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筒井康隆「ペニスに命中」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

多作で人気あるわりに筒井康隆を僕がいまひとつ好きになれないのはなんでなのか。長年の疑問ですがこれを読んでも「やっぱ合わない」と再確認しつつ、なぜそうなのかわかりません(笑)。スラップスティックがこの作家の持ち味の一つなのは確かながらそれがことごとく僕にはスベッてるようにしか思えない。

つまらないんですよね。なんといえばいいのか、「めちゃくちゃなことを書く」ことと読者の頭のなかで実際に「めちゃくちゃなことがおこる」のとは別モノのはずです。たとえばここでブログを書いている僕が「生身の僕は実はアメリカ人女性(57)なんです」といったところで、それに論駁する証拠はないにもかかわらず、信用する人なんてほとんどいないはずです。それを筒井康隆は、書かれたことがそのまま読者のあたまのなかで現実に展開するというような、楽観的といえばいいのか能天気といえばいいのか、書き手本位の態度が根底にある気がします。書かれたことにリアリティを付与するのは文字(たまに図像)のみでなりたつ小説の腕の見せ所、のはずがリアリティ付与の仕方がとんでもなく雑──「僕はアメリカ人女性(57)です」と言い切るだけに終始し、それに纏わる様々な情報によって読者を説得するあるいは騙すことを放棄しているような書き方──で、とても僕の頭の中を沸騰させるような内容にはなってないことがほとんどです。「三字熟語の奇」ぐらい割り切って書いてくれればそれなりに楽しめもするんですが……。

前置きが長くなりましたが本作「ペニスに命中」。

 食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。(p.20)

俗っぽいですよねえ。

語り手の「わし」が息子に渡すはずの200万円を手にとって街に出、講演に乱入したり拳銃をぶっ放したりします。僕にはやっぱりそう書いてあるだけで、その出来事の一つひとつがリアリティを持ちません。読みを撹乱する仕掛けはいろいろあります。「わし」が客引きのお姉ちゃんに連れられバーに入っていって

「暴力バーかそうでないかはあと二ページ読めばわかる」(p.27)

とあり律儀に二ページ後、

「気が違っているのではない。強盗だ。早く警察に電話せんか。いったい何度言えばわかる。この聞き分けのない練羊羹めが。よし」わしはいきなり拳銃を発射した。(p.29)

と自分が暴れて「暴力バー」です、というオチ。それに「この聞き分けのない練羊羹めが」ですよ。「この○○めが」ってなんの躊躇いもなく書いてしまえるセンスに悪い意味で脱帽です。「聞き分けのない練羊羹」という表現もどうかとおもいます。

あるいは

「それならわしがこの汚らわしい売春婦を成敗する。毒蜘蛛を腹に飼いびちょびちょの開口部からムジナが顔を出しているような女をなぜ逮捕せんか。だから警察はデンドロカカリヤだと言うんだ」(p.30)

騒ぎをおこした「わし」が暴力バーから出てきて、同伴している女性を警察に逮捕させようと口にしたセリフです。「女」にかかる形容はおもしろくもない無意味な言葉をただ羅列しただけにしか過ぎないです。「デンドロカカリヤ」もただここで言葉として出て来ているだけでなんの意味も感情も喚起しません。「デンドロカカリヤ」や「ユープケッチャ」のような安部公房の短編あるいは細部の表現にみられるような、詩性とメタファーの独特な融合もまったくありません。できあいの言葉をただ組み合わせただけの安易さ。

全編この調子です。既視(読)感のある描写や言葉の羅列は読みすすめるごとに徒労感が増すばかりで、読み終っても99パーセントは楽しめませんでした。唯一クスッときたところを引用するなら

わしは庫内の奥の方を眺めまわしながら笠智衆の声色で言った。「実は君の座っているところに三十年前、わしも座っておってね」(p.34)

ぐらい。これは唯一、笠智衆の声で脳内再生された=リアリティのあった箇所。

視点の取り方と語りのミスマッチもあります。

 逃げる途中、死後硬直のまま歩いてくる婆さんと衝突した。死後硬直の婆さんが大声で悲鳴をあげたため、わしはさらに逃げた。(p.26)

