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前田隆壱「アフリカ鯰」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★☆☆☆

読んでいる最中も読んだ後も特に引っかかりを残すようなところがなくスルッと読めてしまいました。それは僕のいままで培ってきた経験(読書もふくむ)とここで語られていることにあまり接点がなく、終始すれ違いつづけていたからなんだろうと思います。アフリカがどうした、鯰漁がどうした、コインを投げて決める人生がどうした、すべて他人事。もちろん小説で読む世界や登場人物なんてほぼ全部が他人事なんだけれども、にもかかわらずどこか自分と似ている部分だとか、自分が気づかなかったものを気づかせてくれるだとか、なんらかのかたちでその架空の世界や人物が僕のなかにひっかかりを残してくれるというのが読書の醍醐味。のはずなのだけれど、この作品は僕にはなんともとらえどころがありませんでした。

お話としては、日本でオンラインゲームのベンチャー企業を友人の岡とともに立ち上げた「私」が、人生の分岐点でメキシコ硬貨を投げてその裏表で進んでいく道を決めるという生き方で、アフリカへたどり着く。岡とともに一軒の空き家を借り、そこで岡は地元の少女と鯰漁に打ち込む、「私」は現地のなにもない退屈な生活に憂いてホテル暮らしに入り白人女性とホテルのカジノで詐欺を働く、というもの。文章が特別うまいわけでもへたなわけでもなく(「併し」と漢字で書くのには辟易しましたが)、ストーリーがわけのわからなすぎるものでもなく、わかりすぎるものでもなく。なんといったらいいのか本当に僕にひっかかるものがなさすぎて終始、へーそんなもんか程度でした。今後似たようなテイストで書き続けていけばきっと広く読まれそうにも思うんですが、はたしてこんなふうな作品で、読者のなかになにか深く残るものがあるのか。人物も実際ここで出てきた人たちは十分現実にもいそうな反面、どこかフィクションすぎるというか書き割りじみてもいるというか、可もなく不可もなく(笑)。

細部の描写には、クラシックな書き方が今よむとかえって新鮮に感じられるところが多かったです。

 空の色を映し、深い蒼色だった湖面が瞬く間にその色を変えた。
 世界は灰色だけとなり、雨雲はどっしりと眼前に横たわり、耳に届く容赦ない雨音が鼓膜を痺れさせた。樋もない屋根から滝のように落ちる雨は、地面でさらに炸裂し、庭先でにわかな川筋までつくり上げた。(p.37)

最も美しかったのは、アフリカの太陽が雲から顔を覗かせた直後のわずか数秒間だった。その短い間だけ雲が金色に輝き、さざ波も立っていない平坦な湖面にその色が映り込み、さらにはそこから跳ね返った光がこの町全体を包み込んだ。こじんまりとした日本では絶対にみられない生まれてこの方見たことのない光景で煌きだった。あれを目にしたとき全身に鳥肌が立ち、両目から涙までこぼれた。地の果てだからアフリカに住んでみたかった。岡がそう言った意味が分かった気がした。(p.43)

と全身で感動にうちふるえつつも、「私」は岡ほど現地に溶け込む生活はしないんですけどね(笑)。

書き写しながら今気づいたんですが、これは舞台や登場人物はたしかにアフリカにまつわるもろもろなんだけれど、そのアフリカ的スケールと、この文章とが釣り合っていないところに、いまいち僕がこの作品に熱くなれない理由があるのかもしれません。ほんと今気づいた。たとえば上の引用で、「こじんまりとした日本では絶対にみられない」光景を前に「全身に鳥肌」を立てて感動している「私」の感慨が語られていますが、この程度の描き方だと、たとえば日本にいながら雨あがりの一瞬に空を見あげて感動する場面とそう変りない程度の感動しか伝わってこない。

小説はたいてい二冊三冊を並行して読んでいるんですが、いまちょうど三島由紀夫の読み直しをしているタイミングと重なったため余計そう感じられたのかもしれません。適当にぱっと開いたところから抜き出してみると

 掻き立てた凝乳のように沖に凝る積雲の、深い襞の奥にまで沈痛な光が当たってゐる。その光りが、影を含んだ部分を掘り出して、それをいやが上にも屈強に見せてゐる。しかし雲の谷間の、光がものうく澱んでゐる部分には、ここの時間よりもはるかにのろい別な時間がまどろんでゐるやうに見える。そして猛々しい雲の片頬が光りに染められてゐる部分には、逆に、ずっと迅速な、悲劇的な時間が経過してゐるやうに見える。そのいづれもが、絶対に無人の境なのだ。だから、まどろみも、悲劇も、そこではまったく同質の戯れなのだ。
 目を凝らしてゐれば少しも形をかへず、つかのま他(よそ)へ目を移してゐれば、もう形が変わってゐる。雄々しい雲の鬣(たてがみ)が、いつのまにか寝乱れ髪のやうに乱れてゐる。見つめてゐるあひだは、放心したやうに、乱れたまま少しも動かない。(「春の雪」『決定版三島由紀夫全集13』p.227)

どうですか、このゴテゴテ感! 「春の雪」の中盤を過ぎたあたりの個所で、ここを執筆中三島はすでに死ぬ決意をしていたかどうかは謎ですが、しかし一読しただけで気合い入りまくりなのが分かる。何が描写されているかといえば、「空を見上げたら光を透かした雲が形を変えていた」だけのことです(笑)。しかしこうゴテゴテ書くともうなんだか有無を言わせぬ迫力というか、たんなる雲の描写の向こうに彼岸の世界を見て取ることも可能であるし、自然現象に反映された心理の襞もとらえられそうだし、なんなら書き手の決意だって妄想できるかもしれません。まあいずれにしろ少なくとも、「アフリカ鯰」のなかで「こじんまりとした日本では絶対にみられない」光景なんていわれていた湖畔の雨あがりよりは、日本の海辺で単に雲がもくもく形を変えているなんでもない様子を気合入れて描いたほうに、僕はよほど震撼します。結局この違いは、「どう見るか(どう描くか)」が小説にとって重要なんであって、そこを「何を見るか(何を描くか)」が重要だと錯誤している書き手の勘違いに起因しているといえるでしょう。

誤解なきようにいっておけば、文章の良しあしは文脈によりけりなので一概に前田隆壱の文章がいいかとか三島の文章がいいかと部分だけ抜き出して比較するのはナンセンスです。ここで問題にしたかったのはあくまで描かれる対象とその描き方の組み合わせについて。結局「アフリカ鯰」全体からはなんだか「どや、アフリカってすごいやろ」とアフリカ帰りの男にアフリカ自慢をされているだけのようで、これはアメリカ帰りの経済学者が日本の経済政策を馬鹿にするのと同じような精神構造に基づいている、一種の俗物根性ないしはルサンチマンのあらわれじゃないか。「そんなこといったってあんたも日本人じゃん、いっしょじゃん、同類じゃん」ていう。というわけで結論。アフリカに行こうが、宇宙に行こうが、描き方が普通すぎると読む方はさほど心動かされない。
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