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安藤モモ子「カウンターイルミネーション」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★☆☆☆☆

三島由紀夫が深沢七郎の文章に衝撃をうけたように僕はいまこの作品の登場に驚きを隠せません、というと僕を畏れ多くも三島にたとえてしまっているのでそう言い切るのははばかられますが、それに近い感慨というのはあって、この、文学史や小説の歴史を全無視したような作品はしかし、この方向での過剰さを100倍ぐらいに鍛えると、かえってすごい作品になるのかもしれない、そんな夢想を僕は持ちました。

小説を自覚的に書こうとするような人は、ある種の「ありきたり」にたいして、生理的な嫌悪を示すはずで、その嫌悪感が創作のエネルギーとなって、これまで書かれてきた作品群から僅かでも自作の身を引き離そうとするその引き離しによって生まれた旧作との距離が、「新しさ」として小説の領土を耕してきました。僕にとっての暗黙の前提として、そういう固定観念が根深くあります。だからこの、「自分の作品でどんな未開地を開拓しえたのか」という意識、批評といってもいいかもしれませんが、その自覚抜きに現状に安住し現況におもねるような小説にはおしなべて疑似小説とか小説もどきのことばを投げつけて呪い殺してやろうとしているわけですが、そこで本作のような作品を前にすると、戸惑ってしまう。どこに戸惑うのか。

生き物達が集まるのは、彼らが水を慕ってその土地に棲み付き、それは土地のエネルギーが高いことを示していた。(p.92)

という文にみられる主語と述語のよじれではありません。こんなもの編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。

男性器と女性器を併せ持つ両性具有の生き物(p.95)

という重言でもありませんこれも編集者と校閲がちゃんとチェックしていればなくせるミスです。。作中随所にあらわれるこういう些末なミスではなくて、本作全体に描かれる紋切型のオンパレードそれじたいに戸惑うのです。冒頭から

水面に墨を垂らしたように渦巻く雲が割れ、そこから射す陽の光が巨大なカーテンを作り出している。その合間を何艘もの船がゆっくりと進んでいた。(p.92)

なにか時代錯誤の壮大な物語の幕開けです。しかしこれは短編。短編でやってはならないというつもりは全くないですが、壮大な出だしに「この先この話はまとまるのか?」という不安が高まります。読んでいくと、未開の地に向かう探検者の語りであることがわかります。

私の生まれた家畜の国とは違って異次元の世界のように、この地では太古の生命体と新しき生命体が奇妙に入り交り生息している。あたり一面気ままに飛びかい、地に這いつくばる昆虫たちのほとんどが、採集された事のなきものであり、ここは私が初の目撃者となるであろう不可解な生物達で満ちあふれていた。(p.92)

ことばの大仰さ。生物の「奇妙さ」や「不可解さ」は読者には一向伝わりません。昆虫「たち」と生物「達」でかき分けているのも意味が分かりません。それを脇に置いても、ひっかかりまくるこの大仰なことばづかい。「新しき」生命体。「採集された事のなき」もの。コント「暇を持て余した神々の遊び」を髣髴とさせます。

そして太古の生活そのままの未開の村へとたどり着きます。

 私を受け入れた村人達の生活は、神秘と驚異に溢れていた。私たちの文明とは全く無関係に進化し続けてきた彼らの生き様は、超越している。自然の摂理と調和して生きる人々と過ごしていると、魔法でも使えるような錯覚に陥った。彼らは人類の起源であるとされるアダムとイヴや、神が人の形をしているという説を、陳腐で傲慢な主観的概念に過ぎないものだと私に教えた。神は理論の上に存在し得ない。その事実を母国の家畜人間達が知った時、彼らの世界は崩壊し、秩序を失い、聖職者たちは死すらいとわないだろう。真実を目の前にしたとき、人は理性を失い発狂する。ここは、家畜国家の発狂材料で出来ていた。人間の価値は一体何処にあるのだろう。(p.95)

人間「達」と聖職者「たち」の分かち書きにはもう何もいいません。知った「時」と、した「とき」の違いも同様です。

アメリカ文学史のなかでその最初の最初に出てくる旅行記ものを髣髴とさせます。スペインからやってきた探検家、イギリスからやってきた植民者、聖職者が、未開の地「アメリカ」で原住民たちの姿を観察し、または伝え聞き、それに報告者の脚色をまぶして語り下ろされたファンタジー旅行記。本作は、たぶん書き手は意識してはいないでしょうけれどそのパロディー以上ものにはなりえていません。それにしても上の引用部の語り手は「家畜の国」からやってきたにもかかわらず発狂しないのでしょうか?

この後も、未開の土地の習俗(人身供犠)や姦通など、小説にかぎらず神話の時代から語られてきたおなじみの主題がただ垂れ流されます。未開の土地を探索する本作の内容とは全く逆に、その形式からは書き手の、手あかにまみれた主題への無自覚な寄りかかりしか感じられません。

本作の味わいは、小説にかぎらず広い意味での物語の前史を全く無視して、ものものしい語りでしれっと語っていく書き手の厚顔無恥さ図太さにあります。僕をいらだたせてやまないこの図太さはしかし、この短編の分量では中途半端。もっと、この方向を突き詰めて、紋切型を過剰なまでに上塗りすることで、結果として奇跡的な批評を獲得してしまう方向は「あり」です。無知から生まれるラッキーパンチ的批評は生まれる確率が限りなく0に近いとしても、もし生まれてしまえばそれは、中途半端で小賢しい「手堅い」批評を一掃してしまう可能性はきっとある。深沢七郎の文章に意識の人三島が感じたのはこういうことではなかったかと思いを馳せました。

(追記)安藤モモ子って、奥田瑛二と安藤和津の子供で、安藤サクラのお姉さんなんですね。今調べて知りました。
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