

と、「あるはずの陰茎がない」はずの陰茎が(脳内に)ある、という裏返ってまた裏返るという状態で表現される(笑)。作品の細部においても例えば

二人はマクドナルドに入り、長い無言の会話の後、解散する。(p.208)

左から聞こえるはずのものが右から聞こえる。(その反対はない。)(p.212、カッコ内は原文)

などをはじめとして様々に、Aと¬Aあるいは対称性への配慮が徹底されています。そもそも漫然と読むだけだと意識しないかもしれませんが、本作の文体における文末表現は、単純否定や二重否定、あるいは緩叙法が頻出しています。作品のテーマが文体と呼応している見事なつくり。一方を肯定すると他方が否定され、一方を否定すると他方が肯定されるという趣向は最後の最後まで徹底しています。

 驚くべきことに、文字通り目に見える形で存在していた証拠が、そうは見えなくなった途端、その代わりとでも言わんばかりに幸福がこれまで語ってきた彼自身に纏わる物語が、見る見るその実在を現し始めるのだった。当然の流れとしてそれを皮切りに誠の中のあらゆるものが裏返ることになる。つまり陰茎が裏返り、性が裏返り、言葉が裏返るのだ。凸面から凹面へ。あるいはその逆のことが彼の中で起こりつつある。幸福の歴史が実体化し、さっきまで陰茎だったものが幻想と化している。点字に圧迫された指先のへこみが反転して突起し、さっき読んだはずの言葉が指先から生えてくるのである。(p.220)


これだけ書き手の意識が高く、かつテーマも文章も申し分ないんですが最後に引っかかったところを。過剰に文学くさいところ、そういう要素を僕は「お文学」と呼んでいるんですが、本作のなかにお文学的表現が散見されてもったいなく感じました。一箇所だけ例にとれば

言い古された表現だがつまりそれは、手術台の上でのミシンとこうもり傘そのものの出会いで、(p.221)

とあって、純文学雑誌を手にとるニッチな読み手ならこの比喩がロートレアモンの言葉だともちろん十分承知しているはずで、こういう作風の作品のなかにこの表現がでてきても書き手が分かってやっていることだと忖度できるはずです。が、「言い古された表現だが」という言葉には、書き手の衒いにたいする照れ、あるいは言い訳を読み取ってしまいました。そんな前置きするならいっそのこと書かない方がましです。それに、これだけの素晴らしい文章を緊張を保ったまま書きつづることのできる力の持ち主なので、こんな借り物の表現をここで照れながら引用するのならば、それよりもこの表現をうまくもじるとか、全く新しい表現に挑戦してみても十分勝算はあるはずだと僕は信じます。
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