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広小路尚祈「じい」

出典:『群像』2013年12月号
評価:★★★☆☆

二世帯住宅で嫁の両親と同居する若夫婦とその息子の物語。共働きのため日中の息子の世話は義父・義母に任せっきりになっており、それどころか幼稚園の送り迎えや毎週若夫婦だけで外食する間の子どもの面倒まで義理の両親にまかせている。その事実に語り手の智明はこのままで本当にいいのかと悩んでいますが、妻の春奈は頓着するどころかむしろ

「ちょっとなあ、って思うことはあるけど、お父さんたちの協力がなければ今みたいな生活は維持できないしね。結構気に入ってるの、今みたいな感じ。仕事も続けられるし、毎週デートだって出来る。俊哉は可愛いし、わたし何も諦めてない。やりたいことが全部出来てる」(p.206)

と、すこぶる充実している様子。しかし語り手は息子の育て方にもやもやを抱えたまま悩み続ける、というパパものです。

書き手の広小路尚祈は育児や家事に悩む父親と彼を取りまく家族の在り方について関心があるんでしょうね、他の作品でも主夫モノを読みました。広くくくってしまえば「普通の人の家庭生活」で生じた悩み、疑問をこのんでとりあげているといえるんでしょう、そしてその需要(=読みたいと思う潜在的な層)はきっと少なくないはずですが、こういう物語をいちばん必要としている人たちの手元にこの作品がちゃんと届くかというと、なかなか難しいところがあるかもしれません。偏見まみれでいえば、そういう種類の人たちって本読む暇も習慣もあまりなさそうだし、あったとしてもみんなが読んでるから読むハリーポッターやベストセラー作家の作品でおおむね満足、他の本に手を伸ばす余裕ができるころにはそれより優先してやらないといけない日常の仕事や家事育児が待ってるんじゃないか(笑)。コンスタントに文芸誌に発表していて応援したくもある書き手ながら、この作品を待っている層に届くにはきっと広小路尚祈芥川賞受賞くらいまでいかないと難しいんでしょうね。がんばってほしいです、ほんとに。

さて本作の話。よくよく考えてみれば、共働きで子供も作ってとなると、家事や育児の部分をお金で補うか、人手で補うかしないと一般家庭ではなかなか立ち行かないはずです。補えなければ家事や育児の手を抜くか。理想をいえばあれもこれもなんだけれど、きっとほとんどの家庭はどこかで誰かが割を食ったりなにかを我慢したりしているはずです。そういう一般的な基準からすれば、智明カップルは親族の援助も十分えられてすこぶる充実している……はずなんですが、しかし智明自身は座りの悪い(まさに結末がそういう締め方です)思いのまま息子とともにこれからの人生を歩んでゆくことになる。

定式化すれば、「親である」と「親をする」の間でバランスがとれず悩んでいる。つまり俊哉にとって確かに生物学的には「親である」んだれども、いっぽう親としてなすべきと世間一般で考えられている義務を十分果たしているかというとそうではない、親族の厚意にあまえて任せっきりにしてしまっている。智明は自分自身で設けているハードルをクリアしていないと自己査定しているわけで、十分親を「していない」んですね。対極にある存在として、生物学的には「親ではない」けれども、身の回りの世話から病気になったときの看病まで過保護なほど孫につきっきりの祖父は「親をしている」。これでは当然、俊哉は生物学的には智明の「子である」けれども、日常生活でのふるまいは祖父の「子をする」ことになる。社会構築主義的に見れば、ジェンダーについて「ジェンダーする」といわれていた事態と相似の出来事が家族内でも起こっているんですね。

息子俊哉を義父母にまかせて外食しているときに電話が入り、俊哉がひきつけを起こしたときの夫婦の会話。

「大丈夫だって。お父さんが病院へ連れて行ってくれるから」
「でもさ一応」
「なんで? 病院へ行けばお医者さんがちゃんと処置してくれるんだから」
「おれたちは親だよ? 本当はおれたちが病院へ連れて行くべきじゃないの?」
「誰が行ったって病院は病院じゃん。親が手当てするわけじゃないんだから。それに今帰ったって酔っ払っているから運転できないし、どうせお父さんの車に乗せて行ってもらうか、タクシー呼ぶかのどっちかでしょ。だったら今すぐお父さんに連れて行ってもらったほうがいいよ」(p.184)

