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星野智幸「クエルボ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

クエルボという変わったタイトル。僕にとっては体操競技の跳馬の技名がまず思い浮かんだんですがそれとは関係なく(笑)、本作の「クエルボ」はテキーラの名前Jose Cuervoから採られています。そしてクエルボはスペイン語で「カラス」、テキーラのホセ・クエルボにもカラスの図像が入った紋章が描きつけられています。今は仕事を引退している初老の「私」が、学生時代に愛飲したテキーラからとった愛称でもって妻から「クエルボ」と呼ばれているというのがお話の枠ぐみ。

タイトルに冠されているクエルボ=カラスが本作にとって重要なモチーフになっています。普段生活している常識でカラスといえば、迷惑な鳥、不吉な鳥、意外と賢い鳥ほどの印象しかないですが、本作ででてくるカラスにはそういう日常的な理解を超えたもっと古い無意識にアクセスするような神的な不気味さが感じられました。もうちょっと文学的な文脈でカラスについて頭をひねってみると、お伊勢さんの八咫烏や、北米インディアンの神話でトリックスターとして出てくる大烏、あるいはもっと時代がくだってエドガー・アラン・ポウの詩The Raven、そしてカラスではないのだけれどどこかカラスを思わせるマラマッドの小説The Jewbird。こう考えてくると鳥の中でもカラスというのはとりわけ創作をする人たちの間では特別な位置を占める鳥なのかもしれません。

馴染みのカラスが、自分の縄張りにいる人間の行動を把握したくなって追跡しているのだ、と想像してみる。私は自由意志でここに暮らしているように思っていたけれど、じつはこの縄張りの主であるカラスの支配下にあり、カラスのおかげで平穏な生活が送れているだけなのだ。それでカラスは今日、みかじめ料の取り立てに現れた。(p.126)

語り手の「私」の中で、カラスが特別な意味をもった鳥として描かれています。語り手クエルボにとってのこの特別さを読者が共有できるかここがポイントで、僕は最後の一ページ、「私」の身体と知覚が知らぬ間に人間としての「クエルボ」からカラスとしての「クエルボ」へと変容あるいは人間であると同時にカラスでもある存在へと変容している描写で、うまく説得されてしまいました。

語り手クエルボの周りではなにか言い知れぬ不全感が漂っています。それは小説の冒頭、公園を散歩中の犬が飼い主の不手際によって排便の中断を余儀なくされる場面(糞切りが悪い)とか、元職場の同僚から「秘密保護法」施行反対の署名を求められたものの、賛成にしろ反対にしろその法律に対する旗幟を鮮明にできないでいる中途半端感とかにあらわれている。はっきりすっきりすればいいのだけれどそうならず、頭の中も身体ももやもやうだうだしたまま。

カラスに餌をやろうとしても妻からは反対される始末で家の中にも身の置き所がありません。

「洗濯物とかに糞されたらどうするの。私が洗濯物しているときとかに寄ってこられたらたまらないし。本当にやるなら、洗濯もこれからはクエルボがしてよね」(p.127)

こんなこともあり、自分にとってなんだか割り切れない世の中に対して語り手クエルボはうだうだ考えを巡らせます。

何が世の中の役に立つかなんて、わかるわけないじゃないか。自分が善だと思っていることは、じつは多くの人の迷惑でしかないかもしれない。逆に、無意味だと思われた行いが密かに誰かのためになっていたりする。例えば、もし人類の繁栄の後にカラスの繁栄の時代が到来するとしたら、私の行為は未来のためになっているかもしれない。(p.129)

このクエルボの超人類的な考え方には一応の筋は通っていて話として僕も納得できます。と同時にこの主張を認めてしまうと、真逆も成立してしまうわけで結局彼の不全感はのこったままなんでしょうけど(笑)。

人が限られた生を生きる限り、そのなかで政治的主張だけでなく日常的な些細な行いにいたるまで、何らかの立場を(無理にでも)選び取らないといけないのはもうしょうがないと僕には思えますが、クエルボはそこでこんな風にうだうだと考えてしまうんですね。クエルボははっきりと自覚してないだろうけど、僕なんかにしてみれば未決断のままこんな風に考えられる時間的経済的余裕があるっていいなあと少しうらやましい気もします。

そして話は最後の場面、不全感を抱えたままのクエルボが自分の頭のなかだけでなくその身体までもを、実際にか想像のなかだけでかははっきりしませんが、とにかく語りの中で「クエルボ」へと変容させます。次はその変身のシーン、人目につかない屋外にて。

 自分の説得を裏切って、私はその場で尻をむき出しにすると、リースの上にしゃがんだ姿勢でふんばった!
 出た。明らかに肛門とは違う通路から、小さなものが三つ、転がり出た。全身の力を使い果たし、脚がぷるぷると痙攣している。ズボンを上げながら、転がり出たものを見る。
 緑がかったウズラの卵だった。いや、私が産んだのだから、ウズラの卵ではなく、私の卵だ。クエルボの卵だ。新しい未来の誕生だ。私とカラスとの。(p.133)

産まれた卵は吉兆を告げているのでしょうか。「新しい未来」という言葉になんとなくポジティブな響きを感じ取ってしまいそうですがそこでもう少し踏みとどまって考えてみるに、その新しさは誰(何)にとっての新しさか、クエルボにとってポジティブなものは人間たちにとってもポジティブなものになるのか、まさにクエルボが日常の糞づまり状態のなかでうだうだと悩んできた問題が、卵の形をとって読者の目前に転がり出ました。もしクエルボが人間社会「外」の存在となってしまうならこの「新しい未来」を内に秘めた卵はたちまち人間社会の平穏を爆砕する爆弾となるやもしれない。産卵のすがすがしさのなかに一抹の不穏さも胚胎させた、いい短編でした。
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