視点人物は「わし」、その「わし」の一人称語り小説なので、婆さんが死後硬直しているかどうかは認識しえないはずです。にもかかわらずそうだという。書き手の意識と語り手の意識とがごっちゃになっている。語り手がいったことを読者がまるまる信じきるわけではないと再三いってきたとおりここもその例にもれません。「死後硬直している老婆」が「歩く」とか「大声を出す」という撞着語法的効果を狙ったのかもしれませんが大失敗です。木下古栗が「新しい極刑」で表現した「歩く屍」たちの圧倒的な迫力とレトリカルな技量の高さとくらべれば、こちらは無残な失敗例です。全体に雑すぎるし工夫もありきたりだし、総じて小説好きな中学生がお遊びで書いたスラップスティックものと大差ない作品です。
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コメント

Secret

ご紹介ありがとうございます

書籍化されてから読もうと思いながらも、気になって調べて辿り着きました。いわゆる「アンチ」の良いところは、へたな「シンパ」よりもその作品を詳細に紹介してくれるところだと、改めて実感しました。
おそらく管理者様は逆に「筒井シンパ(つまり「筒井文学」に対して真面目に、素朴に「何故?」の疑問がおありかと思います(そうでなかったらご容赦ください)ので、僭越かと存じますが、一筒井ファンとしての見解乃至解説を。

>安部公房の短編あるいは細部の表現にみられるような、詩性とメタファーの独特な融合もまったくありません

まだ作品自体未読にもかかわらず「ファン」であればこそ分るのですが、筒井氏はそこを狙っていませんw。ここでの「デンドロカカリア」は、「文字通り」安部公房氏の「デンドロカカリア」です。ここで、「シンパ」は大爆笑です。

>「死後硬直している老婆」が「歩く」とか「大声を出す」という撞着語法的効果を狙ったのかもしれませんが

狙っていませんw。これも「シンパ」は大爆笑なんですが、これは、どう説明したものやら。。。。w

とまれ、作品のご紹介感謝いたします。単行本化が待ち切れなくなりました。まだ「新潮」本屋さんにあるかな。

Re: ご紹介ありがとうございます

コメントありがとうございます。

一人称が「おれ」じゃなくて「わし」になってるところでニヤニヤできるくらいは読んでるはずなんですがその程度だとまだ足りませんね(笑)。シンパじゃない僕には一生わからないのかなあ。

No title

読む人様

通りがかりの不詳の者に快くレスをいただき、ありがとうございます。

そうですねぇ、筒井氏の小説に対しては、「虚航船団」の第二章、鼬の惑星の世界史についても、当時、これは必ずしも酷評の文脈からではなかったのですが、「ユリシーズのようには、世界の奥行きと背景が見えない」との批評がありました。私はユリシーズは未読であるも、そのような、いわば真っ当な、王道的な読書も好きです。しかし筒井氏のシンパには、メタ性、あるいは言語の量子的飛躍乃至は解体という、氏の「文壇のトリック・スター」たる側面に仰天することにカタルシスを感じるファンが多いのも確かです。これはある意味では危険とも言える(それ故魅力なのですが)、「毒をもって毒を制す」の効果があり、実際に筒井氏の読者の中には、その毒にあてられて潜在的な狂気を掘り出されて基地外に留まっているままであるかのような人も見受けられます。ですから、皮肉ではなく、あくまで自分自身の「真っ当」な見地から「人間的」な批評を保持する、読む人様のような読者の方にも、私はむしろ好感を憶えるのです(笑)

個人の「合う/合わない」は、読解力の優劣とは関係のないことだと思います。また、その「個人の見解」は尊いものであり、その忌憚のない表明も一つの参考として情報の世界を潤すものですので、これからも、読む人様独自の見解をご表明なされ続けてください。

では、失礼します。

Re: No title

筒井康隆本人やそのポジショニングについてさして興味のない人間にはそのメタを楽しむ理由がないんですね。僕の周りでも筒井康隆狂は何人かいるのでその人たちとまた話してみることにします。コメントどうもありがとうございました。
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