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いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」

出典:『すばる』2013年12月号
評価:★★★☆☆

僕が中学生のときの国語の時間に「俳句を作ってみよう」という課題が出され、即座に習いたての俳句をもじって「ふでばこや ああふでばこや ふでばこや」とやったクラスメートがいたのを思い出しました。あまりのナンセンスに印象に残ってはいたのですが、この句じたいを冷静に眺めてみれば季語がないなどの約束事無視は瑣末なことにしろ、習いたての型に、おそらく俳句をひねっているとき机の上に置いてあったふでばこがたまたま目にはいってすぐさまそれに飛びついて出来た安易な作だと知れます。

『想像ラジオ』で毀誉褒貶あれど(多くは「誉」「褒」でした)広く読まれたいとうせいこうが、今回書いた「鼻に挟み撃ち」は、『想像ラジオ』を読んで感じた、広さ、具体的にいえば特定の地域や時代に縛られないようなスケールのでかさ、みたいなものが、ずいぶん小さく切りつめられてしまった印象を読後持ちました。本作からいとうせいこうの、後藤明生なりゴーゴリなりにたいする敬意や驚きはひしひしと伝わってくるし、僕なりにそれらの作家は読んできたつもり(後藤明生はリアルタイムで知ったわけでないのでずいぶん古本屋をまわって探しました、ゴーゴリの『鼻』は最近の光文社版では落語調に訳されていて新たな面白さを発見することができました)でもあるので、それら書き手の現代文学に与えている影響もわかっているつもりなんです。が、本作はいってみれば冒頭述べた中学生のクラスメートと同様の着想、いとうせいこうにとって(多大なる敬意を抱いているぶん)身近に感じられる『挟み撃ち』や『鼻』にとびついて小説を書き上げた安直さが根っこにあって、どうしても本作には「狭さ」ないしは「近視眼」的な印象が終始ぬぐいされませんでした。『想像ラジオ』を前に読んでいたぶん余計に。

 ある早朝のことです、皆さん。
 わたしはじわじわと夢からあとじさり、波打ち際にずるずる引きずられるクラゲのように時に転がったりもしながら、素早い干潮の具合もあって気づけばついに戻りようのない現実に上陸していたのでした。
 あ、坊や、わたしはずいぶん文学的な言い方をしてしまいましたね。お母さんに手を引かれて信号待ちをしていらっしゃるけれども、おじさんはつまり起きた、と言ったのです。目をパチパチッと覚ました。えー、坊やはさっさと行ってしまいました。(p.14)

作品冒頭です。辻立ちして通行人に一方的に語っている人がいる。一方、次のは『挟み撃ち』冒頭です。

 ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。(p.7『挟み撃ち』(講談社・講談社文芸文庫・1998年))

後藤明生が1973年に、ぬけぬけと「ある日のことである」から作品を語りはじめたことに意味があるのであって、いまさら「ある朝のことです」とやられてもなんのおかしみもありません。普通です、普通。いとうせいこうの工夫があるとすれば、そのあと続けて「皆さん」と呼びかけているところ。後藤明生の『挟み撃ち』が一人の自意識が空転に空転をかさねて物語化しようとする自分の記憶をたえず打ち壊し続ける不毛な一人芝居だとすれば、いとうせいこうの「鼻に挟み撃ち」は、一人ではなくつねに「誰か」にむかって語りかける体裁をとる、舞台俳優やタレントとして見られる仕事を生業にするいとうせいこう的変奏といえるでしょう。だけれどそれが徹底していない。作品途中でずばずば視点が切り替わるし、終盤にさしかかればこれまたマスコミの好きしそうなネタが「鼻」というメタファーで語られる。

 ある政治家はAと言っているが、実はBを意図してはいないか、と危うさを嗅ぎつける。さらに疑えばCの匂いも奥にくすぶっているのではないか、と敏感に匂いを判断する。それが鼻というものの役割ですよ、皆さん。
 ところが誰も彼も鼻が利かなくなってきたのではないですか。だから政治家も官僚もマスメディアも評論家も飲み屋のオヤジもAから匂わせているわけにはいかない。はっきりCと言わなければ、いやそれどころか超C、激しくC、ウルトラCにしないと伝わらない。話題にならない。これではきな臭いどころではありません。はっきり火薬。もろに山火事。憶測とか忖度とか屈折を通じて慎重に議論を深めていく「嗅ぎあい社会」は、もはやここにはない!(p.39)


いろいろ書きたいことや試したい技術があってそれを詰め込んでみたらこの作品ができあがった感じです。読んでいて後藤明生やゴーゴリ、また「鼻」のすごさなんかも、いまさら言われてもなあというものばかりで、僕はこの作品の語り手にとってはあまりいい聞き手ではなかったのだろうとおもいます。後藤明生やゴーゴリを知らない人こそ、いとうせいこうのこの作品を読むことでこれらの作家のすごさを知って、直接先行テクストを手にとってみる、そういう一群の古典作品の世界にむけた一種の踏み台的作品として、よき案内役として本作があるのならそれはそれで大いに意味があろうと思います。無理に分かりづらい文章を書かない、どちらかといえば平易な表現で作品を書くところもそういう読者の嗜好にはあっているかもしれない。

けれど僕は、「ほらー、どうだ、おれのツレってこんな面白いんだぜ、こんなすげえんだぜ」というツレ自慢をされても、聞いているほうの僕もその「ツレ」たちのすごさを熟知しているんであってそういうのを聞きたかったのではなく、その「ツレ」たちから聞き取った声をじゅうぶん骨肉化したうえでの、もはやツレたちの声ともいとうせいこう本人の声とも判別のつかないところまで昇華されたスケールの大きな声を(僕が勝手に)期待していたのでした。その意味では期待したものは得られず残念。結局この作品は誰にむけて語られていたのでしょうか。文学部の一回生向けかしらん。
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