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戌井昭人「どろにやいと」

出典:『群像』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

『群像』の表紙もお正月モード、白地に梅の紅白に金文字を散らして、じつにお目出度い装いです。1月号の文芸誌のなかではこれがいちばん目に楽しいですね。文芸誌をジャケ買いする人っているのか謎ですが、無愛想な表紙よりはこういうポップなほうがとっつきやすいことは確かです。

取り上げるのは戌井昭人の「どろにやいと」。前に「すっぽん心中」を読んで、駄目な邦画を文字で読まされている以上の感想を持てずに評価を星ひとつにした記憶があります。ほかに戌井昭人の作品でいうとやはり芥川賞候補になった「まずいスープ」。こちらは肩の力の抜けた人間関係と描かれていた家族との取りあわせが心地よかった印象が残っています。そして本作「どろにやいと」を読了後抱いた感想はといえば、毒の抜けた『高野聖』。

「天祐子霊草麻王」という名のお灸を自家調合して全国を売り歩いた父親の家業を継いだ息子が、これまたお灸を行商して回る、という話。山の中にわけいって酒を飲んで酩酊したり、妖しい雑草を食べかけて命を落とす危険に身をさらしたりと、読み進んでいくにつれ、読者も本作の語り手とともに人外境に踏み込んでいくような作りです。「人外境」といったのには理由があって、昆虫や獣など、人間以外の生きものについての言及が文字テクスト上にちりばめられています。

ホットパンツからのぞいた太もも、その下の右ふくらはぎには、赤子の手のひらくらいの大きさの蜘蛛の刺青がありました。(p.70、強調部は引用者、以下同)

のような冷たい足になって首を締め付け(p.71)

ニヤリとして、ネズミの糞みたいな黒い種を(p.71)

「泊まっていってもいいんだぞ、捕まえたからよ、食ってくか?」(p.75)

ラクダシャツ(p.76)

「山道結構きついですからね、気をつけてくださいよ。イノシシとかが出ますから」(p.80)

ひからびたトカゲの死骸

ほかにも絵馬にはめ込まれた閻魔大王や鬼やをずらずらと羅列する箇所もある。自覚的にひとつの意匠として人間以外の生きものを取り入れるのは、山奥での出来事という作品のロケーションともあいまっておもしろくなりそうな芽はあるんですが、それがことごとく引用のための引用で終っています。動物や想像上の生きものを作品のなかに引用することに精いっぱいになってしまっていて(あるいはとりどり引用すればそれでよしという基準が書き手側にあって)、それが引用することでいったいどういう効果を上げているのかまで、十分考え尽くされていません。

たとえば上の引用箇所で、おどろおどろしさを出すのなら、「ネズミ」ではなく「鼠」、「ラクダ」ではなく「駱駝」、「イノシシ」ではなく「猪」、「トカゲ」ではなく「蜥蜴」でしょう。片仮名書きしてしまうことで読み手に与える視覚的な効果、重々しさが減殺されてしまっています。付け加えるなら、同じ人の発言で「イノシシとか熊が」と、いっぽうはカタカナ、いっぽうは漢字で書いてしまっているのはもう、戌井昭人の文字表記にたいする無自覚さ露呈しているというほかありません。甘いぞ、ドモン!

甘さついでにもう一点。作品冒頭で語り手が自己紹介するくだりがあります。

 わたしは、お灸を売りながら各地を歩きまわっている行商人です。お灸は「天祐子霊草麻王」という名称で、父が開発しました。もぐさの葉を主に、ニンニク、ショウガ、木の根っこ、菊の葉を調合して作っています。(p.56)

「ニンニク」「ショウガ」のカタカナ表記はもうおいておくとして、その次の「木の根っこ」。これは列挙された四つの材料のなかで、一つだけ上位カテゴリに属するものでやはり浮いてしまっています。たんなる木の根っこではなくて、「何の」木の根っこか書くべき。また、あいまいに木の根っこといってしまっては、父から伝えられたレシピでお灸を調合・販売しているこの語り手の存在にうさんくさい目をむけてしまいます。このへんも書き手の甘さを感じました。

作中ではどぶろくで酔っぱらうくだりもあって──ちなみにこのどぶろくを「ミツゾウ」とカタカナ表記しているのには唸らされました、聞き手にとってなじみのない単語はカタカナの違和感がぴったりですし、なんてったってカタカナ表記することで「ゾウ=象」がはめ込まれているのですから──『まずいスープ』中で古今亭志ん生にふれていたように、このくだりも桂枝雀の「猪の酒」を連想させるところが、この書き手と落語的世界との相性の良さを感じさせます。ただこの個所も思わせぶりなだけで描写じたいの魅力もとぼしい。描写というよりはト書きでした。おもしろさの片鱗はありながらそれを生かしきれぬまま不発というか中途半端というか力不足というか神経がいきわたってないというか。

堅苦しさや真面目さ一辺倒の人間像にたいしてどうにかして別の人間像を描こうとしている意志は感じられるものの、それが小説を書くとなったとたん、書くことにいっぱいいっぱいで、書かれたあとの文章がどういう効果を出せているかにまでは頭が回っていない印象でした。たとえば脱力感満載の人間を描いても読後に十分な引っかかりをのこしてくれる松波太郎のような書き手と比べるなら、戌井昭人を読む価値はありません(戌井作品を読むなら既読の松波作品を二読三読するほうが得るものがあります)。『高野聖』や落語のような先行作品の消化も中途半端です。

(追記)『高野聖』オリジナルは、同宿の僧が寝物語に語る妖怪話というフレームだけでもおどろおどろしい。さらに動物や虫類、物の怪をちりばめたテクストも本作のように毒抜きではありません。参考までにいくつか引用しておきます。引用元は青空文庫。

ああさっきのお百姓がものの間違でも故道(ふるみち)には蛇がこうといってくれたら、地獄(じごく)へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。

「蛇」のそばに、「地獄」や「南無阿弥陀仏」が配置されています。

大蛇(おろち)の蜿(うね)るような坂

「大蛇」のそばに配置されるべきは「うねる」ではなく「蜿る」です。

見ると海鼠(なまこ)を裂さいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷(すべ)って指の尖さきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂懸(たれか)かっているのは同形(おなじかたち)をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
 呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは蛭(ひる)じゃよ。

ここまで圧倒的だと解説するだけ野暮ですね。この引用箇所を含む蛭のくだりは『高野聖』のなかでも僕が一番好きなところです。
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