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津村記久子「地獄」

出典:『文學界』2014年2月号
評価:★★☆☆☆

地獄もの、異界ものは文学にかぎらず古く、古くから様々に表象されてきたモチーフで、作家たちの創作意欲を刺激するところがあるのかもしれません。本作はこれら膨大な地獄表象の集積をまえに何か新しいものを付け加えているか。僕には特に見つけられませんでした。全体的に食いたりなかったです。

私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は三十四歳の時が一番業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。(p.11)

人が生きている間、業の深さが各年齢に区切られて測定されているんですかね。幼くして死んだ人とか業の深さはどれくらいなのか。どういう基準で業の深い浅いを測定するのか、そういう細かいところが僕なんかは気になってしまいます。たとえば妻に暴力振るって離婚した人の、そのあと元妻が幸せな再婚をして幸福な一生を終えたとすると、その男の業は深いのか浅いのか。蜘蛛を踏んで殺してしまった男は、その後もしその蜘蛛が生きていたら捕食したかもしれない蝶の命を救ったことにもなるわけで、その場合その男の業は深いのか浅いのか。僕なんかはこんな風にうだうだ考えてしまって、因果論や認識論に踏み込んでいく角度から現世の世界観を相対化できて面白そうな気もするんだけど、語り手にそのあたりへの関心はありません(笑)。

もう一点。語り手は温泉旅行からバスで帰る途中事故にあって地獄に来ます。その死ぬ間際の身の回りの情景、脇に置いておいたおせんべいの缶は「五十四枚入り」だったとかそれは「とても重かった」とかディティールが記憶として鮮明にのこっているのなら、「いくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよく分からない」こともないんじゃないですかね。杜撰さを感じました。

地獄を語る語彙に、現代的なビジネスシーンで使われるような言葉をもってきているところにギャップがあってそれなりに笑えはしましたが、この方法自体は使い古されてきたやりかたです。時事ネタを取り入れる大ネタの「地獄八景亡者戯」には「冥土教育委員会」とか三途の川の渡し船を「チャリティーシップ」とか火傷塚婆を「ぼったくりバーのクラブ火傷塚のママ」といったり。桂米朝がこの演目を復活させてから多数の演者が多様な時事ネタを取り入れています。

地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手いっぱい(p.11)

たとえるなら、日々の試練プログラムが定時までの仕事とすると、西園寺さん(地獄の鬼のこと──引用者注)の話を聞くのはサービス残業である(p.19)

毎日、おしゃべりに関するスタッツを出されるのだが、会話ポゼッション率が鬼である西園寺さんの方が高いというのはいかがなものかと注意を受けた(p.20)

という風で、使われている言葉ほどに、この語り方には目新しさはないんだなあ。

地獄でうける「試練プログラム」も、此岸世界にいる僕らでも受けられるようなぬるい責め苦で、その脱力アイディア(たとえば、母親が13歳の時に書いた長編小説を読まされる)自体には軽い笑いはあったものの、この発想も飲み会の雑談程度のアイディアといってしまいたいくらい安易というかくだらない。このくだらなさに笑いながら付き合える読者はきっとこの作品を楽しめるはずです。僕にはもっと他に読むべきものがあります。
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