と、息子の緊急事態に駆けつけるべきと考える夫にたいして、「合理的」に反駁する妻。このあと二人でバーに出かけます(笑)。息子そっちのけでも「親である」事実にかわりありません。しかし「親をしていない」。夫ほど「親をしていない」ことに妻の春奈は悩んでいません、それどころかうまくいっているとすら思っている。

「愛情を持たないといけない」とか「子供の面倒は親がみるべきだ」というのは個別の家庭の細かい事情を顧みない、何の役にも立たない説教、それどころか「愛情を注ぎたくても注げない」とか「ちゃんと面倒を見ているつもりなのに自分では足りない」と自分を責めてしまうような親にとっては有害な規範でもあるので軽々にそれを口にはできませんが、終始語り手もふくめこの大人たちには俊哉自身の声が不在です。家族の間で子育てや躾の方針について対話はほとんど持たれず、特に大問題もおこっていないので、結果としてそれぞれが自分の都合の良いように振舞い、現状是認のまま時間が流れていく。俊哉のパーソナリティに怪しい兆候(他の園児のおもちゃを取り上げる、我慢がまったくできない)が見られても、俊哉のことにあれこれ気をもむ智明は具体的な対策をとろうとはしません。書き手がどれほど意識しているのかわからないですが、こういう肝心なところを視界の外に押し出してしれっとスルーしてしまう人間をこそアンコンシャスヒポクリットと呼びたくなりますね。

なにか大問題が起こりそうなところで起こってはおらず、コップの水が表面張力によってぎりぎりこぼれずにすんでいる状態がこの家族のありようです。何かあるときっと水があふれて、一度溢れてしまった水はもうコップには戻らない。この小説の文章は非常にシンプルでテンポもいいのでサクサク読めてしまえるし、なにより語り手の育児の悩みにもきっと共感できるところが多いのでついつい読む方は騙されてしまうかもしれませんが、この語り手には自身自分で気づいていない「狂い」があります。それはこの作品で当然もっと語られていいはずのことが「語られていない」、その欠如によって明らかになるわけですが、それはまさに息子俊哉自身のこと。俊哉自身がどう思っているのかとか、俊哉とどういう会話、やりとりをしたのかというのがほとんど記されず、かわりに居酒屋の看板によって食事のうまいまずいがどうとかがうんざりするくらい語られます。また、じっさい目の前で息子と祖父が他の子供とその親と問題を起こしかけているときでさえ、実父である語り手は、実況中継するかのように傍観している。

何人かの子どもが集まって来て、同じように二人(俊哉と祖父──引用者注)の周りをぐるぐる回り出したのである。もちろん俊哉の尻や脚には定期的にパンチがお見舞いされている。「いやだ、いやだ」と泣き叫ぶ俊哉。さすがに堪りかねたのか義父は俊哉を床に下ろし、最初に俊哉に攻撃を仕掛けた子どもを捕まえ、その頭を締めつけながら「こいつの親は誰だ!」と大きな声で叫び、周囲を睨み回した。(p.201)

いや、語り手よ、悠長に実況するのではなしにすぐ割って入って混乱を収めろよと突っ込みたくなります。けれどもしばらく二人はそのままに語り手は脇で傍観している。「あってしかるべきことがない」とか「やってしかるべきことをやらない」ままに現状をなんとなく流してしまうのがこの人の特徴であって、息子の育て方についてもうだうだ悩んでいる割には、一向に現状を変えようと自分から動きだすことはない。むしろ悩むポーズをとることによって、自分自身が十分父親としてふるまえていないことにたいして自己免罪し、現状にすすんで安住しているとすらしていると解釈できます。

広小路尚祈がどれほどこの語り手の在り方の「狂い」を意識してこの作品を書き上げたのかよくわかりません──たとえば作品の仕掛けとしてやっていることを読者に分かりやすく示すなら語り手の「狂い」を指摘したり弾劾したりする人物を出せばいいわけです──が、表面的には育児に悩む父親ものとして、深読みすれば無意識の偽善者ものとして、二重底になって読めるようになっているので一篇の小説作品としてじゅうぶんたのしめました。この作品に心からキュンとくる層の手元にこの作品が届く日が一日でも早く来てほしいです。

(追記)そうか、タイトルが「じいじ」でも「じじい」でもなく「じい」なのは、大人たちが息子(孫)にたいして自分の好き勝手を押しつけて満足をえているという意味で「自慰」に繋がるのか!と妄想がひらめきました。それなら子どもの名前も俊哉じゃなくて、オカズのアナグラム、和雄(カズオ)ぐらいがよかったな。下品すぎるか(笑)
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